« こぼれ話と神的知性について | Main | 古代思想のディープさについて »

波動および気息魔術の話

またも平井センセのフィチーノ論文・・これは国際的なフィチーノ論集に入っているのだが、その中でもこれは抜群におもしろい(といって、他のはまだ二つしか読んでいないのだが)。それと、BHサイトで提示されていたボノによるフェルネル・ハーヴェイについての論文は、ルネサンス的思考から近代的思考への変化がどのようなものであったのか、ひじょうによくわかるものとなっている。簡単に言うと 1.すべてを、観察可能なことがらの間の関係として記述すべきこと(つまり、観察不可能なレベルの事象が、ものごとに影響を及ぼしていることはない、という見方)、2.ことばは記号である(つまり、観察可能な対象を指示するものである、いいかえれば、ことばの「隠れた意味」というものはない、ということ)。ルネサンス的な「象徴の森」的世界感覚から、すべてを明晰な眼で見て、そこで見えるものが世界の全てだと見なすという近代精神。これはフーコーの『言葉と物』に描かれたとおりであるが、それがフェルネルとハーヴェイとの対比で簡潔に描かれている。そういえばヒルマンの世界霊魂論でも、ハーヴェイはルネサンス的世界観の破壊者として描かれていた。(それにしてもこのフィチーノ論集、論文によっては、ラテン語の引用文に訳がつけられていない。「ラテン語読めないやつはお呼びじゃない」てなハイブロウな雰囲気も・・(汗) )

そろそろ、平井センセの本丸であるフランス語著書を取り寄せるか・・(なお、私などがこういう文献を入手するのは、図書館相互貸借という方法を使うのであり、いちいち全部買っているわけではない。だいたい、もう売ってないものが半数以上だ)。

いささか「業界語」に属するが、「波動がいい」とか悪いとかいう言い方がある。それはある経験の領域に対応していて、実在する事象を指しているわけだが、つまりそれはどういうことなのかを考えてみる。そうするとこれはやっぱりルネサンスでいえば「気息魔術」の領域なのだと言わざるを得ない。現代の思想でそれに類似した観念を求めると、市川浩の身体論の中にある「身の共鳴」というコンセプトが比較的近い。ここでいう「身」の概念はまだ微細身であるとまでは言っていない。しかしメルロ=ポンティの思想にしたって、要するに気息魔術で見えている世界を現象学的に叙述したものでしょ? といえば、一見ぶっ飛びにも見えるがけっこう的をついているところもないではないのである。ただ、現象学の立場はそれより根底にある原理にまで遡行できないので、限界あるのはいたしかたないところ。いずれにしろ、波動というのは共鳴作用に関連している。そして波動とは霊的エネルギーという概念を前提としており、つまり気息なのである。気息(スピリトゥス)とは神的領域と物質界を媒介する何かであり、共鳴作用を起こす。高い領域への共鳴を起こすものを「波動が高い」とか称するわけである。つまり、「波動」というコンセプトは、一見物理学風に見えるが、実はルネサンス的気息魔術の世界の復興である。19世紀には、「エーテル」が自然科学っぽいのと同時に霊的なコンセプトでもあったのと同じことが「波動」というコンセプトにもあるような気がする。さらに言うまでもないことだが、もともと「気の文化」は東アジアの伝統である。気の文化とはエーテル体・アストラル体的文化に対応する。

しかしこれを現象学として記述しようとしても、結局メルロ=ポンティを超えることができない。気の本来の意味を語るには、宇宙の根源領域として霊的次元があり、物質世界はそこから展開されたものだという宇宙デザイン(形而上学)の枠組みが求められる。そうしないと、波動が高い・低いということの基準が立てられないのである。

« こぼれ話と神的知性について | Main | 古代思想のディープさについて »

霊性思想」カテゴリの記事

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ