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ルネサンス学の意味――エーテル・アストラル的文化の復興について

いやいや・・教父や中世神学者の静謐な思考の世界に親しむこの頃であったが、Bibliotheca Hermeticaに刺激されて、ルネサンス精神史にもやっぱり関心が出てきたのであります。その「初心者の部屋」に出ている基本文献はさすがに知っているものが多いが、全部読んでいるわけではない。そこにはのっていないが全く初めての人は、村上陽一郎の『科学史の逆遠近法』(講談社学術文庫)なんかがいいんではないかと思う。基本文献とはいえ、そのページにのっている本はかなりむずかしいものが多いので。「プラトンのイデア説って何?」というような人はまったくお呼びじゃありません。

西洋精神史にも脈々と流れる「気」(プネウマ、スピリトゥス)の伝統、それを使ったtheurgyの伝統など、現代の精神状況にも示唆するところが多い。テウルギーとは魔術などと訳されてしまうが、「微細エネルギー的技術」なのである。これらはルネサンス時代まではリアルなものだと見なされていた。現代の私たちはたとえば、気功法で天から「天の気」を取り入れたり、レイキを使って遠隔ヒーリングを行ったりもするが、それはルネサンスではリッパに魔術という名で呼ばれることができたものである。もちろんルネサンス学の研究者も、気やアストラル・ボディというコンセプトのことは平気で議論するが、それをリアルなものとして「実践している」という人が目の前に出現すると困惑はするだろうと思う(笑) しかし現代のいわゆる「精神世界」の中にあるもののほとんどはルネサンス文化の中にあったのだ。もちろんそれはルネサンスの独創ではなく、東方(アラビアなど)から入ってきた文化にいろいろと解釈を施したものだ。そういうのをひっくるめて「ヘルメス的知」と呼ぶのだが、そういうものが一斉に開花したという点で、ルネサンスと現代は大変似たような文化状況にあると思う。その意味で、ルネサンス学を勉強しておく意義は大きい。(もっとも私は、とても研究者レベルではない。研究者になるには、少なくとも、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語にギリシア語・ラテン語が読めなければならない)

つまりそれは、いうなれば、エーテル体的、アストラル体的な文化なのである。それはそうした次元における「具体的な技術体系」をも含んでいた。ルネサンス文化はもちろん宇宙の根本的調和と、その根源たる神の栄光が実在することを疑わなかったけれども、そうした究極次元と物質次元との中間である「微細次元」の実在を認め、実際にその次元のリアリティと関係していく文化を持っていたということである。それを「想像界的な文化」ということができる。この前紹介した永井晋の『現象学の転回』もそれに注目したものだ。しかしこの次元は純粋な哲学的方法では追求できないので、そういう試みはおのずと限界もあるだろう。

なぜシュタイナーが日本で人気があるのか? といえばそれは、こうしたエーテル体・アストラル体的文化を包含し、人間の霊的次元を語っている体系的な思想というものは、普通の人が接しうる範囲では、シュタイナー思想以外には全く存在しないからだと思う。こういうタイプの思想は近代では異端になってしまったが、ルネサンス時代まではむしろヨーロッパ文化では相当有力であったということは知っておいて損はないことである。ヨーロッパ文化は「科学革命」の時期を機に非常に大きな転換をしており、一切の「想像界的文化」が「怪しいもの」として蔑視されるようになったのはそれほど昔のことではない。私がここでエーテル体・アストラル体という用語を使っているのも、そう書いた方がわかりやすいからで、ルネサンスにはまたその時代の用語があったことはもちろんである。あんまりシュタイナー(ないし神智学)の色がついているので別のことばにしたいのであるが、通りがいいのでこのように呼んでしまう。あるいは「微細エネルギー的な文化」などとも言えようか。

それからアーノルド・ミンデルのプロセスワークもエーテル・アストラル的文化の復興であると断言してよい。ミンデルのドリームボディというのはそうした微細身体の文化の系譜を引いている。それは本人が『ドリームボディ』という最初の著書の中で明言しているとおりである。

微細エネルギー的な文化は「神秘主義思想」とはまた別のものである。神秘主義というのは「人間には身体的感覚以外にも霊的感覚というものが存在し、それを媒介として神との交わりを体験しうる」という前提で成り立つ思想である。そういう交わりへ向かうための手段として、微細エネルギー技術を活用する場合もあるし、使わない場合もある。使わない場合というのはたとえば瞑想・観想のみを用いるもので、キリスト教神秘主義の主流はそういうものである。微細エネルギーを使うというのはヨーガとか密教に見られる文化である。だから微細エネルギー技法を使う、使わないというのは仏教でいえば「密教」と「禅」に対応すると思えばいいだろう。いうまでもないが微細エネルギー技法とはイメージ、つまり想像界と切り離せないのである。なお、ここで、マントラ、真言、念仏などは微妙な位置に立つ。それはイメージを一点に集中させるので禅的な方向性にも見えるが、マントラは微細エネルギーの回路を活性化する要素もあるのだ(それはやってみればわかる)。

現在における霊性復興の動きは、基本的には近代文明に対する「カウンター・カルチャー」という意義をなお持っているものだと思う。その際には大きくいって三つのポイントがあるということになる。

1.人間には霊的感覚があるということ。つまり超感覚的認識の可能性へ向けて開かれている存在である、という人間観。これは「原人=アントローポス」の復権と呼ばれる。
2.宇宙は全体として調和があるということ。つまり根源において宇宙的な叡知があり、それにより支配されているという宇宙観(コスモスの復権)。なお、このテーゼを定立するためには「悪の問題」を解決しなければならない(それはオリゲネス的思想によってなされるが)。
3.そしてもう一つが、宇宙には次元階層性があり、さらに、この中間的な次元、微細次元と人間とが関わり、そこに交流があり得、またそうした交流によって人は神的なるものへ導かれるということ。(天使学、および、エーテル・アストラル的文化の復権)。

これは近代文化の常識に依拠する人びとにとっては「トンデモ」であろう。しかしルネサンス時代にはかなり常識であった見方なのである。

エーテル・アストラル的文化は、一度は近代文化に激しく負けていたものが、また巻き返そうとしている状況になっている。これは対抗文化であるので、いまは、もっと勢力を伸ばそうとガンバルべき時期であるのは当然である。それなりのリスクを覚悟しなければ対抗文化に身を投じることなどできるわけがない。このページをよく読むほどの人は、新しい文化をそこに創造しているのだというくらいの気概を持ってもらいたいと思う。

ちなみにナスル先生の『知と聖なるもの』でも微細身の多重性を肯定していたが、そこの注を見るとミードとかリードビーターなど神智学系の文献だけが出ていて、それはちょっとマズイ。もっとルネサンス学の成果を生かすべきであった。たとえばクリアーノの『ルネサンスのエロスと魔術』とか、ウォーカーとかいろいろある。

しかし「魔術」ということばはどうもねえ。それだったらカトリックのミサはどうなのか? ある儀式をしたら聖霊が来るということは、エネルギー回路が次元間に樹立されているわけですよねえ? それならそれはレイキも念仏も同じこと。そのようなものとして「上」と契約がされているからそうなっているということだ。別に何の神秘もないことだと思う。そのリアリティに立ってみれば、スイッチを押せば電気がつくのとそれほど変わらない。それも電気という技術を知らない原始人が見れば魔術と思っただろう。文献だけで理解しようとしている「魔術研究者」は、実際にどのようなことが起こるのかわかるものなのであろうか? そのへんは批判的に吟味せねばならないかもしれない。どうも魔術ということば自体に、キリスト教正統派からの偏見も感じてしまうが。というのもこうした「技術」に対する不信感は、アウグスティヌスなどの立場(人間は何もしてはならず、神の恩恵を待つべきであるという思想)を正統とする発想から来ていて、ヨーロッパ文化では基本的に、その両者を二者択一と考えたがる傾向があったということはおさえておくべきポイントである。

いずれにせよ、現在におけるオルターナティブな文化の創造のために、近代とは全く異なるシステムで文化が成立していた、古代・中世・ルネサンスなどの思想文化については、いくら勉強しても損はないことであろう。近代においてそれが「秘密結社」的な形態でのみ生き残っている姿を絶対視してはならないのである。

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