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津田真一仏教学をダシにして

津田眞一氏の仏教学について少し読んだ。『アーラヤ的世界とその神』(大蔵出版)である。いかにも私が気になりそうな題だが、今読んだのは遅ればせというほかない。この大著より、『和訳・金剛頂経』(東京美術)の解説文の方がコンパクトにまとまっていてわかりやすい。

率直な感想を述べれば、近代仏教学の問題点についての鋭い問題提起と、自分の生を賭けて思想をするという姿勢には共感を抱けるものがあり、視点として学ぶことができる部分も多かった。その一方、妄想としか思えない考え方も混入している、というような印象だった。

なぜ津田氏を読むのが遅れたのかというと、私の昔の知り合いだった某密教学者が、全く求道心もないくせに、密教の人目を引きそうな部分を面白おかしく書いて受けを狙っているのが大嫌いだったのである。その学者が津田氏の『反密教学』をバイブルのようにしていたものだから、てっきり津田氏も同類ではなかろうかと思いこんでしまったのだった。しかし全然そうではないようである。(なかなかユニークな性格のようだが、国際仏教学大学院のHPにある写真をみると普通のおじさんである)

次の部分はたいへん共感しうる。

私の見るところ現行の所謂近代仏教学は、「仏教は神観念を有<も>たない(合理的な)宗教である」というテーゼによってわれわれの超越の眼差しを予め遮断して、また、そのことによって同時に神が存在しなければ存在するものは人間だけ、という無制約的な(傲慢<ヒュブリス>としての)人間中心主義に道を開き、さらに、輪廻の観念を古くさい(反近代的な)迷信として斥けることによって、われわれをブッダが観る如き根源的な世界の存在とその根拠としての世界が必然的にわれわれに強制する運命の観念からも遮断して、ひたすら、いまここだけに限っての人間性の価値を謳歌するところの「阿頼耶を楽しむ」状態への居直り、すなわち<アーラヤのニヒリズム>を現成させた・・・ 『和訳・金剛頂経』233-4 原文にある傍点を下線に変換

つまり、「超越的な神というものがわからなくなり、それをすべて<抜き>にして仏教を論じようという姿勢」が近代仏教学に根深くあるという指摘である。これは私も前からそう思っている。

実はそこが、西洋人のインテリに仏教が受ける理由の一つでもある。しかしこれは現実の仏教ではない。仏教の実際は、有神的な神なしには成り立たない。早い話、大日如来や観音菩薩という存在が「実際にいらっしゃる」と思わないでおいて、どのような密教実践が可能なのであろうか。阿弥陀仏が実在して救済してくださると思えないで、法然・親鸞の思想がわかったことになるのか。もちろんそうした如来菩薩が、「究極的には実在性を持たない」と考えるのが仏教である。しかし絶対無としての仏は、同時に、「仮の世界実在」を創出する場であり、この娑婆世界が創出されたと同時に、その救済の計画、そのための諸々の如来菩薩明王天部などの霊的ヒエラルキアもまた創出したのである。このように捉えると、仏とは絶対無であると「同時」に、また創造神的な性格をも持つということになろう。しかしこれがまさに、私が理解し、感受し、信仰している仏教ワールドそのものなのである。キリスト教にもそのようなヒエラルキアはある。仏教系列とキリスト教系列の分岐は、宇宙根源に近いきわめて高次元の領域において生起したのであろう。そこにおいて私たちが受け取ることになるイデアも生成したのである。

と、これはもちろん私の思想であって、津田氏がそんなことを言っているわけではないので、誤解なきように。津田氏はむしろショーペンハウアーの形而上学に接近しているような印象を受ける。彼がいう神とは宇宙を貫く目的論的理性として理解される。またアーラヤと言っているのは、ショーペンハウアー的な、盲目的な生への意志である。先の引用で「運命」と言っているのはそういう意味においてである。

私が想像するに(学問的根拠があるわけではないが)、ブッダその人の思想には、ショーペンハウアーや津田氏がそのように感じ取るようなものが含まれていたことはたしかではないかと思う。仏陀の思想は、そうした根源的な生への意志を否定し、宇宙へ還帰することである。その意味で、これは西洋におけるグノーシス思想に近いものを有していたのではないだろうか(一部専門家は暴論と呼ぶであろうが、それはこの際承知の上で・・)。しかし仏教は明らかに、大乗仏教において質的に転換した。その意味で大乗仏教ははっきり言ってブッダの教えと同じものではない。その点では津田氏の言うとおりである(ただし彼の言う criticality の議論はいまひとつわからないのだが)。大乗には「生の肯定」と、また「宇宙深部から人類にさしのべられる救済の業」というイデーが受肉したのである。だからある意味では法然-親鸞は大乗の極致なのである。こうした大乗への転換は、紀元前後から地球に入ってきた「キリスト衝動」によるのだ、と人智学者なら言うであろうが、ともかくも、キリスト教の出現と呼応するものであることはたしかである。

話を津田仏教学に戻すと、彼は、ブッダが何を体験したのかというと、それは「プルシャになった」ということだ、と述べている。プルシャとは宇宙原人であり、「この宇宙全体をその身体とする超意識体」である。つまり宇宙神である。ブッダは宇宙神と合一した。その結果、この宇宙においてあるすべての輪廻的連鎖を超越的な視点から見た。これは私もまったく賛成する。だが私の神学はもう一歩先へ行く。つまり、ブッダはプルシャ=宇宙神になっただけではない。その宇宙神の次元を超えたところに真の根源があり、それが絶対無である。仏教で言われている「空」とはこの絶対的根源としての絶対無である。これが私の形而上学的立場である。これを別の視点から言えばこうなる。もし人が、この地球だけではなく、地球人には見えざる次元にもある諸々の世界領域すべてを自己内にあるものとして観て、そこにおいてあるすべての輪廻的、非輪廻的な諸関連を一望のもとに観るという体験境地に達していないとすれば、その人は決して「空」において悟ったわけではない。「空」とはそれほどまでに絶対的なものであり、超越神との合一よりも彼方にある次元である。「空」をそれとは違う意味に解する見解はすべて方便としての意味しかない(とはいえこのように私がいろいろ主張することもまた方便でしかないが。方便として以外の言説はありえないからだ)。

従って津田氏の「神学的立場」としては私には、あるイデーが欠落したものとして映る。それは、宇宙から到来する「光」の次元である。大乗仏教の本質は、この光のイデーを仏教の伝統の上に受容しようとする試みなのだと思う。その意味で、玉城康四郎の仏教学こそがその本質を捉えたものであるのだ。密教学者たる津田氏が、なにゆえに、大日如来からあまねく放射される絶対的な光明を感受することができないのであろうか。その光明に参じ、合一化を目指すことこそが密教者の道であるだろう。

津田氏の、密教の灌頂儀式についての説明も、その本質を捉えていないのではないかという疑義がある。というのも彼は儀式を単に「象徴的所作によって如来との一体性を得たものと見なす」というふうに解する。しかしこれは彼が霊的プラクシスの実相を知らないから言えることばであるように感じる。灌頂の儀式で達成されるものとは何か。それは、ある如来・菩薩との霊的回路の樹立なのである。そうであるほかないということは、この道を少しでも観た者には明瞭なのである。それは密教だけではない。たとえばカトリックのミサとは何か。それは聖霊がそこに現れ、そのエネルギーに与ること以外にはない。それが否定されればカトリックは存在根拠を失う。そこに聖霊が来ることを信じられない人は、キリストのことばを信じていないのであろう。「私は、世の終わりまであなたとともにいる」。これは真実である。正教会の神学者も、この考えには賛成すると思う。さらに、弘法大師も大日如来も阿弥陀仏も、世の終わりまで私と共にいるのである。

・・と、よく見れば、津田氏をダシにして単に私自身の神学思想を語るものとなってしまった(笑) 私が津田氏と完全に一致しているのは、「合理主義に傾いた近代仏教学など全く駄目だ」という意見のみであるのかもしれない。私は津田氏の考えには賛成しない部分もあるが、それでも、仏教学とは神学思想でなければならないという彼の姿勢には全く共感する(彼は、「神学」ということばを使っているわけではないが、やろうとしていることは仏教の形而上学的再構築である、という意味で)。ただ、キリスト教でも近代の神学はかなり駄目であるので、日本の仏教学だけの問題ではない。この問題はいうまでもなく、先日フェレルの所論を引きつつ述べた、トランスパーソナル派における「人間の内面性のみにおいて、つまり心理の問題としてのみ霊的体験を理解しようとする傾向」と連動している。つまり「自分の理解する実在世界からすれば、他次元に存在するように認知される意識存在」を定立し、それとの人格的関係において霊的な道を考える、という霊性のあり方が全く否定されつづけているのだ。現今のトランスパーソナル派の考え方だけでは、そうした世界を理解することができないのである(なお、ウォシュバーンの理論が、きわめて欠陥の多いかなり奇怪な所説であるにもかかわらず、霊的体験を理解する場合に一定の有用性を有するといわれていることは、ウォシュバーン理論には曲がりなりにも、霊的体験とは自己の「外部」にある何ものかとの交渉によって生ずるという観点が含まれているからである。しかしウォシュバーンなどはやめて、フェレルの「参与的パラダイム」の方がよいであろう。その理由は長くなるのでここでは省略する。もちろん、ユングなんて問題外であって、もう歴史的意義が終わっているものである)。


4804305394アーラヤ的世界とその神―仏教思想像の転回
津田 真一
大蔵出版 1998-07

ロゴスの光

ギリシア教父について。宮本久雄『教父と愛智――ロゴス(言)をめぐって』(新世社)は名著である。いま、読み直しているが、教父の入門書としては最高かもしれない。これは宮本さんの最初の本のようだが、今は、日本では数少ない独創的な思想家として活躍している。この本、文章が美しい。霊的な光をことばにこめるというのは、勉強だけでは身につかない天賦の才能である。

また最近刊行された、『フィロカリア』第三巻(新世社)。これには証聖者マクシモスの「愛についての四百の断章」と「神学と受肉の摂理について」の七百の断章を収める。この本がなぜかめちゃくちゃに波動がいい。見ているだけで美しいオーラに陶然としてくるようである。「フィロカリア」は全五巻だが、この巻が最初の刊行である。

新世社なかなかやりますね・・例によって、アマゾンでは扱っていないが、楽天ブックスで買える。

アレキサンドリアからビザンチン、ロシアへとつづく神秘思想の流れ、それにエウリゲナやボナヴェントゥラなどの思想に、非常な美しさを覚えているこのごろである。それは、美しい霊的な光で宇宙全体が照らされている光景である。プラトン主義を同化した、神的ロゴスの輝きがはっきりと見えている。

ところでロゴスとは神なのだから、「魂のロゴス」という言い方は矛盾ではなかろうか?――という疑問は大変もっともである。そのへんは、あまり気にしていないというのが正直なところだが、魂は神的なロゴスを反映するものであり、魂の中のロゴス的な輝きは、神的ロゴスが投影されたものだと思う。もう少し整理したいが、あまり整理しすぎると霊的なエネルギーが失われるような気がするので、むずかしいところだ。しかし、私がぎりぎりのところでキリスト者ではないということが、ここにも反映されていると思う。

ぶっ飛び思想が文化を創った?

きのうは「キリストは神の子ではなく、高次元存在である」という異端思想を述べてしまった。もっとも話はもう少しこみいっている。「神の子」というのをどう解釈するかにもよるわけである。キリストが高次神霊だと考えるとしても、それが歴史のある時点で地球上に受肉したのは、神の意志によるものであることは疑いなく、キリストは神の力を顕現する存在であったことはたしかである。そこに神とのつながりがないわけではない。そもそも三位一体の神学思想というのは、「同じではない、しかし、同じでもある」という矛盾語法により人知を超えた神秘を表現しようとするものである。従ってその意味で言えば、キリストは神そのものとは同じではないが、ある視点から見れば同一であるという言い方も許容されなくはないと思う。(なお、「キリスト」というとそれは神性を表すことばなので、「イエス・キリスト」と呼べばイエスの神性を認めたことになる。それを信じない人は単に「イエス」と呼ばねばならない)

近代では、「キリストは高次の宇宙領域から地球に受肉した」というキリスト教の根幹になっているテーゼを「ぶっ飛びだ」と思う人が神学者にも出ていて、何とかそれを近代的世界観と調和させようと苦労している神学というのがある。それが前にも述べた「非神話化」の神学である。今となっては、文字通りにそれが真実だろうと思っている人の方が少ないかもしれない。(注:厳密に神学的に言えば「高次の宇宙領域」と表現するのは異端になる。キリストが発出したのは神であって、宇宙とは被造界であると捉えるからだ。しかし私はキリスト教のような神/被造界の二分法ではなく、新プラトン主義的な「グラデーションをなす霊的諸階層からなる宇宙」をイメージしている。キリスト者から見れば私は仲間でなく「プラトン主義者」の一味であることになろう。しかし話が面倒になるので、これ以上はやめておく。なんだか、21世紀ではなく5世紀か6世紀の議論みたいになった)

このような(近代人の常識から見れば)「ぶっ飛び」だと思われるテーゼの上に2000年にもわたる文化が築かれてきたのである。また仏教でいうような「人間は仏になれる」というのもまた究極の「ぶっ飛び」である。

そのようなぶっ飛び思想が今でも大学でまじめに研究され、教えられていたりする。思うにこれは「耳慣れたぶっ飛び」なので、今さら驚かなくなっているのだろうか。私などが少しだけ違ったことをいうと、大部分は伝統的なぶっ飛び思想と同じであるにもかかわらず、それは「耳慣れないぶっ飛び」なので、変に思われるのかもしれない。

伝統ということでいつのまにか驚かなくなっているが、実に驚天動地のぶっ飛びを述べていることは、それが生まれた当時も今も変わらないのである。その主張の過激性にもっとショックを受けてもいいのではないだろうか。

「いっぱいいろいろな考え方があって何が正しいかわからない」という人は、すべてが「情報」として処理されてしまうという時代に流されて、感動することを失った人である。誤解を招く言い方かもしれないが、ある宇宙的なイデーに根本からぶち当てられ、全人間が変容する体験をしてしまえば、そこには「証明」などいささかも必要ないことがわかるだろう。それが「信を得る」ということなのだ。思想の力とはそういうことである。イデーの力を信じず、すべてを「情報」として扱おうとする近代人の姿勢では、何も本当のものは得られない。

「知解を求める信仰」ということばがあるが、これは、「信」つまりイデー的に受け取ったものを知的にも理解しようという方向性である。その「正しさを証明する」というものではない。そもそもそのようなことは不可能である。これは、「人は人間知性を超えることを受け取ることができる」という前提の上で、そういう超知性的な受け取りと、自分が持っている知性とを調和させようという行為である。圧倒的にやってきた何ものかを知性によっても理解したいという欲求から来るものだ。これが本来の霊的思想のあり方である。

哲学は終わったといわれる。ポストモダン思想家はみなそのように言う。

いまの私の関心の一つは、ヨーロッパ中世において、「哲学」というものが「霊的思想」としての神学から独立してできた時点を見きわめ、そこで得たものと失ったものについて考えることである。結局、近代の哲学も、この中世スコラ学的な哲学のあり方の延長線上にある。つまり「生き方」としての哲学から「学問」としての哲学に変わってしまった時点というのがある。考えてみると、私がいま興味を持っているのは、この臨界点よりも「前」に位置する思想家ばかりである。正直言って、ここで成立した「哲学」のあり方には根本的な問題があると感じていて、それが端的に示されているのが、トマス・アクィナス晩年のエピソードだと思う。つまり、彼は最晩年、神秘体験をして、その後「私がこれまで書いてきたものには何の価値もない。すべて火に投じるように」と述べたと言われている。それにもかかわらず、それは火に投ぜられず、今も盛んに研究されている。しかし、トマス自身の価値観に従って、その晩年の15分間の体験で彼が見たものは何であったのか、そういう体験が人間に開かれているというのはどういうことなのか、それを考えることの方が重要なのではなかろうか。

「哲学」は「非哲学」「反哲学」に包囲されている。その非哲学・反哲学の豊饒を見ず、既定化された「哲学」の内部だけしか見ずに「哲学史」を捉えることは、もはや、「精神なき専門人」の発想というべきではなかろうか。

キリストの神性をめぐって(異端思想)

私は、「キリストの救いの唯一性を信じる」という意味では、キリスト教徒ではない。キリストでなくても人は救われるのである。

かといって、すべての宗教は「人間が作ったもの」で、神をそれぞれに理解したものだ、という宗教多元主義もとらない。このような思想はうすっぺらい、現代文化への妥協でしかない。

私が普遍神学として、宗教が多元であるというのは、「高次元存在の複数性」を措定することにもとづいている。

つまりこういうことである。

1.超越的な絶対者(宇宙根源)は絶対無である。
2.その絶対無が「存在者とその世界」を創出する(しかし創出されたものとこの絶対無は分離していない。ある意味で絶対無はすべてを包摂もしている。それは西田の場所的論理で記述されうる)。
3.存在者とその世界の創出は、絶対者の栄光を完全なものとするためなされ、この創出と同時に、すべてが絶対へと帰還する終末の時までの神的計画が存在していた。
4.これら存在者とその世界の帰還のため、その継起的な創出過程における、絶対者の近傍の領域に、高次元存在が創出された。これらが、諸世界に対し、救済の業を行うのである。
5.イエスは、この高次元存在の一人であるが、地球領域に働きかけている高次元存在は、イエスのみではなく、他にもある。

この高次元存在の領域を、インド哲学の術語を借りて「プルシャ」の世界と呼んでおきたい。

この考え方は、キリスト教神学を一部否定する。キリスト教では、イエスは神のロゴスが直接降誕したものと見なす。しかし私はこの考えをとらない。イエスが霊的領域から受肉したことは認めるが、イエスが元々いたところはプルシャ界であり、神的根源の近傍ではあるが、神そのものではない。つまり私は、イエスが「御子」であることを認めず、天使の首長であるように理解していることになり、当然ながら異端宣告を免れないであろう。このようなタイプの異端は、キリスト教教理史にもなかったかもしれない。

霊的領域から救済のために受肉することはインド思想で「アヴァターラ」と呼ばれ、そのようなことがあるということはインドでも認められている。私はイエスをアヴァターラとして理解するものである。イエスは神的ロゴスとの仲介者であるが、ロゴスそのものの受肉ではない。

私は、地球とは宇宙の辺境にすぎないと思っている。わざわざ、神的ロゴスがじきじきお出ましになるほどレベルの高い場所ではないのである。それは大学学長が小学校一年生の先生にはならないというようなことである。地球には、神的ロゴスの近傍で修行を積んだ教師たちが来るのである。小学校には、小学校専門の教育技術も必要であろう。キリスト教は、あまりにイエスを特権化しすぎるし、地球中心的すぎるように思う。地球を卒業すれば別の修行場に行くのであるし、そこにはそこでまた別の教師が来るであろう。それらがすべて絶対的神的ロゴスの宇宙的摂理なのである。

ただ、イエス・キリストは、アヴァターラの中でも特別で、おそらく彼は、それまでは成立していなかった、きわめて高次の領域とのエネルギー的なつながりを、地球にもたらしたのであろう、と私は思っている。イエス・キリストの受肉と復活が、人類史の転回であったことは間違いのないことなのだ。

この考え方って・・やっぱり、「ぶっ飛び」・・・ですかね・・???


(注として書いておくと、そもそも「神学」というのは、「信」の立場を前提として、その信仰内容をできるだけ知的に表現しようという試みである。そもそもその中には、その信仰内容を「客観的に証明しよう」という意図は含まれていない。つまり基本的には「知的なことばで表現された神話」であるが、要はその中に、私たちが思い描くこともできないある高みからの<イデー>が受肉しうるという可能性に賭けるという行為なのである。それは小説などと同じことだ。つまり「おはなし」ではあるが、そのウソであるおはなしの中に、宇宙的な真実が宿る可能性も存在しているということである。神学の意義とはそのようなものである。なお、このような神話の理解は、ドイツ・ロマン主義の思想、特にシェリングなどに見られた)

「神はいかにして知られるか」

大森正樹『エネルゲイアと光の神学――グレゴリオス・パラマス研究』を読む。

この本は二度目であったはずだが、また新鮮だった。学術書なので難解かと思うがそうでもなく、第二部をのぞいては素人でも十分読めるだろう。むしろパラマスを中心とした「東方神学」における「神化」の思想の、よき解説になっているという感じである。

それにしても、あとがきで、

二〇世紀が終わろうとしている今日、神などというものを公に口にして、それがいかに知られるか、という古典的問いを改めて問いただすことは、まるで時代錯誤的な、太古の遺物的行為に見える。 p.374

と書いているが、ともかくも神学部教授である著者はまだしも、キリスト教にもまた他の宗教とも直接には関係がない私のような者が、公に「神はいかにして知られるか」という神学的問いを発していることなど、太古の遺物を通り越して宇宙人的な行為かもしれない。さらに「天使・菩薩の恩寵はどのように作用するか」という問いに至っては・・(^^; 神や天使への問いは、キリスト教神学というごく小さな、ある意味で守られたサークル内でしか通用しない話なのであろうか。

「神とは何か」とは「神とはいかにして知られるか」と関連する。なぜならそもそも神が知られうるものか、知られるとしたらどのような形においてなのか、が解明されない限り、「神とは何か」という問いは論理的に意味をなさないからである。

もちろんその問いは、思考のレベルだけで解決できることではない。この大森氏の本も、そういう当たり前の事実を確認するものになっている。霊的な事象は、霊的な認識力を発達させることによってのみ知られうる。そのことが確認されていたのが東方教父の世界だったのだ。

「光の神学」とあるように、ここでは霊的な光が繰り返し語られ、その光の波動に思わず陶酔の境地に入りそうになってしまうのであった。

なお、東方神学の入門書としては、この本より先に、マローニー(大森正樹訳)『東方キリスト教神学入門』(新世社)をおすすめしておく。アマゾンではなぜか入手不可だが、楽天ブックスで買える。

霊的感覚

あいかわらず、最近はギリシア教父・東方神学の研究に没頭している。たとえば『ロシアの神秘家たち』、『ロシア思想におけるキリスト』『ソロヴィヨフの哲学』などを読んだ。

これら東方神学の伝統で確認できたのは、人間には五感の他に「霊的感覚」があり、これによって神の働きを知ることが可能なのである、という考えが一貫してあるということである。もちろんアウグスティヌスにもある。

ついに、『エネルゲイアと光の神学』というグレゴリオス・パラマスの研究書を買ってしまった。前に借りて読んで、気に入っていたのだが、8900円という値段にびびっていたのである。しかしこういう本というのはどれだけ売れるものなのであろうか。そういえば『ロシア思想におけるキリスト』を注文したら、来たのは「昭和58年」の初版本であって、紙もやや黄ばんでおり、どうやらずっと出版社の在庫にあったものらしいのである。何ともマイナーな世界である。

ともあれ、霊的感覚の存在についてはっきりと語っている思想家は古代からたくさんあり、また哲学者でも、人間の根底において絶対への超越が開かれていると考える人はいろいろある、ということは勉強するとわかってくる。

また最近、「スピリチュアリティー」ということばがよく使われるが、このカタカナ語にはどうも耐え難く軽薄な感覚を覚えるようになってきた。私はこのところできるだけこのことばを避けようと思っている。形容詞の「スピリチュアル」は時々使っていたが、これもできれば「霊的」と言いたい。このブログのサブタイトルからも「スピリチュアル」は取ることにした。スピリチュアリティーということば自体になんとなく「うそくささ」が感じられてしまう。事実、スピリチュアリティーということばが題名に入っている本に、いいものはほとんどなかった。霊的なことがらに関わるのに、あまりにカジュアルな感じがするのは、やはり60年代カウンターカルチャーのノリが入っているからではなかろうか。どうしてもトランスパーソナル系カルチャーの一部にはそういうヒッピー的文化の名残が入っているようだ。

なぜ「霊性」とか「霊的」と言わないかというと、これはそもそもキリスト教の概念なので、日本人はそれを基本的に理解していないという状況があるのだ。Spiritといえば神に関係したことなのである。spiritualityというのは人間が神を求めて行う行為の総体を言うのである。「霊」といえば「聖霊」を連想するものである。ところが日本で「霊」というと、死者の亡霊をイメージするのであるから、それを嫌って日本ではなるべく「霊的」という言い方を避けているのである。

非神話化神学の限界

野呂芳男の『神と希望』を入手したが・・ 輪廻神学を論じたところはおもしろかったが、そこは30ページほどで、イデー的には私にとってそれほど新しいものはない。ベルジャーエフにも似たような考えがあったことは初めて知ったが・・ 後の部分は、ブルトマンとかバルトとか、私にはあまりお呼びでない話が多い。正直言って、借りれば十分だった。古本でも4000円もしたので、ちょっと早まったかも・・ どうも「輪廻神学」を主張している人が他にもいることを知って興奮してしまったが、基本的にプロテスタント系神学は神秘主義的な神体験を排するので、私にはあまり関係のない神学思想である。

べつに野呂神学でなくても、直接にオリゲネスに行っても、現代から見てべつに変なところはないように見える。

近代の神学で主流になったのは「非神話化」という考えで、つまり聖書にはあまりに奇跡とか信じられない話が多い、処女降誕とか復活とかは科学的にありえないので、これを文字通り信じることはできない、そこでこういう話は一つの「象徴」と見て、つまりもっと合理化して解釈しようという発想である。あまりにも「自然法則の支配」というイデオロギーに染まってしまった近代知識人の苦悩を解決するための神学といえるだろう。

イエスは文字通りに復活したのではなく、それは人間の心の中に起きる転換を表したものである、という具合である。ここでも、「物質世界は自然科学的な法則に支配されていると考えざるを得ないので、宗教体験は『個人の内面』にのみ追求しよう」という近代的宗教意識が現れている。これはキリスト教を原始仏教的に解釈するとも言えよう。たとえば『神の歴史』という大著もそういう方向性ははっきりあらわれている。日本では八木誠一の神学もこの種の非神話的合理化に属する。こういう内面性への傾きが、トランスパーソナル心理学の土台でもあることは、フェレルによって指摘されたとおりである。

しかし、これは近代インテリのための神学であろう。現在でもアメリカなどの民衆レベルでは、イエスは文字通り復活したのであり、聖書にある奇跡も書いてあるとおりに本当にあったのであろう、と信じている人はかなり多いだろうと思う。何を隠そう、私もそう思っている一人である。

ブルトマンなどが生きていた時代では、自然科学的世界像は絶対のように思われたであろう。それは聖書と矛盾するが、ブルトマンはそれを解決する方向が全く正反対だった。自然科学と合致するように聖書をむりやり解釈しなおすという方向をとってしまった。これはなんだが、憲法第九条を無理やり解釈して自衛隊が合憲だとしてしまうようなものだ。素直に読めばそういう解釈は不可能なのであり、憲法を改正するか自衛隊をなくすかのどっちかにすべきであろう。ブルトマンらはむしろ、「なぜ私たちは自然法則の支配を絶対的なものと見なすという世界像を信じているのか」と問うて、その前提を解体していく方向へいくべきだった。それがフッサールの『危機』書がやろうとしたことである。現在では、科学哲学の発展もあり、また量子論によってニュートン的因果律が必ずしも絶対でないことも示されており、物理学の先端では多次元世界論が語られ、さらにはホログラフィーモデルなどもあり、ニュートン的自然法則支配が絶対でないことは常識となっている。こういう時代に非神話化神学など時代遅れもはなはだしい。

それに科学のこうした相対化がなかったとしても、そもそも自然法則を創造したのも神なのであるから、通常はその法則どおりに宇宙が運行されていても、人類の救済など重大な理由があるときは、神はその自然法則を一時中断してその業をおこなうことはいつでも可能なはずである。なぜそのように考えることができないのか、私にはどうしてもわからない。神は自分の創造した法則に拘束されなければならないのだろうか。そう思う人は、本当には神の全能を信じていないのではないだろうか。こうした、自然は、当初の自然法則創造以来、神の介入なしに自動的に法則に従って動いていくのだろうという考え方は、watchmaker God といわれる。神は時計職人であり、世界は時計なのである。このような考え方は、近代科学の成立期にあった一つのイデオロギーである。つまり科学の前提となった思想であり、科学研究の結果帰納され、証明された「事実」ではないのである。このようなことは科学史の勉強をすれば学部生にもわかることである。もう非神話化神学はすべて終わりにしていただきたい。イエスの復活を文字通り信じられないのは、信じられない人の問題であり、聖書が間違っているわけではないのである。イエスが病人を癒やしたとあれば、癒やしの本質についてもう一度考え直してみることが必要とされるのであって、それが信じられないという心の状態を肯定したままでなんとか理屈をつけようとがんばることには全く意味はない。むしろ、世界構造の理解のしかたにどこか問題があるのだ。

私は個人的に、聖書に書いてあることは99%実際にあったことがもとになっていると思っている。当然、イエスは復活もしたのである。より正確に表現すると、「神は、私たちがその物質界的な認識構造において、イエスが復活したと認知できるように、私たちの集合的な認識構造に働きかけた」ということだと思う。これは、幻想だということではない。そもそも私たちにとっての世界とは、「神が私たちの集合的認識構造として構成したもの」として以外には存在していないのである。それ以外には何の世界もない。基本的に、この世界で起こっていることはすべてある意味で神が創造しているか、または存在を許容したものである。高次の視点からすればそれはすべて幻想であろう。しかし物質界的視点から見れば、イエスの復活の時、自然法則が一時中断され、それをオーバーライドする事態が起こったように認知されたという意味である。

オリゲネスが熱い?

『キリスト教東方の神秘思想』には、巻頭に、訳者宮本久雄氏による簡単な初期キリスト教思想史の概説がのっている。これがなかなか優れもの。たいへんよくわかる。

私がオリゲネスの思想に接したのもそれが最初だったが、いま見ても、オリゲネスの思想というのはほとんど間違っていないように思える。つまり私としてはまったくその通りであるように思えてしまうのである。

窮極的三一的善は自己と交流しうるペルソナ的存在を在らしめようと決断し、理性と自由意志を備えた数限りない存在を創った(天使・人間の生魂の創造)。この自由な存在者の創造は世界に恣意や混沌をもたらすためになされたわけではない。むしろ父は自由な存在者がその善意志と責任においてよき自己と世界を完成させ、そこに生ずる無限の善を彼らが享けることができるように意志したのである。このように物質的世界に先立って知的存在者が全く等しく類似したものとして創られた。ところで父神は「焼きつくす火」といわれるように善意志=愛そのものである。知的存在者のあるものは自らの自由な選択を通じて父の善にますます与ってゆき、あるものは彼から離れ、愛の点で冷えた。このように知的存在者が愛したり怠ったりした度合いに従って彼らの間に多様性と相異が生じたのである。p12


人間が肉体という虚しさに服したのも、生身に在る間に様々な情欲や挫折を経験し、自己の弱さを身にしみて自覚し、それによって善に従い生きるためであった。世界に悪が生ずるのも、父が人間の病を癒やすための手段として父の「予めの思いはかり」のうちにあることである。・・従って宇宙は・・そこで変容と飛躍が求められる教育・摂理の場である。p13

たとえこの代で魂が浄められずロゴスと一致しなかったとしても、次の代またさらに次の代において浄められ、いつか徳と知恵を備えて神を観想するに至るであろう。・・この代々の浄めによってやがて万物は更新され、神が「すべてにおいてすべてとなる」。p13

私としては特に訂正すべき個所を見出せないのである。しかしこの解説文の何カ所かに「この教説は後に・・として非難される」という注釈がついてくるのはなんといったらよいであろうか。

私は以前、「キリスト教的なイデーと輪廻転生思想との結合がこれからの霊的思想の課題である」と述べたが、それはすでにオリゲネスによってある程度実現されていたのである。当然、この思想では、輪廻の主体となる魂の先在(生誕に先立って魂があるということ)と、悪のある物質世界は「教育の場」として創造されたというイデーを含むことになる。これらは異端という疑いをかけられていたが、今から見ると、オリゲネスの神学はほぼ完全に肯定しうる神学思想となっている。

もっともオリゲネスは、禁欲を求めるあまり、自分のあそこを切ってしまったという「豪の者」でもある。そのように聞くと新プラトン主義的な身体蔑視があるのか、と思うが、思想的にはそうでもないらしい。その点新プラトン主義やグノーシスとは一線を画しているようでもある。

現在のいわゆる「精神世界」的な神学思想――たとえばシルバーバーチ、ホワイトイーグルなどのスピリチュアリズム、エドガー・ケイシー、『神との対話』など――は、基本的にオリゲネス神学とほぼ一致している。

これらの「精神世界思想」はオカルティズムと考えられる場合もあるが、むしろ非教会的な神学思想だと思う。シュタイナー思想も非キリスト教的神学思想として理解できる。現代では神学思想というもの自体が疑いの目で見られる。伝統的なキリスト教各派と関連したキリスト教神学だけが何とか(世間の片隅で)存在を許されているにすぎない。伝統的な宗教にどこにも属していない者が普遍的な神学を考えようということ自体が疑惑の目で見られるのである。(ただ、「精神世界」には、ルネサンス的な意味でのオカルティズムに類似した要素もあるが、それについてはここでは述べない)

この新たな神学的イデーは、西洋人にとっては輪廻転生思想の受容という意味がある。それに対して日本人にとっては、輪廻転生思想の再確認ということの他に、もともとキリスト教思想の中ではぐくまれてきた、「神の宇宙経綸(オイコノミア)」というイデーが流入したという意味があることを指摘したい。神は教育の場としてこの宇宙を創造し、それぞれの魂はその教程を経て神に帰還するのだというイデーである。ここには「すべてがすべてとなる」終末の時というイデーも付随してくる。このようなイデーをこれほど多くの日本人が受容した時代がかつてあったであろうか。それが精神世界思想の日本における思想史的意義であるといえる(こういうこと、宗教学者は誰もいわないですね)。

ただ「法華経」には部分的にこうしたイデーが見られるようである。大乗仏教は「キリスト衝動」的なものを含んでいる。

なお『キリスト教東方の神秘思想』の本編にはオリゲネスはあまり出てこない。

ともあれ、「いま、オリゲネスが熱い!」なのである。

諸宗教の超越的一致について――フェレルによるトランスパーソナル理論の根本的批判(その2)

ちょっと書き残していたことに気がついた。フェレルは「諸宗教の超越的一致」というテーゼに疑問を呈している。宗教はその中核的な神秘経験の部分では一致しているということだが、それは本当なのか? ということである。

たとえばウィルバーなどは、自分の体験的境地についてもいろいろ書いているが、彼はその境地が、すべての神秘家が経験していることと同じだと信じているわけである。その前提で彼の理論が成り立っている。しかし本当にそうか?

私も最近、フェレルと同様、どうやらそうではないかもしれないと思うようになった。それは、本当に究極も究極まで行き着いたなら同じであることがわかるかもしれない。しかし、現在の地球に存在している人類は、いくら神秘修行をしたところでそこまで行けるだけの力は持っていないのではないだろうか。つまりいろいろな伝統における神秘家は、現実は「その道のある地点」まで行っているのであり、「行き着いて」はいないだろうと思う。もちろん行き着いた人がいないとは断定しない。それはいるであろう。しかし大部分は行き着いていないと思う。諸宗教の超越的一致が経験的に確認できるという主張は、それぞれの伝統における神秘家がみなそれぞれ「行き着いた」という前提で成り立つものである。しかし大多数が行き着いていない以上、当然、それぞれの道の途上から見える風景を述べているわけであり、それはどの道を行くかによって異なっているのである。

それに、ある一つの道で最後まで行かなくてもいいのである。電車でどこかに行く時と同様、途中駅までの電車に乗ってそこからまた別の電車に乗り換えたっていっこうにさしつかえないだろう。だから「途中まで」の道が「最後まで行ける」道よりも劣っているとは限らない。その途中駅まではそっちの方が早いかもしれないわけである。

私は修行者としてのウィルバーを尊敬するものだが、彼はまだ宇宙の絶対的始源まで行き着いてはいないと思うし、行き着いたと考えているとしたらそれはどうだろうかと思う。またそれが究極であるという前提の元に作られている理論にもクエスチョンマークはつく。

したがって、諸宗教の超越的一致というのは、神秘家の経験を比較した上での、いわば比較宗教学的に定立されたテーゼではないと思う。それはむしろ、カントにおける実践理性の要請と似たようなもので、「こうであらねばならない」という倫理的要請としてのテーゼなのである。そもそも「経験的に証明できないとだめだ」という考え方そのものが、知の可能性を矮小化するものであることは、前項で述べたとおりである。

フェレルは、ウィルバーは自らの「非二元的伝統」での体験を不当に普遍化していると批判している。自分の体験を普遍化しうるのは「本当に行き着いた人のみ」である。そうでない以上、「私はこの道を行き、ここまで来たらこういう風景が見えました」という具合に語る以外に方法はない。つまり常にある「パースペクティブ」において何が見えたかという方法でしか語り得ないのである。すべてのパースペクティブ的限定(地平的限定)を超えた視点に達したと言いうるのは、神仏の境涯に入った時のみである。「私は仏になりました」と覚悟を持って言いうるかどうかということである。(ウィルバーの理論を論理的に捉えれば、ウィルバーは自分が仏になったと確信しているのだと思う。そうでなければ論理的に矛盾するからである。というのも彼は、認識がすべてパースペクティブ的限定を持っており、<全一>のポジションに立ったときのみその限定が超えられるという、スピノザ的、あるいはクザーヌス的命題を十分に知っていると思われるからである。したがってウィルバーを受け取る場合は、『彼は本当に仏の境涯に達したのか?』という判断が必要である。彼はそういう前提で理論を提示しているのであり、その当否は読者それぞれが判断すべきことである。その判断から逃げてはウィルバーの評価などできるはずがない)

トランスパーソナル理論への根本的批判――フェレルの『トランスパーソナル理論再検討』をめぐって

ひさびさに英語の学術書。ホルヘ・フェレルによるトランスパーソナル理論批判の本を読んだ(Revisioning Transpersonal Theory.)。おそるべき学識の本で、日本のトランスパーソナル界とのレベルの差を痛感させる。この本は一言でいうと非常に「我が意を得た」というところが多かった。著者はスペイン出身らしいが現在はCIIS (California Institute of Integral Studies――ある意味でアメリカの霊性研究の拠点の一つだ。日本人留学生も多い)の教授である。

フェレルの論点は、はっきり言うとトランスパーソナルが「経験科学」として自分を主張しようというのは間違いだということにある。トランスパーソナルはすべての霊的経験を「内的な心理経験」としてのみ理解しようとする。そこに微細なデカルト的二元論があり、近代的な認識の地平を超えていないという批判である。さらにフェレルは、ウィルバーの「反証可能性説」もきっぱりと批判する。つまり「霊的な原理も経験による反証可能性をもつのでその点では科学と同等である」という『科学と宗教の結婚』の主張を退ける。

つまりは、トランスパーソナルが「客観的な経験科学」であろうとして、科学の仲間に入れてもらおうとしている状況を批判するのである。

たとえば日本の関係学会から出た本も『スピリチュアリティーの心理学』だったり、『科学とスピリチュアリティー』という題がついていて、スピリチュアルを科学的に研究してるんですよというところをアピールしたいという意識はありありとうかがえる。しかし、「本当にこういう認識図式でいいんですか」というのがフェレルの問いかけである。

つまりこれは、霊性というものを「個人の内面」のみに認めようとする近代的な世界図式と妥協したものではないかという論点になるようだ。「経験」を絶対化してそこに「経験主義=実証主義」を成立させようという立場になる。これが「霊性を『心理学問題』として捉えて経験科学として定立する」という発想で、そもそもユングにおける「心的現実」の方法論からその立場は始まっているだろう。フェレルはこうした「経験主義=実証主義」によって霊性を把握することの限界を指摘してやまない。

このフェレルのトランスパーソナル心理学批判はなかなか遠大な射程をもつので、自分の勉強を兼ねて、このフェレルの論点をとりあげて論文を一本書いてみようと思っている。日本のトランスパーソナル界ではこうした認識論的な議論、つまりそもそも霊的なるものを認識するとはどういうことかという哲学レベルの議論はほとんどなされていない状況であるのだ。心理学出身者ばかりで哲学には疎いという事情もあるのだが、ともあれ理論面は弱い。トランスパーソナル研究者の間でさえ、この前述べた日本的な「霊的事象についての反知性主義」を持っている人もいて、つまり「理論なんて」と軽視する風潮もなくはない。理論をやろうとする人はろくに体験がないんだろうと思っている人もいるかもしれないが、そんなことは決してないのである。

そもそも「スピリチュアル研究とは科学でありうるのか」という問いになってきて、これには「そもそも科学とは何か」という問いがないと答えられない。フェレルはその点現代の科学哲学に通暁しており、ウィルバーのいっているポパーの反証可能性など時代遅れだとはっきり述べていたりする。そしてまたもう一つ、「そもそもスピリチュアルの知的探究は『科学的』である必要はあるのか」という問いにもなってこよう。この点、日本人は特に、「知的探究といえば科学的ということだろう」とすぐ思ってしまうが、それは違っている。これは、以前にも述べたように日本では「形而上学的・神学的」な議論の伝統がないということも関連しているのだ。

すでにおわかりのように、私自身は、「経験科学として認めてもらおうとがんばる」という方向性には批判的である。その点でフェレルの論点には大いに「我が意を得たり」であったわけだ。ところがフェレルはさらに矛先を「永遠の哲学」に向ける。トランスパーソナルの知的前提として永遠の哲学があることは言うまでもないが、それは実証不可能なドグマ的主張ではないかと批判するのである。

このフェレルの批判もなかなか読んでいておもしろかった。しかし、私自身が永遠の哲学への支持を取りやめようかという気にまではならなかった。どういうことかというと、フェレルは、永遠の哲学のパラダイムは、比較宗教、比較神秘主義から実証的に帰納された主張ではなく、形而上学・神学的な言明だと言っていることになると思う。「諸宗教はその神秘的な核心において一致している」というのは現実とは異なると言っている。つまりフェレルは永遠の哲学がそのように宗教学のレベルにある理論だと考えて、その神学性・形而上学性を批判するもののようである。だが、私の見方からすると、もともと永遠の哲学は宗教学的な、つまり経験知的なレベルで言われていることではない。また「宗教間対話」の土台を作ろうとすることでもない。そのように思っている人もいるかもしれないが、私のとらえ方では、永遠の哲学は「普遍神学」として提示された主張なのだと思う。仏教とキリスト教との対話の場を拓くなどということではなく、すでに伝統的な仏教にもキリスト教にも、そういう既成の集団に属することはできなくなった現代の個人が、自分なりの救済を求めて、自分と聖なる次元との間をどう理解していくかという思想的な試みとしてあるのだ。普遍神学とは個人神学と言ってもいいであろう。それが現代人の必然として出てくる発想である。そういう立場から、いろいろある宗教の教えのうち、どれがいちばん深いのかという価値判断は何らかの形で行う必要が出てくる。これが現代的な「教相判釈」ということになる。こういう行為は不可避であって、そういうことをやっては宗教間の対話などできないだろうとフェレルが批判したところで、それは的はずれである。社会的・政治的なレベルでの「寛容」という問題ではなく、まさに自分はどのように生きるのかという実存的な決断として、たとえば「私は究極者を絶対無と措定することが最も深い教えであると信ずる」という行為があるのだ。

したがって、宗教間対話の土台を考えるということはけっこうであるが、永遠の哲学はそういうことをやろうとしているわけではない。あるいはやろうとした人もいたかもしれないが、そういうことは無理ですよとフェレルに指摘されたということであろう。むしろ、永遠の哲学は、仏教、キリスト教など伝統的な宗教と同じようなステイタス、つまりそれ自身が一つの宗教(というか正確には神学だが)として、メンバーの一員として宗教間対話に参加するということになるだろう。つまりモデレーターではなくて当事者の一人なのである。このように考えると、フェレルの立場と永遠の哲学の立場は両立可能になるであろう。フェレルは永遠の哲学の形而上学・神学性を指摘したということになるが、私は「それでいいのだ」というか、むしろ自身が普遍神学的な知的営為であることを自覚することが必要であろうと思う。そういう自覚を促すという意味でフェレルの指摘は意味がある。永遠の哲学をあたかも、諸宗教に対する客観的な理論であるかのごとく思っているのは妄想であるということになる。トランスパーソナルがそういう「客観的な学問」であることを主張するのはおかしいということにもなる。

「科学の仲間に入れてください!」ではなく、「人間には神学・形而上学が必要である。それのどこが悪いのか」という立場である。もっともこれは私の立場であって、フェレルがそう言っているわけではない。

霊的な探究は個人に属することであり、それは当然に神学・形而上学的な領域に踏み込まざるを得ない。しかしもし、霊性をたとえば心理臨床に応用したいということになると、様々な宗教的バックグラウンドをもつクライアントに対してどのようなスタンスをとればよいのか、という問題が生じてくる。そこでは霊性についての何らかの公約数的な了解も必要であろう。トランスパーソナルはそういう「公約数的な了解」を定立しようとするのか、それとも、この現代に生きる個人として自分なりの霊的なパラダイムを樹立しようとするのか。その二つは同じことではない。後者は心理学ではなく普遍神学の立場である。フェレルの批判は、永遠の哲学をベースとする現在のトランスパーソナル理論は、公約数的な了解ではなく神学のレベルにあるということを明らかとしている。これに対してトランスパーソナル界はどのように返答するのか。トランスパーソナル界はこれまで、その理論の神学的性格に気づかず、あたかもそれが実証的な経験科学的な知のごとく思いなしてきたわけで、そこをフェレルに鋭く突かれたわけである。

本の後半では既存のトランスパーソナル理論に代わる、フェレル自身の「参与的ヴィジョン」が提示されている。これは、フェレル自身は述べていないが、現象学における「地平の転換」に近い考え方のようである。これについてはここでは省略する。いずれ論文の方で考察してみたい。

フェレルは非常に哲学の学識があり、ヴァレラなど認知科学にも詳しい。しかし英米の哲学が多い。私は英米の哲学はあまり読んでいないため、完全にはわからないところもあった。ヴァレラのenactiveパラダイムに親近感を示しているようであるが、これは現象学における認識の地平性という概念を使えばもう少し哲学的に規定できそうである。

ま、ともあれ非常に読みごたえのある本であった。私が日頃トランスパーソナルについて持っている疑念がかなり徹底的に、きわめて知的に分析されていたのはたいへん気分がよかった。トランスパーソナルへのここまで根本的な批判は初めてであろう。今後は「霊性を科学的に研究する」などという怪しいことを安易に言わないようにしたいものだ。また、日本のトランスパーソナル界もいつかこういうレベルの本が出せるようになってほしいものである。

「スピリチュアル・ヒーリングをやります」

いろいろインターネットを見ていたら石川勇一さんのページに行ってしまった。そこを見ると、石川さんは臨床で「スピリチュアル・ヒーリング」をやっていると書いてある。セッションの半分くらいがヒーリングになることもあるという。それに、退行催眠もやってますという(ただし、前世退行については、「それが前世であるという客観的な証明はできません」と断ってあるが)。あとはTFTも使うようである。

大学の先生もしている人が堂々と「スピリチュアル・ヒーリングをしてます」とネットに書いているというのは、ずいぶん時代も変わったものだと思う。

石川さんはどのようにしてヒーリングができるようになったか記してはいないが、はっきり言って、ヒーリングは誰でもできます(断言)。クォンタムタッチであれセラピューティック・タッチであれ、またレイキであれ、トレーニングすれば誰でもできるものである。レイキだと、トレーニング期間が短縮されると思うが、西洋系レイキはティーチャーによってばらつきが大きいので、質が高くないものもあるというデメリットもある(よく見分けなければならない、という意味で)。

これにはまた時代精神も関係していると思う。時代精神ということを学問的に説明するというのはなかなかむずかしいのだが、世界全体のエネルギー的な質が変化しており、以前よりもはるかに「やりやすくなっている」というのは間違いがないであろう。これはヒーリングだけではなく、一般に霊的ヴィジョン、霊的感覚についてもそうで、以前だとかなり修行しないとわからなかった世界が、かなり近づきやすくなっているということはたしかにあると思う。

この時代のエネルギーということをどう把捉するのか・・私の「普遍神学」ではその答えも用意しておくつもりだが・・

石川さんの写真がホームページにはいっぱい出てくるが、なんだかすごく安藤治さんに似てきているような気がしてならない。ほとんど兄弟??

そういえば石川さんから『スピリチュアル臨床心理学』を贈ってもらったのに、ついお礼状を出しそびれたことを思い出した。その節はありがとうございました(遅いか)。一応このブログで紹介して、たぶん7~8冊は売れたと思いますので・・

またリンクしておこう(笑)

4916109988こころがよくわかるスピリチュアル臨床心理学
石川 勇一
メディアート出版 2005-10

永井晋『現象学の転回』についての覚書

永井晋『現象学の転回』はまずアンリやマリオンを中心に、現象学の先端を語る。
ここで示唆的だったのは、アンリの思想は相当にスピノザの影響が色濃いということである。
私が注目する思想はみなスピノザにからんでいる。ソロヴィヨフもスピノザとプラトン主義の融合だ。実はこうした傾向はシェリングにも見られる。
霊的世界観を構想するにあたってはスピノザとプラトンの融合というのは一つの鍵かもしれない。アンリにはこれにヘブライ的な「私は私である」としての神(つまり、私という意識は神の自己意識の鏡像であるということ)という西洋的霊性の根源をも視野に収めたという意味で、最も注目されるわけである。

しかし後半にあるイマジナルの現象学というのは、結局は「像」の世界である。つまり、物質世界のような明らかな個体性はないものの、神的次元の直接性はないというその「中間次元」である。
つまりここで思索されようとしているのはこういうことである。今ここにイコンを見るとする。あるいは覚醒した人の写真や映像を見るとする。するとなぜかそこに「神的な光」というか、エネルギーを感じてしまうということがあるのである。こういう「神的な光」はもちろん可視的なものとしてそこに現れているわけではない。にもかかわらず私はそれを「わかって」しまう。これはどういうことなのか、ということである。これはこうした宗教体験だけでなく、芸術体験にも言えることである。俗なことばでいえば「波動を感じる」ということなのだが、それを哲学的に言ってみろというとひじょうに難しく、そういうことに初めて挑んだのが永井である、ということなのである。

いや、「初めて」というのはあくまで現代哲学の文脈では初めてという意味である。私が最近注目している初期のキリスト教教父の思想などは、ひたすらに「神を見るというのはどういうことか」を思索することの連続であったのである。神を見るというのは神のエネルギーを感じるということである、そういう、肉体感覚ではない感覚力を人間は持っているのだという考えである。これがキリスト教神秘主義の一つの伝統で、ウィルバーの霊的認識論である「三つの目論」もこの伝統に依拠しているのである。

こういう霊的感覚などというものはありえない、という立場から見てしまうと、こういうことを体験する人は妄想に陥っているのだということになってしまう。これが現代の精神医学の正統派である。したがって、まず、そもそも「ふつうの世界」が見えているというのはどういうことなのか? という問いから始めて、そこに「ふつうの世界」とはまた別の次元のものがそこに「現象する」ということの可能性を拓かなければ、この問題を知的なレベルで突破することはできないのである。現象学と形而上学との接近がきわめて実践的意義を持っているのはそういう意味においてである。

そこで永井のイマジナルの現象学は、私などが今後論文などを書く上で何度も引用するものになりそうである。が、イマジナルの次元とはやはり「中間次元」なのであり、永井が序論で述べたような「純粋な現象性として形而上学的なことがらを見ることが可能になる」ものであるのかには、疑問が残った。イマジナルはあくまで、「媒介」の次元であり、決して絶対者が現象するものではないのである。だからここで、パラマス神学に言うように、これは神そのものが現象するのではなく、神のエネルゲイアなのだ、といいかえるべきであろう。エネルゲイアとはつまり媒介である。こういう媒介を仏教では「方便」である。イマジナル的媒介性は仏教でいえば「報身」にあたるのである。永井はイマジナルの現象性が媒介の次元であることを見逃しているようにみえる。そもそもイマジナルを言い出したコルバンが、イマジナル次元とは神と人間との中間項であると規定してはずではなかろうか。あの序論はやはりちょっと書きすぎだったのではないかと思う。

先ほども書いたが、ここで問題になっているのは「五感には感じないのだけれども、何かがあると感じる」という芸術・宗教体験などに現れる「見えない次元の感覚」の思想的な規定である。この規定ができなければ超越的体験についての知的な構成、学問はあり得ないのである。全く別の方向からのものだが、こういうことについてはミンデルのアプローチの方がだいぶわかりやすそうである。見えない次元の感覚を強めるということがミンデルの最近の目標である。それが「第二の注意力」なのだ。霊的感覚も第二の注意力の延長にありそうだ。だが、そこで見えるものは神のエネルゲイア(媒介として仮に現れること。方便。俗に言えば「私たちが知覚できるように波動を落としたレベルのもの」)なのである。神を本当に見ることは、自分が神になって神の自己認識という形でしか起こりえない。

アンリの思想は、根源的な「我あり」が自分の「我あり」と接続しているというヘブライ的直観から、自分の「我あり」を通して根源の「我あり」を見ることが可能になるという論理を展開するものである。このような直接的な自己認識を言っているので、そこにはイマジナル的媒介性の問題は現れてこない。いいかえればそのように中間次元を顧慮しないのは、アンリの哲学が「世界観」としては全体性を持たない点であろう。

永井のイマジナル論では、固定された対象性から離れた「遊走性」のようなものを言っているようであるが、これはどうも、1980年代に中沢新一がクリステヴァの記号論を援用しつつやろうとしたことと似たようなものであるように感じた。つまり物質次元の時空間に拘束されない次元を評価し、それが聖なる次元だとまで考えるわけであるが、ここには思想的な危険性がひそむ。イマジナル次元は、時空の束縛が緩く、エネルギー的な現象性の世界だが、それだからといってただちに物質次元よりも「高次」なわけではない。ここで、アサジョーリの無意識論にならって、イマジナルは「上位イマジナル」「中位イマジナル」「下位イマジナル」に分類しなければならないのである。つまり「トランスパーソナルな闇」というものもある次元においては実在性を持つのだ。わかりやすく言えば「魔」というものもあるんですよということだ。このことはウィルバーさえも間違えていることなのだが、「実践的」には、魔についての知識と対処法がないのは致命傷になりかねない重大な問題である。天台宗の「天台小止観」には魔の見分け方と対処法が記されている。いいかえると、そもそもコルバンと井筒のイマジナル論自体がその点に不足しているものがあったということである。イマジナルが無条件で「高次」なものだという発想は、霊的な意味ではきわめて危険なので、このような誤謬は断固として弾劾するのが私の責務であろう(我ながら大げさな言いようであるが(^^; )。

まとめると、イマジナルというのは永井が考えるような、「純粋な現象性」が事象として問えるという次元ではない。むしろ、「ふつうの世界」を構成しているのとは「別の世界構成原理」が作用しているということであり、そこにもまた「世界地平」はあり、したがってその地平によって「見え方」は限定されていることにはかわりがない。ただ、その「世界構成のルール」が異なるということであり、概していえば、「ふつうの世界」よりも、「拘束性が弱い」とは言える。ここから、絶対者がその存在次元を下降して、物質次元にある存在者と接触するための「媒体」として利用されうる。こうした「報身」レベルの接触は、物質次元よりもはるかに濃密である。つまり「より真理の次元に近い」。だがこれは「近い」だけであって、「そのもの」ではない。このように考えることが妥当だと思う。

とはいえ、『現象学の転回』は読む価値のある本であり、その労は多としたい。

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