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非神話化神学の限界

野呂芳男の『神と希望』を入手したが・・ 輪廻神学を論じたところはおもしろかったが、そこは30ページほどで、イデー的には私にとってそれほど新しいものはない。ベルジャーエフにも似たような考えがあったことは初めて知ったが・・ 後の部分は、ブルトマンとかバルトとか、私にはあまりお呼びでない話が多い。正直言って、借りれば十分だった。古本でも4000円もしたので、ちょっと早まったかも・・ どうも「輪廻神学」を主張している人が他にもいることを知って興奮してしまったが、基本的にプロテスタント系神学は神秘主義的な神体験を排するので、私にはあまり関係のない神学思想である。

べつに野呂神学でなくても、直接にオリゲネスに行っても、現代から見てべつに変なところはないように見える。

近代の神学で主流になったのは「非神話化」という考えで、つまり聖書にはあまりに奇跡とか信じられない話が多い、処女降誕とか復活とかは科学的にありえないので、これを文字通り信じることはできない、そこでこういう話は一つの「象徴」と見て、つまりもっと合理化して解釈しようという発想である。あまりにも「自然法則の支配」というイデオロギーに染まってしまった近代知識人の苦悩を解決するための神学といえるだろう。

イエスは文字通りに復活したのではなく、それは人間の心の中に起きる転換を表したものである、という具合である。ここでも、「物質世界は自然科学的な法則に支配されていると考えざるを得ないので、宗教体験は『個人の内面』にのみ追求しよう」という近代的宗教意識が現れている。これはキリスト教を原始仏教的に解釈するとも言えよう。たとえば『神の歴史』という大著もそういう方向性ははっきりあらわれている。日本では八木誠一の神学もこの種の非神話的合理化に属する。こういう内面性への傾きが、トランスパーソナル心理学の土台でもあることは、フェレルによって指摘されたとおりである。

しかし、これは近代インテリのための神学であろう。現在でもアメリカなどの民衆レベルでは、イエスは文字通り復活したのであり、聖書にある奇跡も書いてあるとおりに本当にあったのであろう、と信じている人はかなり多いだろうと思う。何を隠そう、私もそう思っている一人である。

ブルトマンなどが生きていた時代では、自然科学的世界像は絶対のように思われたであろう。それは聖書と矛盾するが、ブルトマンはそれを解決する方向が全く正反対だった。自然科学と合致するように聖書をむりやり解釈しなおすという方向をとってしまった。これはなんだが、憲法第九条を無理やり解釈して自衛隊が合憲だとしてしまうようなものだ。素直に読めばそういう解釈は不可能なのであり、憲法を改正するか自衛隊をなくすかのどっちかにすべきであろう。ブルトマンらはむしろ、「なぜ私たちは自然法則の支配を絶対的なものと見なすという世界像を信じているのか」と問うて、その前提を解体していく方向へいくべきだった。それがフッサールの『危機』書がやろうとしたことである。現在では、科学哲学の発展もあり、また量子論によってニュートン的因果律が必ずしも絶対でないことも示されており、物理学の先端では多次元世界論が語られ、さらにはホログラフィーモデルなどもあり、ニュートン的自然法則支配が絶対でないことは常識となっている。こういう時代に非神話化神学など時代遅れもはなはだしい。

それに科学のこうした相対化がなかったとしても、そもそも自然法則を創造したのも神なのであるから、通常はその法則どおりに宇宙が運行されていても、人類の救済など重大な理由があるときは、神はその自然法則を一時中断してその業をおこなうことはいつでも可能なはずである。なぜそのように考えることができないのか、私にはどうしてもわからない。神は自分の創造した法則に拘束されなければならないのだろうか。そう思う人は、本当には神の全能を信じていないのではないだろうか。こうした、自然は、当初の自然法則創造以来、神の介入なしに自動的に法則に従って動いていくのだろうという考え方は、watchmaker God といわれる。神は時計職人であり、世界は時計なのである。このような考え方は、近代科学の成立期にあった一つのイデオロギーである。つまり科学の前提となった思想であり、科学研究の結果帰納され、証明された「事実」ではないのである。このようなことは科学史の勉強をすれば学部生にもわかることである。もう非神話化神学はすべて終わりにしていただきたい。イエスの復活を文字通り信じられないのは、信じられない人の問題であり、聖書が間違っているわけではないのである。イエスが病人を癒やしたとあれば、癒やしの本質についてもう一度考え直してみることが必要とされるのであって、それが信じられないという心の状態を肯定したままでなんとか理屈をつけようとがんばることには全く意味はない。むしろ、世界構造の理解のしかたにどこか問題があるのだ。

私は個人的に、聖書に書いてあることは99%実際にあったことがもとになっていると思っている。当然、イエスは復活もしたのである。より正確に表現すると、「神は、私たちがその物質界的な認識構造において、イエスが復活したと認知できるように、私たちの集合的な認識構造に働きかけた」ということだと思う。これは、幻想だということではない。そもそも私たちにとっての世界とは、「神が私たちの集合的認識構造として構成したもの」として以外には存在していないのである。それ以外には何の世界もない。基本的に、この世界で起こっていることはすべてある意味で神が創造しているか、または存在を許容したものである。高次の視点からすればそれはすべて幻想であろう。しかし物質界的視点から見れば、イエスの復活の時、自然法則が一時中断され、それをオーバーライドする事態が起こったように認知されたという意味である。

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