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諸宗教の超越的一致について――フェレルによるトランスパーソナル理論の根本的批判(その2)

ちょっと書き残していたことに気がついた。フェレルは「諸宗教の超越的一致」というテーゼに疑問を呈している。宗教はその中核的な神秘経験の部分では一致しているということだが、それは本当なのか? ということである。

たとえばウィルバーなどは、自分の体験的境地についてもいろいろ書いているが、彼はその境地が、すべての神秘家が経験していることと同じだと信じているわけである。その前提で彼の理論が成り立っている。しかし本当にそうか?

私も最近、フェレルと同様、どうやらそうではないかもしれないと思うようになった。それは、本当に究極も究極まで行き着いたなら同じであることがわかるかもしれない。しかし、現在の地球に存在している人類は、いくら神秘修行をしたところでそこまで行けるだけの力は持っていないのではないだろうか。つまりいろいろな伝統における神秘家は、現実は「その道のある地点」まで行っているのであり、「行き着いて」はいないだろうと思う。もちろん行き着いた人がいないとは断定しない。それはいるであろう。しかし大部分は行き着いていないと思う。諸宗教の超越的一致が経験的に確認できるという主張は、それぞれの伝統における神秘家がみなそれぞれ「行き着いた」という前提で成り立つものである。しかし大多数が行き着いていない以上、当然、それぞれの道の途上から見える風景を述べているわけであり、それはどの道を行くかによって異なっているのである。

それに、ある一つの道で最後まで行かなくてもいいのである。電車でどこかに行く時と同様、途中駅までの電車に乗ってそこからまた別の電車に乗り換えたっていっこうにさしつかえないだろう。だから「途中まで」の道が「最後まで行ける」道よりも劣っているとは限らない。その途中駅まではそっちの方が早いかもしれないわけである。

私は修行者としてのウィルバーを尊敬するものだが、彼はまだ宇宙の絶対的始源まで行き着いてはいないと思うし、行き着いたと考えているとしたらそれはどうだろうかと思う。またそれが究極であるという前提の元に作られている理論にもクエスチョンマークはつく。

したがって、諸宗教の超越的一致というのは、神秘家の経験を比較した上での、いわば比較宗教学的に定立されたテーゼではないと思う。それはむしろ、カントにおける実践理性の要請と似たようなもので、「こうであらねばならない」という倫理的要請としてのテーゼなのである。そもそも「経験的に証明できないとだめだ」という考え方そのものが、知の可能性を矮小化するものであることは、前項で述べたとおりである。

フェレルは、ウィルバーは自らの「非二元的伝統」での体験を不当に普遍化していると批判している。自分の体験を普遍化しうるのは「本当に行き着いた人のみ」である。そうでない以上、「私はこの道を行き、ここまで来たらこういう風景が見えました」という具合に語る以外に方法はない。つまり常にある「パースペクティブ」において何が見えたかという方法でしか語り得ないのである。すべてのパースペクティブ的限定(地平的限定)を超えた視点に達したと言いうるのは、神仏の境涯に入った時のみである。「私は仏になりました」と覚悟を持って言いうるかどうかということである。(ウィルバーの理論を論理的に捉えれば、ウィルバーは自分が仏になったと確信しているのだと思う。そうでなければ論理的に矛盾するからである。というのも彼は、認識がすべてパースペクティブ的限定を持っており、<全一>のポジションに立ったときのみその限定が超えられるという、スピノザ的、あるいはクザーヌス的命題を十分に知っていると思われるからである。したがってウィルバーを受け取る場合は、『彼は本当に仏の境涯に達したのか?』という判断が必要である。彼はそういう前提で理論を提示しているのであり、その当否は読者それぞれが判断すべきことである。その判断から逃げてはウィルバーの評価などできるはずがない)

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