イアンブリコスは西洋の密教である
さて、フィチーノからさらに源流をたどり、イアンブリコスである。イアンブリコスとはプロティノス後の新プラトン主義者だが、グレゴリー・ショー『テウルギーと魂――イアンブリコスの新プラトン主義』という研究書(英語)は、まったくもっておもしろい。
イアンブリコスのテウルギーってのはつまり弘法大師空海の密教のようなものじゃないか、と思う。儀式によって神々の力を自分に引き寄せ、微細体を浄化して神的領域に近づくということだから。この本ではエリアーデのヨーガ研究を引いて、イアンブリコスとヨーガとの類似性も指摘している。
私などが読むと、イアンブリコスは宗教思想としてきわめてまっとうなもののように思えるのだが、西洋では、テウルギーというと「我意でもって神々をコントロールしようというとんでもない邪道」みたいに見られていたところがあったらしい。この著書はそういった誤った像を払拭した画期的なイアンブリコス論である(らしい)。
たとえば次のような考えがある。これはフィチーノにもかなり見られたが、イアンブリコスあたりにさかのぼるらしい。
・宇宙は、究極である宇宙的叡知と物質界との中間に、多数の神霊(ダイモン)などが存在しており、人間は、善意の神霊の助力なくしては、霊的に上昇することはできない。
・人間は、天界から地球に降下するときに、霊的な体(プネウマの体、エーテルの体、光の体などと呼ばれる)を持つ。この霊的な体へ、神的なエネルギーを引き寄せ、浄化していくことにより、霊的向上が可能になる。
・その手段は、薬草、香り(アロマ)、パワーストーン、真言、それに数的象徴などである(最後のはピタゴラス派の伝統である)。
そして、このプネウマ体または光の体によって、神的光が知覚されるとしている。
イアンブリコスは太陽を霊的に重視していた。というのも、物質的な表現のさらに奥に、霊的な太陽というものがあり、それが神的な光の根源だというのである。それは神的な叡知(ヌース)である。
これを読んで思い出したのが、アマテラスのことである。日本神話では、天照大神は太陽神であり女性神なのであるが、実はその女性神である天照大神の奥に、もう一柱のアマテラスがあって、それこそが霊的な太陽なのだという説がある。こういうことは古神道で言われていることである(古神道とは昔ながらのものというより、過去の秘伝的な神道の流れをくむ現代秘教思想というべきだが)。洋の東西を問わず、太陽の彼方に霊的な光を見ることができた人びとというのがいたわけである。
全体として、イアンブリコスの宗教思想について「それはおかしいですよ」とつっこみを入れたくなるようなところはまったくなかった。私は、ネットの旧名でもわかるように、弘法大師空海が覚醒者であることを疑わない者であるが、その目から言うと、イアンブリコスの言っていることはかなり空海と同じである。大日如来が霊的太陽のシンボルでもあることは言うまでもないだろう。逆に、密教とはテウルギーなんですよ、という視点だってあってもいいはずだ。密教は教理のみではない。教理と行は一体である。
哲学とは何かという問いに対して、「徹底的に考えることだ」と定義してしまえば(これは「私は方法論においてデカルトの弟子になります」と言ったことと同じである)、その瞬間にイアンブリコスのような思想は目に入らなくなるだろう。「まっとうな」哲学史の本には名前すら出てこないであろう。
イアンブリコスはかなり「他力」に傾いている。つまり、行というのは決して自力で上がろうということではない。神々の力が入ってくるのにふさわしい身体となるべく浄化を行うということなのである。つまり、神々の救済の業を「待つ」ための準備なのである。
そう考えるとこれはキリスト教の他力思想とそんなに遠いものではない。また、この当時のヘレニズム文明では、イアンブリコスが行っていたような密教的な行はかなり広まっていたと考えられる。イアンブリコスは決してゼロからその密教行法を作り上げたわけではないだろう。たぶんそういうものの一部が、東方キリスト教のヘシュカズムや、イスラムの神秘主義へと流れていったのではないかという推測も成り立ちそうである。