« 占いについて | Main | ヒーリングの思想 »

生命哲学と疑いの限界

さて依然として平井センセの「種子の概念」のフランス語本を読んでいる。それにしても、そのBHサイトの「自然魔術とカバラ」のページを開くと、あれもこれも読みたいものばかりで目移りしてしまう。英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語と四カ国語にわたっている。

たとえば・・『ライプニッツとカバラ』『汎知学――白魔術・黒魔術の史的研究』『神的魔術師と魔女としての自然――中世後期からルネサンスまでの宗教・自然魔術・科学の勃興』『自然神秘家の時代』『パラケルススからトーマス・マンまで――ドイツヘルメス主義のアヴァターラたち』『近世初期の医学における占星術・魔術の理論と実践』・・すごいタイトルが並ぶ・・

たしかにもし20歳くらいでこのサイトに触れたとすると、本気でその道の研究者をめざしてしまったかもしれない(留学できるほど家が金持ちであるという条件も必要だが)。もちろん今のところはその道の専門家になろうということではない。フィチーノやパラケルススなどの自然観やその「魔術」(微細エネルギー技術)のとらえ方は、現在におけるヒーリングや代替・相補医療の行方に示唆を与えるのではないか、という問題意識である。これは私自身が実際に「やっている」という立場からも言うことである。

そして、近代以前の哲学を学んでいて明らかになることは、この時代の思想は「生命」や「自然」についての基本的なとらえ方を含んでいたということである。つまり、現在の哲学は、まったく生命や自然について語るところがない。そういう領域がどんどん自然科学によって侵食されてしまい、結局「主観性」という領域しか残されなくなってきたのである。自然科学では「生命」という原理を消し去ろうとしている。つまり、「生命」は決して実体として理解されてはならず、すべて、観察可能な物質的秩序から説明しなければならないのである。つまり「生気論」の追放である。さらにアリストテレスのいう「目的因」さえも消去して説明しなければならない。こういう科学的生命観を「間違っている」というわけではないが、少なくとも一面的であり、ほかの見方を排除するほどの権威を与えられてはならない。そのような科学的生命観の独占状況に対してノーを言うことも哲学として必要なことである。

生命の問題を「生物学」にまかせてしまおうという考え方が基本的に間違いである。生物学の最先端の知見をあれこれ継ぎ合わせて生命論を立てようというする人がいるが、前提からして間違った行き方である。というのも「生命」とは本来、「なぜものはここにあるのか」という、「存在するものを存在させる原理」に関わるものであり、その意味で形而上学的思索の対象なのである。そもそも、「生物」と「無生物」をどのように分けるのか、そういうはなはだ常識に寄りかかった区別を無批判に援用し、生物の特性を考えたところで、恣意的な前提に出発した危うい議論にしかならない。むしろ、「鉱物も生きている」という発想から出発して生命を考えることもできるのである。

シェリングの自然哲学が見直されてきたり、ヘーゲルとヘルメス主義思想との関連が語られたり、フィチーノの思想が復権したりと、こういう動きはいずれも、あらたな自然観・生命観の可能性を探る思想的な試みである。そもそもドイツ・イデアリスム自体が、古来の生命哲学の復興をめざしていたという面もある。

近代は、「説明原理から証明不可能な項を排除する」という基本的な姿勢がある。「何事かを主張するためには、誰にも確認可能な証明を提示しなければならない」という公準である。これは感覚世界の構造をさぐる自然科学が採用した原則である。それが物質界に限定されていれば問題はなかったが、それがいつのまにか、哲学の問題領域にまで侵食していく過程があったようである。結局デカルトがその方法的懐疑ということを言い出したのは、「絶対に確実な知識」を求めるという動機によるものだった。知識は「確実」でなければならない。その確実ということは「誰にも理解できる」ことである、というのが近代精神である。

ある大学がWEB上で公開しているらしい英文の思想事典に「魂の不滅」という古いテーマが出ていた。そこには魂の不滅のほか、輪廻転生や復活などについても述べられていたが、それを読んで驚いたことに、「現在のところ死後存続を裏付けるような十分な証明はないので、死は人格の消滅であると考えるべきである」などという論が大まじめに書かれていたのである。これはどこかの大学教授の文であろうが、およそ、霊魂の不滅という問題が、経験的データによって「証明」されなければならない、そうしなければそれを信じてはならない、などという考え方は、17世紀くらいまでの知識人ならびっくり仰天するような立論なのである。魂の不滅ということは、そもそも魂に内在する高次の知性によって直観するべきことがらであるというのが西洋の伝統的な哲学の立場である。これはデカルトでさえそのことを疑っていなかった。伝統的な思想によれば、魂とは「感覚的」な部分と「理性的」な部分に分かれており、魂の理性的な部分は超感覚的なことがらを直観しうるのである。なぜかといえばその部分は神性を分与されているからである。つまり、そうした時代と現代を隔てているのは、「魂のもつ高次の直観力」に対する信頼が全面的に失われたということである。それは「疑おうとすれば疑える」ことではあろう。それならば疑うのは当然ではないか、ということであろうか。だがここで重要な問題がある。それはおそらく、「宇宙に対する基本感情」に変化があったことがその要因になっているだろうということである。伝統思想は、魂の内奥には神秘があり、それは宇宙の内奥の神秘と何らかつながっている、という直観・感情に支えられていた。それが失われるとき、そこに疑いが入りこむのである。だから根本的には「宇宙感情の変化」が近代精神の発生を促したのだと思う。「疑えるものは何でも疑え」という原則を、デカルトは完全に徹底しなかったが、たぶんそれを徹底したところまでやったのがニヒリズムの哲学になるのだろう。生きていることや宇宙が存在することに「意味がある」ということも、証明はない。疑おうとすれば疑えるものであるから、疑って何が悪いというかもしれない。しかしそもそも存在の意味など、考えたり証明したりして納得するものではない。魂の底から出てくる宇宙感情において肯定するべきことがらなのである。そのような魂のあり方を前提として、それを言語化しようとしたものが伝統思想である。そこにはたしかに「証明」はない。しかし誰も、証明など必要はなかったのである。思想とは証明したりするものではなく、そこに何かを感じるためにある「作品」であり、美的に感受するものであった。

つまり、哲学固有の領域として「魂の高次の機能」があり、それは宇宙感情に支えられており、そのような背景の中で宇宙の姿を思い描こうとするのが昔の思想であった。これに対して、「証明されないものは信じてはならない」という「疑いの思想」が近代思想であった。その疑いの思想はニーチェで突きつめられ、行き詰まり、どのように突破口を見出せばよいのかという思想状況がもう100年以上も続いている。そもそも「絶対に確実であるという証明がほしい」という発想自体、宇宙感情が衰弱していなければ現れない考え方である。逆説的にいうなら、これから必要になってくるものはいわば「信じる力」なのではないだろうか。「疑いの思想」を本当に徹底するなら、気が狂うか自殺するかしかないのである。そこまでやるなら逆に見上げたものである。

疑うことを否定するわけではないが、疑うことにも「分を守る」ことが必要である。

なお、哲学の基礎として「宇宙感情」が要請されることを理解したのが、ハイデッガー(特に後期)である。
古東哲明の解説書は、その部分に焦点をあてている。
ハイデッガー思想のそういう部分は、その後の哲学にはあまり受け継がれていないようにみえる。

« 占いについて | Main | ヒーリングの思想 »

霊性思想」カテゴリの記事

September 2017
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ