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キリストの神性をめぐって(異端思想)

私は、「キリストの救いの唯一性を信じる」という意味では、キリスト教徒ではない。キリストでなくても人は救われるのである。

かといって、すべての宗教は「人間が作ったもの」で、神をそれぞれに理解したものだ、という宗教多元主義もとらない。このような思想はうすっぺらい、現代文化への妥協でしかない。

私が普遍神学として、宗教が多元であるというのは、「高次元存在の複数性」を措定することにもとづいている。

つまりこういうことである。

1.超越的な絶対者(宇宙根源)は絶対無である。
2.その絶対無が「存在者とその世界」を創出する(しかし創出されたものとこの絶対無は分離していない。ある意味で絶対無はすべてを包摂もしている。それは西田の場所的論理で記述されうる)。
3.存在者とその世界の創出は、絶対者の栄光を完全なものとするためなされ、この創出と同時に、すべてが絶対へと帰還する終末の時までの神的計画が存在していた。
4.これら存在者とその世界の帰還のため、その継起的な創出過程における、絶対者の近傍の領域に、高次元存在が創出された。これらが、諸世界に対し、救済の業を行うのである。
5.イエスは、この高次元存在の一人であるが、地球領域に働きかけている高次元存在は、イエスのみではなく、他にもある。

この高次元存在の領域を、インド哲学の術語を借りて「プルシャ」の世界と呼んでおきたい。

この考え方は、キリスト教神学を一部否定する。キリスト教では、イエスは神のロゴスが直接降誕したものと見なす。しかし私はこの考えをとらない。イエスが霊的領域から受肉したことは認めるが、イエスが元々いたところはプルシャ界であり、神的根源の近傍ではあるが、神そのものではない。つまり私は、イエスが「御子」であることを認めず、天使の首長であるように理解していることになり、当然ながら異端宣告を免れないであろう。このようなタイプの異端は、キリスト教教理史にもなかったかもしれない。

霊的領域から救済のために受肉することはインド思想で「アヴァターラ」と呼ばれ、そのようなことがあるということはインドでも認められている。私はイエスをアヴァターラとして理解するものである。イエスは神的ロゴスとの仲介者であるが、ロゴスそのものの受肉ではない。

私は、地球とは宇宙の辺境にすぎないと思っている。わざわざ、神的ロゴスがじきじきお出ましになるほどレベルの高い場所ではないのである。それは大学学長が小学校一年生の先生にはならないというようなことである。地球には、神的ロゴスの近傍で修行を積んだ教師たちが来るのである。小学校には、小学校専門の教育技術も必要であろう。キリスト教は、あまりにイエスを特権化しすぎるし、地球中心的すぎるように思う。地球を卒業すれば別の修行場に行くのであるし、そこにはそこでまた別の教師が来るであろう。それらがすべて絶対的神的ロゴスの宇宙的摂理なのである。

ただ、イエス・キリストは、アヴァターラの中でも特別で、おそらく彼は、それまでは成立していなかった、きわめて高次の領域とのエネルギー的なつながりを、地球にもたらしたのであろう、と私は思っている。イエス・キリストの受肉と復活が、人類史の転回であったことは間違いのないことなのだ。

この考え方って・・やっぱり、「ぶっ飛び」・・・ですかね・・???


(注として書いておくと、そもそも「神学」というのは、「信」の立場を前提として、その信仰内容をできるだけ知的に表現しようという試みである。そもそもその中には、その信仰内容を「客観的に証明しよう」という意図は含まれていない。つまり基本的には「知的なことばで表現された神話」であるが、要はその中に、私たちが思い描くこともできないある高みからの<イデー>が受肉しうるという可能性に賭けるという行為なのである。それは小説などと同じことだ。つまり「おはなし」ではあるが、そのウソであるおはなしの中に、宇宙的な真実が宿る可能性も存在しているということである。神学の意義とはそのようなものである。なお、このような神話の理解は、ドイツ・ロマン主義の思想、特にシェリングなどに見られた)

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