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星気体(アストラル・ボディ)をめぐって

Wikipediaで「アストラル体」を見ると、シュタイナーのことしか書いていないが、アストラル体の概念は西洋精神史においてストア派など古代以来あるものである。アストラルとは「星の」という形容詞である。したがって、星の影響下にあるものというのが伝統的な解釈であった。(Wikipediaは全くの素人さんが書いていることもあるので、使用には注意しなければいけない)

たとえばフィチーノ(イタリア・ルネサンス期)では

フィチーノの心奥には、新プラトン主義的な星気体(アストラル・ボディ)、すなわち、それが地上界の体へと舞い降りる間に通過するさまざまな星辰や天球層から霊魂が獲得する霊妙なる媒体(スケマ)という概念があったものと思われる。この媒体は、元来は繊細で光り輝く、星のごときものだったが、この地上では、重苦しく暗鬱なものとなり、純化してより霊妙なものにしない限り、臨終の際に霊魂を地獄へ引きずり込むか、さもなくばいっそう劣った転生へと導いてしまう。かかる精気概念に鑑みれば、星辰に由来する以上、精気という媒体が星辰の影響を格別に蒙りやすいという考え、また臨終の際に霊魂を離れず、霊魂を堕落させてしまうこともある一方、十分に光り輝き乾燥していれば霊魂と共に天界へと上昇することも可能であるゆえ、精気の純化は焦眉の急務だという考えは、一応説明がつこう。 D・P・ウォーカー『ルネサンスの魔術思想』p.48

中国には、身体の気から「陰」の要素を去って純粋な「陽」にしていくという霊的変容のプロセス(内的錬金術、つまり「内丹」)が語られるが、これは上の西洋的な発想との類似は誰の目にも明らかである。つまり、こうした発想は東洋の専売特許ではなく、西洋精神史にもあったものが、西洋ではある理由から、ある時点からそれが「地下」に潜らざるを得なかったという歴史的な事情がある。フィチーノでさえ、キリスト教の教義にあからさまな異論を唱えてはならないという緊張があったということが、ウォーカーの本にはいろいろと述べられている。

このように星気体に働きかけてそれを純化する方法には「断食、祓い、香の使用、呪文」などがあった。これらがルネサンス的な意味での「魔術」なのだ。魔術といっても、クロウリー的なかなりマニアックな形態を想像してはいけない。ああいうのは近代化の裏面として出てきているものである。フィチーノがやっていたような「魔術」は、私やこのページの読者なども日常やっているようなことがらなのである(「祓い」はしませんが・・でも「場の浄化」くらいはするかな?) 「呪文」も、「アファメーション」と置き換えてみればどうだろうか?

ウェブスターの『パラケルススからニュートンへ』では、「神霊魔術」「妖霊魔術」という訳語が出てくるが、この訳語はかなり誤解を招く。前者は spiritual magicであって、これがクリアーノの訳書では「気息魔術」となり、ウォーカー本では「精気魔術」と訳されるのだから、わけがわからない。「神霊魔術」という訳語では、それが spiritus に関わるものだという意味が出ないという欠点がある。後者は demonic (daimonic) magicだと思われる。これを「妖霊」と訳すと西洋精神史に疎い人には思い切り誤解を生じさせる。これはソクラテスの話で出てくる「ダイモン」に関係している。つまりこれは「非物質的存在者」、肉体を持たないが宇宙のある次元に生きている生き物をいうのである。ダイモンには善いダイモンと悪いダイモンがあることも常識だった。そうしたダイモンの力を借りようという行為がdemonic magicなのである。フィチーノもこれに関わっていた。西洋精神史には、キリスト教とプラトン主義思想との微妙な交錯と対立があって、ダイモンとはキリスト教にとっては危険なものに映ることもあり、すべてのダイモンを「悪魔」と決めつける考えも出てきたわけである。「妖霊」という訳語は最初からそういう立場に立っている価値観を含んでいるのでよろしくないと言うのである。日本の神社の神々などは西洋的な枠組みで言えばほとんどは「善いダイモン」であるので、神社に参拝してお札をもらったりするのは立派な「妖霊魔術」となってしまうのである。そうことも考えた上で訳してもらいたい。

ドイツ語の「デモーニッシュ」というのは必ずしも悪い意味ではなくて、何か不可思議な深みからの力に捉えられているような状態を言うが、これが日本語の「鬼のような」という表現とよく対応するのもおもしろい。言うまでもなく、ニーチェのディオニュソス礼賛は、こういう精神史的な背景を有している。

フィチーノと星との関係については、『内なる惑星』という本が詳しいだろう。これはヒルマン系の心理学者が論じたものだが、ヒルマン系の元型心理学はフィチーノ的なパラダイムの復興をもくろんでいるユング心理学の急進派である。というか、ユングを、フィチーノやパラケルススなど、ルネサンス的な精神史に位置づけることはもはや常識に近いことである(詳しくは、湯浅泰雄『ユングとヨーロッパ精神』など参照)。

ところがこの訳書には鏡リュウジが関わっているが、あとがきで、「著者はどうも占星術をイメージ世界として理解していて、占星術を本当には信じていないのではないか」などと書いていたのには思わず笑いがもれてしまった。
占星術に対しての私自身の立場は、著書でも書いたのだが、「星は単なる物質ではなく、ある次元においては霊的領域として存在するという古代的観念には、ある程度真実が含まれているかもしれない。とすれば、そうした霊的領域が、人間の微細次元に対して一定の影響力を持つという古代的な考えも、全く排除すべきだという理由もない。ただし、現存の占星術のシステムが、それら微細次元の関係を解き明かすだけの技術水準を持っているのかどうかについては疑問も残る」というものである。現状においては、あまり「マジ」になりすぎず、「宇宙との戯れ」として美学的に受け止めておくのが無難な線である。まあ実際、ほとんどのクライアントはそういうものとしてやっているのだろう。占星術に限らず、こうしたルネサンス的魔術に対しては、「いい加減でもなく、さりとて極端にマジにもなりすぎず」というような中庸を保つスタンスがよいと思う。

というわけで、アストラル体(星気体)についてはだいぶわかってきているわけだが、一方、「エーテル体」という概念はどうなのか。エーテル体ということばそのものはあまり精神史の中にはない。エーテルとはむしろ一時期の「科学的概念」であって、そこには神秘的な色彩はなかった。しかしヘルダーリンやノヴァーリスなどドイツロマン主義の中では「エーテル的プラトン主義」というものがあって、ここでは宇宙全体を循環するあるエネルギーが考えられ、エーテルとはある霊的な世界領域をも指していたのかもしれない。こういうエーテルというイデーと、古来のspiritusのイデーとは、いかなる歴史的関連を持っているのか。そのへんについての研究はどこまで進んでいるのかは、今後、調べてみなければならない。もしかすると、これは新プラトン主義伝統でのspiritusのイデーを、その当時の科学概念である「エーテル」という語を用いて表現しなおしたものではないかとも推測できるのだが、この仮説がどこまで正しいかどうか、研究をあたってみなければならない。なお、日本の人智学者・高橋巌氏が最近の文章で語っている「光としてのエーテル界」というイデーは(たとえば『照応する宇宙』の解説文)、明らかに、シュタイナーそのものより上に述べたヘルダーリン的なエーテルのイデーに接近しているものである。これは高橋氏のドイツ精神史研究者としてのバックグラウンドからして当然か。

シュタイナーの言うエーテル体というものは、古来の星気体と言われてきたものを、エーテル体とアストラル体の二つに分割しているものであると思われる(それはブラバツキー系の神智学に始まるのかもしれないが、私はこの系統についてはよく知らないのである。美学的にちょっと合わないので)。この分割は、肉体次元への近さ・遠さによって分けられているようである。オーラソーマでもこの二分割があり、エーテル体にはポマンダー、アストラル体にはクイントエッセンスということになっている。実際この両者を使ってみるとたしかにその微細身体への作用には差異があることは体感可能である。ヒーリング技法にはもっぱらエーテル次元に作用するというものも多いし、この分割はプラクティカルなのだろう。ただ、伝統的にアストラル・ボディ(星気体)といわれるものは、シュタイナーのアストラル体とイコールではなく、エーテル体とアストラル体を一括したものをだいたいにおいて指している、ということらしいのである。

ともあれ、現代における「身体性の復権」という思想には、その先端的な形では、ヨーロッパ精神に底流としてあったルネサンス的魔術思想との絡みが出現しており(ここで言う「魔術」の意味については繰り返さないが、オーラソーマが「ルネサンス的魔術」そのものであることは、ここまで読んだ人には自明だろう)、それと東洋的な「気の文化」復興との連動が進行している。かつての津村喬による『東洋体育の本』や一連の気功本も、その一つであったし、最近では齋藤孝による『呼吸入門』も、呼吸を整えることによって大宇宙とのつながりを実感することについて述べられている。これは私に言わせれば立派なる「気息魔術のすすめ」になるわけだが、齋藤はその一歩先にある神秘主義的世界には決して入らず、距離を保つことによって保守層にも食い入ることに成功しているわけである。齋藤氏自身はたぶんその先にある世界も多少知っているのだと思うが、そこは「戦略」の問題である。また見方を変えてみれば、メルロ=ポンティの描いている世界リアリティなども、私には、「気」という媒質の中で、微妙な「照応」を繰り返す世界であるようにも見え、その意味ではルネサンス的な世界感覚の再出現ではないのか、とも思えるのである。事実かれは「世界の<息>というものがあるのだ」と明言していたはずである(たぶん「眼と精神」の中で)。


6.15追記

平井ハカセ論文をいくつか読むうち、エーテルについてもヒントがつかめてきた。
あとはさらに論文を渉猟するのみ。

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