« 永井晋『現象学の転回』 | Main | 「スピリチュアル・ヒーリングをやります」 »

永井晋『現象学の転回』についての覚書

永井晋『現象学の転回』はまずアンリやマリオンを中心に、現象学の先端を語る。
ここで示唆的だったのは、アンリの思想は相当にスピノザの影響が色濃いということである。
私が注目する思想はみなスピノザにからんでいる。ソロヴィヨフもスピノザとプラトン主義の融合だ。実はこうした傾向はシェリングにも見られる。
霊的世界観を構想するにあたってはスピノザとプラトンの融合というのは一つの鍵かもしれない。アンリにはこれにヘブライ的な「私は私である」としての神(つまり、私という意識は神の自己意識の鏡像であるということ)という西洋的霊性の根源をも視野に収めたという意味で、最も注目されるわけである。

しかし後半にあるイマジナルの現象学というのは、結局は「像」の世界である。つまり、物質世界のような明らかな個体性はないものの、神的次元の直接性はないというその「中間次元」である。
つまりここで思索されようとしているのはこういうことである。今ここにイコンを見るとする。あるいは覚醒した人の写真や映像を見るとする。するとなぜかそこに「神的な光」というか、エネルギーを感じてしまうということがあるのである。こういう「神的な光」はもちろん可視的なものとしてそこに現れているわけではない。にもかかわらず私はそれを「わかって」しまう。これはどういうことなのか、ということである。これはこうした宗教体験だけでなく、芸術体験にも言えることである。俗なことばでいえば「波動を感じる」ということなのだが、それを哲学的に言ってみろというとひじょうに難しく、そういうことに初めて挑んだのが永井である、ということなのである。

いや、「初めて」というのはあくまで現代哲学の文脈では初めてという意味である。私が最近注目している初期のキリスト教教父の思想などは、ひたすらに「神を見るというのはどういうことか」を思索することの連続であったのである。神を見るというのは神のエネルギーを感じるということである、そういう、肉体感覚ではない感覚力を人間は持っているのだという考えである。これがキリスト教神秘主義の一つの伝統で、ウィルバーの霊的認識論である「三つの目論」もこの伝統に依拠しているのである。

こういう霊的感覚などというものはありえない、という立場から見てしまうと、こういうことを体験する人は妄想に陥っているのだということになってしまう。これが現代の精神医学の正統派である。したがって、まず、そもそも「ふつうの世界」が見えているというのはどういうことなのか? という問いから始めて、そこに「ふつうの世界」とはまた別の次元のものがそこに「現象する」ということの可能性を拓かなければ、この問題を知的なレベルで突破することはできないのである。現象学と形而上学との接近がきわめて実践的意義を持っているのはそういう意味においてである。

そこで永井のイマジナルの現象学は、私などが今後論文などを書く上で何度も引用するものになりそうである。が、イマジナルの次元とはやはり「中間次元」なのであり、永井が序論で述べたような「純粋な現象性として形而上学的なことがらを見ることが可能になる」ものであるのかには、疑問が残った。イマジナルはあくまで、「媒介」の次元であり、決して絶対者が現象するものではないのである。だからここで、パラマス神学に言うように、これは神そのものが現象するのではなく、神のエネルゲイアなのだ、といいかえるべきであろう。エネルゲイアとはつまり媒介である。こういう媒介を仏教では「方便」である。イマジナル的媒介性は仏教でいえば「報身」にあたるのである。永井はイマジナルの現象性が媒介の次元であることを見逃しているようにみえる。そもそもイマジナルを言い出したコルバンが、イマジナル次元とは神と人間との中間項であると規定してはずではなかろうか。あの序論はやはりちょっと書きすぎだったのではないかと思う。

先ほども書いたが、ここで問題になっているのは「五感には感じないのだけれども、何かがあると感じる」という芸術・宗教体験などに現れる「見えない次元の感覚」の思想的な規定である。この規定ができなければ超越的体験についての知的な構成、学問はあり得ないのである。全く別の方向からのものだが、こういうことについてはミンデルのアプローチの方がだいぶわかりやすそうである。見えない次元の感覚を強めるということがミンデルの最近の目標である。それが「第二の注意力」なのだ。霊的感覚も第二の注意力の延長にありそうだ。だが、そこで見えるものは神のエネルゲイア(媒介として仮に現れること。方便。俗に言えば「私たちが知覚できるように波動を落としたレベルのもの」)なのである。神を本当に見ることは、自分が神になって神の自己認識という形でしか起こりえない。

アンリの思想は、根源的な「我あり」が自分の「我あり」と接続しているというヘブライ的直観から、自分の「我あり」を通して根源の「我あり」を見ることが可能になるという論理を展開するものである。このような直接的な自己認識を言っているので、そこにはイマジナル的媒介性の問題は現れてこない。いいかえればそのように中間次元を顧慮しないのは、アンリの哲学が「世界観」としては全体性を持たない点であろう。

永井のイマジナル論では、固定された対象性から離れた「遊走性」のようなものを言っているようであるが、これはどうも、1980年代に中沢新一がクリステヴァの記号論を援用しつつやろうとしたことと似たようなものであるように感じた。つまり物質次元の時空間に拘束されない次元を評価し、それが聖なる次元だとまで考えるわけであるが、ここには思想的な危険性がひそむ。イマジナル次元は、時空の束縛が緩く、エネルギー的な現象性の世界だが、それだからといってただちに物質次元よりも「高次」なわけではない。ここで、アサジョーリの無意識論にならって、イマジナルは「上位イマジナル」「中位イマジナル」「下位イマジナル」に分類しなければならないのである。つまり「トランスパーソナルな闇」というものもある次元においては実在性を持つのだ。わかりやすく言えば「魔」というものもあるんですよということだ。このことはウィルバーさえも間違えていることなのだが、「実践的」には、魔についての知識と対処法がないのは致命傷になりかねない重大な問題である。天台宗の「天台小止観」には魔の見分け方と対処法が記されている。いいかえると、そもそもコルバンと井筒のイマジナル論自体がその点に不足しているものがあったということである。イマジナルが無条件で「高次」なものだという発想は、霊的な意味ではきわめて危険なので、このような誤謬は断固として弾劾するのが私の責務であろう(我ながら大げさな言いようであるが(^^; )。

まとめると、イマジナルというのは永井が考えるような、「純粋な現象性」が事象として問えるという次元ではない。むしろ、「ふつうの世界」を構成しているのとは「別の世界構成原理」が作用しているということであり、そこにもまた「世界地平」はあり、したがってその地平によって「見え方」は限定されていることにはかわりがない。ただ、その「世界構成のルール」が異なるということであり、概していえば、「ふつうの世界」よりも、「拘束性が弱い」とは言える。ここから、絶対者がその存在次元を下降して、物質次元にある存在者と接触するための「媒体」として利用されうる。こうした「報身」レベルの接触は、物質次元よりもはるかに濃密である。つまり「より真理の次元に近い」。だがこれは「近い」だけであって、「そのもの」ではない。このように考えることが妥当だと思う。

とはいえ、『現象学の転回』は読む価値のある本であり、その労は多としたい。

« 永井晋『現象学の転回』 | Main | 「スピリチュアル・ヒーリングをやります」 »

霊性思想」カテゴリの記事

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ