« May 2007 | Main | July 2007 »

イアンブリコスは西洋の密教である

さて、フィチーノからさらに源流をたどり、イアンブリコスである。イアンブリコスとはプロティノス後の新プラトン主義者だが、グレゴリー・ショー『テウルギーと魂――イアンブリコスの新プラトン主義』という研究書(英語)は、まったくもっておもしろい。

イアンブリコスのテウルギーってのはつまり弘法大師空海の密教のようなものじゃないか、と思う。儀式によって神々の力を自分に引き寄せ、微細体を浄化して神的領域に近づくということだから。この本ではエリアーデのヨーガ研究を引いて、イアンブリコスとヨーガとの類似性も指摘している。

私などが読むと、イアンブリコスは宗教思想としてきわめてまっとうなもののように思えるのだが、西洋では、テウルギーというと「我意でもって神々をコントロールしようというとんでもない邪道」みたいに見られていたところがあったらしい。この著書はそういった誤った像を払拭した画期的なイアンブリコス論である(らしい)。

たとえば次のような考えがある。これはフィチーノにもかなり見られたが、イアンブリコスあたりにさかのぼるらしい。

・宇宙は、究極である宇宙的叡知と物質界との中間に、多数の神霊(ダイモン)などが存在しており、人間は、善意の神霊の助力なくしては、霊的に上昇することはできない。
・人間は、天界から地球に降下するときに、霊的な体(プネウマの体、エーテルの体、光の体などと呼ばれる)を持つ。この霊的な体へ、神的なエネルギーを引き寄せ、浄化していくことにより、霊的向上が可能になる。
・その手段は、薬草、香り(アロマ)、パワーストーン、真言、それに数的象徴などである(最後のはピタゴラス派の伝統である)。

そして、このプネウマ体または光の体によって、神的光が知覚されるとしている。
イアンブリコスは太陽を霊的に重視していた。というのも、物質的な表現のさらに奥に、霊的な太陽というものがあり、それが神的な光の根源だというのである。それは神的な叡知(ヌース)である。

これを読んで思い出したのが、アマテラスのことである。日本神話では、天照大神は太陽神であり女性神なのであるが、実はその女性神である天照大神の奥に、もう一柱のアマテラスがあって、それこそが霊的な太陽なのだという説がある。こういうことは古神道で言われていることである(古神道とは昔ながらのものというより、過去の秘伝的な神道の流れをくむ現代秘教思想というべきだが)。洋の東西を問わず、太陽の彼方に霊的な光を見ることができた人びとというのがいたわけである。

全体として、イアンブリコスの宗教思想について「それはおかしいですよ」とつっこみを入れたくなるようなところはまったくなかった。私は、ネットの旧名でもわかるように、弘法大師空海が覚醒者であることを疑わない者であるが、その目から言うと、イアンブリコスの言っていることはかなり空海と同じである。大日如来が霊的太陽のシンボルでもあることは言うまでもないだろう。逆に、密教とはテウルギーなんですよ、という視点だってあってもいいはずだ。密教は教理のみではない。教理と行は一体である。

哲学とは何かという問いに対して、「徹底的に考えることだ」と定義してしまえば(これは「私は方法論においてデカルトの弟子になります」と言ったことと同じである)、その瞬間にイアンブリコスのような思想は目に入らなくなるだろう。「まっとうな」哲学史の本には名前すら出てこないであろう。

イアンブリコスはかなり「他力」に傾いている。つまり、行というのは決して自力で上がろうということではない。神々の力が入ってくるのにふさわしい身体となるべく浄化を行うということなのである。つまり、神々の救済の業を「待つ」ための準備なのである。

そう考えるとこれはキリスト教の他力思想とそんなに遠いものではない。また、この当時のヘレニズム文明では、イアンブリコスが行っていたような密教的な行はかなり広まっていたと考えられる。イアンブリコスは決してゼロからその密教行法を作り上げたわけではないだろう。たぶんそういうものの一部が、東方キリスト教のヘシュカズムや、イスラムの神秘主義へと流れていったのではないかという推測も成り立ちそうである。

その道専業

またも、平井センセの「自然の概念」についてのおすすめで、コリングウッド『自然の観念』を、借りてくる。

これってずいぶん古い本で、それなりに有名・・私も学部時代に読んだことがあるような気もするが、まったく覚えていない。過去の自然観の概説だが、基本的に自然科学的世界観を肯定する立場で書かれているようなので、一つ前の時代(文化期というか)の産物であるようにも感じる。みすず書房の本って何年ぶりに読んだろうか。

で、今書きたいのはその内容ではなく、訳者のこと。平林康之・大沼忠弘訳なのだが、問題はその後者。この人はいろいろと秘教的な本を訳していて、名古屋の大学で英語を教えているらしい・・と思っていたが、略歴を見るとなんと、

名古屋大学助教授、宗教儀礼研究所所長を経て、現在 株式会社オシリス代表取締役。著書『実践カバラ』『秘伝カモワン・タロット』等。

ついに「その道」専業ですか・・ 私は、こうはなりませんが・・(笑)

ほかに、理系の大学の先生をやめて、江本勝の秘書になったという人を私は知っている。

ブログのアクセス数とランキング

ちょっと気まぐれで「人気blogランキング」なるリンクを右の方に入れてみた。クリックすると投票できるしくみらしい。

このブログのアクセス数は、多いのか少ないのか。

ここのデータによると
http://japan.internet.com/research/20060721/1.html

作成している Blog の1日あたりの訪問者数を聞いたところ、「10人-50人未満」が23.04%、「1人-5人未満」が22.28%、「5人-10人未満」が16.71%、「ほぼ0人」が14.43%だった。訪問者数50人以下の Blog が7割以上を占める。

ただ、これが「50人-100人未満」になると8.10%、「100人-300人未満」では3.04%、「300人-1,000人」、「1,000人-3,000人未満」などに至ってはそれぞれ0.76%だ。1日50人以上という数字を境に途端に少なくなる。

なのだそうで、つまり、300人以上のブログは全体の1.5%ほど? ブログ界でも寡占が進んでいるらしい。もっともこのデータは、総アクセス数なのかユニークビジター数なのかはっきりしない。

http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/07/27/12811.html

こちらのデータでは、300人以上は2.2%である。
まあ、誤差の範囲だろうし、こんなもんなんでしょうね。

再び、エーテルとアストラル


すでに書いたように「エーテル体概念の歴史」ということが関心あるテーマの一つである、自分でこのように書いたことがあるのを、すっかり忘れていた。

エーテル・アストラル的世界海について

このエーテル体、エーテル界ということでは、高橋巌氏が『シュタイナー・コレクション2 照応する宇宙』の解説として寄せている「シュタイナーの宇宙思想」は、エーテル体の意味を考える上で示唆に富んでいる。つまり高橋氏は、「エーテル界とはシャンバラである」と言うのだ。これはどういうことか?

エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ、とも言っている。さらにそこから高橋氏は、華厳経の「蓮華蔵世界海」という言葉をとりあげ、そうしたアストラル・エーテル界の無限のひろがりのなかに、「光」が満ちわたっているということを論じていく。

そうなんですか。「ほとんど一つに融合して」いるんですか。というより、その同じことを二つの側面から別の名前をつけたということであろうけど。でもそれは、シュタイナーや神智学などのエーテル体・アストラル体に存在階層的な区別を見る思想とは違っている。

でもどうして、それならアストラル=エーテル界を見ることが最終目的となるのか、その高橋巌氏の思想はよくわからない。アストラルというのは中間的次元であるというのが過去の伝統からする常識であるからだ。高橋氏がここで語っているのはアストラル上層のことであって、瞑想がそこで止まってはあかんのじゃないか・・というきわめて素朴なる疑問がわくのであるが。高橋氏はここでシュタイナー思想の解説ではなくてかなり独自の道を進んでいるのではないかと思える。

いっぽう、Verbekeの本を読んでいると、新プラトン主義やヘルメス文書などのアストラル体概念(というか、古代では一般に「プネウマの体」という表現だが)には、インドなどではよくある、コーザル体・アストラル体の区別がないということに気づいた。ただ、「神的領域に行くには、アストラル体も脱ぐ必要がある」という思想は古代にあった。

物質と魔

近代において神が忘却され(聖俗革命)、物質主義世界観の勢力が強くなったのは、一部では「アーリマンの支配に屈した」などとも言われるが、反面では物質的生活が向上したということでもある。また19世紀から20世紀前半までは植民地主義と戦争の時代であって、マルクス主義の説く階級闘争もまたさかんであった。私が学生時代だったころはいまだ「国家独占資本主義」を講壇から説くような大学教授もあり、学生の読書会といえばマルクスだったりしたのである。この頃は、貧しい人がいることは社会の責任という考えだったのだが、いつのまにか、貧しいのは自己責任だという論理がまかり通ってしまった。

霊的な関心が目覚めてきたのは衣食に不自由しなくなったからだというのも事実だし、それはマズローの「欲求の階層性」という理論でも語られている。事実、欧米や日本などでニューエイジ的、と言って悪ければ非伝統的な霊性に関心を示すのは、比較的高収入・高学歴の「ロハス層」であることは調査の結果からも明瞭である。

昔、小松左京のSF『神への長い道』という作品があった。そこでは、未来社会において、物質文明が爛熟し、生きることに不自由しなくなった人びとが、「結局、生というものはどういう意味があるのか」と問い始めた・・というところから話が始まっている。それは文明の発展というものの必然的プロセスである(それはトインビーの歴史観でもいわれている)。ギリシア文化は奴隷労働に支えられて成り立っており、その労働の収奪によって生まれた閑暇によって、ソクラテスやプラトンの哲学もできたのだ、といえばそれはたしかにそうである。しかしだからといってプラトン哲学の意義がなくなるわけではない。そんなことを言うのは全共闘か毛沢東主義者だけである。多くの人が、哲学や霊性思想に興味を示すほどに、社会の生産力が向上したのはけっこうなことであり、そのために一度は物質主義に浸らなければならなかっとしても、こういう今の状況を否定すべき理由はない。全共闘的思考の影響が残る世代のオジサン思想家は、ロハスなんて結局は資本主義の論理に組み入れられてるじゃないか、と悪態をつくかもしれないが、だからといって霊性に関心を持つのはやめて共産主義運動に身を投じるべきだというであろうか。こういうマオイストは無視しておこう。(ただ、言うまでもないが、マルクス思想も歴史的に一定の意味はあったのである)

とりあえず物質主義的な経済発展により、絶対的貧困が消滅したということは近代のプラス面として評価しなければならない。ケン・ウィルバーも強調しているが、近代が達成したことがらも決して少なくないのであって、いまさら中世に戻ろうという思想を語れるわけがない(トーマス・マンの小説『魔の山』には、そういう過激思想を語る人物が出てきて、なかなかおもしろいのであるが)。私も個人的には古代・中世的な思想家像に好感を持ってはいるが、近代をまるでなかったことにしたいなどという中世復古の思想家ではない。そんな単純なものではないので、誤解なきようお願いしたい。ただ、現代はすでに近代とはまったく違う時代であるという確認が必要だとは思う。アーリマン的物質主義化はすでにその役割を終えた。実は、それはもうすでに私などが戦うべき相手ではないのである(もちろん、ごりごりの反動的フラットランド主義者もいるが、そういうものはすでにマイノリティーであり、自分が負けそうなことを知っていて最後の抵抗をしているだけである)。

シュタイナーの「文化期」っていう概念はあまりよくわからないので私はパスしているが、少なくとも近代から現代へ移行するときに大きな文化期の変動があったと思う。明らかに現代に入ると、アーリマン的衝動は退潮しつつある。そこで新たな霊的文化に向かいつつあるという方向ははっきりと出ている。そこで、古代・ルネサンス以来の伝統が復興することはあるとしても、それはまったく新しい連関の中であり、これから来るものは以前にあった何ものにも似てはいないであろう。

さてここから、少しばかり神学的な思想に入っていくが、そもそも、地球の進化方向としては、天界に実現していることがらが少しずつ地球上に実現するのが基本的な方向である。すなわち、天界では物質的なニーズは意識するだけで満たされるのであるから、現代文明が徐々にそういう方向に向かっているのも当然なのである。つまり、物質世界自体が徐々に「アストラル界的」な性質に移行しているのである。これはきわめて長い時間に起こる神的計画の一部なのだが、現代はかなりそれが凝縮して急速に起こっている。物質界の抵抗性を打破していくことが地球の進化方向であるが、そのために、一度は物質界の底深く入りこむ必要があったのであろう。つまり、一度は物質主義に文明全体が触れたということも、深い神慮によって起こったことがらであり、それには歴史的、また形而上学的な意味があるように思う。IT化、ネットによる情報化も、アストラル界化の加速である。そこには当然、「アストラル下層」的なものも生起し、それがたとえば某巨大掲示板の世界である。これらは、人間の魂の中にあるものが物質次元に展開しやすい状況が起きているということである。こういう時代であるから当然「魔」も跳梁するし、魂のダークな部分がすぐに出てきやすい精神状況が作られているのである。ネット上でしばしば、集団的な袋叩き行為が起こるが(アマゾンのレビューにも時々それがある)、物質界の抵抗性が弱まっているため、魂の中にあるダークな衝動がストレートに出てくるようになっているのである。多くの人が時代の雰囲気の変化を感じていると思うが、物質界の抵抗力が弱まり、アストラル界化してきていることがその根源にある。(もちろん、それはとりあえず物質的な意味での「先進国」の事情であって、地球的に見れば絶対的貧窮の問題はまったく解決されていないが)

それに対して一部の人は、合理的理性を強めなければならないという。それは決して反動ではない。合理的理性は重要である。科学的なものの見方など、「健全なる唯物論」は、人間が世界に対してとりうる認識図式のレパートリーの一つとして(それだけを絶対化しないならば)意義のあるものである。しかしながら、合理的理性を人間の中心においた近代世界が、ファシズムや戦争などを止められなかったのは歴史的事実である。合理的理性は必要だが、それだけでは不十分であるのも明白である。アストラル下層的な衝動に対抗するためには、アストラル次元を超えた神的領域とつながり、そのエネルギーを感受する「神的知性」の覚醒が必要なのである。それによってしか「魔」と対抗することはできないのである。それと同時に、「物質性」へとグラウンディングすることも平行していきたい(ある程度実践した人にはおわかりの通り、グラウンディングが十分でなければ「上」へ進むことにも限界が生じるのである)

しかし思想的には、現在戦うべきものはもうすでに「物質主義」ではないのである。むしろ、ダークな衝動があからさまに噴出するアストラル界化のプロセスかもしれない。気がつかないかもしれないが、人びとは昔に比べて、いろいろなエネルギーに対して鋭敏な体質になっている。人間というゲシュタルト構成の様式自体が昔とは異なるのだ。ある意味で「開いてきてしまっている」のであり、それならば、そういう状況の上で、どうすればよいのか考えることが必要になっている。

神学とは「知解を求める信仰」といわれるが、つまりは、魂のもつ霊的感覚と、合理的理性との調和を図ることである。つまり経験だけを信じると危ないということである。なぜ神学が必要かといえば、それは端的に、魔やカルト、偽グル、偽預言者の危険を避けるためであり、そこまでいかなくても、自分はいまどこにいるのかを理解し、変な方向に行ったり、途中で満足して止まったりしないためである。そのために、神とは何なのか、宇宙とはどういうもので、どういう目的があるのか、ということを考えておき、そういう全体的なグランド・デザインの中で自分の立ち位置を確認できるということが、思想の意義なのである。

魔の力も強くなっているので、興味本位で霊的領域に首を突っ込むことも危なくなっている。そこで大事なのは、シュタイナーの『いか超』でも強調されているが、「畏敬の念」から出発することだと思う。仏教では「発菩提心」が最も重要なことなのであるが、それも似たような意味である。このページを見た後に某巨大匿名掲示板へ行くような人は、十分に魔にはお気をつけください。

新しいヘーゲル(長谷川宏にあらず)

この前私はヘーゲルをくさしたが、最近ヘーゲルへの見方がかなり変わってきていることは知っている(長谷川宏の話ではない)。つまりごりごりの論理主義者ではなく、もう少し「はちゃめちゃ」な思想家かもしれないということだ(我ながら危険なまでの単純化!!)。というのも、絶対精神が内部に「分開」を起こすことによって世界が生成するというのはベーメ思想より来ているアイデアである(『魂のロゴス』でもその論理が使われている)。ということくらいは私も知っていて、そういう神秘主義的な論理を、実践のレベルではなくあえて哲学体系にしようとしたというその「無謀さ」について私は語っていたのである。ヘーゲルはヘルメス主義の伝統にある思想家だという見方も、一部には出ているようである。そのへんも、シェリングやヘルダーリンとの同時代性もからんで、調べてみたいところである。

小手調べに、ヘーゲルとエーテル概念などについて探っている。

古代思想のディープさについて

そういえばこれはだいぶ前に書いたはずなのだが、ブログという性質上、もう一回書いておきたい。

最近書いているような、西洋精神史のもう一つの面(それが現代は活発に浮上しており、さながら第二のルネサンス時代を呈しているわけだが)に興味がある人は、次の本を絶対に読まなければなりません。

456005763Xエゾテリスム思想―西洋隠秘学の系譜
アントワーヌ フェーヴル Antoine Faivre 田中 義広
白水社 1995-02


村上陽一郎の『科学史の逆遠近法』はルネサンスまでだったが、こちらは近代の神秘学的伝統も書いてある。

さて、ついに『プネウマ説の発展――ストア派から聖アウグスティヌスまで』というフランス語の本を借りることができた。なんと570ページの大著である。しかし内容は・・まさに私の知りたかったことがこれでもかと書いており、まるで、宝の洞窟に入ったアリババみたいな気分である。この本はなんとしても手元に置きたい・・ところだが、もはや入手不能なのであります。それにしても Verbeke という名字、なんと読むのじゃ? あまりにもおもしろそうなので、全巻読破するかもな。

どうも古代思想のおもしろいところが日本ではほとんど無視されていることに気がついた。フィチーノが古代哲学だと理解していたものは、プラトン・アリストテレス・プロティノスはもちろん、イアンブリコスのテウルギアやら、カルデアの神託やら、ヘルメス・トリスメギストスなどが入り交じったものであったのだ。いまではプロティノスなど哲学史では一行で片付けられていることも多いが、フィチーノはプロティノスのことをプラトン思想の完成者だと受け取った。その見方はその当時では常識的なものであった。つまり言いたいことは、いまは、あまりにもそういうプラトン以後に出てきた「プラトンにまつわるさまざまな思想傾向」を軽く見て、そういうものをまったく無視した上でプラトンを研究する方向性が強いということだ。

なんか私は感覚が違うというか・・ たとえば古代の思想家は「人間に対して星の影響はどこまで及ぶか」なんてテーマをまじめに論じていたが、現代の研究家はまったく興味を示さないであろう。しかし友人知人にプロの占星術師がいるという私にとっては・・ プロティノスはまじめに「守護霊」について書いている。またフィチーノなどは「気息魔術」について、ちゃんとやらないと悪い霊が来たりするから注意しなくてはいけないと、まじめに書いてあるのだが、多くの研究者はそこに何らかの「リアリティ」を認めることはむずかしいだろう。しかし・・(以下略)  つまり、現代人によって描かれている古代像は多分にフィルターにかけられている。そこに気をつけないといけない。

波動および気息魔術の話

またも平井センセのフィチーノ論文・・これは国際的なフィチーノ論集に入っているのだが、その中でもこれは抜群におもしろい(といって、他のはまだ二つしか読んでいないのだが)。それと、BHサイトで提示されていたボノによるフェルネル・ハーヴェイについての論文は、ルネサンス的思考から近代的思考への変化がどのようなものであったのか、ひじょうによくわかるものとなっている。簡単に言うと 1.すべてを、観察可能なことがらの間の関係として記述すべきこと(つまり、観察不可能なレベルの事象が、ものごとに影響を及ぼしていることはない、という見方)、2.ことばは記号である(つまり、観察可能な対象を指示するものである、いいかえれば、ことばの「隠れた意味」というものはない、ということ)。ルネサンス的な「象徴の森」的世界感覚から、すべてを明晰な眼で見て、そこで見えるものが世界の全てだと見なすという近代精神。これはフーコーの『言葉と物』に描かれたとおりであるが、それがフェルネルとハーヴェイとの対比で簡潔に描かれている。そういえばヒルマンの世界霊魂論でも、ハーヴェイはルネサンス的世界観の破壊者として描かれていた。(それにしてもこのフィチーノ論集、論文によっては、ラテン語の引用文に訳がつけられていない。「ラテン語読めないやつはお呼びじゃない」てなハイブロウな雰囲気も・・(汗) )

そろそろ、平井センセの本丸であるフランス語著書を取り寄せるか・・(なお、私などがこういう文献を入手するのは、図書館相互貸借という方法を使うのであり、いちいち全部買っているわけではない。だいたい、もう売ってないものが半数以上だ)。

いささか「業界語」に属するが、「波動がいい」とか悪いとかいう言い方がある。それはある経験の領域に対応していて、実在する事象を指しているわけだが、つまりそれはどういうことなのかを考えてみる。そうするとこれはやっぱりルネサンスでいえば「気息魔術」の領域なのだと言わざるを得ない。現代の思想でそれに類似した観念を求めると、市川浩の身体論の中にある「身の共鳴」というコンセプトが比較的近い。ここでいう「身」の概念はまだ微細身であるとまでは言っていない。しかしメルロ=ポンティの思想にしたって、要するに気息魔術で見えている世界を現象学的に叙述したものでしょ? といえば、一見ぶっ飛びにも見えるがけっこう的をついているところもないではないのである。ただ、現象学の立場はそれより根底にある原理にまで遡行できないので、限界あるのはいたしかたないところ。いずれにしろ、波動というのは共鳴作用に関連している。そして波動とは霊的エネルギーという概念を前提としており、つまり気息なのである。気息(スピリトゥス)とは神的領域と物質界を媒介する何かであり、共鳴作用を起こす。高い領域への共鳴を起こすものを「波動が高い」とか称するわけである。つまり、「波動」というコンセプトは、一見物理学風に見えるが、実はルネサンス的気息魔術の世界の復興である。19世紀には、「エーテル」が自然科学っぽいのと同時に霊的なコンセプトでもあったのと同じことが「波動」というコンセプトにもあるような気がする。さらに言うまでもないことだが、もともと「気の文化」は東アジアの伝統である。気の文化とはエーテル体・アストラル体的文化に対応する。

しかしこれを現象学として記述しようとしても、結局メルロ=ポンティを超えることができない。気の本来の意味を語るには、宇宙の根源領域として霊的次元があり、物質世界はそこから展開されたものだという宇宙デザイン(形而上学)の枠組みが求められる。そうしないと、波動が高い・低いということの基準が立てられないのである。

こぼれ話と神的知性について

いろいろ本を読み直してみると、最初読んだとき気がつかなかったことが目に入るわけで・・

たとえばヘルダーリンのプネウマが、ストア哲学の受容であった可能性と、プネウマ=ガイスト(精神)としてドイツ観念論の成立にからんでいたかもしれないという指摘が、松山寿一『科学・芸術・神話――シェリングの自然哲学と芸術-神話論研究序説』にはあった。(松山氏ではなく別の人の説を紹介するものとして)。思うにエーテルとプネウマという概念はイマージュ的には容易に混交していくもののように感じるが・・ 一方エーテルについて松山氏はニュートンから系譜をたどっているが、どうやらヘルダーリンやシェリングあたりにおいては、ニュートンら自然学からのエーテル、ギリシア哲学の第五元素(天界的元素)としてのエーテル、それとプネウマという概念はかなりオーバーラップしていたのではなかろうか。ストア哲学を読んだこともあるだろうが、その媒介としてフィチーノらの影響はなかったのだろうか? こんなことを考える。

また以前、「トマス・アクィナスの哲学もさることながら、彼が晩年の神秘体験のあと筆を折り、沈黙したという、その『沈黙』の意味を考えることも大事ではないか」という疑問を述べたことがあるが、やはり同じことを考えた人は過去にもいるもので、上田閑照『マイスター・エックハルト』(人類の知的遺産から講談社学術文庫)を見直したらまったく同じことが書いてあった。上田氏は、そのスコラ哲学で語れないことがらを説教という「話されたことば」として述べたのがエックハルトではないか、として彼のドイツ語説教の意味に注目するのである。

余談であるがドイツ観念論といえば、ヘーゲルの研究者などものすごい数である。そんなにいらないので、その一割でも、エウリゲナやボナヴェントゥラの研究をしたらどうであろうか。ヘーゲル研究などよほど優れていないと「その他大勢」で一生が終わるが、日本でエリウゲナ研究をすればすぐに「第一人者」になれるのに(笑) それはともかく、素人の妄言としていうなら、ヘーゲルの思想はどうみてもちょっと誇大妄想ではないかと感じられる。つまり、本来は霊的な探究として、自己を浄化し、霊的な照明を受けて少しずつわかっていくべきことがらを、「哲学的思考」のみによって遂行できるという観念によって、ヘーゲル哲学というものが成立しているように、私には思われるのである。このように、すべての霊性的行為の総体を哲学によって代替しようという発想は、伝統思想に親しむ者からすれば誇大妄想としか思えないわけである。ふつう、哲学的思考のみによって絶対者の認識に達しうるなどと本気で考えることができるわけがない。何か、畸形の巨人のような思想である。だから、ヘーゲルの研究としては、もともと神学生として、真摯に神を求めていた青年から、いかにして「哲学的思考の独立性」という思考を抱くに至ったのか、そのプロセスがいちばんおもしろいということになるだろう。そこにおいては、フィヒテ、シェリング、ヘルダーリンなどとのからみも出てくるのである。そういえばハイデッガーももと神学生だった。つまり哲学史というものは哲学の「外」にある、霊性的伝統との相互連関のうちに見ていく必要もあろうということである。ある意味で、霊性的伝統に対する「信」の弱体化が哲学的思考を突出させたという面もあろうかということだ。

よく哲学の一般向き入門書を見ると、必ず「哲学とはあたりまえのことを徹底して疑うことだ」と書かれている。たしかにそれはまちがいではないし、私も入門講義でそのように言ったことがある。しかしそうした「懐疑」だけを全面的に押し出すということは、「私は、近代以降の哲学をやりますよ」と宣言していることになる。つまり、「疑い」というものを持つ知性を、哲学を遂行する中心として定立していることになり、これはデカルトの方法論を受容しましたという信仰告白にほかならないのではなかろうか。それが最近、私の中に動いている疑念である。

人間とは多重次元からなる存在だという立場に立つならば、そもそも「懐疑的知性」のみを絶対化するという探究方法は、部分的であることになる。人間は、魂レベルにおいても探究しなければならない。極端な例でいえば、もしそれが微細身レベルでも何かをすべきだということになれば、それはストア・新プラトン主義・フィチーノなどのように一種の「テウルギア」(微細エネルギー的技術)の採用という考えにつながる。

ここで私が何を言いたいかというと、それはナスル先生と同じことで、哲学的な探究というものが「合理的知性」のみを使用することによって成り立つべきであるという思想そのものは、必ずしも自明ではなく、そのように哲学を定義した瞬間に、一つの立場を選び、他の可能性を捨てているのだということに気がつかねばならない、ということである。真理を覚知しうるのは私たちの中の「神的知性」であるというのが古代的な観念だが、近代哲学はまっこうからこれを否定する。ヘーゲルの哲学は神的知性の座を哲学的概念構成によって代替せしめようという試みであり、ある意味で、近代人的妄想のきわまりであるという見方もできようということである(これはそういう見方もできるということで、だからといってヘーゲルの思想的意義を全面的に否定するものではない。念のため)。

たとえば哲学を定義し直せば、次のような規定も可能である。

哲学とは、常識を疑うことから出発するが、それだけではなく、人間のうちにある神的知性(ヌース)を目覚めさせることにより、神的なことがらを覚知しようとし、それとともに、合理的知性および想像力を用い、その覚知したことがらに基づいて、世界・人間について全体的なデザインを描こうとする行為である。

ここで「神的知性なんてほんとにあるんですか?」という問いに対して、その「証明」は用意しない。「まあ、実際に目覚めてみればわかるんじゃない?」ということである。これは「(証明されたことという意味での)正しいこと」を述べているわけではなくて、「そのような道筋で行けば、いろいろわかってきますよ」という道しるべとして言われていることである。

フェルネルのアストラル・ボディ論

先日に引用したフェルネルのアストラル・ボディ論の出典は、やはりプロクロスだった。『神学綱要』ではなくて別の本だったのだ。・・しかし、私がこうして三時間かけて調べたことを、ここを読む人は数秒にして知ることができるわけである。ま、べつに知ったからといってどうということはないのであるが(笑)

もっともフェルネルは第二の、より肉体に近い微細身を「エーテル的」と言っているが、私の調べた本にはそういう言い方は出ていない。まだ解明されない謎は残っている・・

哲学史入門書

このブログは、読む人は哲学史と宗教史の基礎知識があるものだという前提で書いているかもしれない。べつに意識してはいないが、どうも読み直してみるとそうなのだ。ブログというのはおよそ、基礎から勉強していくということには向かないメディアである。

手っ取り早く哲学史の全体像について知識が得られるような書物を人にすすめようとしても、適当なものがなくて困っていた。だいたい私は、現在アカデミズムで行われているところの「哲学」が成り立っている前提そのものを疑っているのであって、現在の哲学のあり方から過去の哲学を眺めてもしかたがないのである。

そういう制限はあるが、出ているもののなかでは貫成人の『哲学マップ』(ちくま新書)がいちばんましのようである。これでもむずかしいという人にはさらに簡単に、『図解雑学 哲学』がある。この後者は、どんなに偉大な哲学者も見開き2ページか4ページで、図も入るので説明文はごくわずか。これを読んだ人が「一生かけて考えたことがこれだけで片付けられるのはつらいですよね~」と言っていたが、まったくそのとおりである。

で、『哲学マップ』だが、古代から近代、現代に至る哲学史を「基本的な認識図式」から論じているので、かなりわかりやすくなっている。その見方は、現在の哲学者のかなり多くに共有されているスタンダードなものだと言えよう。それを知っていると、私のように、「第一の認識図式」であるプラトン的な世界把握を復興させようとマジに考えているということがいかに異端的であるかというのもわかってくるわけである。

貫もまた、「哲学と神学(形而上学)の分離」を自明のものとする近代人的な地平に立っており、それを疑っていないというポジションから書いているので、古代・中世哲学についてはその実像そのものではないのである。中世以前の哲学では、神は直接に体験されており、そういう基盤をもちつつ哲学が行われていた。だいたいほとんどが修道士であったのだが、デカルト以降は聖職者の哲学者はほとんどいない。神にのみ心を向け、一生童貞を守るくらいでないとトマス以前の哲学は理解できないのではないか。「俗人」であることを肯定するという前提の上で哲学者になるということは、そもそも哲学が「聖なる知」の追求とは見なされてなくなったという歴史的変化によるものである(と、このように書くと私個人についてあらぬ誤解をする人があるかもしれないので、いいかげんにしておこう)。当然、『哲学マップ』は、そういう前提の変化まで考慮には入れられていない。そういう限界を知った上で、あくまで「スタンダード」とはこういう見方をするものだという知識は得られるということである。こういうとえらそうに聞こえるかもしれないが、私は、この本に書いてあることで知らないことはほとんどない。しかしながら、大学一年生にもわかるように、ここまでうまく整理して語るというのは、やはり特別な才能を必要とすると思う。こういう啓蒙書はべつに業績にはならないものであるから、こういう本を書くというのも評価してよいことだと思う。

4480061827哲学マップ
貫成人
筑摩書房 2004-07-06

エーテル体について

さてここで、平井センセのHPに指示されていた、論文を入手して読んでみた。すると16世紀のフェルネルの言として興味深い一節が引用されていた。D. P. Walker "The Astral Body in Renaissance Medicine" in Music, Spirit and Language in Renaissance, London, Variorum 1985, IX, p.119

ウォーカーがラテン語から英語訳したものをさらに和訳してみると


spiritの必要性や、その実質をもっとよく示すために、私たちは、古代の哲学者の説を再訪し、思い出さねばならない。新プラトン主義者たちは、以下の説を初めて提示したのであった。すなわち、二つのまったく異質な性質のもの(魂と肉体)は、何か適当な媒体なしにはつながることはできないので、私たちの魂は、万物の至高なる創造者によって作られ、この厚く、硬い体へと発出し、移住する前に、かんたんな衣として、星のような、光り輝く、純粋な身体をまとうのである。それは、不死かつ永遠のものであって、けっして魂から引き離されることなく、それなくしては、魂はこの世界の住人たることはできないのである。そして、もう一つの身体が魂を包む。それは同じように微細で、単純であるが、純粋さや輝きにおいては、最初の身体よりもやや劣る。これは至高の創造者によって作られたものではなく、微細な元素の混合から成り立っているものである。それゆえそれは、大気的ともエーテル的とも呼ばれる。これら二つの身体をまとい、魂はこの脆弱な、死すべき肉体に入る。あるいは、いまわしい、影の牢獄へと投げ入れられる。そして地上の客となる。それは、この牢獄を脱出して、喜びと自由のうちに故郷へ帰還し、神々とともに住まうようになるまで続くのである。

なんとも新プラトン主義全開の文章だが、ここでは中間次元である微細身が二つに分けて論じられているのは興味深い。これはたぶんフェルネルの独創ではなく新プラトン主義の伝統にあるものだろうと思う(フェルネル自身がそう言っている)。しかし少なくともプロクルスの「神学綱要」にはこの考えは出てこない。フェルネルの「エーテルの体」の概念はどこから出てきているのか、それが知りたい。

ここでは、エーテルの体の方は「至高の創造者によって作られたものではない」ということなので、この地球に肉体を持つために必要なものであり、一方もう一つの、アストラルの体の方は、より魂に近接して、それから離れないものとしてある。ということは、肉体を離脱したとき、エーテルの体は容易に消滅するが、アストラルの体は必ずしもそうではない、ということになろう。そしてこういう考え方は、人智学ともほとんど同じであるらしいということもわかる。つまり先日、「西洋にはエーテル体の概念は伝統的にはない」と書いたのは訂正を迫られる。もっとも、この区分はここで初めて見たもので、その区分がなく論じられている場合も多いことは事実である。クリアーノの『ルネサンスのエロスと魔術』やウォーカーの『ルネサンスの魔術思想』などにはまったく触れられていない。

ただウォーカーの論文自体は、エーテルの体についてはまったく関心を払っていない。もっぱら占星術とフェルネルについて語っているが、星の影響があるのは当然アストラル体の方であって、エーテル体ではない。彼にはエーテル体というテーマへの問題意識がまったくないのである。ましてそれをヴェーダーンタの多重微細身体論と比較するなどという視角は思いつくことはないだろう(神智学のエーテル体概念はたぶんインド哲学の影響を受けていると思う)。

なおウォーカーも注意しているが、アストラル体などの概念は、精神史のなかで持続しているとは言っても、決して「おおっぴら」にはあまり言われることはなく、どちらかといえば危険な思想であった。いうまでもなく、それは魂の先在という異端説につながるし、教会との衝突が予想されたからである。

ともあれ、「西洋精神史におけるアストラル体とエーテル体の概念」というテーマについてはもう少し調べてみる。(と、ここで誤解ないように言っておくが、このようなことは研究者レベルのことではない。あくまで私は研究者がやったことを利用させてもらっているだけである。これは他の勉強にしても同様で、哲学にしても決して研究者レベルの仕事はしていない。思想史的なことを研究者レベルで遂行する能力は私にはないので、私が専門として行うのはあくまで「霊性思想の現代的再創造」であり、過去の思想については、研究者の仕事を利用しつつ、自分の思想的形成に役立てるというだけである)。

哲学は宇宙デザイン

ようやく平井さんの『思想』論文、「ルネサンスの種子の理論――中世哲学と近代科学をつなぐミッシング・リンク――」を入手して読む。なるほど概観としてまとまっていて、これは熟読に値する。WEBに出ている個別論文はもっとディープだけれども、だいぶつかめてきた。BHサイトで出ていた文献にも十冊近く気になるものがあるのだが、英語・フランス語にイタリア語まであり、大冊も含まれるので、大変というか、今後楽しみというか。純粋に研究にのみ没頭できる環境ならいいんだが、実際そうでもないし。

ストア、新プラトン主義、フィチーノなどの自然観を読んでいるうち、シェリングなどよりよっぽどそっちがおもしろくなってきてしまった。シェリングもアニマ・ムンディ(世界霊魂)について書いたが、本当は近代の機械論革命以前の世界に住むべき人なのに、無理にカント以降の哲学という環境で生きようとした人だということになる。

「事物の隠れた原因」が人間には不可視の神的な次元にあるという考え方は、村上陽一郎のいう「聖俗革命」の起こった18世紀以前には一般的なものであった。そのような考え方が疑念を持ってみられるようになったのは「実証主義」の勝利によるものだろう。

すべてを、不可視の次元にある隠れた原因という概念を一切使わずに説明しなければならない、それが学問というものだという考え方が知識界に急速に普及したのである。

古代・中世の哲学は、宇宙の根源的な原理を定立して、そこから宇宙像を描くという性質を持っていた。今は、そういう発想の思想は、キリスト教神学に生き残っているだけである。
この「根源的な原理の定立を拒否する」という思想が近代精神なので、その意味で近代の完成者はやはりニーチェである。そう考えれば「形而上学批判」を行ったハイデッガーやドゥルーズ、デリダなどもそういう思想圏内にあるものと見られよう。もっともハイデッガーはアンビバレントであって、後期には新たな形而上学への模索も見られるが。ドゥルーズに至っては完全なニヒリズムの思想であるので、自殺に終わったのも当然であろう。

古代中世思想の美しさにはまっている人間からすると、いったいなぜ「根源的な原理の定立を拒否しなければならないのか」がわからない。もちろんそれは「証明不可能」であるが、そもそも、思想とはその正しさを証明しなければならないものだという発想そのものが、私には存在していないし、自明の前提ではないように思える。ここで、デカルトが近代精神の父であるゆえんもわかる。デカルトは「絶対確実といえる知は何か」という問いを発し、少しでも疑問の余地のあるものはすべて疑えと言ったわけである。その結果、唯一絶対に疑えないものは「私」だけであるという結論に達したわけだが、これはいいかえれば、「不可視の次元にあるもの」としては「私がある」ということ以外は一切認めないと言っていることになるわけである。実際のデカルトというのは、もう少し複雑な思想家なのだが(たとえばフッサールやアンリはデカルトの読み直しによって独自の現象学に到達したし)、デカルトの言うことを抽象した「デカルト主義」としては、明瞭であるのは私という「主観性」であり、それが経験する世界である「客観性」の世界であるという主客二元論の構造になる。要するにここでのポイントは、「絶対に疑えないもの」、つまり「正しさ」を徹底的に追求すると、そういう貧しい世界図式にしか到達しないということである。

現代思想は、主客二元図式ではなく、それを包括した一種のシステム論的な考え方に向かっているが(構造主義はその最たるものだが)、それもまた、根源的な原理を定立しないという前提で語られている。その結果出てくるのが、原理なきエネルギー主義、生命主義的な発想で、ドゥルーズがその代表格だが、実はそれはニーチェのディオニュソス礼賛にさかのぼるし、ベルクソンもその流れから外れていない。この生命主義もニヒリズムの裏返しとして出てきているもので、いずれにしてもそこには「宇宙秩序」というイデーが全く失われている。このような生命論思想も私は否定するものである。

私は、哲学はもはや、「正しさの追求」を放棄すべきだと思っている。正しい哲学などいくら探究してもありはしないのである。それは人間知性は部分的なものであり、神の完全性とは違うからだ(そのへんはクザーヌス思想が参考になる)。
「正しさ」ではなく「美しさ」の追求に立つ哲学がもっと必要なのである。

つまりこういうことである。人間は、その理性の及ばない不可視の次元の彼方から、ある「贈り物としてのイデー」を受け取り、それを表現へともたらすことも可能なのである。古代思想の美しさとはそのような「天界の響き」がそこに休らっていることによるのである。このような発想は近代の哲学者からは消滅してしまった。この発想は「正しさ」のみを追求する姿勢からは出てこないのである。唯一、シェリングなどロマン主義の影響を受けた思想家が、こうした「魂の機能」について少しだけ理解していたのである。

哲学者は天界の響きを聞き、それを表現する――この思想は、古代やルネサンス時代には決して奇異なものとは思われず、むしろ当たり前だと見られていたことを私は知っている。なぜそれをもう一度いまやってはいけないのだろうか。哲学とは「宇宙デザイン」だと思う。

星気体(アストラル・ボディ)をめぐって

Wikipediaで「アストラル体」を見ると、シュタイナーのことしか書いていないが、アストラル体の概念は西洋精神史においてストア派など古代以来あるものである。アストラルとは「星の」という形容詞である。したがって、星の影響下にあるものというのが伝統的な解釈であった。(Wikipediaは全くの素人さんが書いていることもあるので、使用には注意しなければいけない)

たとえばフィチーノ(イタリア・ルネサンス期)では

フィチーノの心奥には、新プラトン主義的な星気体(アストラル・ボディ)、すなわち、それが地上界の体へと舞い降りる間に通過するさまざまな星辰や天球層から霊魂が獲得する霊妙なる媒体(スケマ)という概念があったものと思われる。この媒体は、元来は繊細で光り輝く、星のごときものだったが、この地上では、重苦しく暗鬱なものとなり、純化してより霊妙なものにしない限り、臨終の際に霊魂を地獄へ引きずり込むか、さもなくばいっそう劣った転生へと導いてしまう。かかる精気概念に鑑みれば、星辰に由来する以上、精気という媒体が星辰の影響を格別に蒙りやすいという考え、また臨終の際に霊魂を離れず、霊魂を堕落させてしまうこともある一方、十分に光り輝き乾燥していれば霊魂と共に天界へと上昇することも可能であるゆえ、精気の純化は焦眉の急務だという考えは、一応説明がつこう。 D・P・ウォーカー『ルネサンスの魔術思想』p.48

中国には、身体の気から「陰」の要素を去って純粋な「陽」にしていくという霊的変容のプロセス(内的錬金術、つまり「内丹」)が語られるが、これは上の西洋的な発想との類似は誰の目にも明らかである。つまり、こうした発想は東洋の専売特許ではなく、西洋精神史にもあったものが、西洋ではある理由から、ある時点からそれが「地下」に潜らざるを得なかったという歴史的な事情がある。フィチーノでさえ、キリスト教の教義にあからさまな異論を唱えてはならないという緊張があったということが、ウォーカーの本にはいろいろと述べられている。

このように星気体に働きかけてそれを純化する方法には「断食、祓い、香の使用、呪文」などがあった。これらがルネサンス的な意味での「魔術」なのだ。魔術といっても、クロウリー的なかなりマニアックな形態を想像してはいけない。ああいうのは近代化の裏面として出てきているものである。フィチーノがやっていたような「魔術」は、私やこのページの読者なども日常やっているようなことがらなのである(「祓い」はしませんが・・でも「場の浄化」くらいはするかな?) 「呪文」も、「アファメーション」と置き換えてみればどうだろうか?

ウェブスターの『パラケルススからニュートンへ』では、「神霊魔術」「妖霊魔術」という訳語が出てくるが、この訳語はかなり誤解を招く。前者は spiritual magicであって、これがクリアーノの訳書では「気息魔術」となり、ウォーカー本では「精気魔術」と訳されるのだから、わけがわからない。「神霊魔術」という訳語では、それが spiritus に関わるものだという意味が出ないという欠点がある。後者は demonic (daimonic) magicだと思われる。これを「妖霊」と訳すと西洋精神史に疎い人には思い切り誤解を生じさせる。これはソクラテスの話で出てくる「ダイモン」に関係している。つまりこれは「非物質的存在者」、肉体を持たないが宇宙のある次元に生きている生き物をいうのである。ダイモンには善いダイモンと悪いダイモンがあることも常識だった。そうしたダイモンの力を借りようという行為がdemonic magicなのである。フィチーノもこれに関わっていた。西洋精神史には、キリスト教とプラトン主義思想との微妙な交錯と対立があって、ダイモンとはキリスト教にとっては危険なものに映ることもあり、すべてのダイモンを「悪魔」と決めつける考えも出てきたわけである。「妖霊」という訳語は最初からそういう立場に立っている価値観を含んでいるのでよろしくないと言うのである。日本の神社の神々などは西洋的な枠組みで言えばほとんどは「善いダイモン」であるので、神社に参拝してお札をもらったりするのは立派な「妖霊魔術」となってしまうのである。そうことも考えた上で訳してもらいたい。

ドイツ語の「デモーニッシュ」というのは必ずしも悪い意味ではなくて、何か不可思議な深みからの力に捉えられているような状態を言うが、これが日本語の「鬼のような」という表現とよく対応するのもおもしろい。言うまでもなく、ニーチェのディオニュソス礼賛は、こういう精神史的な背景を有している。

フィチーノと星との関係については、『内なる惑星』という本が詳しいだろう。これはヒルマン系の心理学者が論じたものだが、ヒルマン系の元型心理学はフィチーノ的なパラダイムの復興をもくろんでいるユング心理学の急進派である。というか、ユングを、フィチーノやパラケルススなど、ルネサンス的な精神史に位置づけることはもはや常識に近いことである(詳しくは、湯浅泰雄『ユングとヨーロッパ精神』など参照)。

ところがこの訳書には鏡リュウジが関わっているが、あとがきで、「著者はどうも占星術をイメージ世界として理解していて、占星術を本当には信じていないのではないか」などと書いていたのには思わず笑いがもれてしまった。
占星術に対しての私自身の立場は、著書でも書いたのだが、「星は単なる物質ではなく、ある次元においては霊的領域として存在するという古代的観念には、ある程度真実が含まれているかもしれない。とすれば、そうした霊的領域が、人間の微細次元に対して一定の影響力を持つという古代的な考えも、全く排除すべきだという理由もない。ただし、現存の占星術のシステムが、それら微細次元の関係を解き明かすだけの技術水準を持っているのかどうかについては疑問も残る」というものである。現状においては、あまり「マジ」になりすぎず、「宇宙との戯れ」として美学的に受け止めておくのが無難な線である。まあ実際、ほとんどのクライアントはそういうものとしてやっているのだろう。占星術に限らず、こうしたルネサンス的魔術に対しては、「いい加減でもなく、さりとて極端にマジにもなりすぎず」というような中庸を保つスタンスがよいと思う。

というわけで、アストラル体(星気体)についてはだいぶわかってきているわけだが、一方、「エーテル体」という概念はどうなのか。エーテル体ということばそのものはあまり精神史の中にはない。エーテルとはむしろ一時期の「科学的概念」であって、そこには神秘的な色彩はなかった。しかしヘルダーリンやノヴァーリスなどドイツロマン主義の中では「エーテル的プラトン主義」というものがあって、ここでは宇宙全体を循環するあるエネルギーが考えられ、エーテルとはある霊的な世界領域をも指していたのかもしれない。こういうエーテルというイデーと、古来のspiritusのイデーとは、いかなる歴史的関連を持っているのか。そのへんについての研究はどこまで進んでいるのかは、今後、調べてみなければならない。もしかすると、これは新プラトン主義伝統でのspiritusのイデーを、その当時の科学概念である「エーテル」という語を用いて表現しなおしたものではないかとも推測できるのだが、この仮説がどこまで正しいかどうか、研究をあたってみなければならない。なお、日本の人智学者・高橋巌氏が最近の文章で語っている「光としてのエーテル界」というイデーは(たとえば『照応する宇宙』の解説文)、明らかに、シュタイナーそのものより上に述べたヘルダーリン的なエーテルのイデーに接近しているものである。これは高橋氏のドイツ精神史研究者としてのバックグラウンドからして当然か。

シュタイナーの言うエーテル体というものは、古来の星気体と言われてきたものを、エーテル体とアストラル体の二つに分割しているものであると思われる(それはブラバツキー系の神智学に始まるのかもしれないが、私はこの系統についてはよく知らないのである。美学的にちょっと合わないので)。この分割は、肉体次元への近さ・遠さによって分けられているようである。オーラソーマでもこの二分割があり、エーテル体にはポマンダー、アストラル体にはクイントエッセンスということになっている。実際この両者を使ってみるとたしかにその微細身体への作用には差異があることは体感可能である。ヒーリング技法にはもっぱらエーテル次元に作用するというものも多いし、この分割はプラクティカルなのだろう。ただ、伝統的にアストラル・ボディ(星気体)といわれるものは、シュタイナーのアストラル体とイコールではなく、エーテル体とアストラル体を一括したものをだいたいにおいて指している、ということらしいのである。

ともあれ、現代における「身体性の復権」という思想には、その先端的な形では、ヨーロッパ精神に底流としてあったルネサンス的魔術思想との絡みが出現しており(ここで言う「魔術」の意味については繰り返さないが、オーラソーマが「ルネサンス的魔術」そのものであることは、ここまで読んだ人には自明だろう)、それと東洋的な「気の文化」復興との連動が進行している。かつての津村喬による『東洋体育の本』や一連の気功本も、その一つであったし、最近では齋藤孝による『呼吸入門』も、呼吸を整えることによって大宇宙とのつながりを実感することについて述べられている。これは私に言わせれば立派なる「気息魔術のすすめ」になるわけだが、齋藤はその一歩先にある神秘主義的世界には決して入らず、距離を保つことによって保守層にも食い入ることに成功しているわけである。齋藤氏自身はたぶんその先にある世界も多少知っているのだと思うが、そこは「戦略」の問題である。また見方を変えてみれば、メルロ=ポンティの描いている世界リアリティなども、私には、「気」という媒質の中で、微妙な「照応」を繰り返す世界であるようにも見え、その意味ではルネサンス的な世界感覚の再出現ではないのか、とも思えるのである。事実かれは「世界の<息>というものがあるのだ」と明言していたはずである(たぶん「眼と精神」の中で)。


6.15追記

平井ハカセ論文をいくつか読むうち、エーテルについてもヒントがつかめてきた。
あとはさらに論文を渉猟するのみ。

スピリトゥス問題

いや~ ドクター平井のヘルメス学図書館で、なんと平井センセの論文を何本もただで落とすことができる。これは西洋精神史における spiritus の問題を扱っていて、まさに今の私の関心にドンピシャというか、ハマりというか・・ つまりこれは西洋にも東洋と同じような「気の文化」が脈々とあったということなのだ。私はもちろん歴史研究者ではなく、微細エネルギー、微細身体というコンセプトを含みこんだ総合的な「宇宙デザイン」としての新思想を提案しようというのがテーマであるわけだが、そのために必要な知識として、平井センセの論文や、そこで教えてくれている本や論文などは、まったくドンピシャなのです。しかもそうした、東洋とかなり共通した精神文化を持っていたヨーロッパで何故に機械論が勝利を収めたのか?という問題意識にも示唆を与えるものである。

やっぱりフランス語をやっておいてよかった。次には無謀にもイタリア語論文に挑戦?

フィチーノとロハス

というわけで、村上陽一郎『科学史の逆遠近法』を再読しているが、やはりこれはかなりの名著と言っていいだろう。フィレンツェでのプラトン・ルネサンスから、占星術、魔術、カバラ、パラケルススなど全部書いてあるし、そうした伝統が科学革命の後にも残っていたのがロマン主義だ、などという見通しも提示されている。さらにいえば、今日隆盛であるところのいわゆる「精神世界」の文化もその系譜に連なるものであることも想像は容易だろう(事実、その点については Haanegraffの研究がある)。

4061591630科学史の逆遠近法―ルネサンスの再評価
村上 陽一郎
講談社 1995-02

えっ絶版? 驚きである。古本ゲットへ走るべし。

その他、クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術』およびシャステル『ルネサンス精神の深層――フィチーノと芸術』を再読し、フィチーノ思想関連をいろいろ調べる(さらにウェブスター『パラケルススからニュートンへ』も調べるがこれにはたいしたことはのっていなかった。久々に大量の文献調査で、いささか疲労)。

相変わらず、万物照応や世界霊魂のイデーにはアットホームなものを覚える。
またクリアーノの本では、「アストラル体を浄化する」ことによって神的な次元へ近づく、という発想が、ストア派にさかのぼるらしい、という興味深い事実を知った。その伝統がフィチーノまでつづいているというのはおもしろい。

たとえばフィチーノはそうした浄化の方法として、「希石、薬草、呪文」などをあげていたというが・・

考えてみると

希石 = パワーストーン
薬草 = ハーブ、アロマ、ホメオパシー、オーラソーマ等
呪文 = アファメーション、マントラ

と、今の霊的文化には全部ある・・ 私のまわりにもある・・ それを「魔術」といわれてしまうと多少当惑してしまうが。これはもともとはマジックではなく「テウルギア」である。私が思うところではどんな宗教にもそういう要素はある。仏教にもある。そういうテウルギアの視点を理解できないというのが宗教観の貧困化を生んでいる(特に近代仏教学)。いつもいうように、宗教とテウルギアを分離する発想はアウグスティヌスの影響であるが、日本人まではその影響に染まることはないだろう。

「お守り」だって立派なテウルギアである。それは、霊的エネルギーがある物体に転写可能であるというセオリーを前提として成り立つ宗教行為である。

「万物照応劇場的世界観」はそれほど奇異なものとは思えないのであるが・・

と、ここで思ったが、上にあげたようなオーラソーマやパワーストーンなどという文化は、いまや「ロハス」のライフスタイルの一部となりつつある状況もある。

ロハスというスタイルには、機械論的な宇宙に住むのではなく、豊かな共鳴や共感に満ちた、生気ある宇宙に住もうという意志も含まれているのではないだろうか?
それは必ずしも禁欲的に神のみを求める道ではない。そのような修道院的な霊性ではない。明らかにそれは、かつてルネサンス期のフィレンツェにあったような、宇宙との交感を楽しみつつ少しずつ浄化の道を歩もうという霊性のスタイルである。求道者には軟弱に感じることもあろう。しかしそういったスピリチュアル・ロハスというスタイル、文化は過去にも存在したものである。

PS:

『科学史の逆遠近法』とともに、こちらの古典的名著を。
近代がなぜ霊的世界観を失ったか、これを読めばわかる。
『科学史の逆遠近法』では、ここの所説を一部訂正している。

4788508028近代科学と聖俗革命
村上 陽一郎
新曜社 2002-07

ルネサンス学の意味――エーテル・アストラル的文化の復興について

いやいや・・教父や中世神学者の静謐な思考の世界に親しむこの頃であったが、Bibliotheca Hermeticaに刺激されて、ルネサンス精神史にもやっぱり関心が出てきたのであります。その「初心者の部屋」に出ている基本文献はさすがに知っているものが多いが、全部読んでいるわけではない。そこにはのっていないが全く初めての人は、村上陽一郎の『科学史の逆遠近法』(講談社学術文庫)なんかがいいんではないかと思う。基本文献とはいえ、そのページにのっている本はかなりむずかしいものが多いので。「プラトンのイデア説って何?」というような人はまったくお呼びじゃありません。

西洋精神史にも脈々と流れる「気」(プネウマ、スピリトゥス)の伝統、それを使ったtheurgyの伝統など、現代の精神状況にも示唆するところが多い。テウルギーとは魔術などと訳されてしまうが、「微細エネルギー的技術」なのである。これらはルネサンス時代まではリアルなものだと見なされていた。現代の私たちはたとえば、気功法で天から「天の気」を取り入れたり、レイキを使って遠隔ヒーリングを行ったりもするが、それはルネサンスではリッパに魔術という名で呼ばれることができたものである。もちろんルネサンス学の研究者も、気やアストラル・ボディというコンセプトのことは平気で議論するが、それをリアルなものとして「実践している」という人が目の前に出現すると困惑はするだろうと思う(笑) しかし現代のいわゆる「精神世界」の中にあるもののほとんどはルネサンス文化の中にあったのだ。もちろんそれはルネサンスの独創ではなく、東方(アラビアなど)から入ってきた文化にいろいろと解釈を施したものだ。そういうのをひっくるめて「ヘルメス的知」と呼ぶのだが、そういうものが一斉に開花したという点で、ルネサンスと現代は大変似たような文化状況にあると思う。その意味で、ルネサンス学を勉強しておく意義は大きい。(もっとも私は、とても研究者レベルではない。研究者になるには、少なくとも、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語にギリシア語・ラテン語が読めなければならない)

つまりそれは、いうなれば、エーテル体的、アストラル体的な文化なのである。それはそうした次元における「具体的な技術体系」をも含んでいた。ルネサンス文化はもちろん宇宙の根本的調和と、その根源たる神の栄光が実在することを疑わなかったけれども、そうした究極次元と物質次元との中間である「微細次元」の実在を認め、実際にその次元のリアリティと関係していく文化を持っていたということである。それを「想像界的な文化」ということができる。この前紹介した永井晋の『現象学の転回』もそれに注目したものだ。しかしこの次元は純粋な哲学的方法では追求できないので、そういう試みはおのずと限界もあるだろう。

なぜシュタイナーが日本で人気があるのか? といえばそれは、こうしたエーテル体・アストラル体的文化を包含し、人間の霊的次元を語っている体系的な思想というものは、普通の人が接しうる範囲では、シュタイナー思想以外には全く存在しないからだと思う。こういうタイプの思想は近代では異端になってしまったが、ルネサンス時代まではむしろヨーロッパ文化では相当有力であったということは知っておいて損はないことである。ヨーロッパ文化は「科学革命」の時期を機に非常に大きな転換をしており、一切の「想像界的文化」が「怪しいもの」として蔑視されるようになったのはそれほど昔のことではない。私がここでエーテル体・アストラル体という用語を使っているのも、そう書いた方がわかりやすいからで、ルネサンスにはまたその時代の用語があったことはもちろんである。あんまりシュタイナー(ないし神智学)の色がついているので別のことばにしたいのであるが、通りがいいのでこのように呼んでしまう。あるいは「微細エネルギー的な文化」などとも言えようか。

それからアーノルド・ミンデルのプロセスワークもエーテル・アストラル的文化の復興であると断言してよい。ミンデルのドリームボディというのはそうした微細身体の文化の系譜を引いている。それは本人が『ドリームボディ』という最初の著書の中で明言しているとおりである。

微細エネルギー的な文化は「神秘主義思想」とはまた別のものである。神秘主義というのは「人間には身体的感覚以外にも霊的感覚というものが存在し、それを媒介として神との交わりを体験しうる」という前提で成り立つ思想である。そういう交わりへ向かうための手段として、微細エネルギー技術を活用する場合もあるし、使わない場合もある。使わない場合というのはたとえば瞑想・観想のみを用いるもので、キリスト教神秘主義の主流はそういうものである。微細エネルギーを使うというのはヨーガとか密教に見られる文化である。だから微細エネルギー技法を使う、使わないというのは仏教でいえば「密教」と「禅」に対応すると思えばいいだろう。いうまでもないが微細エネルギー技法とはイメージ、つまり想像界と切り離せないのである。なお、ここで、マントラ、真言、念仏などは微妙な位置に立つ。それはイメージを一点に集中させるので禅的な方向性にも見えるが、マントラは微細エネルギーの回路を活性化する要素もあるのだ(それはやってみればわかる)。

現在における霊性復興の動きは、基本的には近代文明に対する「カウンター・カルチャー」という意義をなお持っているものだと思う。その際には大きくいって三つのポイントがあるということになる。

1.人間には霊的感覚があるということ。つまり超感覚的認識の可能性へ向けて開かれている存在である、という人間観。これは「原人=アントローポス」の復権と呼ばれる。
2.宇宙は全体として調和があるということ。つまり根源において宇宙的な叡知があり、それにより支配されているという宇宙観(コスモスの復権)。なお、このテーゼを定立するためには「悪の問題」を解決しなければならない(それはオリゲネス的思想によってなされるが)。
3.そしてもう一つが、宇宙には次元階層性があり、さらに、この中間的な次元、微細次元と人間とが関わり、そこに交流があり得、またそうした交流によって人は神的なるものへ導かれるということ。(天使学、および、エーテル・アストラル的文化の復権)。

これは近代文化の常識に依拠する人びとにとっては「トンデモ」であろう。しかしルネサンス時代にはかなり常識であった見方なのである。

エーテル・アストラル的文化は、一度は近代文化に激しく負けていたものが、また巻き返そうとしている状況になっている。これは対抗文化であるので、いまは、もっと勢力を伸ばそうとガンバルべき時期であるのは当然である。それなりのリスクを覚悟しなければ対抗文化に身を投じることなどできるわけがない。このページをよく読むほどの人は、新しい文化をそこに創造しているのだというくらいの気概を持ってもらいたいと思う。

ちなみにナスル先生の『知と聖なるもの』でも微細身の多重性を肯定していたが、そこの注を見るとミードとかリードビーターなど神智学系の文献だけが出ていて、それはちょっとマズイ。もっとルネサンス学の成果を生かすべきであった。たとえばクリアーノの『ルネサンスのエロスと魔術』とか、ウォーカーとかいろいろある。

しかし「魔術」ということばはどうもねえ。それだったらカトリックのミサはどうなのか? ある儀式をしたら聖霊が来るということは、エネルギー回路が次元間に樹立されているわけですよねえ? それならそれはレイキも念仏も同じこと。そのようなものとして「上」と契約がされているからそうなっているということだ。別に何の神秘もないことだと思う。そのリアリティに立ってみれば、スイッチを押せば電気がつくのとそれほど変わらない。それも電気という技術を知らない原始人が見れば魔術と思っただろう。文献だけで理解しようとしている「魔術研究者」は、実際にどのようなことが起こるのかわかるものなのであろうか? そのへんは批判的に吟味せねばならないかもしれない。どうも魔術ということば自体に、キリスト教正統派からの偏見も感じてしまうが。というのもこうした「技術」に対する不信感は、アウグスティヌスなどの立場(人間は何もしてはならず、神の恩恵を待つべきであるという思想)を正統とする発想から来ていて、ヨーロッパ文化では基本的に、その両者を二者択一と考えたがる傾向があったということはおさえておくべきポイントである。

いずれにせよ、現在におけるオルターナティブな文化の創造のために、近代とは全く異なるシステムで文化が成立していた、古代・中世・ルネサンスなどの思想文化については、いくら勉強しても損はないことであろう。近代においてそれが「秘密結社」的な形態でのみ生き残っている姿を絶対視してはならないのである。

ヘルメス学図書館に立ち寄る

まえにもちらっと見たことがあるが、Bibliotheca Hermetica というサイトの情報量はものすごい。新プラトン主義におけるアストラル・ボディについての文献など、レアな情報が山盛り。ここのご主人の専門はルネサンスから近世初期の科学史ということらしいが、この世界は知る人は知っていると思うが、実におもしろいテーマの宝庫である。つまりは近代によって完全にそぎ落とされてしまったオルターナティブの知の可能性に満ちている。しかも彼の、いかにも研究が楽しくてしかたがないという感じもなかなかである。

西洋の、近代合理主義ではない、自然哲学・神秘学の伝統を知っている人は、シュタイナーの思想なども突然でてきたものではなく、伏流としてあったものの再浮上なのだということがわかると思う。それが「オカルト」という、サブカルチャーに押しこめられざるを得なかったという近代意識こそが不幸なのである。

まさにこの21世紀の「現代思想」として、気、エーテル、アストラル体・・などのコンセプトを含んだセオリーを考えようという計画もあるのだが、このサイトの情報は大変有用である。西洋でも霊的エネルギーや霊的身体性についての伝統があったのである。

「人間は複数次元の微細身体を持つ」ということはナスル先生も明言していることである。要するに「オカルト」と思われていることを「本流」へ引き戻そうという野望なのである。そもそもそれがサブカルチャーに押しこめられていること自体がおかしいのである。

人体科学会ではさかんに湯浅泰雄の『身体論』を一生懸命読んでいる。しかし私にいわせればこの本はまだまだ近代からの遠慮がちな視線が存在するにすぎない。この本がかなり依拠しているベルクソンの心身論にしたって、結局は、「宇宙の第一原因」を定立することを排除するという前提の上で世界観を構築するという、「近代思想のお約束」の範囲内にあるからだ。しかしその定立なしには、気やエーテルなどの存在を論じる視点は不可能である。というようなことを最近考えている。

このサイトを見て早速、読みたい本が十数冊ピックアップされてしまった。当分退屈しない。

グロフ新刊

ひさびさにスタニスラフ・グロフの新刊が届いた。もちろん英語である(訳書はこのところずっと出てないと思う)。私は昔、グロフをよく読んでいたわけだが、このところキリスト教的霊性の世界に浸っていたので、何年かぶりでグロフの世界に接するとかなり違和感が・・ サイケデリックでのぶっ飛びヴィジョンとか、シャーマニズムの話などが満載のようで、一見するとオドロオドロしいというか、まるでパラトラパ雅さんの世界というか・・(失礼) ちょっと前まで私にはかなり「ふつう」の世界だったが、伝統的霊性の世界に生きている人から見れば、「何これ? 気持ち悪い・・」という反応が出てくるのも、また無理からぬところはあるな、というようにも思った。もちろんグロフの示している世界も「人間の経験しうる世界」として、現象として受け入れねばならないところなのだが。

個人的な意見では、私はサイケデリックスによってアストラル次元以上の体験に達せられるとは思わない。グロフの本を見るとそれより高次の体験も出てきているようにも見えるが、それは、アストラル次元においてそれより高次の世界のシミュレーション的な体験をしているのではないかと推測している。つまり、あるアストラル次元におけるバーチャル・リアリティではないだろうか。しかし何せ私はサイケデリックスを自分でやっているわけではないので、あくまで憶測にとどまる。しかしまれには「恩寵的」に上の次元に引き上げられるということも、絶対無いと断言することはできないだろう。

しかし序文を書いているのがかのヒューストン・スミス先生である。まだ生きているんですね(失礼)。そういえば『忘れられた真理』でも、付論にグロフの研究を取り上げて高く評価していたのだった。思うに日本にはスミスにあたるような知識人が不在であるというのが大きな問題であると思う。先頃亡くなった湯浅泰雄氏もスミスほどの踏み込みは見せていない。現存ではしいていえばカール・ベッカー氏くらいなものであろうか。井筒俊彦はたぶん前項でとりあげたセイイッド・ホセイン・ナスルと比べられるべき人材であった。

それにしてもものすごく小さい文字である。これは目が疲れる。たぶん原稿量が多くて分厚くなりすぎるため字を小さくしたのであろう。最近はアメリカでも出版事情はなかなか厳しいらしい。そういえば、これは別の本の話だが、注文した洋書があまりに字が小さく、これはとても読めないと思って返品してしまったこともあった。アマゾンの返品センターで「商品の性能が思っていたより低かった」にしたら、なぜか返送料を着払いにしてくれた。

↓ 表紙のデザインはたいへんいい。

0966001990The Ultimate Journey: Consciousness and the Mystery of Death
Stanislav Grof
Multidisciplinary Assn for 2006-10

伝統主義者であること

それにしても、最近は、まったく近代という時代など存在しなかったような、「反時代の精神」というか、思考の時代錯誤の世界に浸っているのであった。亡命ロシア人の神学者ブルガーコフの書いた『ソフィア――神の智慧について』は、まったく15世紀以前に書かれたとしても不思議ではないほど頑なに現代思想を拒否するものであった。さらにエリウゲナ、ボナヴェントゥラを読んだ。ボナヴェントゥラの『魂の神への道程』は珠玉ともいうべき霊的な美をたたえた作品であった。その末尾は全く感動的である。これもまた、『フィロカリア』や十字架の聖ヨハネの作品と並んで、きわめて霊的波動が高いもので、「波動グッズ」としても好適ではなかろうか。

またイエズス会修道士イバニエス師の書いた『祈りの道――祈りの体験の過程』や、カルメル会修道士による十字架の聖ヨハネの入門書『愛ゆえに生く』などは、観想の修行によって魂が神へと上昇していく過程を詳しく書いてあり、たいへん参考になる。最近ではスピリチュアル・カウンセリングということばが言われているが、このことばのもともとの意味は、こういった修道会の人で、特に霊性が優れていると認められた人が、後進の霊的進歩についていろいろと助言をすることをいうのである。このような、伝統をふまえた霊性のもつたしかな安定感を知ってしまい、そういう世界に住むようになると、最近のスピリチュアル・ブームがかなりあぶなっかしいものに思われてきても、しかたがないだろう。霊的なことがらへの関心がいけないというわけではもちろんない。問題は、「適切な指導」がなされるかどうかということなのだろう。『祈りの道』の著者イバニエス師のような優れた「霊的カウンセラー」の指導がないと、容易に脇道にそれてしまわないであろうか、という不安である。しかしもちろんこうした出会いというのも神的配慮によるものであるので、要は、「真に神を求める意志」が堅固かどうかの問題なのかもしれない。

それから久々にセイイッド・ホセイン・ナスルの『知と聖なるもの』(Knowledge and the Sacred)を少し読み返してみた。ナスル師はイスラム学者だが、イスラム哲学伝統のプラトン主義的世界観で、近代西欧の世俗的な知を斬りまくるという痛快この上ない名著なのである。ヒューストン・スミスはこの書について、「13世紀のアリストテレスのラテン語訳や、15世紀のプラトンのラテン訳と比肩するくらい、歴史に残る事業になるだろう」などとものすごい激賞ぶりである。しかしたしかにそのくらいすごいものである。奇特な出版社があれば訳して出版してみたいくらいである。これを読むと、いったい西欧の近代知とは何であったのだろうか、という気がしてくる。それはもしかすると何かの間違いではなかったのだろうか。文明がどこか根本的に方向をそれてしまったのかもしれない。私もこういったナスル先生とか、スミスなどの本のおかげで、何とか、教育によって植え込まれてしまった近代的世界観を完全に解毒することができて、今ではオリゲネス、マクシモス、ボナヴェントゥラなどといった近代以前の思想書を、全く微塵の違和感もなく自分のこととして読むことができるようになったのである。

思うにシュタイナーの思想が人気を博しているのも、このような近代的な知の解毒剤として有益だからである。私もいろいろ近代以前の霊的思想に接してみて、シュタイナーの考えというのはかなり霊的思想の基本に近いものであって、その意味では別に新しいことを言っているわけでもないことがわかってきた。シュタイナー自身は「キリスト教と輪廻転生思想の結合こそ人智学で出てきた新しいイデーだ」という意味のことをいっているけれども、それもオリゲネスの思想にその先駆があるのだった。だからシュタイナーを学ぶことは、霊的な思想とはどのような考え方をするものか、を知るには一つのステップとしていいと思う。ただ、彼自身が「霊視」をした内容がいろいろ出てくるのだが、それは正直言うとよくわからない。というか、それを実際に追体験して確証することができないものだから、確かめようのないことを言われてもちょっと反応に困るというところだ。そういうこともシュタイナーが言ったからとして全部受容していっては、これはシュタイナー教になってしまうだろう。まあ、それでもいいという人もいるとは思うので、それはかまわないが、私はこうしたシュタイナー崇拝者のまわりに形成されているアストラル的な構築物のようなものにはちょっと入っていけないエネルギーを感じている。そういう意味でシュタイナーには最近、あまり近づかないようになっている。こちらのブログでも今後あまり触れられることは少ないかもしれない。というのも、そのように「オカルティズム」という形態を取らざるを得なかったというのは、この近代文化の中で霊的思想を語るための一つのやむを得ぬ選択であったのかもしれないが、すでに自分を近代知の束縛から解放してしまうと、むしろ直接に過去の霊的伝統から霊感を得た方が、なんというか霊的な安定感が違うので、そちらの方がエーテル体、アストラル体的な意味で快適になってくるのである。シュタイナーのある面には(これはその信奉者の性質かもしれないのだが)何か狭いところに押し込められていくような感覚のするものがあって、そのへんには違和感を覚える。なんというか、そういう秘密結社的なものにはあまり共鳴を感じないのである。やはりオカルティズムとして自己規定したのであるから、そういうエネルギーを彼自身が多少持っているということはないわけではなかろう。閉ざされた世界でディープさを追求することの快感というのはわからないわけではないが、そういうことにひかれる人は、「自分はカルトにはまりやすい体質を持っている」と自覚して十分に注意した方がいいと思う。私の観察ではシュタイナー・ファンにはルシファー的な体質の人が多いようである。

ともあれシュタイナーについては、もう100年もたっているわけで、ベーメやスウェーデンボルグにつづくヨーロッパ近代の神秘主義思想家として、ある程度客観的な接し方をしていく時期かもと思う。ベーメもそれに近い時代には、今のシュタイナーのように流行していたのではなかろうか。スウェーデンボルグもその思想を実践する教会などが作られていた。今のシュタイナー思想の「実践」のされ方とある意味で似ている。

エーテル体とかいうことばが出たが、先にあげたナスル先生は、そのような微細身体の多重次元があるということも全部わかっているのであります。さらに、存在には次元の階層があると言っていて、つまり、人間よりも神的な次元に近い存在者、つまり「天使」がある意味では実在するということも理解していて、そのようにはっきり言ってもいるのです。天使のことを「ユング的な元型の世界」なんて一見「科学的」に見えることばでごまかそうとしているトランスパーソナルの誰かさんとはぜんぜん違う。それが私などの10倍以上の学識をもって荘重に言われているのであるから全く脱帽である。せめてこの書を理解できるくらいには勉強をした自分をほめてやろうかというような感じかもしれない。

またナスル先生は進化論を激しく批判している。これはスミスの『忘れられた真理』でも出てきた重要なポイントなのだが、近代的世界観を超えるには、「進化論を信じることをやめること」がきわめて大事なこととなる。人間は猿から進化してきたのではない。それはとんでもない迷妄なのである。そもそも生物の種とは進化してできてくるものではない。また、宇宙は物質から始まって徐々に生命体が進化によってできたわけでもない。それは「つくり話」であり、本当ではないと知ることが近代知を超えるための重要なステップなのだ。種がなぜできたのかについては、絶対にプラトンの方が正しいのだ。ナスル先生はかくて、力強くプラトンを擁護する。イデアは実在するのである。イデアが実在すると思わなければ、いかなる霊的思想もない。これは最も重要なポイントなのである。イデアが実在するということが実感としてわかれば、あらゆる霊的思想が手にとるように理解されてくるのである。これは私が体験から申し上げる。(なお、仏教は反イデア説ではないか、という意見もあろう。原始仏教から小乗仏教――わざとこのことばを使うのだが――に関してはそういうところもある。それはむしろアノマリー、例外である。しかし仏教は大乗に至って、有神論的宗教に転換したのである。竜樹など、反イデア説と見えるものは、むしろ擬ディオニュシウスのような否定神学の一形態である)。

進化論は真理ではない。また霊的な思想を破壊する危険な思想である。科学のような顔をしているが、実は唯物主義的形而上学にすぎない。よってこのようなものを真理であるかのごとく学校で教えることには反対運動を起こさなければならない。アメリカでしばしばそういうことが起こるのが新聞報道され、日本人的常識を持つ新聞記者はそれが「アメリカ保守主義のあきれた一面」であるかのごとく書くことも多いのだが、実は、この点に関してはその運動は正しい。進化論は人類の敵である。逆に、日本人の科学崇拝は何とかしなければならない。科学をそんなに尊敬しなくてもいい。量子物理学の巨大な実験装置を作ってやる国家予算があるなら、その金で、証聖者マクシモスをギリシャ語原文で読むような研究者が何百人も養えるのである。その方がはるかに文化的価値が高いはずだ。池田清彦は、「市民は、科学者の言うことが気に入らなければ、何の論理的な理由もなしにそれを信じることを拒否する権利を有する」ということを言っている(『構造主義科学論の冒険』)が、全くその通りである。

と、これはブログであるので、わかりやすいように、わざと過激に書いている。その点はあらかじめ理解した上で、読んでいただきたい。

進化ということについては、ナスル先生はテイヤール・ド・シャルダンの思想も厳しく批判している。これは進化論への妥協にすぎず、霊的思想ではないという。つまりテイヤールは物質から進化して精神が生まれ、それがオメガ点へ向かっていくと言ったわけだが、これは完全にプラトン主義の否定である。むしろこれは唯物弁証法に近い考え方だ。精神が物質から生まれたなどというのは近代人の迷妄の最たるものである。精神とはあくまで神に由来するものであり、そう考えないのは霊的思想からすれば異端である。そのように見てくると、ウィルバーの進化論というのもどうやらテイヤールの流れをくむものであることは明らかである。あれも現代科学との妥協によって現代人に受けがよくなっているものなのだ。私がウィルバーの中でいいと思ったものは、だいたいが過去の霊的思想の考え方を彼が解説している部分であり、ウィルバーがそれを現代科学と折り合わせようとしている部分は、だいたいみんな駄目である。完全にテイヤール的異端に陥っているものであり、私はこれをはっきりと拒否する者である。彼はイデアの実在を信じていないのだ。ウィルバーがいいと言っているのは、他の伝統的な霊的思想を知らないからだ。

ともあれ、私はナスル先生の10分の1の学識もないが、この『知と聖なるもの』のような内容はなんとかまとめてみたいと思っている。つまり断固としてプラトニストであり、断固として神の宇宙的摂理を肯定する思想であらねばならない。そのような視点から書かれた書物が現れねばならないのである。

近代思想なんて吹けば飛ぶようなものだったかもしれない――というのがこの本を読んでいて心に浮かんだことであった。もはや、「これはぶっ飛びのようだが」などというような韜晦も必要ないのではなかろうか。正しいことは、近代人が何を言おうと正しいのである。人間は物質から進化したのではなく、神の内なる永遠の原型から生み出された神の像なのである。天使は実在し、人類の神化のための援助を続けているのである。そして地球はいつか霊化していき、究極的には一つの宇宙サイクルが完結するべく、神の永遠の思いの中ですべて予定されているのである。これらの思想は、近代以前の世界であるならば一つもぶっ飛びに思われるものはなく、しごく当然だと思われていたものにすぎない。それが間違っていると証明されたことは一度もないのである。もっと自信を持って霊的思想についての信仰を言い表そうではないか。つまりナスル先生はそのような「伝統主義者」たることの自信を与えてくれるのである。

0791401774Knowledge and the Sacred
Seyyed Hossein Nasr
State Univ of New York Pr 1989-09

4423170795註解 魂の神への道程
ボナヴェントゥラ Bonaventura 長倉 久子
創文社 1993-04

4886261523祈りの道―祈りの体験の過程
プラチド イバニエス
ドンボスコ社 1995-07-31

霊の目

エウリゲナの「ペリフュセオン(自然について)」を読んだ(『中世思想原典集成6 カロリング・ルネサンス』所収)。

これはまた、人間知性に可能な神認識とはどういうものかとか、万物が神から発出していつか神へと還帰するという終末の時とか、そんな話をしている。教師と弟子との対話体である。

正直、うらやましかった。こういった本を何の屈折も韜晦もなく書けた時代というものが。
ギリシア教父、エウリゲナ、ボナヴェントゥラ・・

私はあまりに、現代の知識について読み過ぎたかもしれない。もし、世の中の学問の大半が、このように「いかにして神認識は可能となるか」とか「歴史における超越的な愛との交わりについて」などというテーマについて考えるものであれば・・いや、少なくともそういう神学・哲学の分離以前のパラダイムに立つ思想が哲学の主流を占めており、高校などでも教えられているなら、どれほど違った文明が展開されていることであろうか。

べつに、複雑な問題ではないのである。ただ一点、「人間には、感覚的経験の次元を超えて、超越的な次元を体験しうる潜在能力がある」というテーゼを、認めればよいことなのだ。つまり「霊の目」があるということだ。

その「霊の目」によって、宇宙から到来する「恩恵」の存在も、理解できるのである。

« May 2007 | Main | July 2007 »

April 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ