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トランスパーソナル理論への根本的批判――フェレルの『トランスパーソナル理論再検討』をめぐって

ひさびさに英語の学術書。ホルヘ・フェレルによるトランスパーソナル理論批判の本を読んだ(Revisioning Transpersonal Theory.)。おそるべき学識の本で、日本のトランスパーソナル界とのレベルの差を痛感させる。この本は一言でいうと非常に「我が意を得た」というところが多かった。著者はスペイン出身らしいが現在はCIIS (California Institute of Integral Studies――ある意味でアメリカの霊性研究の拠点の一つだ。日本人留学生も多い)の教授である。

フェレルの論点は、はっきり言うとトランスパーソナルが「経験科学」として自分を主張しようというのは間違いだということにある。トランスパーソナルはすべての霊的経験を「内的な心理経験」としてのみ理解しようとする。そこに微細なデカルト的二元論があり、近代的な認識の地平を超えていないという批判である。さらにフェレルは、ウィルバーの「反証可能性説」もきっぱりと批判する。つまり「霊的な原理も経験による反証可能性をもつのでその点では科学と同等である」という『科学と宗教の結婚』の主張を退ける。

つまりは、トランスパーソナルが「客観的な経験科学」であろうとして、科学の仲間に入れてもらおうとしている状況を批判するのである。

たとえば日本の関係学会から出た本も『スピリチュアリティーの心理学』だったり、『科学とスピリチュアリティー』という題がついていて、スピリチュアルを科学的に研究してるんですよというところをアピールしたいという意識はありありとうかがえる。しかし、「本当にこういう認識図式でいいんですか」というのがフェレルの問いかけである。

つまりこれは、霊性というものを「個人の内面」のみに認めようとする近代的な世界図式と妥協したものではないかという論点になるようだ。「経験」を絶対化してそこに「経験主義=実証主義」を成立させようという立場になる。これが「霊性を『心理学問題』として捉えて経験科学として定立する」という発想で、そもそもユングにおける「心的現実」の方法論からその立場は始まっているだろう。フェレルはこうした「経験主義=実証主義」によって霊性を把握することの限界を指摘してやまない。

このフェレルのトランスパーソナル心理学批判はなかなか遠大な射程をもつので、自分の勉強を兼ねて、このフェレルの論点をとりあげて論文を一本書いてみようと思っている。日本のトランスパーソナル界ではこうした認識論的な議論、つまりそもそも霊的なるものを認識するとはどういうことかという哲学レベルの議論はほとんどなされていない状況であるのだ。心理学出身者ばかりで哲学には疎いという事情もあるのだが、ともあれ理論面は弱い。トランスパーソナル研究者の間でさえ、この前述べた日本的な「霊的事象についての反知性主義」を持っている人もいて、つまり「理論なんて」と軽視する風潮もなくはない。理論をやろうとする人はろくに体験がないんだろうと思っている人もいるかもしれないが、そんなことは決してないのである。

そもそも「スピリチュアル研究とは科学でありうるのか」という問いになってきて、これには「そもそも科学とは何か」という問いがないと答えられない。フェレルはその点現代の科学哲学に通暁しており、ウィルバーのいっているポパーの反証可能性など時代遅れだとはっきり述べていたりする。そしてまたもう一つ、「そもそもスピリチュアルの知的探究は『科学的』である必要はあるのか」という問いにもなってこよう。この点、日本人は特に、「知的探究といえば科学的ということだろう」とすぐ思ってしまうが、それは違っている。これは、以前にも述べたように日本では「形而上学的・神学的」な議論の伝統がないということも関連しているのだ。

すでにおわかりのように、私自身は、「経験科学として認めてもらおうとがんばる」という方向性には批判的である。その点でフェレルの論点には大いに「我が意を得たり」であったわけだ。ところがフェレルはさらに矛先を「永遠の哲学」に向ける。トランスパーソナルの知的前提として永遠の哲学があることは言うまでもないが、それは実証不可能なドグマ的主張ではないかと批判するのである。

このフェレルの批判もなかなか読んでいておもしろかった。しかし、私自身が永遠の哲学への支持を取りやめようかという気にまではならなかった。どういうことかというと、フェレルは、永遠の哲学のパラダイムは、比較宗教、比較神秘主義から実証的に帰納された主張ではなく、形而上学・神学的な言明だと言っていることになると思う。「諸宗教はその神秘的な核心において一致している」というのは現実とは異なると言っている。つまりフェレルは永遠の哲学がそのように宗教学のレベルにある理論だと考えて、その神学性・形而上学性を批判するもののようである。だが、私の見方からすると、もともと永遠の哲学は宗教学的な、つまり経験知的なレベルで言われていることではない。また「宗教間対話」の土台を作ろうとすることでもない。そのように思っている人もいるかもしれないが、私のとらえ方では、永遠の哲学は「普遍神学」として提示された主張なのだと思う。仏教とキリスト教との対話の場を拓くなどということではなく、すでに伝統的な仏教にもキリスト教にも、そういう既成の集団に属することはできなくなった現代の個人が、自分なりの救済を求めて、自分と聖なる次元との間をどう理解していくかという思想的な試みとしてあるのだ。普遍神学とは個人神学と言ってもいいであろう。それが現代人の必然として出てくる発想である。そういう立場から、いろいろある宗教の教えのうち、どれがいちばん深いのかという価値判断は何らかの形で行う必要が出てくる。これが現代的な「教相判釈」ということになる。こういう行為は不可避であって、そういうことをやっては宗教間の対話などできないだろうとフェレルが批判したところで、それは的はずれである。社会的・政治的なレベルでの「寛容」という問題ではなく、まさに自分はどのように生きるのかという実存的な決断として、たとえば「私は究極者を絶対無と措定することが最も深い教えであると信ずる」という行為があるのだ。

したがって、宗教間対話の土台を考えるということはけっこうであるが、永遠の哲学はそういうことをやろうとしているわけではない。あるいはやろうとした人もいたかもしれないが、そういうことは無理ですよとフェレルに指摘されたということであろう。むしろ、永遠の哲学は、仏教、キリスト教など伝統的な宗教と同じようなステイタス、つまりそれ自身が一つの宗教(というか正確には神学だが)として、メンバーの一員として宗教間対話に参加するということになるだろう。つまりモデレーターではなくて当事者の一人なのである。このように考えると、フェレルの立場と永遠の哲学の立場は両立可能になるであろう。フェレルは永遠の哲学の形而上学・神学性を指摘したということになるが、私は「それでいいのだ」というか、むしろ自身が普遍神学的な知的営為であることを自覚することが必要であろうと思う。そういう自覚を促すという意味でフェレルの指摘は意味がある。永遠の哲学をあたかも、諸宗教に対する客観的な理論であるかのごとく思っているのは妄想であるということになる。トランスパーソナルがそういう「客観的な学問」であることを主張するのはおかしいということにもなる。

「科学の仲間に入れてください!」ではなく、「人間には神学・形而上学が必要である。それのどこが悪いのか」という立場である。もっともこれは私の立場であって、フェレルがそう言っているわけではない。

霊的な探究は個人に属することであり、それは当然に神学・形而上学的な領域に踏み込まざるを得ない。しかしもし、霊性をたとえば心理臨床に応用したいということになると、様々な宗教的バックグラウンドをもつクライアントに対してどのようなスタンスをとればよいのか、という問題が生じてくる。そこでは霊性についての何らかの公約数的な了解も必要であろう。トランスパーソナルはそういう「公約数的な了解」を定立しようとするのか、それとも、この現代に生きる個人として自分なりの霊的なパラダイムを樹立しようとするのか。その二つは同じことではない。後者は心理学ではなく普遍神学の立場である。フェレルの批判は、永遠の哲学をベースとする現在のトランスパーソナル理論は、公約数的な了解ではなく神学のレベルにあるということを明らかとしている。これに対してトランスパーソナル界はどのように返答するのか。トランスパーソナル界はこれまで、その理論の神学的性格に気づかず、あたかもそれが実証的な経験科学的な知のごとく思いなしてきたわけで、そこをフェレルに鋭く突かれたわけである。

本の後半では既存のトランスパーソナル理論に代わる、フェレル自身の「参与的ヴィジョン」が提示されている。これは、フェレル自身は述べていないが、現象学における「地平の転換」に近い考え方のようである。これについてはここでは省略する。いずれ論文の方で考察してみたい。

フェレルは非常に哲学の学識があり、ヴァレラなど認知科学にも詳しい。しかし英米の哲学が多い。私は英米の哲学はあまり読んでいないため、完全にはわからないところもあった。ヴァレラのenactiveパラダイムに親近感を示しているようであるが、これは現象学における認識の地平性という概念を使えばもう少し哲学的に規定できそうである。

ま、ともあれ非常に読みごたえのある本であった。私が日頃トランスパーソナルについて持っている疑念がかなり徹底的に、きわめて知的に分析されていたのはたいへん気分がよかった。トランスパーソナルへのここまで根本的な批判は初めてであろう。今後は「霊性を科学的に研究する」などという怪しいことを安易に言わないようにしたいものだ。また、日本のトランスパーソナル界もいつかこういうレベルの本が出せるようになってほしいものである。

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