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物質と魔

近代において神が忘却され(聖俗革命)、物質主義世界観の勢力が強くなったのは、一部では「アーリマンの支配に屈した」などとも言われるが、反面では物質的生活が向上したということでもある。また19世紀から20世紀前半までは植民地主義と戦争の時代であって、マルクス主義の説く階級闘争もまたさかんであった。私が学生時代だったころはいまだ「国家独占資本主義」を講壇から説くような大学教授もあり、学生の読書会といえばマルクスだったりしたのである。この頃は、貧しい人がいることは社会の責任という考えだったのだが、いつのまにか、貧しいのは自己責任だという論理がまかり通ってしまった。

霊的な関心が目覚めてきたのは衣食に不自由しなくなったからだというのも事実だし、それはマズローの「欲求の階層性」という理論でも語られている。事実、欧米や日本などでニューエイジ的、と言って悪ければ非伝統的な霊性に関心を示すのは、比較的高収入・高学歴の「ロハス層」であることは調査の結果からも明瞭である。

昔、小松左京のSF『神への長い道』という作品があった。そこでは、未来社会において、物質文明が爛熟し、生きることに不自由しなくなった人びとが、「結局、生というものはどういう意味があるのか」と問い始めた・・というところから話が始まっている。それは文明の発展というものの必然的プロセスである(それはトインビーの歴史観でもいわれている)。ギリシア文化は奴隷労働に支えられて成り立っており、その労働の収奪によって生まれた閑暇によって、ソクラテスやプラトンの哲学もできたのだ、といえばそれはたしかにそうである。しかしだからといってプラトン哲学の意義がなくなるわけではない。そんなことを言うのは全共闘か毛沢東主義者だけである。多くの人が、哲学や霊性思想に興味を示すほどに、社会の生産力が向上したのはけっこうなことであり、そのために一度は物質主義に浸らなければならなかっとしても、こういう今の状況を否定すべき理由はない。全共闘的思考の影響が残る世代のオジサン思想家は、ロハスなんて結局は資本主義の論理に組み入れられてるじゃないか、と悪態をつくかもしれないが、だからといって霊性に関心を持つのはやめて共産主義運動に身を投じるべきだというであろうか。こういうマオイストは無視しておこう。(ただ、言うまでもないが、マルクス思想も歴史的に一定の意味はあったのである)

とりあえず物質主義的な経済発展により、絶対的貧困が消滅したということは近代のプラス面として評価しなければならない。ケン・ウィルバーも強調しているが、近代が達成したことがらも決して少なくないのであって、いまさら中世に戻ろうという思想を語れるわけがない(トーマス・マンの小説『魔の山』には、そういう過激思想を語る人物が出てきて、なかなかおもしろいのであるが)。私も個人的には古代・中世的な思想家像に好感を持ってはいるが、近代をまるでなかったことにしたいなどという中世復古の思想家ではない。そんな単純なものではないので、誤解なきようお願いしたい。ただ、現代はすでに近代とはまったく違う時代であるという確認が必要だとは思う。アーリマン的物質主義化はすでにその役割を終えた。実は、それはもうすでに私などが戦うべき相手ではないのである(もちろん、ごりごりの反動的フラットランド主義者もいるが、そういうものはすでにマイノリティーであり、自分が負けそうなことを知っていて最後の抵抗をしているだけである)。

シュタイナーの「文化期」っていう概念はあまりよくわからないので私はパスしているが、少なくとも近代から現代へ移行するときに大きな文化期の変動があったと思う。明らかに現代に入ると、アーリマン的衝動は退潮しつつある。そこで新たな霊的文化に向かいつつあるという方向ははっきりと出ている。そこで、古代・ルネサンス以来の伝統が復興することはあるとしても、それはまったく新しい連関の中であり、これから来るものは以前にあった何ものにも似てはいないであろう。

さてここから、少しばかり神学的な思想に入っていくが、そもそも、地球の進化方向としては、天界に実現していることがらが少しずつ地球上に実現するのが基本的な方向である。すなわち、天界では物質的なニーズは意識するだけで満たされるのであるから、現代文明が徐々にそういう方向に向かっているのも当然なのである。つまり、物質世界自体が徐々に「アストラル界的」な性質に移行しているのである。これはきわめて長い時間に起こる神的計画の一部なのだが、現代はかなりそれが凝縮して急速に起こっている。物質界の抵抗性を打破していくことが地球の進化方向であるが、そのために、一度は物質界の底深く入りこむ必要があったのであろう。つまり、一度は物質主義に文明全体が触れたということも、深い神慮によって起こったことがらであり、それには歴史的、また形而上学的な意味があるように思う。IT化、ネットによる情報化も、アストラル界化の加速である。そこには当然、「アストラル下層」的なものも生起し、それがたとえば某巨大掲示板の世界である。これらは、人間の魂の中にあるものが物質次元に展開しやすい状況が起きているということである。こういう時代であるから当然「魔」も跳梁するし、魂のダークな部分がすぐに出てきやすい精神状況が作られているのである。ネット上でしばしば、集団的な袋叩き行為が起こるが(アマゾンのレビューにも時々それがある)、物質界の抵抗性が弱まっているため、魂の中にあるダークな衝動がストレートに出てくるようになっているのである。多くの人が時代の雰囲気の変化を感じていると思うが、物質界の抵抗力が弱まり、アストラル界化してきていることがその根源にある。(もちろん、それはとりあえず物質的な意味での「先進国」の事情であって、地球的に見れば絶対的貧窮の問題はまったく解決されていないが)

それに対して一部の人は、合理的理性を強めなければならないという。それは決して反動ではない。合理的理性は重要である。科学的なものの見方など、「健全なる唯物論」は、人間が世界に対してとりうる認識図式のレパートリーの一つとして(それだけを絶対化しないならば)意義のあるものである。しかしながら、合理的理性を人間の中心においた近代世界が、ファシズムや戦争などを止められなかったのは歴史的事実である。合理的理性は必要だが、それだけでは不十分であるのも明白である。アストラル下層的な衝動に対抗するためには、アストラル次元を超えた神的領域とつながり、そのエネルギーを感受する「神的知性」の覚醒が必要なのである。それによってしか「魔」と対抗することはできないのである。それと同時に、「物質性」へとグラウンディングすることも平行していきたい(ある程度実践した人にはおわかりの通り、グラウンディングが十分でなければ「上」へ進むことにも限界が生じるのである)

しかし思想的には、現在戦うべきものはもうすでに「物質主義」ではないのである。むしろ、ダークな衝動があからさまに噴出するアストラル界化のプロセスかもしれない。気がつかないかもしれないが、人びとは昔に比べて、いろいろなエネルギーに対して鋭敏な体質になっている。人間というゲシュタルト構成の様式自体が昔とは異なるのだ。ある意味で「開いてきてしまっている」のであり、それならば、そういう状況の上で、どうすればよいのか考えることが必要になっている。

神学とは「知解を求める信仰」といわれるが、つまりは、魂のもつ霊的感覚と、合理的理性との調和を図ることである。つまり経験だけを信じると危ないということである。なぜ神学が必要かといえば、それは端的に、魔やカルト、偽グル、偽預言者の危険を避けるためであり、そこまでいかなくても、自分はいまどこにいるのかを理解し、変な方向に行ったり、途中で満足して止まったりしないためである。そのために、神とは何なのか、宇宙とはどういうもので、どういう目的があるのか、ということを考えておき、そういう全体的なグランド・デザインの中で自分の立ち位置を確認できるということが、思想の意義なのである。

魔の力も強くなっているので、興味本位で霊的領域に首を突っ込むことも危なくなっている。そこで大事なのは、シュタイナーの『いか超』でも強調されているが、「畏敬の念」から出発することだと思う。仏教では「発菩提心」が最も重要なことなのであるが、それも似たような意味である。このページを見た後に某巨大匿名掲示板へ行くような人は、十分に魔にはお気をつけください。

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