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2007.08.31

叡知の伝統としての哲学史

新しい哲学史構想にもとづいて、講義計画を立てている。私の思うところでは、哲学史をグローバルに把握するならば、西欧近代哲学の比重は相対的に小さいものでなければならない。近代哲学は、人間の哲学的探究の歴史において「きわめて特殊な形態」に至ったのであり、それがなぜ特殊なのかを理解することが非常に大事なポイントなのである。そのためには、近代以前の、ギリシア、キリスト教、イスラム、インド、中国の哲学に十分に時間をとって、こうした伝統が様々なバリエーションがあるにせよ、基本的にある同じ方向を見ていたということをはっきりさせなければならない。それを要約して言えば、

1.自己の根底に超越への開けがあること。
2.自然は聖性の顕現であること。
3.存在の根底に聖性(絶対的超越としての)があり、存在者はそれを分与されていること。
4.そうした聖性への希求が哲学(愛智)であること。それは、自己の根底を探究するという霊的探究と一体であったこと。そして、それを起点としつつ、宇宙のグランドデザインを描くことが、哲学の目的であった。

ということになり、それを理解した上で、なぜ近代の知はそういう基本路線からずれてきたのか、そして、いま、そのずれを修正しようといういろいろな運動が起こっているのか、を理解するのである。こういう順序で行くべきである。

すでに述べたように、これまでの哲学史はあまりに近代哲学が成立する前提を自明のものとしすぎている。「哲学とはこういうものだ」という前提そのものを問い直すのが本当の哲学であろう。近代の哲学が半分以上を占めているものなど、近代の前提に乗っかりすぎているように、私には思える。私が近代以降で取り上げようと思うのは、デカルト、カント、シェリング、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデッガーの七人だけである。あとはマイナー思想家だと思っている。なぜホッブズやベーコン程度の人を取り上げるくせに、アヴィセンナやイブンアラビーはないのか。それもまた西欧中心主義の偏見ではなかろうか。哲学史は「叡知の伝統」として再把握されねばならない。「何を重視するか」ということで歴史はまったく違ったように書けるのだ。歴史を書き換えるということは、現在の位置づけを変えることになる。

とりあえず最初の案を作ってみたが・・こんなもんかな?

1 哲学の知とはどういうものか。科学の知との対比において。これから提示される哲学の基本項目として、a.自己の基底にある超越への開け、b.自然に内在する深み(聖性)、c.存在の基底としての聖性、d.聖性の希求および宇宙のグランドデザインとしての哲学。また、ヨーロッパ近代哲学の特殊性について述べられる。
2.ギリシア哲学における存在探究について。前ソクラテス派、プラトン、新プラトン主義哲学まで。大いなる存在の連鎖。西洋思想におけるアリストテレスの影響について。
3.キリスト教とギリシア哲学との融合による、聖性の希求について。ギリシア教父(ニュッサのグレゴリウス、擬ディオニュシウス、マクシモス、パラマス)とアウグスティヌス、エリウゲナまで。
4.3のバリエーションとしてのアラビア哲学の展開。特にアヴィセンナ、スフラワルディー、イブンアラビー。時間があればカバラも。
5.インド哲学の存在探究。ウパニシャッド、ヨーガ、ヴェーダーンタ。
6.インド哲学から発生したインド仏教の哲学。唯識まで。
7.中国哲学の基本的な性向。「タオ」と「気」の哲学。仏教の影響により成立した、天台・華厳の世界観。禅の成立。
8.日本の文化に見る哲学的傾向。「無常」と「永遠」。古今集、源氏、芭蕉など。天台本覚論と禅の影響。
9.西欧12~14世紀、キリスト教とアリストテレス、トマス哲学。近代の先駆としてのオッカム。唯名論の意味。
10.西欧15~17世紀、ルネサンスと近代初期。新プラトン主義の流入とヘルメス主義哲学の成立(フィチーノ等)。キリスト教神秘主義と近代科学の発生。
11.西欧18世紀、聖俗革命による信と知の分離、機械論的世界観の成立。デカルト哲学により自然の聖性が否定される。哲学の目標が「確実性」へと変わる。
12.西欧19世紀、カント哲学による哲学の限定と、ヘルメス主義再興の試みであるシェリング、ヘーゲルの哲学。「近代的人間」の極限を示すニーチェの哲学。
13.西欧20世紀、確実性の追求としてのフッサール現象学。ハイデッガーによる存在論への転回により、近代哲学の歴史が終わる。科学においても古典的機械論の限界が指摘される。
14.現代における「新しい世界観」の試み。エコソフィーと相補代替療法を例として。また、「意識のフロンティア」をめぐって。
15.期末試験

14回のうち近現代の哲学は3回、このくらいでいい。細かいところに入らず、近代的な知の特徴を大まかにつかめばよいのだ。私は基本的に、近代哲学はハイデッガーによって終わったと思っている(できればアンリも入れたいが)。あとは、近代哲学の方法論としては、やることは残っていない。

しかし・・何という広さか。本当は倍の時間をかけても終わらないものである。ギリシア哲学を一回で終わらすなど(しかも新プラトン主義まで!)、何という無謀か・・
アラビア哲学を無視するのは、日本の知的世界に共通した欠点であるので、是非とも入れねばならない。また、日本文化における「永遠」の追求ということも入れたい。ただし、日本では哲学そのものというより文化や芸能において表現されることが多かったのだが。

近代の特徴として「確実性の探究」ということがあると思っている。つまり、それ以前は、根底にある聖性の次元へどうやって迫るのかということばかり考えていたのだが、近代以降「本当に確実なことは何か」という問いにシフトしてしまったのだった。その結果、「本当に確実と言えるのはこうやって世界を経験し、考えている<私>しかない」ということになり、哲学固有の領域はただ「私がある」ということのみになったのだった。その閉塞を象徴するのが永井均という人だが、これを破るには「私がある」というのは本当は「神の名」であり、「私がある」を絶対的な根底として、それへ向けて自己の根底を突破するという道しかないのであって、それをやろうとしたのがハイデッガーとアンリである。特に「私がある」ということの霊的な意味に気づいたのがアンリである。で、アンリもどこかで取り上げられればいいと思う。

ともあれ、知とは本来「聖性の探究」であったはずのもので、近代になって「知の聖性の分離」が生じた。知の領域から聖性は排除されるべきだという考え方は、オッカムを先駆とするが、それから18世紀まで数百年かかって徐々に西欧世界に浸透していったのである。問題は、現在のほとんどの哲学史は、その「分離」を当然のこととして、それを疑わないという前提の上で書かれていることである。しばしば、そのように、哲学の意味において重大な転回があったということさえ無自覚なままである。つまり、自然学だけでなく、哲学そのもの、つまり自己知ということに関しても、「聖俗革命」があったのである。つまり村上陽一郎の聖俗革命説は、哲学の領域にも延長して考えなければならない。今までの科学史が「勝者史観」であったように、つまり勝ったもの(近代科学)の前提そのものが疑われないという立場から過去の自然学が解釈されてしまったように、哲学史においても近代知による勝者史観が見られたのではないかということである。

たとえば貫成人の『哲学マップ』は、初学者向きの概説書として私もとりあげたことがあるのだが、これにしても、東洋哲学や中世以前の哲学についてはどこかの解説書を参考にして書いたのであろうが、常識的きわまる書き方である。特に、近代以前は、ある絶対的な原理を定立して(たとえば神とか)、それを中心とした哲学であったが、近代では主観・客観の認識論的な枠組みに変わったと述べてある。こういうとらえ方は常識的なのであろうが、たとえばギリシア教父などの思索の深淵を知るものにとっては、いささか(かなり?)深みに欠ける理解といえるだろう。つまり、自己の存在の根底にある超越的な次元への開け、神的な照明の存在、といった、自己探求の極みにおいてある超越的な世界が開かれたこと、そのような次元を知りうる能力が人間には潜在しているのではないか、というような、そもそも生きる上においてきわめて重大な問題がそこにあったということを、読者が気がつくはずもないようなものの書きようなのである。つまり18世紀以降の急速な「知の世俗化」についての危機感を持っていないわけである。そのような危機感を持たないということ、つまり存在論志向から認識論志向へ変化したことの重大な意味を思索していないということが問題になる。これもハイデッガーの言葉を借りれば「存在忘却」の一種である(なおハイデッガーは、存在忘却はギリシアに始まるとされるが、その理解には問題がある。認識論志向とは簡単に言えば「私とは何か、宇宙の根源とは何か」という問題よりも、「私は何かを確実に知ることができるのか」という問いの方が重要だと考えるということである。つまり、確実性がプライオリティーとなる。それが確実なのかどうかが気になって仕方がないという心性であるのだが、結局これの行き着くところは、「本当に確実なのは、そのように疑っている私自身しかない」というところだというのは、先に述べたとおりである。つまりそこからは、存在の根底へ向けて何か突破していくというエネルギーは生まれ得ない。もっとも、そのような問いが「私」へとつきつめられてしまうということを確認したこと自体は、無意味だったわけではないのだが。)

「知の聖性」とは、単なる合理性ではないものが人間精神の中にはあるということ、つまり、合理性を否定するわけではなく、超合理性というものがあり、それはギリシアではヌースと呼ばれたものであるが、それは神的な照明を受ける能力ともいうことができた(これは西洋的な表現で、東洋哲学ではちょっと違うだろうが)。これは非合理性ではない。非合理性を合理性に対置するという発想は、つまるところアストラル的なものを神の次元に祭り上げる思想にすぎない。ロマン主義ではそれが混同されることもあったが、要は、神的な照明に導くような崇高な感情というものがあるということをロマン主義はいいたかったはずである。残念ながら、ユング系の議論にはこうした混同が多い。それはユング自身が、神的知性という概念を十分に発展させなかったからである。私はユングはあまり評価していない。もう過去の人になりつつあると考えている。ユングの中でそういう霊性に接近したのは、「精神」Geistの元型について語るところだが、どうも曖昧模糊としている印象がある。これをいうのは、長い間、近代的知の世界で霊性について語るために、ユング心理学を隠れ蓑として利用するというパターンが多く見られたからである。しかしもうその時代も終わった。「ユング心理学では・・」などという枕詞がなければ霊的な事象を語れない、というような状況そのものを変える時期が来ているのだ。ユング心理学とは、西欧の伝統的なヘルメス主義的世界観を「経験科学」に仕立てようという試みであった。しかしそれはしょせんは疑似科学である。霊性を科学でがんばってやろうというのは無理がある。霊性は本来的に哲学が主導すべきテーマである。

なお、知の聖性を肯定する立場から近代知の世俗性を批判し、これまでの哲学史を全面的に再解釈する試みは、むろん私が初めてではない。具体的には、私は次のものの影響を多大に受けている。読める人は一読をおすすめしたい。これは面白い。何度読み返しても飽きない。ただヘーゲルについては、ヘーゲルのヘルメス主義起源についていわれる前の話であるので、やや否定的に語られているのはしかたがない。

Seyyed Hossein Nasr, "Knowledge and Its Desacralization," in Knowledge and the Sacred, State University of New York Press, Albany: NY, 1989, chapter 1.

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