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永井晋『現象学の転回』

最近、すごい本が出た。それは永井晋の『現象学の転回――「顕現しないもの」に向けて』である。これは新田義弘など現象学の先端で気づき始めた、「世界地平を生成するがそれ自身は決して現象しない何ものか」を問うことである。

私はこの本に収録された「贈与の現象学」や「神名の現象学」をすでに読んでおり、これが現象学の(哲学の、かもしれないが)現在における最前線だなあという印象を受けていた。それでこの本を手に入れて、その「序論」の意気込みを読んで全く驚いた。

「顕現しない」とはしたがって現象しないことではなく、もしまったく現象しないならばそれは現象学の主題領野から外れ、素朴な実体形而上学に逆行することになるが、「顕現しないもの」の現象性はそれどころか転回的還元によって開かれた現象野においてはむしろ優れて現れるものなのであり、もはやいかなる地平的な「現れないもの」にも制限されることなく現れきった純粋な現象性として、最も現象学の名に値するものでさえある。

まずここだけでも、ふつうの現象学に親しんだ人はびっくりするのだが、さらに次はもっとすごい。

転回した現象学はこうして、厳密に現象学的な意味で捉え直された絶対者への問い、すなわち形而上学となる。あくまでも地平的現象性に定位する現象学にとって、形而上学的次元は「現象しない」不可知実体として還元すべき素朴性にすぎないとされる。あるいはそれはせいぜい地平的現象性の目的論的プロセスを導く理念として想定されるにすぎない。だが、転回した「顕現しないもの」の次元においてはむしろ、「現れる/現れない」の意味が還元によってラディカルに変容するために、これまでの現象学の現象性の枠組みの中では現れないとされてきた「絶対者」、「一者」、「無限」、「神」、「生」などと名指される形而上学的次元こそが純粋な現象性を呈示するものとして現象学の究極の「事象そのもの」となる。形而上学は現象学によって初めてその厳密な形態を獲得するに至り、現象学は形而上学においてその潜在力を発揮し尽くして究極の目標に達するのである。

・・ほとんど椅子から転げ落ちそうなぶっ飛びぶりである。要するに、この「転回した現象学」では絶対者を語れるようになるんだぞということを言っているのである。そして本当の意味で厳密に絶対者を語れるようになったのはこれが史上初めてなんだぞという自負を述べているわけである。

「本当にそんなことができたらそれはものすごいよね」というわけで、あとは本文を読んでのお楽しみである。というわけで、これはすごい本なのである。「どうしてそのような『顕現しないはずのもの』が語れるようになるのか?」とだれしも思うところだ。

これまで私は、現象学の徹底を通じて絶対者に肉薄しようとするミシェル・アンリの思考に注目してきたし、また、「顕現しないもの」を「超越論的媒体性」としてとらえ西田の場所論との交差を考える新田などにも注意を払ってきた。斎藤慶典の『フッサール・起源への哲学』がその「世界を生成しているがそれ自身は現象しない何か」の入口まで迫ったということも理解している。

しかし私は、哲学で問えるのはそこが限界だと考えていた。仮に「世界を生成しているがそれ自身は現象しない何か」(よく分からない人は、カスタネダの言う「集合点」assemblage point みたいなものだと思っていただきたい)を「アーラヤ識」と置くことができるが、それは現象学の方法によっては不可能であり、アーラヤ識を措定することは形而上学/神学の方法論へ移行することを意味している。ここで問題を解決するのは、「現象の地平性を生み出している何か」の働き自体が多次元的であり得、また変容可能なものであるという原理を導入するほかはない。つまり集合点は「動かせるもの」だということ、現象世界を生み出しているそのプログラム(映画「マトリックス」のようなものだが)は、改変/交換可能でもあるということである。「チャンネルを変える」ということであり、シャーマンや覚知者は、そのようなこともできるというわけだ。このように「現象生成のルールが変更される」ということは、自己=世界のモナドが拡大し、自己超越することを意味しているだろう。このような拡大が「一者」の次元、つまり究極まで至ることが神化であり、その時自己は絶対者そのものの自己認識という形で絶対者の知に到達する。このように考えることが、私の基本的な思考法である。これは西田的にいえば「場所的自覚の深化」として理解できると思う。自覚ということがキーポイントである。

これはつまり、自己=世界地平のモナドが絶対者まで到達していない以上、自分が到達していない次元より高次のモナド的世界については、現象する事象として語ることは不可能であり、ただ「神学」として語る以外にはないということになる。私が覚知者であればすべてを自己において現象するものとして、神や一者や叡知、絶対愛について語るであろう。しかしそこまで到達していない以上、それは一つの「神話」として語らねばならないのだ。その意味で神学なのである。神学とは物語なのである。哲学そのものにとっては物語は不要であるが、人間が生きるためには必要なのだ。私が、霊的思想を考えるにあたって、最近キリスト教神学に接近しているのは、そういう意味である。純粋な哲学の立場にとどまっては、決して、現在の自分にとって現象する地平の彼方は問えないということである。

ところが永井晋は、以上のような考え方とは全く異なり、「顕現せざる絶対者は転回した現象学にとって事象として把握される」と言うのである。どうしてそのようなことがありうるのであろうか。そういう意味で、何を言おうとしているのかきわめて興味深い。

序論によると、それはどうも、「像」、つまりイコン的なものに関係しているらしい。

私が考えることは、「自己の世界地平」の彼方からある「神的な力」が到来するということもありうるということである。それがパラマスのいう神のエネルゲイアである。人はそのような、神的なヒエラルキアから到来する「恩寵」の力の助けを借りて、道を進むのであろう。そのような東方神学的な発想と、永井のイコン的思考はどのように関わり合うのであろうか。その辺も見所であろう。

しかしこのブログ、最近はすっかり研究ノート化してきてしまった。はっきり言って自分でわかればいいという感じで書いている・・(^_^;


4862850049現象学の転回―「顕現しないもの」に向けて
永井 晋
知泉書館 2007-03

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