イデア論と新々プラトン主義
ついに待望の、平井センセの本丸であるフランス語の本を借りることができた。『ルネサンスの物質の理論における種子の概念――マルシリオ・フィチーノからピエール・ガッサンディまで』である。500ページ以上の大冊だが、じっくり読みたい。
平井センセの「種子」の本を読みながら、いろいろな思いがよぎる。
なぜ、近代以降はこのような自然に対する考え方ができなくなってしまったのか、という問いが一つある。
それは結局、哲学が、デカルトに代表されるように「疑うこと」、つまり批判的知性を第一と見なすようになったという転換がある。このことについてはベルグソンの霊魂論講義でもふれられていた。自分の意識というものから出発する考え方だ。だが、批判的知性のみがあまりに肥大化しすぎたのが近代文化の問題ではなかったか?
バラがバラとしてそこにあるのは、この宇宙の深い部分に、「バラという存在物をあらしめよう」という何かの原理が働いているからではないのか、というのは人間としてきわめて自然な発想なのだ。原始文明は何万年も、そこに「精霊」という名を与えていたのだった。ルネサンスの種子の理論も、そうした「実念論」の系譜なのである。つまり、イデアは実在するということだ。人間がそこにあると認めることができるものは、実際にあるのであり、それがバラのような具体的な形であるということは、そのような形の存在物をあらしめようという何かの原理があるからだった。その「何か」を探究することが、古代の哲学だったのである。
しかし「もしかするとすべてはないのかもしれない、私はだまされているのかもしれない」と考えることも可能である。これは可能ということであって、実際にすべてはないということではない。そこで確実なものは何かという方向でものを考えれば、結局、私がこのように世界を経験していることのみが確実と言いうる、という結論になる。これが、デカルトであり、ある意味でデカルトの徹底である現象学が到達した答えである。
私も、哲学をそのように考えることが当然だと考えていたことがある。世界が存在するということさえ疑って、それでも疑いきれないことを追求すれば、私とその世界の経験がここに現象していることになる。そこまでつきつめて、その次に、「それでは、その現象の地平を生成しているものは何か」という問いに進み、そこで考えることの限界に到達する、そこで「存在の謎」という巨大な問いに突き当たる、という道が現代哲学の道だと考えていたのである。つまり、デカルト-カント-フッサール-ハイデッガーが基本路線だと認識していたのだ。
しかし実際にそれを学生に教えようと努力すると、そこに拒否反応のようなものが出てくることに気づいた。これはなぜかと考えてみると、今にして思うと、このような懐疑の徹底というものは、ひじょうに「反人間的」な行為ではないかということである。反人間的というのは、人間の自然に反しているということである。どこかそれには、異常なものがあるのだ。それを突きつめると独我論の世界に行くかもしれないということを、何人かは直感したのかもしれない。バラがバラであるということは、バラが実在するからではなく、超越論的カテゴリーによるものである、と言ったり、あるいはそこから超越論的主観性の問題を省いて構造主義のようにとらえたところで、それは、「そう考えることもできる」という世界でしかないのではないか。いや、それは言い過ぎで、「そのように考えることができる側面もある」と言う方が正確であろうが、そういう考え方がどこか、人間の自然に反した思想であるという印象は変わらないのである。
哲学教授が講義テキスト用に執筆した哲学の入門書のたぐいには、まずほとんど、「哲学とは常識を徹底的に疑うことだ」と書かれている(池田晶子などもそればかりだが、それは彼女の哲学がけっこう「ふつう」であるということだ)。徹底的に疑うことは大切なことだが、それならその原理を、この哲学の定義自身にあてはめてみたらどうだろうか。つまり、「哲学とは、常識を徹底的に疑うことだとされているが、もしかするとそれだけではないかもしれない、もっと大切なことがあるかもしれない」という疑いだけはなされないというならば、自己矛盾ということになるであろう。哲学は徹底した疑いだという言明は、「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」という言明と同じ構造なのである。哲学は徹底した疑いなのか、そうではないのか、確定した意味が含まれない文である。
たとえば、「哲学とはものと一つになり、そのものの本質を直観して、そこから更に進み、万物の根源についての知的直観をめざすものである」という規定をすることも可能である。これは言うまでもなく古代哲学の立場である。バラがバラであるのは、認識カテゴリーであるかもしれないが、バラがバラとして存在することと、それを認知する認識カテゴリーが私の中に存在するということは、もしかすると密接に連関しているのかもしれない。つまり、あるものが存在するということと、それを知的に知りうるためのイデーを私が有しているということは、宇宙のある次元でつながっており、それはある同一の根源を起点としているのかもしれないのである。これはゲーテの自然学の発想であったし、また、シェリングの同一哲学もそういう方向で考えたものであるらしいが、これらは古代人的な思考の復権というふうにも言えるだろう。そこにバラが見えるなら、バラが存在することの「深み」へ入っていくのだ。そこにバラの「原型」が直観されるであろう。その直観が生じるとき、私の中にもある深い次元が開かれるのである。この事態が「ものと一つになる」と言われるのである。こういう発想は禅にもあるものだろう(だから禅は、ある意味で存在するもののリアリズムであり、仏教思想の大勢としての唯心論とはまったく違うものであろう。なお、禅は思想ではない。禅に関係した思想はあるが)。
つまり、デカルト-カント-フッサール-ハイデッガーという「近代哲学の本線」とはまったく違う哲学の可能性を明確に規定しなければならないなあ、と意識されたのである。エティエンヌ・ジルソンは、「カントかトマス・アクィナスかどちらかを選ばなければならない」などと言っていた。このスローガンを敷衍すれば、たぶん、「世界はほんとうに存在しているのかどうかわからない、というところまで懐疑を徹底する哲学」なのか、あるいは、「ものがそこに存在していることを深く見て、その『存在』そのものに入っていこうとする哲学」との選択ということだろう(これはジルソンの考えとは少し違うかもしれないが)。そういうふうに見ると、ハイデッガーというものは、カントやフッサールという「本線」に属しながら、何とかして「存在そのものに入る」という道を切り開こうと苦闘した人物であったこともわかる(後期ハイデッガーは現象学にまつわっていたカント主義をある程度脱したと思う。ただし、彼の「存在形而上学批判」は、哲学史への見方としてはかなり偏見が入っていると思うが)。ハイデッガーが Ereignisなどという語で表そうとしていた事態は、ルネサンスの種子の理論で言われていた「存在するものの隠れた根源」そのものではなかろうか?(こういう結びつきを発見したのは私が初めてかもよ・・それは甘いか)。
「疑いの哲学」というものは前文化期の産物だったのかもしれない、と考える。たぶん人間精神は、独我論に陥るまで徹底的に懐疑をつきつめる経験を必要としたのかもしれない。日本では永井均などをありがたがっているが、その「疑いの哲学」を徹底するというのはどういうことなのかを、永井均を読んで初めて理解した人が多いということである。率直に言えばあのようなことを考えてしまうというのは病気に近いことである。それはなぜかといえば、「ものと一つになる」ということがわかる人は決してあのようなことは考えないからである。「私があること」を徹底して突きつめたいなら、永井均などよりミシェル・アンリでも読んだ方が、独我論を抜ける道が発見できるだろう。
現代哲学ではメルロ=ポンティが「ものと一つになること」を理解していたようである。しかしメルロ=ポンティでも、ものの根源であるイデア的原理は喪失しているのである。「疑いの哲学」を克服しようという意欲は認められるが、十分なものとは思えない。
霊的知性という原理を哲学へ再導入する――このドンキホーテ試みを遂行するためには、「イデアはある意味で実在する」という原理が定立されねばならない。つまり、バラがバラであるのは、そのようにあらしめる何かが宇宙にはあるからである(立場こそ違え、プラトンとアリストテレスはその点については一致していた)。このような「目的因」的な考え方は、「疑おうと思えば疑える」のである。しかしそのように考えることは人間として「まっとうなこと」である。人間はそのように考えて生きるような存在として創造されているのである(この言明についての証明は提供しない)。人間が人間であるのか、「人間というイデア」つまり「アントローポス」が宇宙のある次元に存在しており、人間はそのアントローポスのイデアを通過して物質次元の存在として個別化するからである。これは古代中世的な発想からすれば当然の考え方なのである。つまり「類は個別に先立つ」のである。まず個別が存在して、そこから帰納法的に概念が形成される、というのが近代精神である。これは、私の乏しい哲学史の知識によると、オッカムなどからベーコンへ至る過程で生まれた考え方で、それが科学を基礎づける思想として採用されたため、そう考えなければいけないような雰囲気ができてきたものであるらしい(なお、科学研究の実際においては、必ずしもデータがあってそこから帰納して理論ができるものではない。そのような素朴な考え方は、科学史・科学哲学はとっくに否定されている)。
世界という地平が生成するのは、共同主観的な、歴史的な過程という要素もあろう。しかしそれだけであろうか? その地平がなぜ、このような特定の形態を持っているのか、その生成の秘密が、自己意識から出発せざるを得ない現象学の方法で解明できるというのであろうか。私はそれに疑問を持つ。実際、私が経験する現象世界は、ある程度、人間という類に共通なものとして現象しているのである。その類的な共通性がなぜ生じるのか、それはいまだ明らかにされていない。そこにおいていかなる目的因も排除して説明しようとするつもりであろうか。(竹田青嗣は、そのような世界地平の類的な共通性について「人間の身体の同型性による」と書いていたが、この論には笑ってしまった。身体の同型性という認識自体が世界地平の構成に内属するものであるのに、それをいつのまにか地平の手前に置くことの論理破綻が見えないとはどういうことであろう)
そういうしがらみを無視して言ってしまえば、そこに、「人間という類を形成するアントローポスの原型」が、「生成の手前」の次元にあり、それが類としての人間的世界の地平を作り出す。そして、その地平においてバラはバラであると認識されるという構造が成立しているのだが、そのことは、バラという存在者を生成する類的な原理と、その生成の手前の次元においては共感し、連結しているのである。このような無数の「類」は連結し、調和して「インドラの網」を形成している。それらはすべて、神的な叡知の内部から発している。――これが宇宙の実相に近い表現である、と私は考えている。
一方、より深い意識においては、バラを見ているというとき、そのバラと、それを見ている「自分」が、ともに、より深い意識の中に含みこまれている、という事態が成立するということがある。それは「ものと一つになる」ということにおいて、意識の次元を深めたということである。いわばこれは「拡大した意識」である。そうした意識の拡大をつきつめていけば、論理的には、宇宙全体が自己意識と同一になる、つまり宇宙自己の自覚という事態に至るわけである。実は、ヘーゲルの哲学はそこを見ている。それが、ヘーゲル哲学は、ベーメの哲学化なんだよと言われるゆえんである。そこを逆から見れば、宇宙精神か自己を分開してすべての世界地平を生成していくという「宇宙叡智の旅路」になる。これもベーメにすでにあるアイデアである。私も前著で、あるチャプターに「宇宙叡智の旅」などと題をつけて、さもぶっ飛びであるかのような印象を与えてしまったが、基本的なアイデアはヘーゲルと似ているのであって、ただあのようにむずかしくではなく、もっとベーメに近い形で表現しただけなのである。しかしヘーゲルは、哲学の遂行は宇宙精神の自己実現そのものだと本気で信じていたらしいが、それはどう考えても誇大妄想である。哲学は「そのもの」ではなくて「神話」にすぎないものだと思う。しょせんは「世俗の知」であり、神的知性の実現そのものではない。ただここでおさえておくことは、ヘーゲルの哲学は、「ものと一つになることによってその存在をあらしめる何かを直観する」という、ドイツ精神史のある時期に存在したイデーを受け継いでいるということである。ヘーゲルは哲学史ではすごく尊敬されているが、ふつうに考えればかなりのぶっ飛び思想だと私には思われる。
シェリングなども、「遅れてきた古代哲学者」というのがその本質なので、その意味では共感を感じるものである。「世界霊魂」を論じているというだけでもすごいものである。それについてノヴァーリスは、「世界霊魂と個的な魂を区別しなければならない」とノートに書いているが、これは重要なポイントである。世界霊魂というのはつまり共同主観的な世界構成の地平を与えるものと理解できる。しかし、私が経験する世界は、その世界霊魂レベルの地平「のみ」から構成されるわけではなく、そこにはもっと個別な魂に固有の構成原理があるはずである。
仏教の唯識では、個別な魂(阿頼耶識)のみから世界構成が生成するという。世界霊魂か、個別な魂か、そのどちらか一方だけではないだろう。私の世界がこのように生成するについては、そのどちらも関与しているのだ。つまり、人類としての共通な「類的な世界」にありつつ、それを舞台として、私は私の個別な魂固有の「現実」をそこに描いてそれを生きることになるのである。このように世界生成の地平は複数であり、それが常に重層して現れるのが世界の実相であるはずである。つまり、西洋古代以来の世界霊魂論も、その対極としての唯識も、いずれも一面的ではないか。――だいたいこのような考え方を前著では表明したのである。これら「地平を与えるもの」は、現象しないものであり、現象学の方法で接近することはできない。永井晋は「それを現象するものとして問うことができる」と大見得を切ったが、実際にそういうことができているわけではない。阿頼耶識レベルのことがらは、批判的理性、言語的思考で接近できるものではなく、霊的直覚の次元でのみ理解可能なことがらに属する。その次元を直覚することができなければ、ある「予感」としてそのイデーを受け取り、それを神話として表現するという「詩人の道」のみが可能なことがらである。私が形を超えた世界の原理について語るのは、そうした「詩人の道」に位置してのことである。
正直言うと、いま私は、現象学からは離れてきている。どうしても意識の立場を超えられないという方法的限界があると思うのだ(現象学はある意味でデカルトの徹底化であり、その究極まで行ってその限界に突き当たることがその歴史的意味だった。その「先」にはたぶん現象学では行けないのである)。もう少し「類は個別に先行する」という古代・中世的な思考に接近したいと思っている。イデアがある次元において実在するという思考法こそが、霊的思想の復興にとって鍵となるであろう。そう考えない限り真の意味の霊的思想は成立しないのである。「疑いの哲学」も「共同主観的世界構成とその外部パラダイム」も、もうたくさんである。近代の哲学者では、ロシアのソロヴィヨフがイデア実在論をとっており、彼の思想が霊的思想として今でもおもしろいのはそういう要素もある(20世紀ロシアの思想は霊的思想としてきわめて興味深いものがあるのだが、それについてはまたいずれ)。
もう一つ余談ではあるが、私は長いことトマス・アクィナスの哲学がなかなかわからなかった。論理としてはわかるがつまり何を言いたいんだろう? と思っていたが、ある時、ふと気がついた。「存在するものはすべて善い」のである。そのような世界直観をトマスは抱いていたのだ。そう考えれば彼の哲学はよくわかるのだった。考えてみればそれはギリシア人だってそう思っていたのである。つまりここで見方を変えると、現代では「悪」の問題がクローズアップされていて、アウシュビッツみたいなものが存在する以上、なかなか、「すべては善い」と断言できないと考える人が増えているわけである。ベーメでも悪の問題が出てきており、それを受けてシェリングは、いかにして悪が人間精神の中で浄化されるのかを論じているわけである。現代人はあまりに「悪」に圧倒されており、そのために「宇宙はすべて善い」という古代哲学に入っていけないわけである。それでもなお、「すべては善い」と断言しなければならない。そう断言できなければ霊的な思想はあり得ないからである。そこで問題となるのが、カルマ論ということになるわけである。カルマと霊的成長という世界認識であって、そこでオリゲネス思想が復活する。
いろいろ書いたが、少しポイントをまとめてみよう。
「疑いうるものは徹底して疑う」という方法によって「これだけは絶対確実といえるものをめざす」というデカルト的方法論を突きつめることが哲学なのか、という、自明の前提とされているものを疑うこともできる、ということ。そのような疑いの立場を徹底してどこへ行き着けるというのか。そういう反省がなされなければならないということである。
そこにバラが存在しているとする。近代の「コペルニクス的転回」(カントによる)によると、バラがバラとして成立している原因は、バラの存在自体ではなく、主観性の側にあるのだった。バラは本当にバラであるか究明できない(物自体は不可知である)のだった。結局これは「ものそのものを存在せしめる深み」があるということを否定する考え方であり、意識とものとを切り離す考え方である。そのカントのいう超越論的主観性が、後代の哲学では共同主観性と措定されたことが、20世紀後半の思想の中心的パラダイムを形成したが、それも結局はカントの伝統に内属するものであり、依然として、ものそのものを誰も見ていなかったのではないかということだ。カント的パラダイムによって分断された「ものそのものへの通路」を再発見しようというのがメルロ=ポンティやハイデッガーの思想だったが、現象学の方法による限りそれには限界があった。アンリは「そこにあることの深み」を開くためにエックハルト的な思考を用いているが、それはもはや現象学とは呼ばれないものかもしれない。
ジルソンが「カントかトマスか」という選択を迫ったということは、「ものが存在する原因」をカントのように主観性の側におき、意識と自然を分断する近代思想を拒否して、「ものが存在する原因」の深みへと入る思想に転換せよというスローガンである(トマスとはこの場合一つの象徴であって、トマスでなくてもいいと思うが)。バラがバラであるのは、バラという存在物を存在させようという宇宙的な原理がそこに作用しているのであり、また私たちも、その宇宙的な原理にある部分で共鳴する何ものかを認識能力の中に持っているので、バラという存在物がそこにあると認知できる。それだけでなく、私たちはバラという存在の深みへ入り、その原像を直観することさえできるのである。これはある意味で、ドイツ・イデアリスムスによるカント乗り越えの試みにも一部内在していた考え方だと思うが、それはロマン主義にも共通している「イデア思想の復権」とも言えなくはない。いかにして私たちはイデアへの道を開くことができるのか。西欧から遠く離れたロシアでは、ソロヴィヨフが、荒野に叫ぶ預言者のごとく、イデア思想による「神人合一」という反時代的な思想を獅子吼していた。ソロヴィヨフは、ものがそこにあるということには何か神的な原因があるという確信に立っていた。それは20世紀ロシアにあった自然神秘主義的な世界感覚が背景にあるのであって、つまり存在するものの聖性へと入りこむという精神のあり方を理解していれば決してカント的な発想はできなくなるのである。ヘルダーリン、シェリングなどドイツロマン主義系統の思想にもそうした存在するものの聖性という思想があった。そうした世界感覚が思想の基礎ともなるのである。そういう感覚がわかるという人も少なくはないはずだが、それを思想化するためにはイデア論に立たなければならない、という自覚がこれまでに不足していたのではないか。唯名論こそが敵なのである。類は個別に先行するという思考原理が必要である。それは「精霊の哲学」なのである(これって本の題名によさそう)。
イデアがあるということはどういうことであるか。人間が存在することは人間のイデアによる。また私が存在することは私というイデアをその根拠としているということである。私のイデアとは何か。それは宇宙的な、神的自己である。それが自己のイデアである。すべて私が私として自覚されるのは、その神的な自己のイデアを分有するからである。私は神的な自己のイデアに発し、アントローポスという原人間のイデアを通過して人間という「類」の中にある存在者として存在するに至っているのである。
従って、21世紀的な霊性思想の基礎となるのはある意味でプラトン主義の復権であり、イデア思想の再定立である。いうならば「新々プラトン主義」の思想である。
それはつまり「自然の聖性」あるいは「存在するものの聖性」を言い表す思想でもある。存在するものは全てそのイデア的な核心を通じて、神的次元へのつながりをもっている、と世界を見ようとするものである。
世界を記述することをすべて自然科学に明け渡してしまうと、残されるものは主観性の領域だけである。そこで、聖性、霊性を「心の問題」として扱おうという態度が生まれ、そこに「心理学」として霊性を扱おうという人間性心理学やトランスパーソナル心理学の考え方が生まれてくる。私は、このような心理学的立場では不十分だと考える。心と自然とぶっ通しで貫いて作用している神的な原理を直観しなければならない。一方に客観的な自然世界を措定しつつ、それと対置された主観性・心理の領域で霊性を問題にしようとすると、「変性意識」などという奇妙な概念が登場することになってしまう。心(主観性)も自然も、ある同一の根源に由来するのである(この考え方は、シェリングの同一哲学に近い)。「私が存在すること」それ自体も、宇宙の深みにある神的次元から贈られたものとしてあるのである。私の根源とバラの根源は、宇宙の深みにおいて巧みに調和しており、万物の調和が神的知性の中で実現している。それを神的摂理(オイコノミア)というのである。
――なんか自分でもすごいことを言っている。「21世紀日本のソロヴィヨフ」でもめざそうかな、などとも思うこのごろである(笑)