« June 2007 | Main | August 2007 »

イタリア語中級編

この前も書いたように少しイタリア語の勉強中である。
選択科目のイタリア語初級をとったのは学部時代であるから、ずいぶん古い。その後、菅田正明『現代イタリア語入門』と興松明『現代イタリア語講座』は読んでいるから、基礎的なところは知っているはずである。それと、なんといってもラテン語系の語彙がフランス語と共通するところが多いので、語彙習得の手間がだんぜん楽である。逆にドイツ語などはむしろ語彙を増やすのにちょっと苦戦するところがある。

そういえば「リンガフォン・イタリア語」というのも買ったことがあるので、押し入れを探して引っ張り出してきた。この当時はイタリア語ブームの前で、かなりマイナー言語だった時代であり、リンガフォンも説明書が英語版である。しかもCDではなくカセットである(イタリア語がメジャーになったのは、NHKにイタリア語講座ができたあたりであろうか。中田の活躍も効いたかもしれないが)

このリンガフォンというもの、たしかに教材としてはいいのだがちょっと値段が高すぎるように思う。今だったらもっと安いのが出ている。英語ができるのだったら Living Language, フランス語なら Assimilなどのパックは一万円以下だし、今ならこちらにするだろう。英語の勉強にしても、アルクの通信講座の方が安くていいだろう。リンガフォンというのもブランド料というところもある。

私の場合、イタリア語の論文が読めるところへ早く持っていかねばならない。それでいうと役に立つ教材は『イタリア人が日本人によく聞く100の質問』である。これはけっこう濃い内容の日本紹介の文がみなイタリア語と日本語で示され、それを読み上げるCDが2枚ついているが、解説はない。この『100の質問シリーズ』は昔からあって、私はこれのドイツ語版とフランス語版も持っていた。その当時はカセットだったが、特にフランス語版はあまりに繰り返して聞いて、ついにテープがのびて使えなくなってしまった。語学テープをすり切れるまで聴いたというのは後にも先にもこれだけである。私がいまフランス語の論文をなんとか読めるのも、こういう勉強が過去にあってのことである。ドイツ語版はその後CD版になったのを買い直した。そのくらい、中級の者にはよい教材なのだが、このイタリア語版は版元品切れで、いま書店の棚にあるものが売れたら終わりである。私はあわてて、紀伊国屋の地方店から直送サービスで入手したのである。(なお、ちょっと言っておくと、松阪牛が「兵庫県」と書いてあるのは誤りである。それとこの100の質問シリーズでは、きまって、「日本の大学は入るのは難しいが卒業は簡単で、学生は四年間遊んでいる」などと書いてあるが、このような固定観念を持たれているのはちょっと困る。こういう本を書く40代以上の人が卒業した頃は、そうだったかもしれないが、現在はもっと学生に勉強させている。はっきり言ってうちの大学は、入試なんてきわめて簡単だが、授業についていくのはそれなりに大変である。親の世代がこういう観念を持っていると、勘違いした子どもが入学してくるので困るのである)

私の語学は、英語を除いて論文を読むことに特化しているので、フランス語にしても、簡単な日常語彙、たとえば「ホッチキス」や「ボールペン」を何と言うのかというようなことは知らない。そのような語は論文には決して出てこないが、フランス語やドイツ語にしてもいろいろ語彙の強化をする余地はある。

これは前に書いたことがあると思うが、高校時代はロシア文学にはまっていたので、ロシア語がやりたい言語であった。しかし将来性を考えてやめておいたのだった。ロシア語は初級文法を一通りやったはずだが、あまり記憶に残っていない。これは基本語彙の習得が不完全だったためだと思う。ロシア語の単語は西欧語との共通性がほとんどないので、全部を新たに覚えていかねばならない。しかし今でも、時間があればやりたいものである。そういえばこの夏休みには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の新訳を読んでみようと思っている。

実は、20世紀のロシア霊性思想はきわめて面白いテーマである。そういう本をばりばり読めるロシア語力があれば、かなりのアドバンテージになるだろう。しかしそこまでたどり着くための時間と労力を思うと・・ である。その時間があればギリシア語の習得に使うか。悩むところである。

忙中閑なし?

いや~忙しい。いま、過去のプネウマ論をふまえて、微細エネルギー(気)の問題をこれからどう考えていくかという論文を書こうとしていて、月末までに仕上げたいのだが、参考文献が無数にあって消化するのが大変である。Verbekeの本をまた借りてきたので、今度はそのストア派のところを読み、またFrendenthalによるアリストテレスのプネウマ論にも目を通す。さらにルネサンスの霊魂観、英国のケンブリッジ・プラトニストについて・・等々。しかし、ルネサンス精神史に関する文献はきりがないほどあり、ワープロのファイルに文献リストを打ち込んでいるが、あっという間に二倍、三倍と増殖していく。汗牛充棟」とはこのことである。きりがないので適当なところで全体の見通しを立てねばならない。論文というのは非常に細かいところの議論が多いので、全体像をつかんでいないと情報がうまく位置づけられないのだ。

ここで確認したいと思っているのは:
1.新プラトン主義、フィチーノ、パラケルススなど西洋の微細エネルギー技術(「魔術」と呼ばれるが)は、具体的にどのようなことをやるものであったのか、それを現代のヒーリング技術との対比において見ること。
2.ルネサンス的な万物照応的世界観から、「見えるものの間の連関のみですべてを説明する」という精神への変化はどのようなものであったか。つまり「見えない次元の切り捨て」は知の世界でどのように進行したのか。
3.ルネサンス的な万物照応的世界観と神秘主義思想との関連、それのロマン主義やドイツ・イデアリスムス哲学への流れはどのようなものであったか。

などと、はなはだ大きすぎるテーマであるが、つまるところ、最終的なねらいは、万物照応的世界観を現代に復興させるヒントを探ることであり、しかもそれをイデーの次元のみならず、「具体的な技術」として定立するという代替・相補医療やヒーリングの未来を視野に入れたもの――という感じである。またさらに、キリスト教的イデー(いわゆるキリスト衝動)、終末論のイデー(フィオーレのヨアキム)、人間神化(第二のアダム)という黙示録的ヴィジョンをも統合することを考えている。むろん、キリスト教とヘルメス主義との融合は、パラケルススからベーメ、ヘーゲルとすでに存在するものであるのだが。

すでに述べたように私は、テイヤール・ド・シャルダンやケン・ウィルバー、アーヴィン・ラズロなどの思想は、科学との安易な融合を試みているという点で批判的に見ている。ある「かたち」の生成を、物質次元に内在する原理でのみ説明することはできない。そこに超越的領域との関連を意識していくという「プラトン的感性」がそこに入っていかなければ、霊的思想として成立しない、と考えている。超越的領域と物質界の媒介をそこで考えていくべきであり、そこで、西洋のプネウマ論や、東方神学でのエネルゲイア論がヒントになるのである。

ウィルバーによる微細エネルギー論・転生論とそれへの疑問

周知のように、私はウィルバーのファンではない。しかし彼が微細エネルギーと転生について書いているといえば、読まないというわけにもいかないだろう。というわけで、シャンバラ社のウィルバーサイトに出ている文章をダウンロードしてみた。次の本の抜粋らしい。

で、やっぱり、ウィルバーって、間違っているとか悪いとかいうより、おもしろいかおもしろくないかでいえば後者なのである。つまり刺激されないということであろうか。前からそうだったのだが、その原因がどこにあるのか、それがかなりわかっただけでもこれを読んだのは収穫であった。

さてご存じのようにウィルバーの愛好するのは「存在の大いなる連鎖」であって、これはラヴジョイが新プラトン主義世界観を題材に述べたものだが、彼はそれをインドのヴェーダーンタなどにも押し広げて普遍化する。しかしウィルバーは、そういう古来の世界観はもっと現代化されねばならないと説く。それはどういうことかといえば、「物質が、存在の最下層に位置づけられていたのに対し、すべてのほかの存在レベルの外層として理解する」のだという。つまり「物質を超えるリアリティ」とされていたものは「物質の内側にあるリアリティ」と読み替えなければならない、というのである。

ウィルバーの立場は微妙に変わっているが、どうも現時点では、垂直的な超越性をすべて否定して、すべての超越的リアリティは自然の中に内在している、という世界観に入っているらしい。これを彼は naturalistic turnと呼び、それがポストモダン的見方だと主張している。昔の本では、かなり垂直的超越のメタファーも散見されたが、より内在論へシフトしているらしい。そして微細エネルギーの諸次元も、物質次元の位置づけを見直すのに平行して、位置づけしなおされる、ということになる。

いま、その詳細については述べない。しかし私はこのところ、種子の理論、プネウマ、スピリトゥス、エーテル等々の霊的自然学について勉強していたので、ウィルバーの自然観、物質観の特徴というのがよく見えてきたとも言える。

まず印象を受けるのは、ウィルバーというのはものすごく科学が好きなんだなあ、ということである。物質界について自然科学が描いていることは基本的にそのまま受け入れるべきである、と思っているらしい。そしてどうやら、科学でいっているビッグバンの宇宙発生論とか、物質の世界が進化して生物が生まれてきたなどというストーリーを、ウィルバーは信じているらしいのである。そういう科学のストーリーと霊的進化のアイデアを接ぎ木して連続させるというアイデアは、基本的にテイヤール・ド・シャルダンの思想的流れであり、エーリヒ・ヤンツとかアーヴィン・ラズロの系統であろう。たしかに、ズーカフやアラン・フレッド・ウルフ、天外伺朗などの素朴な「量子論神秘主義」は斥けているものの、基本的にニューサイエンス系統の思考をする人であることは変わらない事実であると思う。

一方、ヒューストン・スミスなどはプラトン主義者であって、進化論などはまるで信じていないし、ビッグバンストーリーなども一つのお話だと思っている。私もはっきり言えば基本的にプラトン主義者なのだが、そういう立場からすると、ウィルバーはあまりにも「そこに同一性の認識が成り立っているという事態への驚き」が足りないようにも見える。そこにバラがあるとしたなら、そもそもそのバラを他ならぬその形でそこで存在せしめようとする「意志」があるのではないのか? と考えて、その「意志」を宇宙根源から自然界へと媒介するのが「種子」であり、プネウマだということなのだが、どうもウィルバーはそういう「意志」を問題にする様子はない。よく考えてみるに、これはプラトンではなくアリストテレス的に自然物を理解しているらしいとも思えた。つまりものは「あるべくしてある」のであり、なぜそのようにあるのかという原因はすべてそのものの中に内在しているのであり、ほかを探してはいけないのだった。それがアリストテレス的思考である。設計図があれば設計者がいたはずだと考えるプラトン主義者とは、そこがあいいれない。そこに「類」があるということにあまり驚いてくれないのは、プラトン主義者としては困るのである。バラがバラであることは奇跡であり、神的意志なしに存在しえないことであるというふうに考えてはいけないのだろうか? つまりウィルバーはイデアという概念なしに自然を説明しようとしている。物質は物質世界に内在している法則性のみを問題にしていけばよいとする自然科学の立場をそのまま受け入れているのだ。ここからして、微細エネルギーにも「イデアを伝達する役割」を認めるという発想は出てこないのは当然であろう。ウィルバーの微細エネルギー論は、いっさいの創造的エネルギーをもたされず、ただ、身体性や意識に対応したエネルギーであり、つまり物理的エネルギーに微細次元で対応するものという位置づけがなされてしまっている。彼は、「類」をなす「かたち」を賦与する高次元の力を考える必要がないという理論構成を取っているので、そういうことになるのだ。

それに対して私は、物質世界の実在性は、私の認識構造と相関関係にあると思う。これはウィルバーのいう「外と内」の象限の違いということとは違う。自然界はあくまで「地球霊魂」というべき、地球の自然界を統轄する神的知性によって成立しており、私が物質界の生活に移行する時に、私はその地球霊魂の生成する世界の一部を認識しうる認識構造を賦与されたため、それを自然界として認識できているのである。私は、そのように考える方が「美しい」と感じるが、いかがなものであろうか。

ウィルバーは以前よりも down-to-earthな性質が強まったな、と感じた。以前はもう少し、プラトン的垂直的超越についても語っていたのだが。彼の思想によると、人間は宇宙の頂点にいることになる。この物質界を統合した上で霊的に覚醒しなければならないのである。そのことを彼ははっきりとこの論文で語っている。肉体をもって覚醒することが真の悟りである、と断言するのだ。いや、肉体を持たなければ決して覚醒できない、とも言っている。肉体人間は、存在の全レベルを包括しうる可能性を持つという意味で、宇宙で最も大きな可能性をもつ存在ということになるのだ。当然ながら、それは物質レベルの進化が地球において頂点に達しているということにもなる。このようにウィルバーの思想は著しく「地球中心的」「地球人中心的」な思想になっている。

もちろんそのことは反証不可能な形而上学的テーゼであって、美しいか美しくないかという基準で判断してよいことだと思う。たしかに「人間こそが宇宙の目的を完遂させうる神の代理人なのである」という思想はヨーロッパ精神史に存在していたものの一つである。しかしここで、「でも地球って一つのステップにすぎないんじゃないですか」とつぶやけば、ウィルバーの理論も成立しなくなってしまうだろう。私たちは地球を卒業したらまた別の星へ行って修行するのだ、と考えてもいっこうに差し支えないように私には思える。物質の世界というのは一つの方便として、神的意志によって「あるように感じる」ようにされたものにすぎないのではなかろうか? そういう思弁をすることもできるのである。この地球的物質世界を、宇宙の中心と考えるのか、辺境と考えるのかというイマジネーションの違いがそこにあるようである。萩尾望都のSFマンガを読み過ぎた人間は、地球が宇宙の中心だとはなかなか想像できないのである。地球上で最高の覚醒に達した人だって、宇宙的レベルで見ればどうなのか? と私は思っている。もしかすると金星の方がすごいかもしれないではないか(いや冗談です、ここまで書くとまずいですね(笑))。ともあれ、「地球の物質的リアリティが進化することの延長線上に、宇宙の究極的な完成がある」とウィルバーは確信している。だから肉体をもって悟ることが重要なのである。これに対し、宇宙の霊的完成は地球的リアリティの延長線上にはない、というイマジネーションに立つなら、ウィルバー思想は受け入れがたいものになるのである。さらに「魂の死後における成長」というイデーも、ウィルバー的パラダイムでは理解不能な考え方であろう。(ただ、宇宙は霊的完成へ向かっているというイデー自体では私と彼は一致しているわけである)

それからウィルバーはつづいて転生の問題を扱っている。今まで彼はその問題から逃げていると思っていたので、これについては興味津々なところである。その結論としていえば、彼は、微細次元の心身をもって存在している存在者は、必ずしも絶対に物質的な心身を持たなければいけないというものでもないだろう、と述べている。これは注目される発言である。ということは物質的な心身が消滅しても微細次元の存在として生き続けるということにもなり、これは死後存続の可能性を示唆することにもなる。このように彼は転生の可能性を認めている。ただし、「完全な悟りに達するためには物質的な身体を持たなければだめなのだ」と強調している。これは仏教を否定しているのである。仏教では基本的に、転生とは断ち切るべきものである。どうもこの、肉体を持つことの重要性を強調するのが最近のウィルバー思想における最大の特徴となるようである。もしそうであるとすると、転生を認めないと一代で完全な覚醒まで至らなければならないことになり、それは大変なことである。あるところまでやって、やり残したところを次の転生でやるというふうにしないととてもやっていけないだろう。彼が転生を認める発言をしたのもそういうことがあってのことだろうか? 彼の人生も後半に入っているし、残りの人生でどこまで行けるか考えたのかもしれない。それにしても、この転生論はカルマ論と切り離して論じられているので、はなはだ不十分であると思う。当然、唯識思想について検討をするべきであった。

インドなどで伝統的には、この地上でどんなに悟っても、肉体を持っている限りは肉体に意識が拘束される部分が残るので、完全な悟りは肉体を離脱しないと得られない、と考える方がふつうである。また、この地上界ではだめだからまずはコーザル界へ行ってそこで修行しよう、というのが浄土思想である。私もどっちかというと、この地上でとことん最後までやらねばならない、とがんばるつもりはない。向こうにもいろいろ修行場はあるのである。物質界では、物質界でのみできることをすればよいのであって、すべてを物質界でやろうとしなくてもいいように思える。なんでウィルバーはそんなに物質界にこだわるのであろうか。彼にしても、天界の美についてまったく知らないわけではなかろうにと思う。

ともあれ、まとめてみると、ウィルバーの物質界についての考え方が、自然科学におけるストーリーを素朴に肯定するものであるというのが、私としてはいちばんひっかかる点である。つまり物質界の成立をどう考えるかという点において、私やスミスのようなプラトン主義者とはかなり大きな相異がある。たしかにウィルバーは、物質界が「霊」の顕現であるということは全面的に認めている。しかし、物質界がなぜそのような構造や形をしているのか、その原因について、物質界内における自己発生であるという解釈をしているらしい。そこははっきり書いていないのだが、自然科学のストーリーを追う限りではそうなる。ビッグバンからあとはすべて進化論を肯定していることになる。このように、自然が自動運動的に展開していくという、科学とまったく同じ自然観を、物質界については採用しているのである。それが、科学と霊性との融合なのだと彼が主張するところであるが、その結果、自然界に働く霊的な力はその「初発」にしかないことになり、つまり神はまた時計職人になってしまうのではなかろうか。バラは進化の結果できたものであり、それが宇宙からイデアを受け取り続けているからそこに存在しているのではないことになるだろう。

つまり、ウィルバーという人はあんまり「存在論的思考」をしないのだな、ということである。もちろんレベル的には天地の差があるが、理論のタイプとしては天外伺朗みたいなものと同じ発想をしているところがある。科学と宗教のよい部分をあわせて全体的なデザインを考えてやろうという発想であって、「なぜものはそこにあるのか」という思考が深まらないところがあるのが、哲学としてはおもしろくないと感じる点なのである。つまり新手のテイヤール思想の類であると思うし、霊性哲学の本道を歩むものではない、と私は考える。

語学の話

最近、ルネサンス関係でイタリア語の論文や参考文献が眼に入るようになってきた。イタリア語は初歩の文法はやるにはやったが、基本単語などの体力がついていないので、少し勉強しておく必要を感じ始めた。

私の勉強法というのは、文法は細かいところは曖昧でいいからだいたい流して、あとは、やさしい文章から始めて大量にインプットしていく方法である。英語では100万語多読というのが一部ではやっているが、あれは理にかなっているので、あの方法で人に教えたりもしている。これはできればCDつきで耳からもインプットし、さらに音に合わせて口に出してみるなどの「シャドウイング」の方法も併用すると効果的だろう。単語力をあげるには、いちいち単語集で覚えるのではなく、外国語のテキストに訳文とCDがついているのを買ってしまう。そのCDを繰り返し聞いているうちそのテキスト全体を丸暗記するほどにしてしまえばよいのである。もっとも繰り返すためには、テキストはかなり面白いものではなくてはならない。

こういう方法は現代語ではもはや主流だと思うが、古典語の世界ではなかなかそうはいかない。私は、やはりラテン語とギリシア語はもっと勉強しておくべきだったと思っている。たぶん無味乾燥な軍事的教練を思わせる学習書ばかりなのが、挫折する原因だったのであろう。「別表の通り、mi動詞の接続法能動形を学べ」のノリでは厳しいものがあった。しかし調べてみると、最近では、そういう現代語の教授メソードを参考にした教科書も出ているらしいことがわかった。ギリシア語では Athenaze 、ラテン語では Lingva Latina というものは、やさしい文を大量に読ませるというメソードで、特に後者はなんと、説明もすべてやさしいラテン語のみで書いてあるという「ダイレクト・メソード」なのだという。これにはちょっと興味を引かれる。もしかすると買うかもしれない。

ハリー・ポッターのラテン語版と古典ギリシア語版というものまで出ている。欧米ではこういう本の需要があるほど学習者がいるということだろう。ハリー・ポッターはドイツ語・フランス語・スペイン語など各国語版があり、しかも全文朗読CDも出ているから、外国語の教材としても格好である。ただしハリポタの難度はかなりなもので、英語ならたぶんTOEIC700点レベルは必要かもしれない。もう少しやさしいものをたくさん読んでから挑戦すべきであろう。というわけで、ラテン語・ギリシア語版ハリポタを読めるのはいつの日か・・ということである。

そのかわり読んでいるのは、新約聖書の「ヨハネ福音書」、ギリシア語インターリニアである。これはギリシア語一語一語に日本語の訳がつき、動詞にはその原型と文法説明がついているというもので、ギリシア語の初歩知識も怪しい人間でもギリシア語原文が読める(ような気になる)という、大変優れものの本なのである。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ローマ+コリントなどが出ているが、ヨハネがいちばんギリシア語がやさしく、霊的にも深遠であるのでおすすめである。なぜかんたんかというとヨハネはギリシア語のネイティブではなかったからである。新約聖書は口語的なギリシア語で書かれているので、文語調で荘重に訳するのは、翻訳としてはまちがいである。

結局のところ私は過去に、ラテン語はいちおう有田潤『初級ラテン語入門』を読み(これはよい本だった。ほかの本で挫折した人にはお勧めできる)、ギリシア語ではいろいろやってみたものの読了できたのは、Teach Yourself New Testament Greekというかなり薄い本だけだった。もっとも私の場合、用があるのは古典期というよりプロティノスなどのコイネー(ヘレニズム時代のギリシア語)なので、新約ギリシア語でよいのだろう。ヘルメス文書やイアンブリコスのギリシア語・英語対訳テキストなどが出ているので、そのへんがねらい目なのである。別にギリシア語のテキストを読解しなければいけないわけではなく、訳を読みつつ、ここは原文ではどういう単語を使っているのか、ということを調べる程度のことでよいのである。それ以上は専門家の領域だろう。

ヒーリングの思想

またまた平井センセの新しい論文がアップされていた。今後も雑誌に掲載され次第PDFがアップされるようなので、まったくそのサービス精神には恐れ入ります。最近この名前ばかり出てくるようだが、特にこの「種子の理論」というテーマは、ものが存在するということについての「イデア」と「世界霊魂」そして「スピリトゥス(つまり「気」)というコンセプトがすべて統合された形で現れてくる世界モデルなので、私の関心にドンピシャなのである。このような世界モデルの可能性が近代初期にあったということは大変面白いことなのである。

もっとも、いろいろ勉強するからといって、私の思想の骨格そのものがいまさら変わるというわけでもなく、たぶん、説明の方法とか過去の思想との連関とかがさらに明確になるという程度のことだろうと思う。

ただ神認識のみを追求する修道士の霊的哲学も大変好きなのだが、それだけでは、自然をどう説明するかとか、そういう方面が弱くなる。代替・相補医療はその多くが微細エネルギー技術を使うものであるし、そういうことを含みこむ知的世界観ということを考えているので、ルネサンス思想が重要な媒介となる。

微細エネルギー、気というものの根源を考えると、生命の根源という問題につながるし、宇宙の根源とは神的なものではないのか、という話まで行くことになる。スピリチュアル・ヒーリングというものは結局、宇宙の霊的根源という次元を考えなければ成り立たないものなのだ。また、宇宙に霊的な次元におけるヒエラルキアがあるということも言い表さないと、「善いエネルギー」と「悪いエネルギー」を区別する根拠がなくなってしまう。ヒーリングの問題を単に「ローカルな宇宙観とノンローカルな宇宙観」の問題と考えたり、自分と他者との結びつきという次元だけで考えていくのは、いずれも神的次元とヒーリングとの関連を取り逃がしている議論になってしまう。宇宙の根源が神的であると言い表さないヒーリング論は駄目ということである。

宇宙の性質はニュートン的な時空ではなく、量子論的なノンローカルな性質であり、従って遠隔的な作用があるのだ、というところで話が終わっているものが多いが、それでは駄目なのである。結局これは、天使と魔を区別できない議論である。神気と邪気を区別できないのだ。気・微細エネルギーの「質」という問題を考えないといけない。そのためには新プラトン主義的な霊的ヒエラルキアという宇宙モデルが不可欠となる。「ノンローカル論」は、ルネサンス的世界観のうち「万物照応」の要素だけは入れているが、宇宙の神的根源と霊的ヒエラルキアというテーマを入れようとしない。そのへんは、まだ近代人的発想から離陸できていないのかもしれないし、あまりにいかがわしそうで言えないのかもしれない。しかし、ヘルメス主義思想がかつてヨーロッパ思想では主流だった時代があったことを知るなら、その「いかがわしさ」の感覚はだいぶ減殺されるだろう。量子論と結びつけてノンローカル性だけを言っていれば何となく「科学的」っぽくて安全な感じがするのだろう。しかし結局は、宗教の領域に足を踏み入れなくてはヒーリングの本質を語れないのである。

生命哲学と疑いの限界

さて依然として平井センセの「種子の概念」のフランス語本を読んでいる。それにしても、そのBHサイトの「自然魔術とカバラ」のページを開くと、あれもこれも読みたいものばかりで目移りしてしまう。英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語と四カ国語にわたっている。

たとえば・・『ライプニッツとカバラ』『汎知学――白魔術・黒魔術の史的研究』『神的魔術師と魔女としての自然――中世後期からルネサンスまでの宗教・自然魔術・科学の勃興』『自然神秘家の時代』『パラケルススからトーマス・マンまで――ドイツヘルメス主義のアヴァターラたち』『近世初期の医学における占星術・魔術の理論と実践』・・すごいタイトルが並ぶ・・

たしかにもし20歳くらいでこのサイトに触れたとすると、本気でその道の研究者をめざしてしまったかもしれない(留学できるほど家が金持ちであるという条件も必要だが)。もちろん今のところはその道の専門家になろうということではない。フィチーノやパラケルススなどの自然観やその「魔術」(微細エネルギー技術)のとらえ方は、現在におけるヒーリングや代替・相補医療の行方に示唆を与えるのではないか、という問題意識である。これは私自身が実際に「やっている」という立場からも言うことである。

そして、近代以前の哲学を学んでいて明らかになることは、この時代の思想は「生命」や「自然」についての基本的なとらえ方を含んでいたということである。つまり、現在の哲学は、まったく生命や自然について語るところがない。そういう領域がどんどん自然科学によって侵食されてしまい、結局「主観性」という領域しか残されなくなってきたのである。自然科学では「生命」という原理を消し去ろうとしている。つまり、「生命」は決して実体として理解されてはならず、すべて、観察可能な物質的秩序から説明しなければならないのである。つまり「生気論」の追放である。さらにアリストテレスのいう「目的因」さえも消去して説明しなければならない。こういう科学的生命観を「間違っている」というわけではないが、少なくとも一面的であり、ほかの見方を排除するほどの権威を与えられてはならない。そのような科学的生命観の独占状況に対してノーを言うことも哲学として必要なことである。

生命の問題を「生物学」にまかせてしまおうという考え方が基本的に間違いである。生物学の最先端の知見をあれこれ継ぎ合わせて生命論を立てようというする人がいるが、前提からして間違った行き方である。というのも「生命」とは本来、「なぜものはここにあるのか」という、「存在するものを存在させる原理」に関わるものであり、その意味で形而上学的思索の対象なのである。そもそも、「生物」と「無生物」をどのように分けるのか、そういうはなはだ常識に寄りかかった区別を無批判に援用し、生物の特性を考えたところで、恣意的な前提に出発した危うい議論にしかならない。むしろ、「鉱物も生きている」という発想から出発して生命を考えることもできるのである。

シェリングの自然哲学が見直されてきたり、ヘーゲルとヘルメス主義思想との関連が語られたり、フィチーノの思想が復権したりと、こういう動きはいずれも、あらたな自然観・生命観の可能性を探る思想的な試みである。そもそもドイツ・イデアリスム自体が、古来の生命哲学の復興をめざしていたという面もある。

近代は、「説明原理から証明不可能な項を排除する」という基本的な姿勢がある。「何事かを主張するためには、誰にも確認可能な証明を提示しなければならない」という公準である。これは感覚世界の構造をさぐる自然科学が採用した原則である。それが物質界に限定されていれば問題はなかったが、それがいつのまにか、哲学の問題領域にまで侵食していく過程があったようである。結局デカルトがその方法的懐疑ということを言い出したのは、「絶対に確実な知識」を求めるという動機によるものだった。知識は「確実」でなければならない。その確実ということは「誰にも理解できる」ことである、というのが近代精神である。

ある大学がWEB上で公開しているらしい英文の思想事典に「魂の不滅」という古いテーマが出ていた。そこには魂の不滅のほか、輪廻転生や復活などについても述べられていたが、それを読んで驚いたことに、「現在のところ死後存続を裏付けるような十分な証明はないので、死は人格の消滅であると考えるべきである」などという論が大まじめに書かれていたのである。これはどこかの大学教授の文であろうが、およそ、霊魂の不滅という問題が、経験的データによって「証明」されなければならない、そうしなければそれを信じてはならない、などという考え方は、17世紀くらいまでの知識人ならびっくり仰天するような立論なのである。魂の不滅ということは、そもそも魂に内在する高次の知性によって直観するべきことがらであるというのが西洋の伝統的な哲学の立場である。これはデカルトでさえそのことを疑っていなかった。伝統的な思想によれば、魂とは「感覚的」な部分と「理性的」な部分に分かれており、魂の理性的な部分は超感覚的なことがらを直観しうるのである。なぜかといえばその部分は神性を分与されているからである。つまり、そうした時代と現代を隔てているのは、「魂のもつ高次の直観力」に対する信頼が全面的に失われたということである。それは「疑おうとすれば疑える」ことではあろう。それならば疑うのは当然ではないか、ということであろうか。だがここで重要な問題がある。それはおそらく、「宇宙に対する基本感情」に変化があったことがその要因になっているだろうということである。伝統思想は、魂の内奥には神秘があり、それは宇宙の内奥の神秘と何らかつながっている、という直観・感情に支えられていた。それが失われるとき、そこに疑いが入りこむのである。だから根本的には「宇宙感情の変化」が近代精神の発生を促したのだと思う。「疑えるものは何でも疑え」という原則を、デカルトは完全に徹底しなかったが、たぶんそれを徹底したところまでやったのがニヒリズムの哲学になるのだろう。生きていることや宇宙が存在することに「意味がある」ということも、証明はない。疑おうとすれば疑えるものであるから、疑って何が悪いというかもしれない。しかしそもそも存在の意味など、考えたり証明したりして納得するものではない。魂の底から出てくる宇宙感情において肯定するべきことがらなのである。そのような魂のあり方を前提として、それを言語化しようとしたものが伝統思想である。そこにはたしかに「証明」はない。しかし誰も、証明など必要はなかったのである。思想とは証明したりするものではなく、そこに何かを感じるためにある「作品」であり、美的に感受するものであった。

つまり、哲学固有の領域として「魂の高次の機能」があり、それは宇宙感情に支えられており、そのような背景の中で宇宙の姿を思い描こうとするのが昔の思想であった。これに対して、「証明されないものは信じてはならない」という「疑いの思想」が近代思想であった。その疑いの思想はニーチェで突きつめられ、行き詰まり、どのように突破口を見出せばよいのかという思想状況がもう100年以上も続いている。そもそも「絶対に確実であるという証明がほしい」という発想自体、宇宙感情が衰弱していなければ現れない考え方である。逆説的にいうなら、これから必要になってくるものはいわば「信じる力」なのではないだろうか。「疑いの思想」を本当に徹底するなら、気が狂うか自殺するかしかないのである。そこまでやるなら逆に見上げたものである。

疑うことを否定するわけではないが、疑うことにも「分を守る」ことが必要である。

なお、哲学の基礎として「宇宙感情」が要請されることを理解したのが、ハイデッガー(特に後期)である。
古東哲明の解説書は、その部分に焦点をあてている。
ハイデッガー思想のそういう部分は、その後の哲学にはあまり受け継がれていないようにみえる。

占いについて

このところ、記事のカテゴリーとしては「思想関係」がほとんどである。以前は「スピリチュアル系」や「ヒーリング」というのが多くて、これは要するに「実践的」な内容になっていた。ある時期から、あまりそういう内容を公開しないことにして、そのためアクセス数は若干減っている。しかしまあ霊性思想が本道であるので、本当にそれに関心を持つ人だけ読んでくれればいいとも思う。が、きょうは久々に「スピ系」である。

このところタロット占い希望者が殺到しており大変である。というのも誰かを占うと、その友達や同級生へ口コミで広まるので、来るときには次々と来るという状況になることが時々ある。

かの大沼忠弘センセはカモワンタロットの大家になってタロット講座を開いているようであるが、私はそのように、タロットの魔術性にのめり込んでいるわけではない。はっきり言えばタロットの魔術性などまったく信じないと仮定しても占いはできるのである。

ユング心理学では易やタロットなどがしばしば使用されるのは周知のことで、フォン・フランツには『偶然の一致の心理学』という占いを扱った本もある。占いというのは古代的には、そこに個人の意志を超えた何か大きなものが入りこんでくるというプロセスを設定することであるが、古代では「神々」と考えていたものをユング心理学では「無意識」に置き換えるということである。

つまりほかならぬあるカードを選んだということには何か「神意」があるのか、どうなのか。それは「おみくじ」にも言えることであろう。そのような「個人を超えた大きな意志」の働きを絶対に信じない人は、占いはやらない。そういう意志があるかもしれないし、ないかもしれないが、少なくともそういう可能性にオープンである人が、占いをやってみようと思いつくのである。

なおここで、占いといっても、易やタロットのように「偶然性」を基本とするものと、占星術のように、その人によってあらかじめ規定されていることがらを「読む」ことに重点があるものとは、区別して扱うべきではないかと思う。

占星術はあらかじめ規定されているものを読むので、人の運命は基本的に星によって決まっているのかという世界観になる。そこでプロティノスやフィチーノなどの古代・ルネサンスの哲学者には、星の影響は認めるとしても(それはルネサンスまでの常識だった)、星に運命が規定されているという考え方にはほとんど否定的だった。フィチーノのいわゆる「魔術」というのは、たとえば土星の影響が強すぎるときは、土星の力を和らげるようなエネルギーを持つもの(石や薬草とか)を使ってそれを中和していくことができる、と考えられたわけである。このように「人は自分の運命を変えられる」という考えがルネサンスに出てきた考えだが、それは理性的というよりは「魔術的」な発想である。私なら、ここで魔術というのは「微細エネルギーと宇宙の照応の原則を用いた『魂のテクノロジー』」と呼ぶであろう。

さて、私の占いは当たるのだろうか? という問いだが、実はこういう問いには意味がない。私は、「あなたの母方のおばあさんは二年前に亡くなっていますね」などということを当てるわけではないのである。つまり反証可能な事実について何かを述べるわけではない。そういうことがわかるとしたらそれは霊能力ということになり、そういう「当て方」をする人は、占いの技術そのものより自分の持っている霊能力を用いているのである。「あなたは自分の感情をブロックしているところがありますね」とか「あなたは直観やイマジネーションを用いる職業に向いています」というようなことは、解釈学の地平に属することで、科学的反証が不可能なことである。つまりこの場合、「あたる」というのは、占ってもらった人が「当たったと感じた」ということが「当たる」という意味なのである。反証可能な事実について述べないものには「当たる・当たらない」の判断は客観的には成立しない。その意味で言えば、「ユング心理学は当たるのですか」という問いにも意味がないことになる。それも、クライアントが「なるほど」と思うか思わないか、セラピストが「うまくいった」と思うか思わないか、というはなはだ主観的、せいぜい言って「間主観的」なことがらである。そういう意味でいって、私の占いは、占ってもらった人が「当たったと感じた」という確率は80%以上であるとは言えるだろう。人間のもつ知的技術の中で、「当たる・当たらない」を客観的に決められる部分というのは実はそれほど多くはなく、多くはこうした、間主観的に成立するはなはだあいまいさを含む知であるのかもしれない。

学者などは占いを「失敗した疑似科学」などととらえたがるが、実際に占いというものをやってみて「当たると感じる」とはどういうことかを体験すれば、占いとは科学よりもカウンセリングに近い行為であることは明瞭であろう。たとえば同じカードが出れば常に同じ意味に解釈するわけではないのでる。それはその人、状況によって、ある幅の中で無数の選択肢がある。占いとは基本的に「カウンセリング+エンターテインメント」であると思う。エンターテインメントというのは「宇宙との戯れ」ということである。宇宙との戯れという環境を設定することによって、クライアントがふだんは奥にしまってある感情を表に出してくるケースがよくあり、占う人はそれを鋭敏に察知して、それを解釈の中に取り入れていくのである。そのように相手の微妙なプロセス(ミンデルのいう二次プロセスか)を読むことが重要である。その意味でプロセスワークにはなはだ近いようにも感じる。いろいろ表に出していけるのは、それ全体が「遊び」であるという設定によるところも大きいと思う。だから占いはあくまで占いであって、科学のようなステイタスを望んではその本質が失われるだろう。あくまで「ほの暗い領域」に存在するということ自体が重要なのである。

なお参考までに、私が使用するのは基本的に Radiant Rider-Waite である。参考書としていちばん信頼しているのはバニングさんの Learning the Tarot である。あと占いをやるにはカウンセリングの本も少し読むべきだと思う。

エーテルとアストラルをめぐる思想史的整理

前に、「エーテル・アストラル的世界海について」という記事を書いたことがあるが、これを書いていたときは勉強不足でわかっていなかった。「エーテル体」と「エーテル界」とは対応しているものではない。まったく違う系統から来ている概念だということがわかった。

「エーテル界とアストラル界は別のものではなく、ほとんど一つに融合しており、その生命的な面がエーテル界、観念、想念的な面がアストラル界なのだ」と、高橋巌の説をそこでは紹介していたが、これは、西洋精神史で伝統的なとらえ方と、ほぼ同じであるということがわかった。基本的に、エーテルとアストラルとは互換可能な概念として言われているケースが多いのだ。それは、叡知界と月下界(つまり地上界)との中間領域として理解されていたことが多い。この当時は「星の影響」を考えることが普通であったので、この中間界は星の力が及んでいる世界であるととらえられていた。

一方、「エーテル体」は、現在では通常、アストラル体よりも肉体次元に近い微細身体であると理解されている。この「より肉体に近い微細身体」という概念は、プロクロスに出てくるのだが、そこでは「エーテル体」とは言われていない。なぜかというと「エーテル」とは天界に属する元素であり、地上界を作る四元素とは異なるのである。だから肉体に近いのであるならば、それは天上の元素であるエーテルではなくて、四元素からできているのだ。だからプロクロスにおいては、アストラル体=エーテル体と、四元素からなる微細体の二つが想定されていたのだった。だから「エーテル」とは、この地上領域を超えた純度の高いエネルギーをさしているわけで、現在「エーテル体」という概念で言われているような、気功で言う「衛気」つまり肉体のまわりにあるオーラ第一層などを包含することばではありえないのである。「エーテル」は気功で言う「気」とイコールではなく、むしろ「天の気」に近いものである。

これはまだ推測の域を出ないが、現在の意味での「エーテル体」とは、神智学者がインドのヴェーダーンタなどの微細身概念を翻訳するときに新しく作った言葉ではないかと思う。インドにいう「プラーナの鞘」という言葉を訳せばエーテル体となる。その神智学の概念が人智学にも受け継がれているのであろう。「エーテル体」というと伝統的なエーテル概念と関係するものか、と思ったら決してそうではないのである。どうもそこに混乱がある。しかし高橋巌氏は、なぜか先祖帰りして再びエーテル=アストラルという用語法に変わってしまった。しかも「エーテル界とはシャンバラである」とまで言い出すので、私にはかなり理解不能な用語法になってしまうのである。エーテルは叡知界と月下界を媒介するメディアであるとするのが伝統的な位置づけで、エーテルの世界を体験することが究極目的であるはずがない。ターゲットはあくまで叡知界である。叡知界を認識するのは神的知性であって、これはアストラル体とは異なるものである。

ともあれ、伝統的な西洋精神史で言われる「エーテル」とはほとんど天界やアストラル界と同じ意味で使用されており、「エーテル体」とはそれとは別系統で、神智学-人智学で発達し、そこを基点としてヒーリングの世界に広まった概念である(広まったについては、それなりに経験レベルでの実効性があったということだろう。それはこの概念そのものというより、そのもととなったインドの微細身理論が優れていたのである)

追記 7.7
もう少し言うと、「コーザル」と「アストラル」の区別を立てることがあるが、これはインド思想によるもので、西洋にはこうした区別がない。この区別は西洋では神智学者がインド思想の翻訳により持ち込んだもので、その時彼らはインドの「スクシュマ」に西洋伝来の「アストラル」を訳語に当て、「カラーナ」はその意味をとって「コーザル」と訳したのである(「メンタル」も「マナス」の翻訳である)。本山博師は「カラーナ・アストラル」という語を使っているので少しややこしい。またヒューストン・スミスやウィルバーは「コーザル・サトル」という用語法である。

ともあれリードビーターらの神智学までは西洋にはコーザルとアストラルの区別はなく、その両者を包括する概念として「アストラル」が用いられていたようである。いや、私が調べた印象では、現在神智学からの流れで一般に使われている「アストラル」よりも、西洋の伝統的な「アストラル」はもう少し上位にシフトしている印象を受ける。もちろん「アストラル下層」として地獄的な世界を表すという用語法も伝統的にはなかった。伝統的なアストラル界という概念は、現在の用語法で言うと「アストラル上層からコーザル」の帯域を指すものとしてあったように思える。そしてそれがほぼ「エーテル」と重複していた。そしてアストラル界とダイモーンの領域を区別する考え方もあったようだ。

しかしこの問題はまだ調査途上であり、誤りも含まれている思われる。コーザルと新プラトン主義で言うヌースとは同じ次元なのかとか、いろいろ問題がある。

追記  7.8

シュタイナーにおける「エーテル体」の概念はどうも神智学とはかなり違うようである。必ずしもアストラル体より肉体に近い微細身を指しているとは限らない。「アストラルとエーテルとは同じものの二つの側面」という意味で言っていることも多いようである。ただ、シュタイナーもけっこうその場によって違うことを言ったりするので、一定しているわけではない。

近日公開??

先日、あるミニコミ誌に頼まれて、久々に小品を書いたので、近日中にここで公開するかもしれない。テーマはクザーヌスである。クザーヌスを一読してまず感じることは、この著者の霊性はものすごく高いところにあるという直観である。そこに感じられるのは、まばゆいばかりの圧倒的な光である。ページを繰るたびにその光の波動が次々と押し寄せてくるという感覚にとらわれる。このような圧倒的な輝きのエネルギーは、ほかには、擬ディオニュシウス・アレオパギタの著作に感じるくらいである。まさに「光の形而上学」と呼ぶにふさわしく、壮麗なゴシック大聖堂のような作品である。この光については、いかなるテキスト解釈によっても証明することはできないが、私は、その光の感覚が少しでも伝わるように、物語的なイメージで書くことはできないかと考えた。その結果、不思議な「白く輝く人物」のイメージがわき起こってきた。自分で喚起したとはいえ、その人物のイメージはどこか超絶的な雰囲気があった。この人物は、今後、私の書くものに時々登場するようになるかもしれない。これからの方向に示唆を与えるイメージ体験であった。

ぶっ飛び思想家ヘーゲル? および『身体の宇宙性』など

さて、マギー先生によるヘーゲルとヘルメス主義の本、寝る間も惜しんで(朝寝はしたが)、読了してしまった。いや~面白すぎ。錬金術はおろかヨアキムのフィオーレ、カバラ、フリーメーソンまで何でもあり。しかもメスメリズムとサイキック現象までも!! ヘーゲルはこれらの現象も完全に肯定していた、とマギー先生は断言しておられる(マギーってmagieじゃないですよ(笑))。しかしヘルメス主義思想は「すべては奥深い次元ではつながっている」と言い切るのであるから、そのつながった次元においては、物理的時空における限界は超越するのは当然である。というわけで俄然、ヘーゲルに親近感がわいてきた私である(笑) いつのまにかヘーゲルというと「まじめの権化」みたいなイメージが持たれているが、哲学史上最大のぶっ飛び思想家であったというのが事実なのではないだろうか。つまり、もしかするとパラケルススみたいな人物であったのが、どういうわけか哲学史の主流とみなされることに成功したという不思議なケースだったのだ。こんなことを言うと加藤尚武センセなんて頭から火を噴いてぶっ倒れるかもしれません(笑)。しかし懸案のエーテル問題も、この研究書を読んで錬金術との関係が明らかになり、見事にクリアされたのであった。

ちなみにこの本は平井センセのHPに出ていたものではありません。・・が、そのHPを再発見して以来、Verbekeのプネウマ論だの、イアンブリコス、そして平井センセの本丸である種子の理論など、寝る間も惜しいような楽しい本ばかりで退屈するひまがありません。ところが早くも Verbekeの本が返却期限になってしまった。洋書古本サイトを見てもなかなか出てないんですよね。何とか手元に置きたいものだが・・

久々に湯浅泰雄『身体の宇宙性』を開いてみて、西洋のプネウマ論についてどのくらい書いてあるのか調べてみたら、ストアのことは書いてあるが、新プラトン主義はプロティノスだけで、新プラトン主義では身体性の問題は後退したとなっていた。どうも湯浅先生はVerbekeの本を参照していない。更にその後のヘルメス主義についての記述ももう一つ足りない。とはいうもののこの本はその名の通り「身体の宇宙性」についての東西思想の伝統がかなり詳しく出ており、こういうことに関心のある人は絶対に読んでおかねばならないものである(まったく思想史の基礎知識がない人は、その前に高校の「倫理」の参考書とか、『図解雑学・哲学』『哲学マップ』みたいな本を読んでおくべし。このブログを読んで半分もわからないというのは、おそらく基礎知識不足である。最近は高校で「倫理」をやらないというケースも多いらしい)。

↓読むべし

4000029363身体の宇宙性―東洋と西洋
湯浅 泰雄
岩波書店 1994-01

また、エゾテリスム思想―西洋隠秘学の系譜と、科学史の逆遠近法―ルネサンスの再評価も、お忘れなく。

ヘーゲルとヘルメス主義思想

ヘーゲルについてのすごい研究書(英文)を入手した。ヘーゲルはヘルメス主義の思想家であるということを論証しようというものだ。

ヘーゲルはベーメの影響をすごく受けていて、彼の哲学はベーメ思想の概念化であるらしい、という話はもう20年以上も前に聞いていて、そういうことのまとまった研究があれば読みたいと思っていた。だからこの本は20年くらいずっと読みたいと思っていたたぐいの本なのである。

シェリングとベーメとの関係というような論文は日本でもだいぶ出てきているので、ヘーゲルについてはどうなのだろうか? この前ヘーゲルにおける「エーテル」についての96年の論文を取り寄せてみたけど、それらしきことは何も書いてなかったけどなあ。

しかしこの研究書、トンデモ本なのかと思ったらそうではなく、れっきとした大学出版局から出ているし、また著者は、『ケンブリッジ版ヘーゲル必携』という論集にも名を連ねているのだから、少なくともある程度は学界でも認められている説なのだろう。

つまり私の言い方でいえば、ヘーゲルは「普遍神学」を作ろうとした思想家の元祖ということになるだろうと思う。人間精神はいかにして絶対精神へ高まり、また絶対精神の顕現としてこの現象の世界が生成するか、という宇宙的ドラマを描いているのである。前にも述べたように、そういう哲学そのものが「絶対精神の顕現そのもの」だというのは誇大妄想である。しかし、一つの思考実験としてみれば、少なくとも西田哲学などよりも何倍もスケールが大きなものであり、霊性哲学の一つの極点であるには違いない。

基本的なことのおさらいをしておくと、デカルト-カントの懐疑哲学によって、主観と客観世界(もの)との間に亀裂が生じてしまった。その二元論をどう乗り越えるのかというのが、ドイツ・イデアリスムスの思想の課題だった。そのドイツ・イデアリスムスとはベーメを含むヘルメス主義的思想という背景を持っていたということである。つまりここで、ヨーロッパの「もう一つの精神史」の根深い持続を見ることができるということである。

イデア論と新々プラトン主義

ついに待望の、平井センセの本丸であるフランス語の本を借りることができた。『ルネサンスの物質の理論における種子の概念――マルシリオ・フィチーノからピエール・ガッサンディまで』である。500ページ以上の大冊だが、じっくり読みたい。

平井センセの「種子」の本を読みながら、いろいろな思いがよぎる。

なぜ、近代以降はこのような自然に対する考え方ができなくなってしまったのか、という問いが一つある。

それは結局、哲学が、デカルトに代表されるように「疑うこと」、つまり批判的知性を第一と見なすようになったという転換がある。このことについてはベルグソンの霊魂論講義でもふれられていた。自分の意識というものから出発する考え方だ。だが、批判的知性のみがあまりに肥大化しすぎたのが近代文化の問題ではなかったか?

バラがバラとしてそこにあるのは、この宇宙の深い部分に、「バラという存在物をあらしめよう」という何かの原理が働いているからではないのか、というのは人間としてきわめて自然な発想なのだ。原始文明は何万年も、そこに「精霊」という名を与えていたのだった。ルネサンスの種子の理論も、そうした「実念論」の系譜なのである。つまり、イデアは実在するということだ。人間がそこにあると認めることができるものは、実際にあるのであり、それがバラのような具体的な形であるということは、そのような形の存在物をあらしめようという何かの原理があるからだった。その「何か」を探究することが、古代の哲学だったのである。

しかし「もしかするとすべてはないのかもしれない、私はだまされているのかもしれない」と考えることも可能である。これは可能ということであって、実際にすべてはないということではない。そこで確実なものは何かという方向でものを考えれば、結局、私がこのように世界を経験していることのみが確実と言いうる、という結論になる。これが、デカルトであり、ある意味でデカルトの徹底である現象学が到達した答えである。

私も、哲学をそのように考えることが当然だと考えていたことがある。世界が存在するということさえ疑って、それでも疑いきれないことを追求すれば、私とその世界の経験がここに現象していることになる。そこまでつきつめて、その次に、「それでは、その現象の地平を生成しているものは何か」という問いに進み、そこで考えることの限界に到達する、そこで「存在の謎」という巨大な問いに突き当たる、という道が現代哲学の道だと考えていたのである。つまり、デカルト-カント-フッサール-ハイデッガーが基本路線だと認識していたのだ。

しかし実際にそれを学生に教えようと努力すると、そこに拒否反応のようなものが出てくることに気づいた。これはなぜかと考えてみると、今にして思うと、このような懐疑の徹底というものは、ひじょうに「反人間的」な行為ではないかということである。反人間的というのは、人間の自然に反しているということである。どこかそれには、異常なものがあるのだ。それを突きつめると独我論の世界に行くかもしれないということを、何人かは直感したのかもしれない。バラがバラであるということは、バラが実在するからではなく、超越論的カテゴリーによるものである、と言ったり、あるいはそこから超越論的主観性の問題を省いて構造主義のようにとらえたところで、それは、「そう考えることもできる」という世界でしかないのではないか。いや、それは言い過ぎで、「そのように考えることができる側面もある」と言う方が正確であろうが、そういう考え方がどこか、人間の自然に反した思想であるという印象は変わらないのである。

哲学教授が講義テキスト用に執筆した哲学の入門書のたぐいには、まずほとんど、「哲学とは常識を徹底的に疑うことだ」と書かれている(池田晶子などもそればかりだが、それは彼女の哲学がけっこう「ふつう」であるということだ)。徹底的に疑うことは大切なことだが、それならその原理を、この哲学の定義自身にあてはめてみたらどうだろうか。つまり、「哲学とは、常識を徹底的に疑うことだとされているが、もしかするとそれだけではないかもしれない、もっと大切なことがあるかもしれない」という疑いだけはなされないというならば、自己矛盾ということになるであろう。哲学は徹底した疑いだという言明は、「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」という言明と同じ構造なのである。哲学は徹底した疑いなのか、そうではないのか、確定した意味が含まれない文である。

たとえば、「哲学とはものと一つになり、そのものの本質を直観して、そこから更に進み、万物の根源についての知的直観をめざすものである」という規定をすることも可能である。これは言うまでもなく古代哲学の立場である。バラがバラであるのは、認識カテゴリーであるかもしれないが、バラがバラとして存在することと、それを認知する認識カテゴリーが私の中に存在するということは、もしかすると密接に連関しているのかもしれない。つまり、あるものが存在するということと、それを知的に知りうるためのイデーを私が有しているということは、宇宙のある次元でつながっており、それはある同一の根源を起点としているのかもしれないのである。これはゲーテの自然学の発想であったし、また、シェリングの同一哲学もそういう方向で考えたものであるらしいが、これらは古代人的な思考の復権というふうにも言えるだろう。そこにバラが見えるなら、バラが存在することの「深み」へ入っていくのだ。そこにバラの「原型」が直観されるであろう。その直観が生じるとき、私の中にもある深い次元が開かれるのである。この事態が「ものと一つになる」と言われるのである。こういう発想は禅にもあるものだろう(だから禅は、ある意味で存在するもののリアリズムであり、仏教思想の大勢としての唯心論とはまったく違うものであろう。なお、禅は思想ではない。禅に関係した思想はあるが)。

つまり、デカルト-カント-フッサール-ハイデッガーという「近代哲学の本線」とはまったく違う哲学の可能性を明確に規定しなければならないなあ、と意識されたのである。エティエンヌ・ジルソンは、「カントかトマス・アクィナスかどちらかを選ばなければならない」などと言っていた。このスローガンを敷衍すれば、たぶん、「世界はほんとうに存在しているのかどうかわからない、というところまで懐疑を徹底する哲学」なのか、あるいは、「ものがそこに存在していることを深く見て、その『存在』そのものに入っていこうとする哲学」との選択ということだろう(これはジルソンの考えとは少し違うかもしれないが)。そういうふうに見ると、ハイデッガーというものは、カントやフッサールという「本線」に属しながら、何とかして「存在そのものに入る」という道を切り開こうと苦闘した人物であったこともわかる(後期ハイデッガーは現象学にまつわっていたカント主義をある程度脱したと思う。ただし、彼の「存在形而上学批判」は、哲学史への見方としてはかなり偏見が入っていると思うが)。ハイデッガーが Ereignisなどという語で表そうとしていた事態は、ルネサンスの種子の理論で言われていた「存在するものの隠れた根源」そのものではなかろうか?(こういう結びつきを発見したのは私が初めてかもよ・・それは甘いか)。

「疑いの哲学」というものは前文化期の産物だったのかもしれない、と考える。たぶん人間精神は、独我論に陥るまで徹底的に懐疑をつきつめる経験を必要としたのかもしれない。日本では永井均などをありがたがっているが、その「疑いの哲学」を徹底するというのはどういうことなのかを、永井均を読んで初めて理解した人が多いということである。率直に言えばあのようなことを考えてしまうというのは病気に近いことである。それはなぜかといえば、「ものと一つになる」ということがわかる人は決してあのようなことは考えないからである。「私があること」を徹底して突きつめたいなら、永井均などよりミシェル・アンリでも読んだ方が、独我論を抜ける道が発見できるだろう。

現代哲学ではメルロ=ポンティが「ものと一つになること」を理解していたようである。しかしメルロ=ポンティでも、ものの根源であるイデア的原理は喪失しているのである。「疑いの哲学」を克服しようという意欲は認められるが、十分なものとは思えない。

霊的知性という原理を哲学へ再導入する――このドンキホーテ試みを遂行するためには、「イデアはある意味で実在する」という原理が定立されねばならない。つまり、バラがバラであるのは、そのようにあらしめる何かが宇宙にはあるからである(立場こそ違え、プラトンとアリストテレスはその点については一致していた)。このような「目的因」的な考え方は、「疑おうと思えば疑える」のである。しかしそのように考えることは人間として「まっとうなこと」である。人間はそのように考えて生きるような存在として創造されているのである(この言明についての証明は提供しない)。人間が人間であるのか、「人間というイデア」つまり「アントローポス」が宇宙のある次元に存在しており、人間はそのアントローポスのイデアを通過して物質次元の存在として個別化するからである。これは古代中世的な発想からすれば当然の考え方なのである。つまり「類は個別に先立つ」のである。まず個別が存在して、そこから帰納法的に概念が形成される、というのが近代精神である。これは、私の乏しい哲学史の知識によると、オッカムなどからベーコンへ至る過程で生まれた考え方で、それが科学を基礎づける思想として採用されたため、そう考えなければいけないような雰囲気ができてきたものであるらしい(なお、科学研究の実際においては、必ずしもデータがあってそこから帰納して理論ができるものではない。そのような素朴な考え方は、科学史・科学哲学はとっくに否定されている)。

世界という地平が生成するのは、共同主観的な、歴史的な過程という要素もあろう。しかしそれだけであろうか? その地平がなぜ、このような特定の形態を持っているのか、その生成の秘密が、自己意識から出発せざるを得ない現象学の方法で解明できるというのであろうか。私はそれに疑問を持つ。実際、私が経験する現象世界は、ある程度、人間という類に共通なものとして現象しているのである。その類的な共通性がなぜ生じるのか、それはいまだ明らかにされていない。そこにおいていかなる目的因も排除して説明しようとするつもりであろうか。(竹田青嗣は、そのような世界地平の類的な共通性について「人間の身体の同型性による」と書いていたが、この論には笑ってしまった。身体の同型性という認識自体が世界地平の構成に内属するものであるのに、それをいつのまにか地平の手前に置くことの論理破綻が見えないとはどういうことであろう)

そういうしがらみを無視して言ってしまえば、そこに、「人間という類を形成するアントローポスの原型」が、「生成の手前」の次元にあり、それが類としての人間的世界の地平を作り出す。そして、その地平においてバラはバラであると認識されるという構造が成立しているのだが、そのことは、バラという存在者を生成する類的な原理と、その生成の手前の次元においては共感し、連結しているのである。このような無数の「類」は連結し、調和して「インドラの網」を形成している。それらはすべて、神的な叡知の内部から発している。――これが宇宙の実相に近い表現である、と私は考えている。

一方、より深い意識においては、バラを見ているというとき、そのバラと、それを見ている「自分」が、ともに、より深い意識の中に含みこまれている、という事態が成立するということがある。それは「ものと一つになる」ということにおいて、意識の次元を深めたということである。いわばこれは「拡大した意識」である。そうした意識の拡大をつきつめていけば、論理的には、宇宙全体が自己意識と同一になる、つまり宇宙自己の自覚という事態に至るわけである。実は、ヘーゲルの哲学はそこを見ている。それが、ヘーゲル哲学は、ベーメの哲学化なんだよと言われるゆえんである。そこを逆から見れば、宇宙精神か自己を分開してすべての世界地平を生成していくという「宇宙叡智の旅路」になる。これもベーメにすでにあるアイデアである。私も前著で、あるチャプターに「宇宙叡智の旅」などと題をつけて、さもぶっ飛びであるかのような印象を与えてしまったが、基本的なアイデアはヘーゲルと似ているのであって、ただあのようにむずかしくではなく、もっとベーメに近い形で表現しただけなのである。しかしヘーゲルは、哲学の遂行は宇宙精神の自己実現そのものだと本気で信じていたらしいが、それはどう考えても誇大妄想である。哲学は「そのもの」ではなくて「神話」にすぎないものだと思う。しょせんは「世俗の知」であり、神的知性の実現そのものではない。ただここでおさえておくことは、ヘーゲルの哲学は、「ものと一つになることによってその存在をあらしめる何かを直観する」という、ドイツ精神史のある時期に存在したイデーを受け継いでいるということである。ヘーゲルは哲学史ではすごく尊敬されているが、ふつうに考えればかなりのぶっ飛び思想だと私には思われる。

シェリングなども、「遅れてきた古代哲学者」というのがその本質なので、その意味では共感を感じるものである。「世界霊魂」を論じているというだけでもすごいものである。それについてノヴァーリスは、「世界霊魂と個的な魂を区別しなければならない」とノートに書いているが、これは重要なポイントである。世界霊魂というのはつまり共同主観的な世界構成の地平を与えるものと理解できる。しかし、私が経験する世界は、その世界霊魂レベルの地平「のみ」から構成されるわけではなく、そこにはもっと個別な魂に固有の構成原理があるはずである。

仏教の唯識では、個別な魂(阿頼耶識)のみから世界構成が生成するという。世界霊魂か、個別な魂か、そのどちらか一方だけではないだろう。私の世界がこのように生成するについては、そのどちらも関与しているのだ。つまり、人類としての共通な「類的な世界」にありつつ、それを舞台として、私は私の個別な魂固有の「現実」をそこに描いてそれを生きることになるのである。このように世界生成の地平は複数であり、それが常に重層して現れるのが世界の実相であるはずである。つまり、西洋古代以来の世界霊魂論も、その対極としての唯識も、いずれも一面的ではないか。――だいたいこのような考え方を前著では表明したのである。これら「地平を与えるもの」は、現象しないものであり、現象学の方法で接近することはできない。永井晋は「それを現象するものとして問うことができる」と大見得を切ったが、実際にそういうことができているわけではない。阿頼耶識レベルのことがらは、批判的理性、言語的思考で接近できるものではなく、霊的直覚の次元でのみ理解可能なことがらに属する。その次元を直覚することができなければ、ある「予感」としてそのイデーを受け取り、それを神話として表現するという「詩人の道」のみが可能なことがらである。私が形を超えた世界の原理について語るのは、そうした「詩人の道」に位置してのことである。

正直言うと、いま私は、現象学からは離れてきている。どうしても意識の立場を超えられないという方法的限界があると思うのだ(現象学はある意味でデカルトの徹底化であり、その究極まで行ってその限界に突き当たることがその歴史的意味だった。その「先」にはたぶん現象学では行けないのである)。もう少し「類は個別に先行する」という古代・中世的な思考に接近したいと思っている。イデアがある次元において実在するという思考法こそが、霊的思想の復興にとって鍵となるであろう。そう考えない限り真の意味の霊的思想は成立しないのである。「疑いの哲学」も「共同主観的世界構成とその外部パラダイム」も、もうたくさんである。近代の哲学者では、ロシアのソロヴィヨフがイデア実在論をとっており、彼の思想が霊的思想として今でもおもしろいのはそういう要素もある(20世紀ロシアの思想は霊的思想としてきわめて興味深いものがあるのだが、それについてはまたいずれ)。

もう一つ余談ではあるが、私は長いことトマス・アクィナスの哲学がなかなかわからなかった。論理としてはわかるがつまり何を言いたいんだろう? と思っていたが、ある時、ふと気がついた。「存在するものはすべて善い」のである。そのような世界直観をトマスは抱いていたのだ。そう考えれば彼の哲学はよくわかるのだった。考えてみればそれはギリシア人だってそう思っていたのである。つまりここで見方を変えると、現代では「悪」の問題がクローズアップされていて、アウシュビッツみたいなものが存在する以上、なかなか、「すべては善い」と断言できないと考える人が増えているわけである。ベーメでも悪の問題が出てきており、それを受けてシェリングは、いかにして悪が人間精神の中で浄化されるのかを論じているわけである。現代人はあまりに「悪」に圧倒されており、そのために「宇宙はすべて善い」という古代哲学に入っていけないわけである。それでもなお、「すべては善い」と断言しなければならない。そう断言できなければ霊的な思想はあり得ないからである。そこで問題となるのが、カルマ論ということになるわけである。カルマと霊的成長という世界認識であって、そこでオリゲネス思想が復活する。

いろいろ書いたが、少しポイントをまとめてみよう。
「疑いうるものは徹底して疑う」という方法によって「これだけは絶対確実といえるものをめざす」というデカルト的方法論を突きつめることが哲学なのか、という、自明の前提とされているものを疑うこともできる、ということ。そのような疑いの立場を徹底してどこへ行き着けるというのか。そういう反省がなされなければならないということである。

そこにバラが存在しているとする。近代の「コペルニクス的転回」(カントによる)によると、バラがバラとして成立している原因は、バラの存在自体ではなく、主観性の側にあるのだった。バラは本当にバラであるか究明できない(物自体は不可知である)のだった。結局これは「ものそのものを存在せしめる深み」があるということを否定する考え方であり、意識とものとを切り離す考え方である。そのカントのいう超越論的主観性が、後代の哲学では共同主観性と措定されたことが、20世紀後半の思想の中心的パラダイムを形成したが、それも結局はカントの伝統に内属するものであり、依然として、ものそのものを誰も見ていなかったのではないかということだ。カント的パラダイムによって分断された「ものそのものへの通路」を再発見しようというのがメルロ=ポンティやハイデッガーの思想だったが、現象学の方法による限りそれには限界があった。アンリは「そこにあることの深み」を開くためにエックハルト的な思考を用いているが、それはもはや現象学とは呼ばれないものかもしれない。

ジルソンが「カントかトマスか」という選択を迫ったということは、「ものが存在する原因」をカントのように主観性の側におき、意識と自然を分断する近代思想を拒否して、「ものが存在する原因」の深みへと入る思想に転換せよというスローガンである(トマスとはこの場合一つの象徴であって、トマスでなくてもいいと思うが)。バラがバラであるのは、バラという存在物を存在させようという宇宙的な原理がそこに作用しているのであり、また私たちも、その宇宙的な原理にある部分で共鳴する何ものかを認識能力の中に持っているので、バラという存在物がそこにあると認知できる。それだけでなく、私たちはバラという存在の深みへ入り、その原像を直観することさえできるのである。これはある意味で、ドイツ・イデアリスムスによるカント乗り越えの試みにも一部内在していた考え方だと思うが、それはロマン主義にも共通している「イデア思想の復権」とも言えなくはない。いかにして私たちはイデアへの道を開くことができるのか。西欧から遠く離れたロシアでは、ソロヴィヨフが、荒野に叫ぶ預言者のごとく、イデア思想による「神人合一」という反時代的な思想を獅子吼していた。ソロヴィヨフは、ものがそこにあるということには何か神的な原因があるという確信に立っていた。それは20世紀ロシアにあった自然神秘主義的な世界感覚が背景にあるのであって、つまり存在するものの聖性へと入りこむという精神のあり方を理解していれば決してカント的な発想はできなくなるのである。ヘルダーリン、シェリングなどドイツロマン主義系統の思想にもそうした存在するものの聖性という思想があった。そうした世界感覚が思想の基礎ともなるのである。そういう感覚がわかるという人も少なくはないはずだが、それを思想化するためにはイデア論に立たなければならない、という自覚がこれまでに不足していたのではないか。唯名論こそが敵なのである。類は個別に先行するという思考原理が必要である。それは「精霊の哲学」なのである(これって本の題名によさそう)。

イデアがあるということはどういうことであるか。人間が存在することは人間のイデアによる。また私が存在することは私というイデアをその根拠としているということである。私のイデアとは何か。それは宇宙的な、神的自己である。それが自己のイデアである。すべて私が私として自覚されるのは、その神的な自己のイデアを分有するからである。私は神的な自己のイデアに発し、アントローポスという原人間のイデアを通過して人間という「類」の中にある存在者として存在するに至っているのである。

従って、21世紀的な霊性思想の基礎となるのはある意味でプラトン主義の復権であり、イデア思想の再定立である。いうならば「新々プラトン主義」の思想である。

それはつまり「自然の聖性」あるいは「存在するものの聖性」を言い表す思想でもある。存在するものは全てそのイデア的な核心を通じて、神的次元へのつながりをもっている、と世界を見ようとするものである。

世界を記述することをすべて自然科学に明け渡してしまうと、残されるものは主観性の領域だけである。そこで、聖性、霊性を「心の問題」として扱おうという態度が生まれ、そこに「心理学」として霊性を扱おうという人間性心理学やトランスパーソナル心理学の考え方が生まれてくる。私は、このような心理学的立場では不十分だと考える。心と自然とぶっ通しで貫いて作用している神的な原理を直観しなければならない。一方に客観的な自然世界を措定しつつ、それと対置された主観性・心理の領域で霊性を問題にしようとすると、「変性意識」などという奇妙な概念が登場することになってしまう。心(主観性)も自然も、ある同一の根源に由来するのである(この考え方は、シェリングの同一哲学に近い)。「私が存在すること」それ自体も、宇宙の深みにある神的次元から贈られたものとしてあるのである。私の根源とバラの根源は、宇宙の深みにおいて巧みに調和しており、万物の調和が神的知性の中で実現している。それを神的摂理(オイコノミア)というのである。

――なんか自分でもすごいことを言っている。「21世紀日本のソロヴィヨフ」でもめざそうかな、などとも思うこのごろである(笑)

« June 2007 | Main | August 2007 »

April 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ