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ウィルバーによる微細エネルギー論・転生論とそれへの疑問

周知のように、私はウィルバーのファンではない。しかし彼が微細エネルギーと転生について書いているといえば、読まないというわけにもいかないだろう。というわけで、シャンバラ社のウィルバーサイトに出ている文章をダウンロードしてみた。次の本の抜粋らしい。

で、やっぱり、ウィルバーって、間違っているとか悪いとかいうより、おもしろいかおもしろくないかでいえば後者なのである。つまり刺激されないということであろうか。前からそうだったのだが、その原因がどこにあるのか、それがかなりわかっただけでもこれを読んだのは収穫であった。

さてご存じのようにウィルバーの愛好するのは「存在の大いなる連鎖」であって、これはラヴジョイが新プラトン主義世界観を題材に述べたものだが、彼はそれをインドのヴェーダーンタなどにも押し広げて普遍化する。しかしウィルバーは、そういう古来の世界観はもっと現代化されねばならないと説く。それはどういうことかといえば、「物質が、存在の最下層に位置づけられていたのに対し、すべてのほかの存在レベルの外層として理解する」のだという。つまり「物質を超えるリアリティ」とされていたものは「物質の内側にあるリアリティ」と読み替えなければならない、というのである。

ウィルバーの立場は微妙に変わっているが、どうも現時点では、垂直的な超越性をすべて否定して、すべての超越的リアリティは自然の中に内在している、という世界観に入っているらしい。これを彼は naturalistic turnと呼び、それがポストモダン的見方だと主張している。昔の本では、かなり垂直的超越のメタファーも散見されたが、より内在論へシフトしているらしい。そして微細エネルギーの諸次元も、物質次元の位置づけを見直すのに平行して、位置づけしなおされる、ということになる。

いま、その詳細については述べない。しかし私はこのところ、種子の理論、プネウマ、スピリトゥス、エーテル等々の霊的自然学について勉強していたので、ウィルバーの自然観、物質観の特徴というのがよく見えてきたとも言える。

まず印象を受けるのは、ウィルバーというのはものすごく科学が好きなんだなあ、ということである。物質界について自然科学が描いていることは基本的にそのまま受け入れるべきである、と思っているらしい。そしてどうやら、科学でいっているビッグバンの宇宙発生論とか、物質の世界が進化して生物が生まれてきたなどというストーリーを、ウィルバーは信じているらしいのである。そういう科学のストーリーと霊的進化のアイデアを接ぎ木して連続させるというアイデアは、基本的にテイヤール・ド・シャルダンの思想的流れであり、エーリヒ・ヤンツとかアーヴィン・ラズロの系統であろう。たしかに、ズーカフやアラン・フレッド・ウルフ、天外伺朗などの素朴な「量子論神秘主義」は斥けているものの、基本的にニューサイエンス系統の思考をする人であることは変わらない事実であると思う。

一方、ヒューストン・スミスなどはプラトン主義者であって、進化論などはまるで信じていないし、ビッグバンストーリーなども一つのお話だと思っている。私もはっきり言えば基本的にプラトン主義者なのだが、そういう立場からすると、ウィルバーはあまりにも「そこに同一性の認識が成り立っているという事態への驚き」が足りないようにも見える。そこにバラがあるとしたなら、そもそもそのバラを他ならぬその形でそこで存在せしめようとする「意志」があるのではないのか? と考えて、その「意志」を宇宙根源から自然界へと媒介するのが「種子」であり、プネウマだということなのだが、どうもウィルバーはそういう「意志」を問題にする様子はない。よく考えてみるに、これはプラトンではなくアリストテレス的に自然物を理解しているらしいとも思えた。つまりものは「あるべくしてある」のであり、なぜそのようにあるのかという原因はすべてそのものの中に内在しているのであり、ほかを探してはいけないのだった。それがアリストテレス的思考である。設計図があれば設計者がいたはずだと考えるプラトン主義者とは、そこがあいいれない。そこに「類」があるということにあまり驚いてくれないのは、プラトン主義者としては困るのである。バラがバラであることは奇跡であり、神的意志なしに存在しえないことであるというふうに考えてはいけないのだろうか? つまりウィルバーはイデアという概念なしに自然を説明しようとしている。物質は物質世界に内在している法則性のみを問題にしていけばよいとする自然科学の立場をそのまま受け入れているのだ。ここからして、微細エネルギーにも「イデアを伝達する役割」を認めるという発想は出てこないのは当然であろう。ウィルバーの微細エネルギー論は、いっさいの創造的エネルギーをもたされず、ただ、身体性や意識に対応したエネルギーであり、つまり物理的エネルギーに微細次元で対応するものという位置づけがなされてしまっている。彼は、「類」をなす「かたち」を賦与する高次元の力を考える必要がないという理論構成を取っているので、そういうことになるのだ。

それに対して私は、物質世界の実在性は、私の認識構造と相関関係にあると思う。これはウィルバーのいう「外と内」の象限の違いということとは違う。自然界はあくまで「地球霊魂」というべき、地球の自然界を統轄する神的知性によって成立しており、私が物質界の生活に移行する時に、私はその地球霊魂の生成する世界の一部を認識しうる認識構造を賦与されたため、それを自然界として認識できているのである。私は、そのように考える方が「美しい」と感じるが、いかがなものであろうか。

ウィルバーは以前よりも down-to-earthな性質が強まったな、と感じた。以前はもう少し、プラトン的垂直的超越についても語っていたのだが。彼の思想によると、人間は宇宙の頂点にいることになる。この物質界を統合した上で霊的に覚醒しなければならないのである。そのことを彼ははっきりとこの論文で語っている。肉体をもって覚醒することが真の悟りである、と断言するのだ。いや、肉体を持たなければ決して覚醒できない、とも言っている。肉体人間は、存在の全レベルを包括しうる可能性を持つという意味で、宇宙で最も大きな可能性をもつ存在ということになるのだ。当然ながら、それは物質レベルの進化が地球において頂点に達しているということにもなる。このようにウィルバーの思想は著しく「地球中心的」「地球人中心的」な思想になっている。

もちろんそのことは反証不可能な形而上学的テーゼであって、美しいか美しくないかという基準で判断してよいことだと思う。たしかに「人間こそが宇宙の目的を完遂させうる神の代理人なのである」という思想はヨーロッパ精神史に存在していたものの一つである。しかしここで、「でも地球って一つのステップにすぎないんじゃないですか」とつぶやけば、ウィルバーの理論も成立しなくなってしまうだろう。私たちは地球を卒業したらまた別の星へ行って修行するのだ、と考えてもいっこうに差し支えないように私には思える。物質の世界というのは一つの方便として、神的意志によって「あるように感じる」ようにされたものにすぎないのではなかろうか? そういう思弁をすることもできるのである。この地球的物質世界を、宇宙の中心と考えるのか、辺境と考えるのかというイマジネーションの違いがそこにあるようである。萩尾望都のSFマンガを読み過ぎた人間は、地球が宇宙の中心だとはなかなか想像できないのである。地球上で最高の覚醒に達した人だって、宇宙的レベルで見ればどうなのか? と私は思っている。もしかすると金星の方がすごいかもしれないではないか(いや冗談です、ここまで書くとまずいですね(笑))。ともあれ、「地球の物質的リアリティが進化することの延長線上に、宇宙の究極的な完成がある」とウィルバーは確信している。だから肉体をもって悟ることが重要なのである。これに対し、宇宙の霊的完成は地球的リアリティの延長線上にはない、というイマジネーションに立つなら、ウィルバー思想は受け入れがたいものになるのである。さらに「魂の死後における成長」というイデーも、ウィルバー的パラダイムでは理解不能な考え方であろう。(ただ、宇宙は霊的完成へ向かっているというイデー自体では私と彼は一致しているわけである)

それからウィルバーはつづいて転生の問題を扱っている。今まで彼はその問題から逃げていると思っていたので、これについては興味津々なところである。その結論としていえば、彼は、微細次元の心身をもって存在している存在者は、必ずしも絶対に物質的な心身を持たなければいけないというものでもないだろう、と述べている。これは注目される発言である。ということは物質的な心身が消滅しても微細次元の存在として生き続けるということにもなり、これは死後存続の可能性を示唆することにもなる。このように彼は転生の可能性を認めている。ただし、「完全な悟りに達するためには物質的な身体を持たなければだめなのだ」と強調している。これは仏教を否定しているのである。仏教では基本的に、転生とは断ち切るべきものである。どうもこの、肉体を持つことの重要性を強調するのが最近のウィルバー思想における最大の特徴となるようである。もしそうであるとすると、転生を認めないと一代で完全な覚醒まで至らなければならないことになり、それは大変なことである。あるところまでやって、やり残したところを次の転生でやるというふうにしないととてもやっていけないだろう。彼が転生を認める発言をしたのもそういうことがあってのことだろうか? 彼の人生も後半に入っているし、残りの人生でどこまで行けるか考えたのかもしれない。それにしても、この転生論はカルマ論と切り離して論じられているので、はなはだ不十分であると思う。当然、唯識思想について検討をするべきであった。

インドなどで伝統的には、この地上でどんなに悟っても、肉体を持っている限りは肉体に意識が拘束される部分が残るので、完全な悟りは肉体を離脱しないと得られない、と考える方がふつうである。また、この地上界ではだめだからまずはコーザル界へ行ってそこで修行しよう、というのが浄土思想である。私もどっちかというと、この地上でとことん最後までやらねばならない、とがんばるつもりはない。向こうにもいろいろ修行場はあるのである。物質界では、物質界でのみできることをすればよいのであって、すべてを物質界でやろうとしなくてもいいように思える。なんでウィルバーはそんなに物質界にこだわるのであろうか。彼にしても、天界の美についてまったく知らないわけではなかろうにと思う。

ともあれ、まとめてみると、ウィルバーの物質界についての考え方が、自然科学におけるストーリーを素朴に肯定するものであるというのが、私としてはいちばんひっかかる点である。つまり物質界の成立をどう考えるかという点において、私やスミスのようなプラトン主義者とはかなり大きな相異がある。たしかにウィルバーは、物質界が「霊」の顕現であるということは全面的に認めている。しかし、物質界がなぜそのような構造や形をしているのか、その原因について、物質界内における自己発生であるという解釈をしているらしい。そこははっきり書いていないのだが、自然科学のストーリーを追う限りではそうなる。ビッグバンからあとはすべて進化論を肯定していることになる。このように、自然が自動運動的に展開していくという、科学とまったく同じ自然観を、物質界については採用しているのである。それが、科学と霊性との融合なのだと彼が主張するところであるが、その結果、自然界に働く霊的な力はその「初発」にしかないことになり、つまり神はまた時計職人になってしまうのではなかろうか。バラは進化の結果できたものであり、それが宇宙からイデアを受け取り続けているからそこに存在しているのではないことになるだろう。

つまり、ウィルバーという人はあんまり「存在論的思考」をしないのだな、ということである。もちろんレベル的には天地の差があるが、理論のタイプとしては天外伺朗みたいなものと同じ発想をしているところがある。科学と宗教のよい部分をあわせて全体的なデザインを考えてやろうという発想であって、「なぜものはそこにあるのか」という思考が深まらないところがあるのが、哲学としてはおもしろくないと感じる点なのである。つまり新手のテイヤール思想の類であると思うし、霊性哲学の本道を歩むものではない、と私は考える。

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