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再び、エーテルとアストラル


すでに書いたように「エーテル体概念の歴史」ということが関心あるテーマの一つである、自分でこのように書いたことがあるのを、すっかり忘れていた。

エーテル・アストラル的世界海について

このエーテル体、エーテル界ということでは、高橋巌氏が『シュタイナー・コレクション2 照応する宇宙』の解説として寄せている「シュタイナーの宇宙思想」は、エーテル体の意味を考える上で示唆に富んでいる。つまり高橋氏は、「エーテル界とはシャンバラである」と言うのだ。これはどういうことか?

エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ、とも言っている。さらにそこから高橋氏は、華厳経の「蓮華蔵世界海」という言葉をとりあげ、そうしたアストラル・エーテル界の無限のひろがりのなかに、「光」が満ちわたっているということを論じていく。

そうなんですか。「ほとんど一つに融合して」いるんですか。というより、その同じことを二つの側面から別の名前をつけたということであろうけど。でもそれは、シュタイナーや神智学などのエーテル体・アストラル体に存在階層的な区別を見る思想とは違っている。

でもどうして、それならアストラル=エーテル界を見ることが最終目的となるのか、その高橋巌氏の思想はよくわからない。アストラルというのは中間的次元であるというのが過去の伝統からする常識であるからだ。高橋氏がここで語っているのはアストラル上層のことであって、瞑想がそこで止まってはあかんのじゃないか・・というきわめて素朴なる疑問がわくのであるが。高橋氏はここでシュタイナー思想の解説ではなくてかなり独自の道を進んでいるのではないかと思える。

いっぽう、Verbekeの本を読んでいると、新プラトン主義やヘルメス文書などのアストラル体概念(というか、古代では一般に「プネウマの体」という表現だが)には、インドなどではよくある、コーザル体・アストラル体の区別がないということに気づいた。ただ、「神的領域に行くには、アストラル体も脱ぐ必要がある」という思想は古代にあった。

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