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こぼれ話と神的知性について

いろいろ本を読み直してみると、最初読んだとき気がつかなかったことが目に入るわけで・・

たとえばヘルダーリンのプネウマが、ストア哲学の受容であった可能性と、プネウマ=ガイスト(精神)としてドイツ観念論の成立にからんでいたかもしれないという指摘が、松山寿一『科学・芸術・神話――シェリングの自然哲学と芸術-神話論研究序説』にはあった。(松山氏ではなく別の人の説を紹介するものとして)。思うにエーテルとプネウマという概念はイマージュ的には容易に混交していくもののように感じるが・・ 一方エーテルについて松山氏はニュートンから系譜をたどっているが、どうやらヘルダーリンやシェリングあたりにおいては、ニュートンら自然学からのエーテル、ギリシア哲学の第五元素(天界的元素)としてのエーテル、それとプネウマという概念はかなりオーバーラップしていたのではなかろうか。ストア哲学を読んだこともあるだろうが、その媒介としてフィチーノらの影響はなかったのだろうか? こんなことを考える。

また以前、「トマス・アクィナスの哲学もさることながら、彼が晩年の神秘体験のあと筆を折り、沈黙したという、その『沈黙』の意味を考えることも大事ではないか」という疑問を述べたことがあるが、やはり同じことを考えた人は過去にもいるもので、上田閑照『マイスター・エックハルト』(人類の知的遺産から講談社学術文庫)を見直したらまったく同じことが書いてあった。上田氏は、そのスコラ哲学で語れないことがらを説教という「話されたことば」として述べたのがエックハルトではないか、として彼のドイツ語説教の意味に注目するのである。

余談であるがドイツ観念論といえば、ヘーゲルの研究者などものすごい数である。そんなにいらないので、その一割でも、エウリゲナやボナヴェントゥラの研究をしたらどうであろうか。ヘーゲル研究などよほど優れていないと「その他大勢」で一生が終わるが、日本でエリウゲナ研究をすればすぐに「第一人者」になれるのに(笑) それはともかく、素人の妄言としていうなら、ヘーゲルの思想はどうみてもちょっと誇大妄想ではないかと感じられる。つまり、本来は霊的な探究として、自己を浄化し、霊的な照明を受けて少しずつわかっていくべきことがらを、「哲学的思考」のみによって遂行できるという観念によって、ヘーゲル哲学というものが成立しているように、私には思われるのである。このように、すべての霊性的行為の総体を哲学によって代替しようという発想は、伝統思想に親しむ者からすれば誇大妄想としか思えないわけである。ふつう、哲学的思考のみによって絶対者の認識に達しうるなどと本気で考えることができるわけがない。何か、畸形の巨人のような思想である。だから、ヘーゲルの研究としては、もともと神学生として、真摯に神を求めていた青年から、いかにして「哲学的思考の独立性」という思考を抱くに至ったのか、そのプロセスがいちばんおもしろいということになるだろう。そこにおいては、フィヒテ、シェリング、ヘルダーリンなどとのからみも出てくるのである。そういえばハイデッガーももと神学生だった。つまり哲学史というものは哲学の「外」にある、霊性的伝統との相互連関のうちに見ていく必要もあろうということである。ある意味で、霊性的伝統に対する「信」の弱体化が哲学的思考を突出させたという面もあろうかということだ。

よく哲学の一般向き入門書を見ると、必ず「哲学とはあたりまえのことを徹底して疑うことだ」と書かれている。たしかにそれはまちがいではないし、私も入門講義でそのように言ったことがある。しかしそうした「懐疑」だけを全面的に押し出すということは、「私は、近代以降の哲学をやりますよ」と宣言していることになる。つまり、「疑い」というものを持つ知性を、哲学を遂行する中心として定立していることになり、これはデカルトの方法論を受容しましたという信仰告白にほかならないのではなかろうか。それが最近、私の中に動いている疑念である。

人間とは多重次元からなる存在だという立場に立つならば、そもそも「懐疑的知性」のみを絶対化するという探究方法は、部分的であることになる。人間は、魂レベルにおいても探究しなければならない。極端な例でいえば、もしそれが微細身レベルでも何かをすべきだということになれば、それはストア・新プラトン主義・フィチーノなどのように一種の「テウルギア」(微細エネルギー的技術)の採用という考えにつながる。

ここで私が何を言いたいかというと、それはナスル先生と同じことで、哲学的な探究というものが「合理的知性」のみを使用することによって成り立つべきであるという思想そのものは、必ずしも自明ではなく、そのように哲学を定義した瞬間に、一つの立場を選び、他の可能性を捨てているのだということに気がつかねばならない、ということである。真理を覚知しうるのは私たちの中の「神的知性」であるというのが古代的な観念だが、近代哲学はまっこうからこれを否定する。ヘーゲルの哲学は神的知性の座を哲学的概念構成によって代替せしめようという試みであり、ある意味で、近代人的妄想のきわまりであるという見方もできようということである(これはそういう見方もできるということで、だからといってヘーゲルの思想的意義を全面的に否定するものではない。念のため)。

たとえば哲学を定義し直せば、次のような規定も可能である。

哲学とは、常識を疑うことから出発するが、それだけではなく、人間のうちにある神的知性(ヌース)を目覚めさせることにより、神的なことがらを覚知しようとし、それとともに、合理的知性および想像力を用い、その覚知したことがらに基づいて、世界・人間について全体的なデザインを描こうとする行為である。

ここで「神的知性なんてほんとにあるんですか?」という問いに対して、その「証明」は用意しない。「まあ、実際に目覚めてみればわかるんじゃない?」ということである。これは「(証明されたことという意味での)正しいこと」を述べているわけではなくて、「そのような道筋で行けば、いろいろわかってきますよ」という道しるべとして言われていることである。

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