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伝統主義者であること

それにしても、最近は、まったく近代という時代など存在しなかったような、「反時代の精神」というか、思考の時代錯誤の世界に浸っているのであった。亡命ロシア人の神学者ブルガーコフの書いた『ソフィア――神の智慧について』は、まったく15世紀以前に書かれたとしても不思議ではないほど頑なに現代思想を拒否するものであった。さらにエリウゲナ、ボナヴェントゥラを読んだ。ボナヴェントゥラの『魂の神への道程』は珠玉ともいうべき霊的な美をたたえた作品であった。その末尾は全く感動的である。これもまた、『フィロカリア』や十字架の聖ヨハネの作品と並んで、きわめて霊的波動が高いもので、「波動グッズ」としても好適ではなかろうか。

またイエズス会修道士イバニエス師の書いた『祈りの道――祈りの体験の過程』や、カルメル会修道士による十字架の聖ヨハネの入門書『愛ゆえに生く』などは、観想の修行によって魂が神へと上昇していく過程を詳しく書いてあり、たいへん参考になる。最近ではスピリチュアル・カウンセリングということばが言われているが、このことばのもともとの意味は、こういった修道会の人で、特に霊性が優れていると認められた人が、後進の霊的進歩についていろいろと助言をすることをいうのである。このような、伝統をふまえた霊性のもつたしかな安定感を知ってしまい、そういう世界に住むようになると、最近のスピリチュアル・ブームがかなりあぶなっかしいものに思われてきても、しかたがないだろう。霊的なことがらへの関心がいけないというわけではもちろんない。問題は、「適切な指導」がなされるかどうかということなのだろう。『祈りの道』の著者イバニエス師のような優れた「霊的カウンセラー」の指導がないと、容易に脇道にそれてしまわないであろうか、という不安である。しかしもちろんこうした出会いというのも神的配慮によるものであるので、要は、「真に神を求める意志」が堅固かどうかの問題なのかもしれない。

それから久々にセイイッド・ホセイン・ナスルの『知と聖なるもの』(Knowledge and the Sacred)を少し読み返してみた。ナスル師はイスラム学者だが、イスラム哲学伝統のプラトン主義的世界観で、近代西欧の世俗的な知を斬りまくるという痛快この上ない名著なのである。ヒューストン・スミスはこの書について、「13世紀のアリストテレスのラテン語訳や、15世紀のプラトンのラテン訳と比肩するくらい、歴史に残る事業になるだろう」などとものすごい激賞ぶりである。しかしたしかにそのくらいすごいものである。奇特な出版社があれば訳して出版してみたいくらいである。これを読むと、いったい西欧の近代知とは何であったのだろうか、という気がしてくる。それはもしかすると何かの間違いではなかったのだろうか。文明がどこか根本的に方向をそれてしまったのかもしれない。私もこういったナスル先生とか、スミスなどの本のおかげで、何とか、教育によって植え込まれてしまった近代的世界観を完全に解毒することができて、今ではオリゲネス、マクシモス、ボナヴェントゥラなどといった近代以前の思想書を、全く微塵の違和感もなく自分のこととして読むことができるようになったのである。

思うにシュタイナーの思想が人気を博しているのも、このような近代的な知の解毒剤として有益だからである。私もいろいろ近代以前の霊的思想に接してみて、シュタイナーの考えというのはかなり霊的思想の基本に近いものであって、その意味では別に新しいことを言っているわけでもないことがわかってきた。シュタイナー自身は「キリスト教と輪廻転生思想の結合こそ人智学で出てきた新しいイデーだ」という意味のことをいっているけれども、それもオリゲネスの思想にその先駆があるのだった。だからシュタイナーを学ぶことは、霊的な思想とはどのような考え方をするものか、を知るには一つのステップとしていいと思う。ただ、彼自身が「霊視」をした内容がいろいろ出てくるのだが、それは正直言うとよくわからない。というか、それを実際に追体験して確証することができないものだから、確かめようのないことを言われてもちょっと反応に困るというところだ。そういうこともシュタイナーが言ったからとして全部受容していっては、これはシュタイナー教になってしまうだろう。まあ、それでもいいという人もいるとは思うので、それはかまわないが、私はこうしたシュタイナー崇拝者のまわりに形成されているアストラル的な構築物のようなものにはちょっと入っていけないエネルギーを感じている。そういう意味でシュタイナーには最近、あまり近づかないようになっている。こちらのブログでも今後あまり触れられることは少ないかもしれない。というのも、そのように「オカルティズム」という形態を取らざるを得なかったというのは、この近代文化の中で霊的思想を語るための一つのやむを得ぬ選択であったのかもしれないが、すでに自分を近代知の束縛から解放してしまうと、むしろ直接に過去の霊的伝統から霊感を得た方が、なんというか霊的な安定感が違うので、そちらの方がエーテル体、アストラル体的な意味で快適になってくるのである。シュタイナーのある面には(これはその信奉者の性質かもしれないのだが)何か狭いところに押し込められていくような感覚のするものがあって、そのへんには違和感を覚える。なんというか、そういう秘密結社的なものにはあまり共鳴を感じないのである。やはりオカルティズムとして自己規定したのであるから、そういうエネルギーを彼自身が多少持っているということはないわけではなかろう。閉ざされた世界でディープさを追求することの快感というのはわからないわけではないが、そういうことにひかれる人は、「自分はカルトにはまりやすい体質を持っている」と自覚して十分に注意した方がいいと思う。私の観察ではシュタイナー・ファンにはルシファー的な体質の人が多いようである。

ともあれシュタイナーについては、もう100年もたっているわけで、ベーメやスウェーデンボルグにつづくヨーロッパ近代の神秘主義思想家として、ある程度客観的な接し方をしていく時期かもと思う。ベーメもそれに近い時代には、今のシュタイナーのように流行していたのではなかろうか。スウェーデンボルグもその思想を実践する教会などが作られていた。今のシュタイナー思想の「実践」のされ方とある意味で似ている。

エーテル体とかいうことばが出たが、先にあげたナスル先生は、そのような微細身体の多重次元があるということも全部わかっているのであります。さらに、存在には次元の階層があると言っていて、つまり、人間よりも神的な次元に近い存在者、つまり「天使」がある意味では実在するということも理解していて、そのようにはっきり言ってもいるのです。天使のことを「ユング的な元型の世界」なんて一見「科学的」に見えることばでごまかそうとしているトランスパーソナルの誰かさんとはぜんぜん違う。それが私などの10倍以上の学識をもって荘重に言われているのであるから全く脱帽である。せめてこの書を理解できるくらいには勉強をした自分をほめてやろうかというような感じかもしれない。

またナスル先生は進化論を激しく批判している。これはスミスの『忘れられた真理』でも出てきた重要なポイントなのだが、近代的世界観を超えるには、「進化論を信じることをやめること」がきわめて大事なこととなる。人間は猿から進化してきたのではない。それはとんでもない迷妄なのである。そもそも生物の種とは進化してできてくるものではない。また、宇宙は物質から始まって徐々に生命体が進化によってできたわけでもない。それは「つくり話」であり、本当ではないと知ることが近代知を超えるための重要なステップなのだ。種がなぜできたのかについては、絶対にプラトンの方が正しいのだ。ナスル先生はかくて、力強くプラトンを擁護する。イデアは実在するのである。イデアが実在すると思わなければ、いかなる霊的思想もない。これは最も重要なポイントなのである。イデアが実在するということが実感としてわかれば、あらゆる霊的思想が手にとるように理解されてくるのである。これは私が体験から申し上げる。(なお、仏教は反イデア説ではないか、という意見もあろう。原始仏教から小乗仏教――わざとこのことばを使うのだが――に関してはそういうところもある。それはむしろアノマリー、例外である。しかし仏教は大乗に至って、有神論的宗教に転換したのである。竜樹など、反イデア説と見えるものは、むしろ擬ディオニュシウスのような否定神学の一形態である)。

進化論は真理ではない。また霊的な思想を破壊する危険な思想である。科学のような顔をしているが、実は唯物主義的形而上学にすぎない。よってこのようなものを真理であるかのごとく学校で教えることには反対運動を起こさなければならない。アメリカでしばしばそういうことが起こるのが新聞報道され、日本人的常識を持つ新聞記者はそれが「アメリカ保守主義のあきれた一面」であるかのごとく書くことも多いのだが、実は、この点に関してはその運動は正しい。進化論は人類の敵である。逆に、日本人の科学崇拝は何とかしなければならない。科学をそんなに尊敬しなくてもいい。量子物理学の巨大な実験装置を作ってやる国家予算があるなら、その金で、証聖者マクシモスをギリシャ語原文で読むような研究者が何百人も養えるのである。その方がはるかに文化的価値が高いはずだ。池田清彦は、「市民は、科学者の言うことが気に入らなければ、何の論理的な理由もなしにそれを信じることを拒否する権利を有する」ということを言っている(『構造主義科学論の冒険』)が、全くその通りである。

と、これはブログであるので、わかりやすいように、わざと過激に書いている。その点はあらかじめ理解した上で、読んでいただきたい。

進化ということについては、ナスル先生はテイヤール・ド・シャルダンの思想も厳しく批判している。これは進化論への妥協にすぎず、霊的思想ではないという。つまりテイヤールは物質から進化して精神が生まれ、それがオメガ点へ向かっていくと言ったわけだが、これは完全にプラトン主義の否定である。むしろこれは唯物弁証法に近い考え方だ。精神が物質から生まれたなどというのは近代人の迷妄の最たるものである。精神とはあくまで神に由来するものであり、そう考えないのは霊的思想からすれば異端である。そのように見てくると、ウィルバーの進化論というのもどうやらテイヤールの流れをくむものであることは明らかである。あれも現代科学との妥協によって現代人に受けがよくなっているものなのだ。私がウィルバーの中でいいと思ったものは、だいたいが過去の霊的思想の考え方を彼が解説している部分であり、ウィルバーがそれを現代科学と折り合わせようとしている部分は、だいたいみんな駄目である。完全にテイヤール的異端に陥っているものであり、私はこれをはっきりと拒否する者である。彼はイデアの実在を信じていないのだ。ウィルバーがいいと言っているのは、他の伝統的な霊的思想を知らないからだ。

ともあれ、私はナスル先生の10分の1の学識もないが、この『知と聖なるもの』のような内容はなんとかまとめてみたいと思っている。つまり断固としてプラトニストであり、断固として神の宇宙的摂理を肯定する思想であらねばならない。そのような視点から書かれた書物が現れねばならないのである。

近代思想なんて吹けば飛ぶようなものだったかもしれない――というのがこの本を読んでいて心に浮かんだことであった。もはや、「これはぶっ飛びのようだが」などというような韜晦も必要ないのではなかろうか。正しいことは、近代人が何を言おうと正しいのである。人間は物質から進化したのではなく、神の内なる永遠の原型から生み出された神の像なのである。天使は実在し、人類の神化のための援助を続けているのである。そして地球はいつか霊化していき、究極的には一つの宇宙サイクルが完結するべく、神の永遠の思いの中ですべて予定されているのである。これらの思想は、近代以前の世界であるならば一つもぶっ飛びに思われるものはなく、しごく当然だと思われていたものにすぎない。それが間違っていると証明されたことは一度もないのである。もっと自信を持って霊的思想についての信仰を言い表そうではないか。つまりナスル先生はそのような「伝統主義者」たることの自信を与えてくれるのである。

0791401774Knowledge and the Sacred
Seyyed Hossein Nasr
State Univ of New York Pr 1989-09

4423170795註解 魂の神への道程
ボナヴェントゥラ Bonaventura 長倉 久子
創文社 1993-04

4886261523祈りの道―祈りの体験の過程
プラチド イバニエス
ドンボスコ社 1995-07-31

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