« ロゴスの光 | Main | 霊の目 »

津田真一仏教学をダシにして

津田眞一氏の仏教学について少し読んだ。『アーラヤ的世界とその神』(大蔵出版)である。いかにも私が気になりそうな題だが、今読んだのは遅ればせというほかない。この大著より、『和訳・金剛頂経』(東京美術)の解説文の方がコンパクトにまとまっていてわかりやすい。

率直な感想を述べれば、近代仏教学の問題点についての鋭い問題提起と、自分の生を賭けて思想をするという姿勢には共感を抱けるものがあり、視点として学ぶことができる部分も多かった。その一方、妄想としか思えない考え方も混入している、というような印象だった。

なぜ津田氏を読むのが遅れたのかというと、私の昔の知り合いだった某密教学者が、全く求道心もないくせに、密教の人目を引きそうな部分を面白おかしく書いて受けを狙っているのが大嫌いだったのである。その学者が津田氏の『反密教学』をバイブルのようにしていたものだから、てっきり津田氏も同類ではなかろうかと思いこんでしまったのだった。しかし全然そうではないようである。(なかなかユニークな性格のようだが、国際仏教学大学院のHPにある写真をみると普通のおじさんである)

次の部分はたいへん共感しうる。

私の見るところ現行の所謂近代仏教学は、「仏教は神観念を有<も>たない(合理的な)宗教である」というテーゼによってわれわれの超越の眼差しを予め遮断して、また、そのことによって同時に神が存在しなければ存在するものは人間だけ、という無制約的な(傲慢<ヒュブリス>としての)人間中心主義に道を開き、さらに、輪廻の観念を古くさい(反近代的な)迷信として斥けることによって、われわれをブッダが観る如き根源的な世界の存在とその根拠としての世界が必然的にわれわれに強制する運命の観念からも遮断して、ひたすら、いまここだけに限っての人間性の価値を謳歌するところの「阿頼耶を楽しむ」状態への居直り、すなわち<アーラヤのニヒリズム>を現成させた・・・ 『和訳・金剛頂経』233-4 原文にある傍点を下線に変換

つまり、「超越的な神というものがわからなくなり、それをすべて<抜き>にして仏教を論じようという姿勢」が近代仏教学に根深くあるという指摘である。これは私も前からそう思っている。

実はそこが、西洋人のインテリに仏教が受ける理由の一つでもある。しかしこれは現実の仏教ではない。仏教の実際は、有神的な神なしには成り立たない。早い話、大日如来や観音菩薩という存在が「実際にいらっしゃる」と思わないでおいて、どのような密教実践が可能なのであろうか。阿弥陀仏が実在して救済してくださると思えないで、法然・親鸞の思想がわかったことになるのか。もちろんそうした如来菩薩が、「究極的には実在性を持たない」と考えるのが仏教である。しかし絶対無としての仏は、同時に、「仮の世界実在」を創出する場であり、この娑婆世界が創出されたと同時に、その救済の計画、そのための諸々の如来菩薩明王天部などの霊的ヒエラルキアもまた創出したのである。このように捉えると、仏とは絶対無であると「同時」に、また創造神的な性格をも持つということになろう。しかしこれがまさに、私が理解し、感受し、信仰している仏教ワールドそのものなのである。キリスト教にもそのようなヒエラルキアはある。仏教系列とキリスト教系列の分岐は、宇宙根源に近いきわめて高次元の領域において生起したのであろう。そこにおいて私たちが受け取ることになるイデアも生成したのである。

と、これはもちろん私の思想であって、津田氏がそんなことを言っているわけではないので、誤解なきように。津田氏はむしろショーペンハウアーの形而上学に接近しているような印象を受ける。彼がいう神とは宇宙を貫く目的論的理性として理解される。またアーラヤと言っているのは、ショーペンハウアー的な、盲目的な生への意志である。先の引用で「運命」と言っているのはそういう意味においてである。

私が想像するに(学問的根拠があるわけではないが)、ブッダその人の思想には、ショーペンハウアーや津田氏がそのように感じ取るようなものが含まれていたことはたしかではないかと思う。仏陀の思想は、そうした根源的な生への意志を否定し、宇宙へ還帰することである。その意味で、これは西洋におけるグノーシス思想に近いものを有していたのではないだろうか(一部専門家は暴論と呼ぶであろうが、それはこの際承知の上で・・)。しかし仏教は明らかに、大乗仏教において質的に転換した。その意味で大乗仏教ははっきり言ってブッダの教えと同じものではない。その点では津田氏の言うとおりである(ただし彼の言う criticality の議論はいまひとつわからないのだが)。大乗には「生の肯定」と、また「宇宙深部から人類にさしのべられる救済の業」というイデーが受肉したのである。だからある意味では法然-親鸞は大乗の極致なのである。こうした大乗への転換は、紀元前後から地球に入ってきた「キリスト衝動」によるのだ、と人智学者なら言うであろうが、ともかくも、キリスト教の出現と呼応するものであることはたしかである。

話を津田仏教学に戻すと、彼は、ブッダが何を体験したのかというと、それは「プルシャになった」ということだ、と述べている。プルシャとは宇宙原人であり、「この宇宙全体をその身体とする超意識体」である。つまり宇宙神である。ブッダは宇宙神と合一した。その結果、この宇宙においてあるすべての輪廻的連鎖を超越的な視点から見た。これは私もまったく賛成する。だが私の神学はもう一歩先へ行く。つまり、ブッダはプルシャ=宇宙神になっただけではない。その宇宙神の次元を超えたところに真の根源があり、それが絶対無である。仏教で言われている「空」とはこの絶対的根源としての絶対無である。これが私の形而上学的立場である。これを別の視点から言えばこうなる。もし人が、この地球だけではなく、地球人には見えざる次元にもある諸々の世界領域すべてを自己内にあるものとして観て、そこにおいてあるすべての輪廻的、非輪廻的な諸関連を一望のもとに観るという体験境地に達していないとすれば、その人は決して「空」において悟ったわけではない。「空」とはそれほどまでに絶対的なものであり、超越神との合一よりも彼方にある次元である。「空」をそれとは違う意味に解する見解はすべて方便としての意味しかない(とはいえこのように私がいろいろ主張することもまた方便でしかないが。方便として以外の言説はありえないからだ)。

従って津田氏の「神学的立場」としては私には、あるイデーが欠落したものとして映る。それは、宇宙から到来する「光」の次元である。大乗仏教の本質は、この光のイデーを仏教の伝統の上に受容しようとする試みなのだと思う。その意味で、玉城康四郎の仏教学こそがその本質を捉えたものであるのだ。密教学者たる津田氏が、なにゆえに、大日如来からあまねく放射される絶対的な光明を感受することができないのであろうか。その光明に参じ、合一化を目指すことこそが密教者の道であるだろう。

津田氏の、密教の灌頂儀式についての説明も、その本質を捉えていないのではないかという疑義がある。というのも彼は儀式を単に「象徴的所作によって如来との一体性を得たものと見なす」というふうに解する。しかしこれは彼が霊的プラクシスの実相を知らないから言えることばであるように感じる。灌頂の儀式で達成されるものとは何か。それは、ある如来・菩薩との霊的回路の樹立なのである。そうであるほかないということは、この道を少しでも観た者には明瞭なのである。それは密教だけではない。たとえばカトリックのミサとは何か。それは聖霊がそこに現れ、そのエネルギーに与ること以外にはない。それが否定されればカトリックは存在根拠を失う。そこに聖霊が来ることを信じられない人は、キリストのことばを信じていないのであろう。「私は、世の終わりまであなたとともにいる」。これは真実である。正教会の神学者も、この考えには賛成すると思う。さらに、弘法大師も大日如来も阿弥陀仏も、世の終わりまで私と共にいるのである。

・・と、よく見れば、津田氏をダシにして単に私自身の神学思想を語るものとなってしまった(笑) 私が津田氏と完全に一致しているのは、「合理主義に傾いた近代仏教学など全く駄目だ」という意見のみであるのかもしれない。私は津田氏の考えには賛成しない部分もあるが、それでも、仏教学とは神学思想でなければならないという彼の姿勢には全く共感する(彼は、「神学」ということばを使っているわけではないが、やろうとしていることは仏教の形而上学的再構築である、という意味で)。ただ、キリスト教でも近代の神学はかなり駄目であるので、日本の仏教学だけの問題ではない。この問題はいうまでもなく、先日フェレルの所論を引きつつ述べた、トランスパーソナル派における「人間の内面性のみにおいて、つまり心理の問題としてのみ霊的体験を理解しようとする傾向」と連動している。つまり「自分の理解する実在世界からすれば、他次元に存在するように認知される意識存在」を定立し、それとの人格的関係において霊的な道を考える、という霊性のあり方が全く否定されつづけているのだ。現今のトランスパーソナル派の考え方だけでは、そうした世界を理解することができないのである(なお、ウォシュバーンの理論が、きわめて欠陥の多いかなり奇怪な所説であるにもかかわらず、霊的体験を理解する場合に一定の有用性を有するといわれていることは、ウォシュバーン理論には曲がりなりにも、霊的体験とは自己の「外部」にある何ものかとの交渉によって生ずるという観点が含まれているからである。しかしウォシュバーンなどはやめて、フェレルの「参与的パラダイム」の方がよいであろう。その理由は長くなるのでここでは省略する。もちろん、ユングなんて問題外であって、もう歴史的意義が終わっているものである)。


4804305394アーラヤ的世界とその神―仏教思想像の転回
津田 真一
大蔵出版 1998-07

« ロゴスの光 | Main | 霊の目 »

霊性思想」カテゴリの記事

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ