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ソロヴィヨフと普遍神学の立場

ソロヴィヨフの『神人論』(『ソロヴィヨフ選集2』)を速攻で読んだ。読んでみて驚いたが、メジャーな思想家の中で、私の普遍神学思想にこれほどまで近いことを言っている人は、私の知る限りいないようなのである。具体的には下に書くが、一言でいってたいへん親近感を感じる思想であった。

杉浦秀一は、ロシアの思想家ソロヴィヨフを論じるにあたって、「作業仮説としてのオカルティズム」を提示している(杉浦秀一「ウラジーミル・ソロヴィヨフとオカルティズム」『スラヴ研究』第52号、2005 WEB版あり)。ここでオカルティズムというのは杉浦が独自に定義するものであって、特に否定的なニュアンスを持ったものではない。これはルネサンスのネオプラトニズムを参考にしたということである。ここでは、これをたたき台というかいわば(失礼ながら)ダシにして、現代の霊的思想の問題を考えてみよう。

杉浦の言うオカルティズムとは次の要素を指す。

1. 自然を霊の反映として肯定すること。
2. 検証可能なものという意味で「科学的」である。
3. 人間の努力によって超越的体験が可能だという意味で「人間中心主義的」である。
4. 精神進化論である。

こう見ると、現代の霊的思想もほとんどこれにあてはまることがわかる。たとえばケン・ウィルバーの思想は完全にこの基準に合致している。ウィルバーは特に2の点を強調している。
しかしながらソロヴィヨフについて見ると、2の「科学的」というのはちょっと無理がありそうだ。人間に認識可能なものだといっても、「この絶対的な実在は、ただ直感として、内的な啓示としてのみ理解できうるものである。すなわち、この実在は宗教的知識の対象であるのだ」(『ソロヴィヨフ選集2神人論』p20)とソロヴィヨフは言っている。そういう霊的知識と科学的認識を同一に論じるのはカテゴリーエラーであろう。
また3についても、人間中心主義という表現は妥当と思えない。杉浦は、一方にアウグスティヌス的な絶対的恩恵論の立場を据えてこれを「宗教」と見なして、その対極としてオカルティズムを措定するという発想に立つ。冒頭にウェーバーによる宗教・呪術の定義づけをあげているが、これにしてからが同様の西ヨーロッパ的なバイアスを免れていない定義である。ソロヴィヨフが立つのは、東方キリスト教に伝統的な「神人協働論」の立場であろう。東方キリスト教神学ではこの点に長い議論の歴史があるので、それをよくフォローしていれば人間中心主義というような言い方は出てこないのではないか。ソロヴィヨフ思想を論じるについては、ルネサンスのネオプラトニズムよりもまず東方キリスト教の神化思想を取り上げるのが普通ではなかろうか。つまり神学的視角が薄いということがこの論文全体を通しての弱点になっている、と私は見る。

4精神進化論についても、第一にソロヴィヨフ哲学は「神学」であるということを考えれば、当然、キリスト教終末論との関連で論じられることが妥当だと思われる。比較するならば他の神学者の終末論を取り上げねば、ソロヴィヨフの特質は解明されない。キリスト教終末論の多くに「精神進化論」は含まれるものだからである。

というわけで、全体としては、この「オカルティズム」という作業仮説は、次のように修正すべきだろう。

2 → 人間に認識可能なものであるという意味で「グノーシス的」(「科学的」ではなく)。
3 → 人間と神(あるいは神的ヒエラルキア)双方の力が協働すること(これはアウグスティヌス=西欧的キリスト教における「絶対的恩恵論」との対比で言われることである)
4 → 未来世における人類と地球の「神化」をヴィジョンとして肯定する終末論。(終末論については、これを実際の歴史に展開するものと見るか、個々人の魂において起こる出来事なのかという二つの見方が、神学にはある。後者は、具体的な歴史の終末が信じられなくなった現代人の生み出した神学であるが、私が立つのは前者の終末論である)。

これを私は「霊的思想」の基本的枠組みとして理解する。また「オカルティズム」という名称も変えた方がいいだろう。

私の普遍神学にはこの4があるのが特徴である。それを「遠い未来の思い出」という言い方で語った。またウィルバーは2について、修正前の杉浦バージョンと同様に「霊的認識は検証可能であり、その点で科学と同じである」と主張している(科学と同じ方法論で認識できると言っているわけではない)。それについては疑問があるが、ここでは省略する。

4項目のオカルティズムという枠組みは上記のように修正するべきであろう。そうすると、私自身が構想している「普遍神学」の立場では、上記4項目をすべて含んでいることがわかる。それに加えて、普遍神学からは次のポイントを付け加えることができる。

5 神化への過程としての輪廻転生
終末論ヴィジョンと関連するが、人間は輪廻転生を経て神化へと向かうということ。これがシュタイナーら近代オカルティズムで出てくる思想である(一説にはレッシングがこの説を言っていたという。未確認だが)。現代では野呂神学に見られる。また前世退行催眠からくる「情報」はこれと合致している(これら退行催眠から得られる情報はあくまで「情報としてこういうものがある」と受け止めるべきで、「証明」として考えるべきではないというのが私の考えである)。この4と5を含めて、宇宙論的な「神の経綸」として考え得るのである。このような宇宙論的な思索を見失った神学は、自らの首を絞めることになるだろう。この輪廻転生概念はもちろんソロヴィヨフにはない。

6 魂の実在性について
輪廻転生を肯定する以上、輪廻する主体としての「魂」が(ある次元においては)一定の実在性を持つことを承認しなければならない。それは肉体の死より前にあり、死の後にもあるものである。これは、唯識でいう阿頼耶識に該当するものとして、いちおう考えることができる。ただし、唯識ではすべての世界地平は自己の阿頼耶識から生ずることになるので、言ってみればフィヒテにも少し近いような、絶対的な自己の展開として世界を理解するという方向になるだろう。しかし存在するものにはそれぞれ阿頼耶識的な根源があり、それぞれの世界性は互いに重畳しあってこの世界地平が成立すると考えることもできる。そうするとこれはモナド論的な宇宙観に接近するわけである。同時に、各モナドを包含して調和させる高次のモナドが想定され、それを論理的につきつめれば「全一」つまりすべてを包含するモナドが想定される。興味深いことにソロヴィヨフの『神人論』には明らかにこういう方向の思索が見られた。メジャーな思想家の中でこれほどに私が考えてきたことに近いことを書いている人はソロヴィヨフの他にはいなかったのである。(なお、ソロヴィヨフにおける根源存在の考えと唯識との共通性については、慶應大学の研究者がすでに気づいているようである。その論文は取り寄せ中である)。

7 神的な世界と地上世界との「媒介」について
人間はいかにして神的な世界に上りうるのか? これについては、人間は無力であって徹底的に恩寵によるほかないというアウグスティヌス主義と、自力で上りうると考える自力主義、そして両者の協働であるという、三つの考え方があるだろう。当然ながら両極端ではなく第三の立場が妥当なものであり、空海もそのことを述べている。純粋な自力主義などはあり得ないし、霊的実践の具体相を知らない人の考え方であろう。

プロティノスの書くものには、神的な世界から「落ちてしまった」という悲哀の念と「望郷」のトーンが色濃くあり、これはグノーシス的な思想一般の特徴である(貴種流離の物語は、そうした世界精神の変奏である)。こうしたネオプラトニズムの思想だけでは、実際に神的な世界を知り得ない、つまり救済されないという動機から、「媒介」としてキリストを受け入れるという方向は、古代思想の基本線である。したがってソロヴィヨフが神人の媒介としてキリストを立てるのはそういう基本にのっとったもので、ごくオーソドックスなキリスト教思想であると言える。同時代の神学から見れば奇異にも見えようが、ソロヴィヨフは「遅れてきた古代教父」だと思えばわかりやすい(ちなみに教父の神学――オリゲネス、シメオン、パラマスなど――は現代の霊的思想にとって多大なヒントを含んでいる)。つまり「神が人となったのは、人が神となるためである」という東方キリスト教の基本原則である。

私の思想が「普遍神学」ではあるのは、この神人媒介性を、キリストに「のみ」認めるという限界から解放する点にある。普遍神学では、媒介となり、人を神的な世界へと引き上げるのは、天使・菩薩等のヒエラルキアである。この発想は、もともと密教をバックグラウンドとし、曼荼羅世界をホームグラウンドとしている私には当然の発想である。キリストやそれに連なる天使・聖人たちもこの宇宙的な曼荼羅パンテオンの一角を占め、縁ある人々を導いてやまないのである。そしてこのヒエラルキアを、先に述べたモナドの重畳性・階層性における高位のモナドとして存在論的に位置づけることができるということである。またいわゆる守護神・守護霊も、ヒエラルキアの一環として位置づけることができるのである。つまりこの考え方は、密教的・曼荼羅的な「包摂」の発想から成っている。ただし、人類史におけるキリストの特異な意義は十分に承認しているものである。なお、野呂神学における民衆仏教の位置づけも、この考え方と一脈通じるものがありそうである。
それから、人は地上的な輪廻を脱すると、このヒエラルキアの一員に加わってさらなる修業をしていくのではないかと私は想像している(ヴィジョンであって根拠はない)。

ケン・ウィルバーは基本的に(禅の出身であるからか)自力主義に傾いており、媒介の必要性を軽く見積もっている。それがウィルバーに対する主要な疑問点の一つである。それは西欧のキリスト教を支配してきたアウグスティヌス主義への反動で正反対に振れすぎた結果ではないかと思う。

なお杉浦秀一は「ロシア・プラトニズムとウラジーミル・ソロヴィヨフ」(「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集12、2006 WEB版あり)の中で、ソロヴィヨフは神人の媒介としてのキリストを立てたが、具体的・個別的場面での「現実的力」を提示できなかった、と書いている。しかしここでいう現実的力とは、いったいどういうものを期待しているのであろうか。キリストの力が、具体的場面に生きる私の中に作用することで十分ではないだろうか。それ以上に何を期待しているのか私には言いたいことがよくわからなかった。そもそも霊的思想を具体個別の中で実践していくのは思想を受け取った者の仕事である。霊的思想とは、イデーの提示を通じて、そのイデーの中に生きている霊的なエネルギーを分与するのがその使命なのではないだろうか。千差万別の具体的場面でどうしろというようなことを提示できる思想などあるはずがないだろう。というわけで、これは一体何を言おうとしているのかと思ったわけである。こういう批判ならどういう思想にだってあてはまる。ヘーゲルの思想は具体的な場面での現実的力を提示しているか? それでは駄目だからヘーゲルを転倒せよ、と言ったのはマルクスなのである。マルクスのような思想ならよいのか?
ただ、たとえば東方キリスト教のヘシュカズムとか、インドのヨーガ、密教の行法・・・・・等々の、神化のための「方法論」のことを言っているのであれば、ソロヴィヨフにはそういうものはないとは言える。しかし現代の精神状況にあっては、方法論については人それぞれ機縁のあったものをやっていくしかなく、特定の方法論のみをすすめるというわけにもいくまい。しかし杉浦はどうもそういう方法論のことを言っているわけでもないらしいので、よくわからないのだ。

8 中間的次元について
ヒエラルキアの話と関連するが、普遍神学では、物質次元と究極絶対者との中間に、存在の次元性をいくつか想定している。これは根本的には過去の霊的思想、特にインドのヨーガ哲学とイスラームの神秘哲学(井筒俊彦を媒介とする)にヒントを得て、ヒューストン・スミスの永遠の哲学、ケン・ウィルバー、S・グロフなどトランスパーソナル派やサイコシンセシスの意識モデルなどを参考としている。このようにして宇宙全体を意識レベルにおける階層性を持つものとして構想する(これをモナドの階層性として把握したウィルバーの発想は妥当なものとして受け入れている)。こうした発想はキリスト教神学やソロヴィヨフの思想にはないものである。この基本的な構想は井筒俊彦の思想にも見られる。

なお書き残したが、

1 自然を霊の反映として肯定すること。

については、当然ながら、ディープ・エコロジーを包摂することが考えられる。また、シェリングの自然哲学などとの対話が期待できることである。そのポイントとして、シェリングやプロティノスなどに見られる「世界霊魂」コンセプトの再検討というテーマがある。これは6と関連する。つまりすべての存在者はそれぞれ根源実在を持っていて(これは素朴な文化では「精霊」としてイメージされたものと同じである)、その多数の根源実在を包括して統御するより高次の原理が想定できるとすれば、当然ながら人間と自然(正確には地球的存在者から人間を差し引いたものだが)はこの高次レベルでは同一のものに包摂されていることになる。これは普遍神学では「地球の魂(アニマ・テラエ)」として提示されたものである。

このブログに時々立ち寄る人も、著書を読んでいない人も多いらしい(アクセス数と、本が売れた数を比較すると、どうも買った人の割合は少ないようである)。なので、いままで時々の「ぶっ飛び話」やプラクティカルな本の紹介などを楽しんだ人も、私の本業である「普遍神学思想」というものがどういうものか全体としては知らない人が多いだろう。それを考えて、いちおう基本的な構想がわかるように書いてみた。ぶっ飛び話は、頭だけで考えている人だと思われるのがいやなので、ときどき思わせぶりなことをちらちら書いているという戦略なのである。

まとめてみよう。ソロヴィヨフの霊的思想を理解する枠組みとして、杉浦秀一が提示したオカルティズムの4項目というものを修正して、それを私自身の普遍神学構想に当てはめ、5~8を追加した。そこで、ソロヴィヨフの思想には、5の輪廻転生概念と8の中間次元論をのぞく6項目が普遍神学と一致していた(7について普遍神学ではキリスト中心主義からの拡張をはかっている)。以上のことが確認されたということである。普遍神学も、プラトン主義、東方キリスト教≒大乗仏教、ライプニッツ・スピノザ的モナド論などを溶け合わせているので、かなり似たタイプの思想になっているのだった。この思想は言うまでもなく「科学的」ではなく、言ってみればキリスト教神学のように、どのように宇宙を見るのかというヴィジョンに属するものである。しかしこの枠組みによって、いま世の中にいろいろある「霊的情報」はほとんどみな位置づけることが可能だと思う。この「スピリチュアル思想」は原理的に科学ではないが、十分に「学問的・知的」なものとして構想することは可能なのである。

なおトランスパーソナルとの相違を述べる。トランスパーソナルでは、1, 2, 3, 8が共通して言われている要素だと思う。4の精神進化論はウィルバーが論じている。しかしウィルバーは上にあげた類型でいえば二番目の「個人内で完結する終末論」である。具体的な歴史における終末論はトランスパーソナルにはない。5輪廻転生については Christopher Bache などが興味を示しているが一般的ではない。6魂の実在についてトランスパーソナル界ではなおあいまいな反応が多いようである。7媒介の問題については「宗教の領域」と考えるのか、ほとんど見られない。以上のような状況である。したがって、普遍神学は、トランスパーソナルで言われている問題系をほぼ含むが、それにはない要素が数々存在するのである。トランスパーソナルは心理学から出てきた考えで、そこには心理臨床への応用ということがどうしても頭にあることが多い。そのため、5~7などは「宗教的」な内容なので、すべてのクライアントに同意してもらえるものではないので、及び腰になるという問題もある。しかし思想ということであればそういう制限はない。その違いはある。

このように霊的思想ということが、キリスト教というような宗教的な限界を超えて普遍的に論じられることは、トランスパーソナルをのぞけばあまりない。トランスパーソナル陣営の中でも、心理学者などがほとんどで、思想をやっている人は少なく、ウィルバーなどが読まれているだけで、理論的に、包括的な霊的思想とはどういうものかという議論はほとんどなされていない状況である。その意味で、上のようなことを一度どこかできちんとした形で発表しておくことも必要であろう。さしあたって次に、トランスパーソナル派の中からFerrerのトランスパーソナル理論の検討をしてみる予定がある。

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