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哲学は宇宙デザイン

ようやく平井さんの『思想』論文、「ルネサンスの種子の理論――中世哲学と近代科学をつなぐミッシング・リンク――」を入手して読む。なるほど概観としてまとまっていて、これは熟読に値する。WEBに出ている個別論文はもっとディープだけれども、だいぶつかめてきた。BHサイトで出ていた文献にも十冊近く気になるものがあるのだが、英語・フランス語にイタリア語まであり、大冊も含まれるので、大変というか、今後楽しみというか。純粋に研究にのみ没頭できる環境ならいいんだが、実際そうでもないし。

ストア、新プラトン主義、フィチーノなどの自然観を読んでいるうち、シェリングなどよりよっぽどそっちがおもしろくなってきてしまった。シェリングもアニマ・ムンディ(世界霊魂)について書いたが、本当は近代の機械論革命以前の世界に住むべき人なのに、無理にカント以降の哲学という環境で生きようとした人だということになる。

「事物の隠れた原因」が人間には不可視の神的な次元にあるという考え方は、村上陽一郎のいう「聖俗革命」の起こった18世紀以前には一般的なものであった。そのような考え方が疑念を持ってみられるようになったのは「実証主義」の勝利によるものだろう。

すべてを、不可視の次元にある隠れた原因という概念を一切使わずに説明しなければならない、それが学問というものだという考え方が知識界に急速に普及したのである。

古代・中世の哲学は、宇宙の根源的な原理を定立して、そこから宇宙像を描くという性質を持っていた。今は、そういう発想の思想は、キリスト教神学に生き残っているだけである。
この「根源的な原理の定立を拒否する」という思想が近代精神なので、その意味で近代の完成者はやはりニーチェである。そう考えれば「形而上学批判」を行ったハイデッガーやドゥルーズ、デリダなどもそういう思想圏内にあるものと見られよう。もっともハイデッガーはアンビバレントであって、後期には新たな形而上学への模索も見られるが。ドゥルーズに至っては完全なニヒリズムの思想であるので、自殺に終わったのも当然であろう。

古代中世思想の美しさにはまっている人間からすると、いったいなぜ「根源的な原理の定立を拒否しなければならないのか」がわからない。もちろんそれは「証明不可能」であるが、そもそも、思想とはその正しさを証明しなければならないものだという発想そのものが、私には存在していないし、自明の前提ではないように思える。ここで、デカルトが近代精神の父であるゆえんもわかる。デカルトは「絶対確実といえる知は何か」という問いを発し、少しでも疑問の余地のあるものはすべて疑えと言ったわけである。その結果、唯一絶対に疑えないものは「私」だけであるという結論に達したわけだが、これはいいかえれば、「不可視の次元にあるもの」としては「私がある」ということ以外は一切認めないと言っていることになるわけである。実際のデカルトというのは、もう少し複雑な思想家なのだが(たとえばフッサールやアンリはデカルトの読み直しによって独自の現象学に到達したし)、デカルトの言うことを抽象した「デカルト主義」としては、明瞭であるのは私という「主観性」であり、それが経験する世界である「客観性」の世界であるという主客二元論の構造になる。要するにここでのポイントは、「絶対に疑えないもの」、つまり「正しさ」を徹底的に追求すると、そういう貧しい世界図式にしか到達しないということである。

現代思想は、主客二元図式ではなく、それを包括した一種のシステム論的な考え方に向かっているが(構造主義はその最たるものだが)、それもまた、根源的な原理を定立しないという前提で語られている。その結果出てくるのが、原理なきエネルギー主義、生命主義的な発想で、ドゥルーズがその代表格だが、実はそれはニーチェのディオニュソス礼賛にさかのぼるし、ベルクソンもその流れから外れていない。この生命主義もニヒリズムの裏返しとして出てきているもので、いずれにしてもそこには「宇宙秩序」というイデーが全く失われている。このような生命論思想も私は否定するものである。

私は、哲学はもはや、「正しさの追求」を放棄すべきだと思っている。正しい哲学などいくら探究してもありはしないのである。それは人間知性は部分的なものであり、神の完全性とは違うからだ(そのへんはクザーヌス思想が参考になる)。
「正しさ」ではなく「美しさ」の追求に立つ哲学がもっと必要なのである。

つまりこういうことである。人間は、その理性の及ばない不可視の次元の彼方から、ある「贈り物としてのイデー」を受け取り、それを表現へともたらすことも可能なのである。古代思想の美しさとはそのような「天界の響き」がそこに休らっていることによるのである。このような発想は近代の哲学者からは消滅してしまった。この発想は「正しさ」のみを追求する姿勢からは出てこないのである。唯一、シェリングなどロマン主義の影響を受けた思想家が、こうした「魂の機能」について少しだけ理解していたのである。

哲学者は天界の響きを聞き、それを表現する――この思想は、古代やルネサンス時代には決して奇異なものとは思われず、むしろ当たり前だと見られていたことを私は知っている。なぜそれをもう一度いまやってはいけないのだろうか。哲学とは「宇宙デザイン」だと思う。

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