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2007.08.31

「ピュシスとプシュケーの本源を問う」

最近、谷隆一郎先生の著作を続けて読んでいる。ニュッサのグレゴリウス、アウグスティヌス、マクシモスを論じたものなのだが、人間はどのようにして超越と出会うことができるのか、それを現在の問題として肉薄しようというもので、たいへん共感が持てるのである。私の知る限り、日本の中で本当に「哲学者」の名に値するのは、谷先生と宮本久雄先生など、数少ない。大森正樹先生を含め、みな教父哲学の研究者であるというのも示唆的である。現代において「受肉の神秘」をまじめに考えようなどという人がほかにいるだろうか。そもそも私が「先生」とつけて呼ぶなどということが、珍しいことである。

さて、谷先生の「ピュシスとプシュケーの本源を問う――西欧近代と自己との超克――」(UTCP研究論集第4号、2006、77-89)は、西欧近代の知とはそもそも何であったかということを、オッカムに見定め、それをマクシモスに代表される東方教父の思想と対比するという、まるで私のために書いてくれているような論文であった。

もとより西欧近代における「知の世俗化」は18世紀に至る数百年をかけて徐々に進行したものではあろうが、その端緒は、14世紀前半に生きたオッカム(1285頃-1347頃)に始まっていた。そのことを指摘したのはもちろんこの論文が初めてではないだろうが(最近オッカム研究がはやっているみたいである)、この谷先生の整理はわかりやすい。それによると、オッカムの思想の特徴は次の四点にある。

1.「神秘の領域の祭り上げ」、「神学と哲学、信と知などの分離」、「学的論証の範囲の制限」


2.「個体への傾斜(個体のみ在る)」、「個体の直観知の標榜」、「実体的形相および普遍の、実在領域からの排除」(唯名論)

3.「諸々の学問の分離」、「自然科学の独立」、「要素への還元」、「実証性、客観性という規準」

4.「自由・意志の自律化ないし孤立化」、「超越的な善からの分離」、「近代的人格の尊厳と傲り」 (論文には原語のラテン語が添えられているものがあるが省略)

以下は谷氏の論旨ではなく、私のコメントである。
1についてはいうまでもなく「知の世俗化」そのものである。しかしオッカム自身は神を信じていないわけではまったくなく、神学的なことに関しては「議論をするな」という態度を見せたということである。超越的、神的なことがらに関しては「知」は関与せず、「実践」のみの話となる。このことは霊的実践のあり方としても危険を生じるだろう。

2について、谷氏は「個体の直観知」という考えが「傲り」を生む危険を強調している。形相を介さず個体を直観するのは本来神にしかなしえないことのはずである、それができると考えるのは傲りではないのか、という論点である。この論点は私も初めて知ったが、私がさらに気になるのは「実体的形相および普遍の実在領域からの排除」である。これは、「なぜものはそこにあるのか」という問いが、「もの」の内部にはないという立場だということである。「実体的形相」というのはトマスの言うことで、ものをものたらしめているイデアのようなものが内在しているという考えである。ところがそれが否定されて、イデアなんて実在しませんよということである。これはカント主義の先駆けである(オッカムは、普遍を与えるものが「主観」にあると考えたわけではないが、カント的唯名論によって、主客図式が固定化したのである)。考えてみると、近代的な知はほとんどが唯名論であることに気がつく。普遍が実在すると本気で思っていたのはヘーゲルくらいなものではなかろうか(そこが彼の反時代的なところなのだが)。構造主義なども典型的な唯名論的発想であろう。現象学も唯名論的に理解する方向があった。俗流のものほどその立場が端的に表れる、ということで、山口昌男や丸山圭三郎など昔はやった本を見れば、唯名論とはどのようなものかわかるであろう。

実体的形相と、プネウマ・種子の理論が関連しているという平井センセの説があった(なぜ平井さんだけは「センセ」なのかはよくわからない)。つまり宇宙根源から「形あれ」という指令が出て、それがプネウマ・スピリトゥス(気といってもいい)によって媒介され、もののなかに形相(イデア)として宿ることにより、「あるものがあるものであること」が成立するという存在理解・自然理解である。つまり、「もの(個別的なもの)の深み」に神秘を感じるという感性がそこにはあったのである。

さらに谷氏は言う。

オッカムは、「個体のみ在る」として、あらゆる実体的形相や普遍を実在の領域から排除した。そしてそこに、いわゆる唯名論が声高に主張されることになる。その結果、問題の主たる関心は、「魂・人間の真の成立」、あるいは「人間的自然・本性の開花への道」といった存在論的な場から、命題の真偽を問うことを主軸とする論理学的な場へと移ることになるのだ。(84)

これは私が前項でも書いた「存在論的な問いの忘却」である。そういった「聖性が知から脱落する」というプロセスにおいて、唯名論の影響は甚大だったということである。「愛智」的な哲学からすれば、「それは確実に正しいと言えるか」という問題は、実は、二次的な問題なのである。もっと重要なことがほかにある。それを忘却することを存在忘却と呼ぶのだ。

さて次に、「個体の直観知」についてである。

すなわち、個体への傾斜は確かに、人間はただ眼の前の個体を感覚的かつ直観的に知るほかないのだという、一見常識的な経験主義に通じるが、他方、すでに言及したように、逆立ちした神秘主義とも言うべき性格を抱えているのである。というのも、われわれの関わる現実の個体は、たとい一輪の百合といえども、その存立の究極の根拠と目的に開かれ、そうしたいわば無限性の拡がりの中から現に個体として現出してきているとすれば、容易に汲み尽くし難い謎を含んでいるからである。ましてや眼前一個の他者は、いっそうあらわな仕方で神的ロゴスの現存を指し示している限りで、どこまでも謎・神秘を宿していると考えられよう。

それゆえに、個体の直観知とは、一見極めて簡明な認識論の提示と見えるが、その実、ある意味で自分が神の立場に立っているかのような傲りをも含んでいるのだ。言い換えればそれは、「個体の現成」、「創造の神秘」をわれわれ自身の自己探求の裡に問い被くことを放置して、多分に一方的な断定し開き直った態度ではあるまいか。そしてこの点、主体・自己の真の成立の問題は括弧に入れて、いわゆる実証性、客観性を標榜する大方の学の方式も、同様の性格を有しているのである。

してみれば、素朴にかつ虚心に己れを問い、よき生の道行きを問い被くためには、唯名論風に閉じられた学的空間を突破して、問題のより本源的な場に還帰してゆくことが求められよう。ことの真相に関われば関わるほど、探究の刃は己れ自身に突き返されてくるのである。(84-85) 強調引用者

と、いつのまにか谷先生の世界にどっぷり入っておりますが・・ この論文に限らないが、基本的に、近代知の前提そのものを疑う視点を徹底しているのが、特に優れた点である。そして、太字で強調したことがらが感性的に理解できる人かどうかというのは、私にとってはまったく決定的なポイントであって、この点が駄目な人はどんなに学識があろうとも駄目だという感じである。

ここで「己れを問う」というのはどういうことかっていうのが谷先生の哲学のポイントなのだが、それについては「ピュシスとプシュケーの開かれた動的かつ全一的なかたち」として、マクシモスに沿って次のようなことをあげている。

1.ロゴス的根拠への応答 神(=存在)を受容し得る者としての人間
2.善の超越性に開かれた構造 悪と罪の問題
3.万物の紐帯としての人間 全一的な交わりとしての神の顕現(これは「万物の宇宙的神化」というヴィジョンのことである)


以下は私の(あまり関係ないかもしれない)コメントである。

よく「すべては自分の中にある」という言い方があるのだが、これは時として「信」を拒絶するいいわけとして使われることもある。「信」とは、魂において神的ロゴスの呼びかけ(エネルギー)を感受することであり、それは未来世における霊的な知の「先取」であると言われている。つまり、その時にははっきりと見るべきことがらを、いまはおぼろげな予感として知るのだ。それが信である。つまり信とは、頭であれこれ考えて決めることではない。頭を排除するわけではないが、根本的には「魂レベルの体験」である。あるいは、魂のある状態である。信とは、「持つ」ことができるものではなく、むしろ「入る」ものではなかろうか。

究極的に言えば、すべて自分の中にあるというのはウソではない。というときの自分とはすでに「宇宙的な自己」であり、神名としての「私はある」になっているということである。しかしそうならない限りは、それは自己の外なるものとして表象されるだろう。つまり、超越者とは「あなた」であって、私ではないのである。これは厳然とした事実である。したがって、自己探求というのは、「いま自分と考えているもの」の中に何かを探すという方向ではありえない。むしろ「呼びかけを聞く」こと、受け取ることから出発するのである。実践的に言えば、「すべては自分の中にある」などということは、知識として知っていることは必要であっても、探究の過程ではあまりそういうイメージにこだわらず、むしろ大いなるものへ向かっていかに自分の根底を開くか、という感じでやっていったほうがいいように思う。つまり、かなり進んだ段階になるまでは、いまの自己のあり方を否定する(というか、一時中止する)ということがテーマになるのだ。その意味では「他力」である。伝統哲学では、「小さい自分を捨てる」ということが共通してテーマとなっている。もちろん、言うだけなら簡単なことだが、結局はそれにつきるのだと言ってもいいように思う。谷先生も「己を無みする」と何度も強調する。そして、「神性の受容」によって「存在の現成」にあずかるのだという。だから重要なことは、人間とは神性を受容しうるように、己の根底に開けと動性を持っている、との直観に至ることである。

・・と、なんだか論文のコメントとしては支離滅裂になったようにも思えるが、ともかく、谷隆一郎・大森正樹・宮本久雄の三先生の著作は、教父哲学の今日的意義、つまりあえて現在において「神を求めることの哲学」の可能性を考えてやまないものであり、霊性哲学への入門として優れている。ギリシア教父の思想は、ロースキーの『キリスト教東方の神秘思想』によって、私に深甚な影響をもたらし、それ以来、キリスト教とプラトン主義思想の美的な融合というヴィジョンにとらえられている。これに、自分の育った霊的世界である東洋の哲学伝統をも融合させるという方向のうちに、私自身の思想が形成されてきた。しかしロースキーの本は初学者にはかなり厳しいので、このお三方の書物から入ることをお勧めしたい。いずれも、研究と霊的探究を分離する立場に立たず、あくまで現在におけるその霊的思想としての可能性を問う方向であるため、専門的になりすぎず、決してむずかしくない。

注:この論文を読みたい人は
大学等に所属している人は、その附属図書館の参考係まで。その他の場合は、国会図書館のコピーサービスを利用する。郵送で受け取れる。自分で利用登録して依頼するか、もしくはもよりの公立図書館を通して依頼できる。有料(そんなに高くない)。

叡知の伝統としての哲学史

新しい哲学史構想にもとづいて、講義計画を立てている。私の思うところでは、哲学史をグローバルに把握するならば、西欧近代哲学の比重は相対的に小さいものでなければならない。近代哲学は、人間の哲学的探究の歴史において「きわめて特殊な形態」に至ったのであり、それがなぜ特殊なのかを理解することが非常に大事なポイントなのである。そのためには、近代以前の、ギリシア、キリスト教、イスラム、インド、中国の哲学に十分に時間をとって、こうした伝統が様々なバリエーションがあるにせよ、基本的にある同じ方向を見ていたということをはっきりさせなければならない。それを要約して言えば、

1.自己の根底に超越への開けがあること。
2.自然は聖性の顕現であること。
3.存在の根底に聖性(絶対的超越としての)があり、存在者はそれを分与されていること。
4.そうした聖性への希求が哲学(愛智)であること。それは、自己の根底を探究するという霊的探究と一体であったこと。そして、それを起点としつつ、宇宙のグランドデザインを描くことが、哲学の目的であった。

ということになり、それを理解した上で、なぜ近代の知はそういう基本路線からずれてきたのか、そして、いま、そのずれを修正しようといういろいろな運動が起こっているのか、を理解するのである。こういう順序で行くべきである。

すでに述べたように、これまでの哲学史はあまりに近代哲学が成立する前提を自明のものとしすぎている。「哲学とはこういうものだ」という前提そのものを問い直すのが本当の哲学であろう。近代の哲学が半分以上を占めているものなど、近代の前提に乗っかりすぎているように、私には思える。私が近代以降で取り上げようと思うのは、デカルト、カント、シェリング、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデッガーの七人だけである。あとはマイナー思想家だと思っている。なぜホッブズやベーコン程度の人を取り上げるくせに、アヴィセンナやイブンアラビーはないのか。それもまた西欧中心主義の偏見ではなかろうか。哲学史は「叡知の伝統」として再把握されねばならない。「何を重視するか」ということで歴史はまったく違ったように書けるのだ。歴史を書き換えるということは、現在の位置づけを変えることになる。

とりあえず最初の案を作ってみたが・・こんなもんかな?

1 哲学の知とはどういうものか。科学の知との対比において。これから提示される哲学の基本項目として、a.自己の基底にある超越への開け、b.自然に内在する深み(聖性)、c.存在の基底としての聖性、d.聖性の希求および宇宙のグランドデザインとしての哲学。また、ヨーロッパ近代哲学の特殊性について述べられる。
2.ギリシア哲学における存在探究について。前ソクラテス派、プラトン、新プラトン主義哲学まで。大いなる存在の連鎖。西洋思想におけるアリストテレスの影響について。
3.キリスト教とギリシア哲学との融合による、聖性の希求について。ギリシア教父(ニュッサのグレゴリウス、擬ディオニュシウス、マクシモス、パラマス)とアウグスティヌス、エリウゲナまで。
4.3のバリエーションとしてのアラビア哲学の展開。特にアヴィセンナ、スフラワルディー、イブンアラビー。時間があればカバラも。
5.インド哲学の存在探究。ウパニシャッド、ヨーガ、ヴェーダーンタ。
6.インド哲学から発生したインド仏教の哲学。唯識まで。
7.中国哲学の基本的な性向。「タオ」と「気」の哲学。仏教の影響により成立した、天台・華厳の世界観。禅の成立。
8.日本の文化に見る哲学的傾向。「無常」と「永遠」。古今集、源氏、芭蕉など。天台本覚論と禅の影響。
9.西欧12~14世紀、キリスト教とアリストテレス、トマス哲学。近代の先駆としてのオッカム。唯名論の意味。
10.西欧15~17世紀、ルネサンスと近代初期。新プラトン主義の流入とヘルメス主義哲学の成立(フィチーノ等)。キリスト教神秘主義と近代科学の発生。
11.西欧18世紀、聖俗革命による信と知の分離、機械論的世界観の成立。デカルト哲学により自然の聖性が否定される。哲学の目標が「確実性」へと変わる。
12.西欧19世紀、カント哲学による哲学の限定と、ヘルメス主義再興の試みであるシェリング、ヘーゲルの哲学。「近代的人間」の極限を示すニーチェの哲学。
13.西欧20世紀、確実性の追求としてのフッサール現象学。ハイデッガーによる存在論への転回により、近代哲学の歴史が終わる。科学においても古典的機械論の限界が指摘される。
14.現代における「新しい世界観」の試み。エコソフィーと相補代替療法を例として。また、「意識のフロンティア」をめぐって。
15.期末試験

14回のうち近現代の哲学は3回、このくらいでいい。細かいところに入らず、近代的な知の特徴を大まかにつかめばよいのだ。私は基本的に、近代哲学はハイデッガーによって終わったと思っている(できればアンリも入れたいが)。あとは、近代哲学の方法論としては、やることは残っていない。

しかし・・何という広さか。本当は倍の時間をかけても終わらないものである。ギリシア哲学を一回で終わらすなど(しかも新プラトン主義まで!)、何という無謀か・・
アラビア哲学を無視するのは、日本の知的世界に共通した欠点であるので、是非とも入れねばならない。また、日本文化における「永遠」の追求ということも入れたい。ただし、日本では哲学そのものというより文化や芸能において表現されることが多かったのだが。

近代の特徴として「確実性の探究」ということがあると思っている。つまり、それ以前は、根底にある聖性の次元へどうやって迫るのかということばかり考えていたのだが、近代以降「本当に確実なことは何か」という問いにシフトしてしまったのだった。その結果、「本当に確実と言えるのはこうやって世界を経験し、考えている<私>しかない」ということになり、哲学固有の領域はただ「私がある」ということのみになったのだった。その閉塞を象徴するのが永井均という人だが、これを破るには「私がある」というのは本当は「神の名」であり、「私がある」を絶対的な根底として、それへ向けて自己の根底を突破するという道しかないのであって、それをやろうとしたのがハイデッガーとアンリである。特に「私がある」ということの霊的な意味に気づいたのがアンリである。で、アンリもどこかで取り上げられればいいと思う。

ともあれ、知とは本来「聖性の探究」であったはずのもので、近代になって「知の聖性の分離」が生じた。知の領域から聖性は排除されるべきだという考え方は、オッカムを先駆とするが、それから18世紀まで数百年かかって徐々に西欧世界に浸透していったのである。問題は、現在のほとんどの哲学史は、その「分離」を当然のこととして、それを疑わないという前提の上で書かれていることである。しばしば、そのように、哲学の意味において重大な転回があったということさえ無自覚なままである。つまり、自然学だけでなく、哲学そのもの、つまり自己知ということに関しても、「聖俗革命」があったのである。つまり村上陽一郎の聖俗革命説は、哲学の領域にも延長して考えなければならない。今までの科学史が「勝者史観」であったように、つまり勝ったもの(近代科学)の前提そのものが疑われないという立場から過去の自然学が解釈されてしまったように、哲学史においても近代知による勝者史観が見られたのではないかということである。

たとえば貫成人の『哲学マップ』は、初学者向きの概説書として私もとりあげたことがあるのだが、これにしても、東洋哲学や中世以前の哲学についてはどこかの解説書を参考にして書いたのであろうが、常識的きわまる書き方である。特に、近代以前は、ある絶対的な原理を定立して(たとえば神とか)、それを中心とした哲学であったが、近代では主観・客観の認識論的な枠組みに変わったと述べてある。こういうとらえ方は常識的なのであろうが、たとえばギリシア教父などの思索の深淵を知るものにとっては、いささか(かなり?)深みに欠ける理解といえるだろう。つまり、自己の存在の根底にある超越的な次元への開け、神的な照明の存在、といった、自己探求の極みにおいてある超越的な世界が開かれたこと、そのような次元を知りうる能力が人間には潜在しているのではないか、というような、そもそも生きる上においてきわめて重大な問題がそこにあったということを、読者が気がつくはずもないようなものの書きようなのである。つまり18世紀以降の急速な「知の世俗化」についての危機感を持っていないわけである。そのような危機感を持たないということ、つまり存在論志向から認識論志向へ変化したことの重大な意味を思索していないということが問題になる。これもハイデッガーの言葉を借りれば「存在忘却」の一種である(なおハイデッガーは、存在忘却はギリシアに始まるとされるが、その理解には問題がある。認識論志向とは簡単に言えば「私とは何か、宇宙の根源とは何か」という問題よりも、「私は何かを確実に知ることができるのか」という問いの方が重要だと考えるということである。つまり、確実性がプライオリティーとなる。それが確実なのかどうかが気になって仕方がないという心性であるのだが、結局これの行き着くところは、「本当に確実なのは、そのように疑っている私自身しかない」というところだというのは、先に述べたとおりである。つまりそこからは、存在の根底へ向けて何か突破していくというエネルギーは生まれ得ない。もっとも、そのような問いが「私」へとつきつめられてしまうということを確認したこと自体は、無意味だったわけではないのだが。)

「知の聖性」とは、単なる合理性ではないものが人間精神の中にはあるということ、つまり、合理性を否定するわけではなく、超合理性というものがあり、それはギリシアではヌースと呼ばれたものであるが、それは神的な照明を受ける能力ともいうことができた(これは西洋的な表現で、東洋哲学ではちょっと違うだろうが)。これは非合理性ではない。非合理性を合理性に対置するという発想は、つまるところアストラル的なものを神の次元に祭り上げる思想にすぎない。ロマン主義ではそれが混同されることもあったが、要は、神的な照明に導くような崇高な感情というものがあるということをロマン主義はいいたかったはずである。残念ながら、ユング系の議論にはこうした混同が多い。それはユング自身が、神的知性という概念を十分に発展させなかったからである。私はユングはあまり評価していない。もう過去の人になりつつあると考えている。ユングの中でそういう霊性に接近したのは、「精神」Geistの元型について語るところだが、どうも曖昧模糊としている印象がある。これをいうのは、長い間、近代的知の世界で霊性について語るために、ユング心理学を隠れ蓑として利用するというパターンが多く見られたからである。しかしもうその時代も終わった。「ユング心理学では・・」などという枕詞がなければ霊的な事象を語れない、というような状況そのものを変える時期が来ているのだ。ユング心理学とは、西欧の伝統的なヘルメス主義的世界観を「経験科学」に仕立てようという試みであった。しかしそれはしょせんは疑似科学である。霊性を科学でがんばってやろうというのは無理がある。霊性は本来的に哲学が主導すべきテーマである。

なお、知の聖性を肯定する立場から近代知の世俗性を批判し、これまでの哲学史を全面的に再解釈する試みは、むろん私が初めてではない。具体的には、私は次のものの影響を多大に受けている。読める人は一読をおすすめしたい。これは面白い。何度読み返しても飽きない。ただヘーゲルについては、ヘーゲルのヘルメス主義起源についていわれる前の話であるので、やや否定的に語られているのはしかたがない。

Seyyed Hossein Nasr, "Knowledge and Its Desacralization," in Knowledge and the Sacred, State University of New York Press, Albany: NY, 1989, chapter 1.

2007.08.28

微細エネルギーの哲学

さて、いささか健康を害したこともあり、行き過ぎた研究モードを反省し、このところまたヒーリングモードにシフトしつつある。前から知っていた気功法を少し念を入れてやりはじめる。

気というものがあり、それが宇宙根源のエネルギーとつながっているという世界観は、気功をやる者には常識である。しかしこういう考え方は、西洋哲学ではマイナーである。そもそも、物質次元しかないと考えるのは問題外だが、物質次元と霊的次元の二つの項だけで世界構成を考えることもまた不十分なのである。そこにどうしても中間次元というものを想定しなければいけなくなる。つまり、完全に霊的なものではないが、かといって粗大な物質レベルでもない、微細な物質性という次元のものを考えなければいけない。これを質料多元論 hylic pluralism というそうである。キリスト教では、「プネウマ」を霊的な次元まで高めて考えているので、意外と、こういう「気」レベルのものがとらえにくくなる。西洋哲学では主に新プラトン主義と、その流れを受け継いでいるヘルメス主義思想にこういう多元論の考え方がある。そういう発想はいまの哲学者にはあまり相手にされていないので、質料多元論、あるいは存在-エネルギーの階層という考えを復権させるのは、現在重要な課題になっていると思う。先に書いた哲学史の再構想には、こういった部分もプラスしていかねばならないだろう。代替相補療法の位置づけにはなくてはならない視点である。

hylic pluralism については、ポルトマンというオランダの哲学者の書いた大著があるという。英語版Wikipediaにも出ており、けっこう有名なものらしいが、学術界では無視されている。たぶんこの本が、神智学系の出版社から出たせいであろうか。ポルトマンはオランダの大学で形而上学の講座の教授をつとめていたのだが。ポルトマンの本については、あのマイケル・マーフィーも言及している。

2007.08.16

哲学史の再構想

凡庸なる「哲学史入門」の本がたくさん生産されている。凡庸と言って悪ければ、常識に沿った内容だということだろう。つまり、近代ヨーロッパで成立した「哲学」のやり方を「よし」として、それについての基本知識を解説してあげようという本である。古代・中世と東洋(アラビアを含め)についてはほんのサワリ程度ですませ、デカルト以降がかなりくわしく現代までやって、最後にテーマごとに「考えてみよう」的な項目が並ぶ、というのが標準的な構成だ。だいたい高校の「倫理」の参考書と大差はない。ただ、高校の倫理では、ルネサンスについていまだに「宗教に支配された中世の迷妄を破り、人間的主体性の思想を確立した」のごとき古くさい観念が生き残っているので、そういう部分では新しい見方が取り入れられてはいる。

だが、こうした本をいくら読んでも、結局哲学というのは何を明らかにしようとするのか、よくわからないままである。つまり、人それぞれにバラバラなことを言っていて、哲学という伝統自体が何かを指し示しているという理解は生じてこないだろう。「私たちがいま体験しているのは本当のリアリティとはいえないんだ」ということをいくら説いたところで、素朴なる反応は「だからどうなんだ?」である。そこには何か、欲求不満というか、イライラしたものが残るのである。それをよく考えてみると、つまり、日常的な世界了解を脱構築したはいいが、そのかわりとなるべき「宇宙のグランドデザイン」が提供されないので、宙づりにされた感覚が残ってしまうのである。そうした、安定した枠組みのない、流動化された不安定性に投げ込まれるのが「現代人」としての洗礼なのだ、ということになるのだろうか。たぶん現代の知識人といわれる人びとは、みなそういう精神的プロセスを通ってきているのだろう。しかしそれを一般の人びと、学生などに求めるのはどうなのだろうか? そのような宙づりされた「世界観の不在」へ投げ込むということは、その人を幸福にはしない。むしろ世界に対する不安感を植え付けてしまう。そのようなことが「文化」の名に値するのであろうか。それはつまり、そういうことしかできない哲学ははたして学ぶに値するものであるのか、という根源的な疑問を提起するのではないだろうか。

たとえば最近はやりの永井均を読めば、インパクトはあるだろう。世界がそこに成立しているのは巨大な謎であるということがわかってくるだろう。そして、なぜそこに存在が成立しているのか、「私」が成立しているのか、その根源については「わからない」という状態に放置されるであろう。現代知識人としての洗礼を通過した哲学者たちは、それに対してニコニコして、「そう、あなたもやっとわかってきましたね」と言うかもしれない。つまり、そのように巨大な「わからなさ」の中に突き落とされるということは、哲学的知識人にとっては「いいこと」であり、望ましいことなのである。そういう根源的な不安感をぜひ知ってもらいたい、と本気で思っている人も多いのである。だから、(現代の)哲学を勉強したら、ものの本質についてわかってくると思ったら、かえって根本的な「わからなさ」に突き落とされ、不安になってしまったという人も多いわけである。これは客観的にみれば「不幸」になることである。しかし哲学者たちは、「いや、わかったつもりになって安心しているよりは、わからなさに気づいて不幸になる方が進歩なのだ」と考えている。これは本当に、マジでそう考えていると思う。それが現代哲学の実態にほかならない。哲学をやったことがない人は、そういう実態を知らないだろう。

だが待てよ、である。そこに何か根本的に欠落したものはないであろうか、と、そういう哲学のあり方そのものを根源的な疑いに付すことも可能であろう。

たとえば永井均は「私の比類なさ」について語るが、そこには何か閉塞感のようなものが厚く覆っている。「私」というものが還元不可能な存在としてあるということは、デカルトに始まると思っている人も多いだろう。だが一つ大事なことを忘れている。それはアウグスティヌスである。アウグスティヌスとはローマ時代の、キリスト教と新プラトン主義を融合した思想を述べた人である。アウグスティヌスもまた、「私」の内面性とは、何にも還元できない不可思議な存在であることに気づいていた。「私」の哲学はデカルトではなく、アウグスティヌスに始まるのである。だが、彼には、永井にはない決定的に重要な要素がある。それは、「その私は、神的な照明を受けている」という思想である。いや、思想以前にそれはたしかな「体験」であった。「私は私である」ことは、ある神的な力に支えられているという直観があった。そういう発想は、デカルトにもある程度残っていたが、永井には完全に欠落している。そこが、現代人の哲学というものの限界をはっきり示しているように、私には思われるのである。

存在の根底が「わからないもの」であることなど、とっくの昔に知られていることであった。古くは老子が、「宇宙の根源(タオ)とは言うことが不可能なものである」と書いているし、ディオニュシウスの否定神学、その流れをくむクザーヌスの哲学などをみればよい。東方キリスト教神学ではそれを「三位一体の神秘」として表現した。しかし逆説的であるが、その「わからなさ」は、神的なエネルギーの充溢にあずかることでもあった。そういう側面が、近代哲学には決定的に欠落してしまったのである。それを何とか取り戻そうとしたのがハイデッガーやアンリであった、と私は理解している(アンリの思想は、エックハルトの現象学化の試みであるとも言いうる)。永井晋も、成功しているかどうかは別として、そういう方向を向いてはいる。

哲学史は、このように考えればある程度統一して理解しうると思う。つまりそれは、存在ということに驚き、その神秘を観想することに始まり、その存在の根源に思いをいたしつつ、そのエネルギーにあずかり、またそうした存在の究極根拠を起点として「宇宙のグランドデザイン」を描き出そうという試みであった。少なくとも近代の「聖俗革命」(村上陽一郎の言う)まで、哲学とは東西を問わずそういうものであったと、ある程度統一的に理解できるのである。そして、なぜ近代のヨーロッパはそういう枠組みから外れてきたのか、ということを、科学革命・聖俗革命という思想史的な変化をあわせて理解していく、というのが、哲学史の把握のしかたとしてもっとも妥当であると考える。残念ながら、こういう見方で書かれた哲学史入門書など、卑見の及ぶ限り、一冊としてない。私からみればほとんどが、近代中心史観の虜になっているものばかりである。個々の哲学者の解説が並ぶだけで、ヨーロッパ文明に生じた思想史的変化の大きな流れがとらえられていないというのは、やはり凡庸という名を贈らなければならないだろう。つまり「近代とは何か」という問いがそこに欠けてはいけない。特に科学革命と哲学との連関性について述べなければならない。そして科学革命の前提として15~17世紀にはヘルメス主義的な世界観が優勢であったことをふまえて、なぜそこから機械論的な世界観が生じたのか、そしてそうした機械論への反応としてさまざまな哲学が生じたことだとか、シェリングやヘーゲルの哲学は、科学革命以前のヘルメス主義的世界観の復興の試みであった、などという把握も必須である。つまり、自然理解を含めて、その時代における「宇宙のグランドデザイン」はどういうものであったか、という背景から哲学をみることが大事である。哲学が文明の中心としてグランドデザインを提供しえた時代と、それが科学にその位置を奪われたような様相を呈し(実際、それは権利上、不当なものであったが)、哲学がマイナー学問に転落した時代との巨大な差異を無視して、両時代の哲学者を同列に並べて解説したところで、本質的なところはわかるはずがないのだ。多くの本は、そういう巨視的把握がなく、近代のマイナーな思想家をたくさんとりあげすぎている。私に言わせればデカルトだってマイナー思想家である。ただ、近代的世界観を生み出した要因の一つとして重視されるということだ。「我あり」の哲学だということからいえばアウグスティヌスの方が数段深いのである。

私が哲学史を構成するとすれば、西洋の部は次のような形になるだろう。

1.プラトン主義哲学の成立。およびアリストテレス。その背後には密儀宗教やオルペウ
ス、ピュタゴラスなどの神秘宗教の流れがある。プラトンは叡知界の直観を哲学の究極目標とした。

2.新プラトン主義哲学(プロティノス、プロクロス、イアンブリコスその他)。ヘレニズム世界で新プラトン主義がスタンダードとなったこと。アリストテレスも新プラトン主義的に理解されていた。また、「カルデア文書」やイアンブリコスなど、1につづく密儀宗教の流れを取り込むいわば「西洋的ヨーガ」が「テウルギー」として成立。新プラトン主義は霊的な宇宙根源からの「段階的流出」として宇宙を理解した。

3.キリスト教と新プラトン主義の統合が図られる。教父思想の成立。クレメンス、オリゲネス、ニュッサのグレゴリウス、擬ディオニュシウス・アレオパギタ、マクシモス、パラマス。そこからさらにロシア的霊性の伝統へ流れ込む。教父思想では「霊的感覚」が重視され、神秘神学の色彩が強かった。

4.地中海世界の新プラトン主義は、イスラム化されたアラビア語圏へ流れ込み、アラビア哲学の隆盛を生む。アルキンディー、アルファラービー、アヴィセンナ、アルガザーリーなど。さらに、スーフィズム(イスラム神秘主義)の影響下に、神秘哲学の高峰を生む。スフラワルディー、イブンアラビー、モッラーサドラーなど。また、イスラム支配下にあったユダヤ教徒の間にカバラが成立。カバラもまた新プラトン主義の影響が濃い。

5.ヨーロッパのラテン世界は後進地域であったが、3の伝統の流れとして、アウグスティヌスが出て、さらにエリウゲナ、シャルトル学派などの中世思想が成立。基本的に、新プラトン主義とキリスト教の融合した思想である。

6.12~13世紀、アリストテレスがラテン訳されたのを受け、キリスト教とアリストテレスの統合が図られる。トマス・アクィナスに代表される。また大学が形成され、それまでの神学と哲学の融合状態から、知的探究として切り離された「哲学」の伝統が発生する。ヨーロッパの哲学がその後、ややもすると霊的探究と切り離された哲学となる傾向を有するようになったのは、この時代における大学の成立が起源である(ただし、この時代では哲学者はまだ聖職者であり、近代のような分離はない)。しかし、ボナヴェントゥラやエックハルトなど、神秘哲学的なものも生まれた(ここでいう神秘哲学とは、霊的探究と分離していない哲学という意味である)。ここでは新プラトン主義の影響もなお残存している。

7.15世紀より、フィチーノによってプラトンがラテン訳される。同時にヘルメス文書や新プラトン主義文献が訳される。つまりラテン的ヨーロッパはこの時期にはじめて2,3の思想と本格的に接触した。そして2の伝統をくむテウルギーが流入し、カバラも入り、「マギア」(魔術)として流行。これにより、「ヘルメス主義的世界観」と呼ばれるものが成立した。フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドーラ、ブルーノ、パラケルススなど。ヘルメス主義は15~17世紀までヨーロッパ思想の主流となる。科学革命は、このヘルメス主義思想が母体になっていることは今日の定説である。この当時、ヘルメス主義やコペルニクス的世界観などは、キリスト教と矛盾するものとは基本的には考えられていなかった。一方、クザーヌスは、ディオニュシウスの影響を受けて「無限性の神秘神学」を書き表した。

8.18世紀、ヘルメス主義世界観が退潮しはじめ、機械論的世界観の勢力が強くなる。啓蒙思想に至って、「神の棚上げ」が進行し、聖俗革命が起きる。「神を無視してグランドデザインをつくる」ことがめざされるようになる。デカルトの物心二元論はこの過程で影響力を持った。つまり、自然理解について哲学の権能を否定し、それを科学に譲り渡すという意味をデカルト思想は持っていたのである。また、スピノザやライプニッツの世界観は、7と8の複雑な相互作用があったこの時代の精神状況を反映している。これらの思想は、宇宙のグランドデザインとしての意義をもつが、同時に、新プラトン主義やヘルメス主義にあった神的直観の経験という要素は脱落していた。つまり純粋な知的構築物としての哲学だったのである。

9.19世紀、機械論的思想に立つ科学が大学などにおいて優勢となる。ここでカントの哲学は、人間の認識力の限界を指摘し、科学の専横に一定の歯止めをかける意味があったと同時に、神的事象、ないしは「ものの存在の深み」への直観が成立する可能性を否定する方向が出てきた。そこでカント哲学は懐疑主義の出発ともなった。一方、ロマン主義は、それまでのヘルメス主義世界観の逆襲という意味を持っている。ベーメはそこから出た神秘思想家であり、大きな影響を与えた。シェリングやヘーゲルの哲学はその影響下にある。それらは「宇宙のグランドデザイン」としての哲学を復興する試みであった。特にヘーゲルは、エリウゲナにも似た、宇宙の始源から終極までの体系であって、ある意味で壮大な時代錯誤思想であった。しかしながらここでも、哲学は純粋な知的構築物となり、霊的直観の地平はすべて「思考」に還元されてしまったという点が指摘できる。つまり哲学は、事象の本質にふさわしい表現形式を見出せず、当時の常識的な言説秩序を受容してしまったのではなかろうか。また、ニーチェのニヒリズムは、「宇宙のグランドデザイン」が崩壊した状況は、実存としてはどのような意味を持つのかという問いかけとして理解しよう。これは20世紀の実存哲学へ続いている。ショーペンハウアーも実存哲学の一種だと思う。また、ヘーゲルの転倒と称してマルクス主義の思想が登場した。おそらく、20世紀の90年代になるまで最も影響力のあった哲学は、マルクス主義であろう。これは、唯物論的な形で「宇宙のグランドデザイン」を提供した。その意味で、他の哲学にはない強みがあった。人を動かす思想はそういう要素を持たねばならないのである。一方、ユングなどの深層心理学は、ヘルメス主義を疑似科学として復活させようとしたものである。これは20世紀の人間性心理学などへつながることになった。

10.20世紀の哲学で注目するべきはフッサールの現象学である。それは、デカルト-カントの路線によって、いっさいのリアリティの確実性が取り払われ、明証的なものは「私」以外にないという地点から、新たに出発し直そうという思想である。つまり、哲学から「宇宙のグランドデザイン」という役割が奪われたとき、哲学のよるべきところは「絶対確実なものは私が存在することだけである」というテーゼしかなかったという状況であった。しかし面白いことに、結局現象学はそこから再び「存在の究極根拠は何か」という哲学最初の問いに回帰することになったのである。ハイデッガーはこのような、現象学から存在論への回帰を明確に示すものであった。ミシェル・アンリは、エックハルトの神秘神学と現象学との融合を試みている。また存在根拠の絶対的な不可知性を強調する思想としてレヴィナスが注目されている。しかし、全般に、そこでは宇宙のグランドデザインという考え方は復権できていない。現象学以外においては、哲学は固有の知的領域を失い、文化全体に対する影響力は著しく低下、マイナー学問となってしまった。これが現在の地点である(なお、構造主義とポスト構造主義はマイナー思想なので省略する。ウィトゲンシュタインの思想は基本的に否定神学だと思われる)。一方、フッサールに始まって科学哲学が発展し、科学の認識論的限界が確認されたことは一つの成果である。マルクス主義は、90年代のソ連崩壊に伴って、急速に崩壊した。

11.正統的な哲学の領域において「宇宙のグランドデザイン」は語れなくなっているが、思想運動としては20世紀後半にそういうものも出てきた。その一つは、「霊的感覚」による経験という要素をカバーしようという思想が、哲学ではなく心理学において試みられ、人間性心理学、トランスパーソナル心理学が成立した。特に後者は「宇宙のグランドデザイン」を復興しようという意図が明確にみられる点は評価できるが、いまだ完成途上にある。なおトランスパーソナル心理学は、60年代の対抗文化において「霊的感覚」が再発見されたことの影響を強く受けている。またもう一つは、ヘルメス主義的な流れである。これは19世紀以降ずっと非アカデミズム領域において持続しており、神智学、人智学などの運動を生み出した。この二つの流れがいわゆる「精神世界」の思想運動を形作った。「精神世界」は、15世紀ルネサンスにおいて、一気に神秘主義的な思想や技術などが流行した状況と、ある意味で類似しているものがある。それに対してアカデミズムも少しずつ開かれてきている状況がある。今のところ心理学が主導しており、哲学からの参入はあまりない。

すなわち、15~17世紀はヘルメス主義優勢、18~19世紀は機械論の優勢に対しヘルメス主義が対抗文化となっていた時代であった。上でみたように、西洋では、プラトン以来「霊的感覚」による存在の神秘への開けを視野に入れ、そうした存在根源への思索から宇宙の全体的デザインを構想する思想は一貫した流れとしてあり、キリスト教・新プラトン主義・アリストテレスの間を揺れ動きながら、霊的直観とグランドデザインを求めていくのが、伝統的なヨーロッパ思想であった。それが最終的に劣勢となったのが18世紀の機械論であった。20~21世紀初頭は、東洋思想の影響も加わり、グローバルな「宇宙のグランドデザイン」が模索されている状況といえる。ただしアカデミックな哲学は、残念ながらそれに参加しようとしていない。また、「マギア」の思想は「エネルギー医療」としてとりあげられ、代替相補医療として発展している。これらの社会的認知は少しずつ進行しているが、これらをすべてカバーする「宇宙のグランドデザイン」的な思想は、ウィルバーによるきわめて不完全な試みはあるが、いまだ決定的なものは出現していない。より完全な世界観の構築が待望されている。

なお、いわゆる「現代思想」は、現象学以外はいらないと言っていい。ただフーコーなど「知の政治性」を指摘したものには学ぶべき点もあろう。構造主義は結局のところカントの延長線上の思想である。いわゆるポスト構造主義者たちは、宇宙のグランドデザインという発想を壊すべきであると主張していたが、もともとそういうものは近代以降崩壊しているのであり、そういうニヒリズム状況を突きつめるという意味しか持っていなかった。ドゥルーズの自殺は、こうした思想の破産を象徴している。彼らは、まったく反対方向へ努力していたのである。

現在よく書かれている哲学史は、ほとんどが、デカルトとカントによってなされた巨大な変化を、肯定する立場から書かれている。そこでは、宇宙のグランドデザインを提供するというより、疑いを徹底することによって「真に明証的なもの」を把握しようという発想が強くなっている。「認識の確実性」が近代哲学のオブセッション(強迫観念)であった。その結果、真に確実なものとしては「私」しか残らなくなる。哲学はそういう独我論的な危険のある場所へ追いこまれてしまった。その「なれの果て」の閉塞を象徴するのが永井均の哲学である。しかし、そこには、「私の根底にはある神的照明が存在する」というアウグスティヌス的直観は、もはや思いも及ばなくなっている。そのように「霊的感覚」を組織的に否定してきたのが近代の学問体系の特徴であった。なぜなら科学は方法論的にそういう立場に立つが、多くの人文系学問もまた科学のまねをするべきであるという価値観にとらえられていたからである。そこには、科学的であることが「客観性」であり、それが「認識の確実性」を保証するという、虚妄なる信念がみられた。グランドデザインとは、絶対的に確実であるという明証性を根拠とするのではなく、基本的に、「美しさ」(整合性、論理性、包括性を含めて)を基準とする、芸術的行為である。哲学をそういうものとして再構想(re-vision)していくべきではなかろうか。

2007.08.12

村上陽一郎『科学史からキリスト教をみる』

いや、なんせ、まるまる一週間以上も休みがふっとんでしまったのは痛い。
ぼつぼつ、研究活動再開である。猛暑で、外に出る気もしないし。

村上陽一郎センセの『科学史からキリスト教をみる』というのをまだ読んでなかったので、いってみた。かなり軽い本である。しかし、一般向け講演なので、彼の本の中でいちばんわかりやすく、村上科学史入門としていいのではないかと思った。科学論入門としては『新しい科学論』がよいが、『科学史からキリスト教をみる』のほうは、聖俗革命論の入門になっている。まずはこの本から入って、後に『近代科学と聖俗革命』『科学史の逆遠近法』へ進むとよさそう。それから霊性との関係では『科学・哲学・信仰』もおすすめだ。

欠点はページ数のわりに値段が高いことである。図書館で探すべきか。

それから第三章はリン・ホワイトの論をとりあげ、キリスト教と環境問題について述べられているが、この話、二十年(三十年??)も前に、私が某キャンパスでセンセの科学史講義を聴いた時にも、まったく同じことを言っていたんですよね。聖俗革命論もすでにその時は確立していたわけで、つまりこの本の内容はセンセにとっては三十年前には確立していた内容だっていうこと。なので、こなれたもんです。

霊性思想の発展を阻んでいるのは、誤った科学理解によって、哲学的世界解明の可能性への信頼が損なわれていることにあると思う。その意味で、科学中毒からの解毒は必須項目であり、そのために村上科学論・科学史を一通り勉強することをすすめているのである。


4423301148科学史からキリスト教をみる (長崎純心レクチャーズ)
村上 陽一郎
創文社 2003-03

406117973X新しい科学論―事実は理論をたおせるか
村上 陽一郎
講談社 1979-01

4476010733科学・哲学・信仰
村上 陽一郎
第三文明社 1977-01

2007.08.11

タロット本の話

アマゾンからのDMで、ジョアン・バニングさんの「ラーニング・ザ・タロット」の日本語版が出たことを知った。

前から書いているが、日本語ではタロットについてはろくな本がなく、霊的な深みをもつようなタロット解説書はもっぱら英語本に頼っていた。その中でもいちばんスタンダードでわかりやすく、私がもっとも参考にしている本がこのバニングさんの本である。これが訳されると、ようやく日本のタロット本も洋書と同じレベルに少しだけ近づいたことになる。はっきり言って鏡リュウジのタロット本なんか買う必要ない。迷わずこのバニングさんの本にすべきである。

なお、私は日本語版を実際に見ているわけではないので、英語版とまったく同じなのか、翻訳は読みやすいのかということにはコメントできない。英語版は同じ内容のものがすべてWEBにアップされているので、Learning, Tarotで検索すればすぐわかる。それと、この本は基本的にケルト十字法にしぼって解説されている。私はケルト十字法を使わないのだが、カードの解説だけでも十分役立つ。使われているカードは標準的なライダー=ウェイトである。

またまた、「えっ、あなたはタロットを『信じて』いるんですか?」などという質問に答えるのは面倒なので、過去ログをあたっていただきたい。基本的に私は占いについて「宇宙との戯れ+カウンセリング」であるという理解に立っている。この記事のカテゴリーを「ヒーリング」にしたのもその意味だ。ユング派分析家が易やタロットを使うのとちょっと似ている。あたる・あたらないではなくて、効くか効かないか、という評価基準である。なお、占星術については評価を保留していることも書き添えておく。それは、私には「使い方」がよくわからないということかもしれないが。

4903186466ラーニング・ザ・タロット―タロット・マスターになるための18のレッスン
ジョアン・バニング 伊泉 龍一
駒草出版 2007-08


それと、こういうのも出ているみたいなんだが、見たことがない。どうなんでしょう? 値段的に、私が買うのはちょっとありえないのだけど・・ 伊泉さんの『タロット大全』はいまいちだったんだが・・ ただ、上のバニング本が属している、「現代英語圏での精神世界系タロット解釈」の成立については、『タロット大全』を読むと理解できるだろう。

4916217551完全マスタータロット占術大全
伊泉 龍一
説話社 2007-04

ようやく復帰

さて、ひさびさの更新である。ずいぶん休んだが、何かあったのか――といえば、実はあったのである。先月下旬、突如激痛に襲われて病院行きとなったのである。しかも、最初に行った病院ではずいぶん待たされたあげくに誤診されたりしてしまった。よくならないので数日後に近所の別の医院へ行き、そこから最初に行った病院の別の科へ紹介されるという回り道を経てようやく診断がついた。あまり詳細は書くつもりはないが、痛いわりには命に別状のない、あんまりたいしたことのない病気であった。入院したわけではないが断続的に痛みのある状態がしばらく続いた。とりあえず今は治っている。なので「心配」のネガティブな波動は送らないようにしていただければありがたい。

しかし、このところセルフヒーリングへの関心がやや後退していて、夜遅くまで本を読んでいたりする生活が数ヶ月つづいてきたので、その点いささか反省が必要かもしれない。今回の痛みは、私の知っているヒーリング技法で全快するような甘いものではないのだが、それでも多少は軽減できたかもしれない。ネットでこの病気の体験記をみると、私よりもひどい激痛になる場合も多いらしい。そのまま一週間入院なんてこともあるらしい。これはたいしたことがないわりに痛いことで有名な病気で、「難産の痛みに匹敵する」などといわれるが、その意味では「貴重な経験」であったのかもしれず・・??

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