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ぶっ飛び思想が文化を創った?

きのうは「キリストは神の子ではなく、高次元存在である」という異端思想を述べてしまった。もっとも話はもう少しこみいっている。「神の子」というのをどう解釈するかにもよるわけである。キリストが高次神霊だと考えるとしても、それが歴史のある時点で地球上に受肉したのは、神の意志によるものであることは疑いなく、キリストは神の力を顕現する存在であったことはたしかである。そこに神とのつながりがないわけではない。そもそも三位一体の神学思想というのは、「同じではない、しかし、同じでもある」という矛盾語法により人知を超えた神秘を表現しようとするものである。従ってその意味で言えば、キリストは神そのものとは同じではないが、ある視点から見れば同一であるという言い方も許容されなくはないと思う。(なお、「キリスト」というとそれは神性を表すことばなので、「イエス・キリスト」と呼べばイエスの神性を認めたことになる。それを信じない人は単に「イエス」と呼ばねばならない)

近代では、「キリストは高次の宇宙領域から地球に受肉した」というキリスト教の根幹になっているテーゼを「ぶっ飛びだ」と思う人が神学者にも出ていて、何とかそれを近代的世界観と調和させようと苦労している神学というのがある。それが前にも述べた「非神話化」の神学である。今となっては、文字通りにそれが真実だろうと思っている人の方が少ないかもしれない。(注:厳密に神学的に言えば「高次の宇宙領域」と表現するのは異端になる。キリストが発出したのは神であって、宇宙とは被造界であると捉えるからだ。しかし私はキリスト教のような神/被造界の二分法ではなく、新プラトン主義的な「グラデーションをなす霊的諸階層からなる宇宙」をイメージしている。キリスト者から見れば私は仲間でなく「プラトン主義者」の一味であることになろう。しかし話が面倒になるので、これ以上はやめておく。なんだか、21世紀ではなく5世紀か6世紀の議論みたいになった)

このような(近代人の常識から見れば)「ぶっ飛び」だと思われるテーゼの上に2000年にもわたる文化が築かれてきたのである。また仏教でいうような「人間は仏になれる」というのもまた究極の「ぶっ飛び」である。

そのようなぶっ飛び思想が今でも大学でまじめに研究され、教えられていたりする。思うにこれは「耳慣れたぶっ飛び」なので、今さら驚かなくなっているのだろうか。私などが少しだけ違ったことをいうと、大部分は伝統的なぶっ飛び思想と同じであるにもかかわらず、それは「耳慣れないぶっ飛び」なので、変に思われるのかもしれない。

伝統ということでいつのまにか驚かなくなっているが、実に驚天動地のぶっ飛びを述べていることは、それが生まれた当時も今も変わらないのである。その主張の過激性にもっとショックを受けてもいいのではないだろうか。

「いっぱいいろいろな考え方があって何が正しいかわからない」という人は、すべてが「情報」として処理されてしまうという時代に流されて、感動することを失った人である。誤解を招く言い方かもしれないが、ある宇宙的なイデーに根本からぶち当てられ、全人間が変容する体験をしてしまえば、そこには「証明」などいささかも必要ないことがわかるだろう。それが「信を得る」ということなのだ。思想の力とはそういうことである。イデーの力を信じず、すべてを「情報」として扱おうとする近代人の姿勢では、何も本当のものは得られない。

「知解を求める信仰」ということばがあるが、これは、「信」つまりイデー的に受け取ったものを知的にも理解しようという方向性である。その「正しさを証明する」というものではない。そもそもそのようなことは不可能である。これは、「人は人間知性を超えることを受け取ることができる」という前提の上で、そういう超知性的な受け取りと、自分が持っている知性とを調和させようという行為である。圧倒的にやってきた何ものかを知性によっても理解したいという欲求から来るものだ。これが本来の霊的思想のあり方である。

哲学は終わったといわれる。ポストモダン思想家はみなそのように言う。

いまの私の関心の一つは、ヨーロッパ中世において、「哲学」というものが「霊的思想」としての神学から独立してできた時点を見きわめ、そこで得たものと失ったものについて考えることである。結局、近代の哲学も、この中世スコラ学的な哲学のあり方の延長線上にある。つまり「生き方」としての哲学から「学問」としての哲学に変わってしまった時点というのがある。考えてみると、私がいま興味を持っているのは、この臨界点よりも「前」に位置する思想家ばかりである。正直言って、ここで成立した「哲学」のあり方には根本的な問題があると感じていて、それが端的に示されているのが、トマス・アクィナス晩年のエピソードだと思う。つまり、彼は最晩年、神秘体験をして、その後「私がこれまで書いてきたものには何の価値もない。すべて火に投じるように」と述べたと言われている。それにもかかわらず、それは火に投ぜられず、今も盛んに研究されている。しかし、トマス自身の価値観に従って、その晩年の15分間の体験で彼が見たものは何であったのか、そういう体験が人間に開かれているというのはどういうことなのか、それを考えることの方が重要なのではなかろうか。

「哲学」は「非哲学」「反哲学」に包囲されている。その非哲学・反哲学の豊饒を見ず、既定化された「哲学」の内部だけしか見ずに「哲学史」を捉えることは、もはや、「精神なき専門人」の発想というべきではなかろうか。

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