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「ピュシスとプシュケーの本源を問う」

最近、谷隆一郎先生の著作を続けて読んでいる。ニュッサのグレゴリウス、アウグスティヌス、マクシモスを論じたものなのだが、人間はどのようにして超越と出会うことができるのか、それを現在の問題として肉薄しようというもので、たいへん共感が持てるのである。私の知る限り、日本の中で本当に「哲学者」の名に値するのは、谷先生と宮本久雄先生など、数少ない。大森正樹先生を含め、みな教父哲学の研究者であるというのも示唆的である。現代において「受肉の神秘」をまじめに考えようなどという人がほかにいるだろうか。そもそも私が「先生」とつけて呼ぶなどということが、珍しいことである。

さて、谷先生の「ピュシスとプシュケーの本源を問う――西欧近代と自己との超克――」(UTCP研究論集第4号、2006、77-89)は、西欧近代の知とはそもそも何であったかということを、オッカムに見定め、それをマクシモスに代表される東方教父の思想と対比するという、まるで私のために書いてくれているような論文であった。

もとより西欧近代における「知の世俗化」は18世紀に至る数百年をかけて徐々に進行したものではあろうが、その端緒は、14世紀前半に生きたオッカム(1285頃-1347頃)に始まっていた。そのことを指摘したのはもちろんこの論文が初めてではないだろうが(最近オッカム研究がはやっているみたいである)、この谷先生の整理はわかりやすい。それによると、オッカムの思想の特徴は次の四点にある。

1.「神秘の領域の祭り上げ」、「神学と哲学、信と知などの分離」、「学的論証の範囲の制限」


2.「個体への傾斜(個体のみ在る)」、「個体の直観知の標榜」、「実体的形相および普遍の、実在領域からの排除」(唯名論)

3.「諸々の学問の分離」、「自然科学の独立」、「要素への還元」、「実証性、客観性という規準」

4.「自由・意志の自律化ないし孤立化」、「超越的な善からの分離」、「近代的人格の尊厳と傲り」 (論文には原語のラテン語が添えられているものがあるが省略)

以下は谷氏の論旨ではなく、私のコメントである。
1についてはいうまでもなく「知の世俗化」そのものである。しかしオッカム自身は神を信じていないわけではまったくなく、神学的なことに関しては「議論をするな」という態度を見せたということである。超越的、神的なことがらに関しては「知」は関与せず、「実践」のみの話となる。このことは霊的実践のあり方としても危険を生じるだろう。

2について、谷氏は「個体の直観知」という考えが「傲り」を生む危険を強調している。形相を介さず個体を直観するのは本来神にしかなしえないことのはずである、それができると考えるのは傲りではないのか、という論点である。この論点は私も初めて知ったが、私がさらに気になるのは「実体的形相および普遍の実在領域からの排除」である。これは、「なぜものはそこにあるのか」という問いが、「もの」の内部にはないという立場だということである。「実体的形相」というのはトマスの言うことで、ものをものたらしめているイデアのようなものが内在しているという考えである。ところがそれが否定されて、イデアなんて実在しませんよということである。これはカント主義の先駆けである(オッカムは、普遍を与えるものが「主観」にあると考えたわけではないが、カント的唯名論によって、主客図式が固定化したのである)。考えてみると、近代的な知はほとんどが唯名論であることに気がつく。普遍が実在すると本気で思っていたのはヘーゲルくらいなものではなかろうか(そこが彼の反時代的なところなのだが)。構造主義なども典型的な唯名論的発想であろう。現象学も唯名論的に理解する方向があった。俗流のものほどその立場が端的に表れる、ということで、山口昌男や丸山圭三郎など昔はやった本を見れば、唯名論とはどのようなものかわかるであろう。

実体的形相と、プネウマ・種子の理論が関連しているという平井センセの説があった(なぜ平井さんだけは「センセ」なのかはよくわからない)。つまり宇宙根源から「形あれ」という指令が出て、それがプネウマ・スピリトゥス(気といってもいい)によって媒介され、もののなかに形相(イデア)として宿ることにより、「あるものがあるものであること」が成立するという存在理解・自然理解である。つまり、「もの(個別的なもの)の深み」に神秘を感じるという感性がそこにはあったのである。

さらに谷氏は言う。

オッカムは、「個体のみ在る」として、あらゆる実体的形相や普遍を実在の領域から排除した。そしてそこに、いわゆる唯名論が声高に主張されることになる。その結果、問題の主たる関心は、「魂・人間の真の成立」、あるいは「人間的自然・本性の開花への道」といった存在論的な場から、命題の真偽を問うことを主軸とする論理学的な場へと移ることになるのだ。(84)

これは私が前項でも書いた「存在論的な問いの忘却」である。そういった「聖性が知から脱落する」というプロセスにおいて、唯名論の影響は甚大だったということである。「愛智」的な哲学からすれば、「それは確実に正しいと言えるか」という問題は、実は、二次的な問題なのである。もっと重要なことがほかにある。それを忘却することを存在忘却と呼ぶのだ。

さて次に、「個体の直観知」についてである。

すなわち、個体への傾斜は確かに、人間はただ眼の前の個体を感覚的かつ直観的に知るほかないのだという、一見常識的な経験主義に通じるが、他方、すでに言及したように、逆立ちした神秘主義とも言うべき性格を抱えているのである。というのも、われわれの関わる現実の個体は、たとい一輪の百合といえども、その存立の究極の根拠と目的に開かれ、そうしたいわば無限性の拡がりの中から現に個体として現出してきているとすれば、容易に汲み尽くし難い謎を含んでいるからである。ましてや眼前一個の他者は、いっそうあらわな仕方で神的ロゴスの現存を指し示している限りで、どこまでも謎・神秘を宿していると考えられよう。

それゆえに、個体の直観知とは、一見極めて簡明な認識論の提示と見えるが、その実、ある意味で自分が神の立場に立っているかのような傲りをも含んでいるのだ。言い換えればそれは、「個体の現成」、「創造の神秘」をわれわれ自身の自己探求の裡に問い被くことを放置して、多分に一方的な断定し開き直った態度ではあるまいか。そしてこの点、主体・自己の真の成立の問題は括弧に入れて、いわゆる実証性、客観性を標榜する大方の学の方式も、同様の性格を有しているのである。

してみれば、素朴にかつ虚心に己れを問い、よき生の道行きを問い被くためには、唯名論風に閉じられた学的空間を突破して、問題のより本源的な場に還帰してゆくことが求められよう。ことの真相に関われば関わるほど、探究の刃は己れ自身に突き返されてくるのである。(84-85) 強調引用者

と、いつのまにか谷先生の世界にどっぷり入っておりますが・・ この論文に限らないが、基本的に、近代知の前提そのものを疑う視点を徹底しているのが、特に優れた点である。そして、太字で強調したことがらが感性的に理解できる人かどうかというのは、私にとってはまったく決定的なポイントであって、この点が駄目な人はどんなに学識があろうとも駄目だという感じである。

ここで「己れを問う」というのはどういうことかっていうのが谷先生の哲学のポイントなのだが、それについては「ピュシスとプシュケーの開かれた動的かつ全一的なかたち」として、マクシモスに沿って次のようなことをあげている。

1.ロゴス的根拠への応答 神(=存在)を受容し得る者としての人間
2.善の超越性に開かれた構造 悪と罪の問題
3.万物の紐帯としての人間 全一的な交わりとしての神の顕現(これは「万物の宇宙的神化」というヴィジョンのことである)


以下は私の(あまり関係ないかもしれない)コメントである。

よく「すべては自分の中にある」という言い方があるのだが、これは時として「信」を拒絶するいいわけとして使われることもある。「信」とは、魂において神的ロゴスの呼びかけ(エネルギー)を感受することであり、それは未来世における霊的な知の「先取」であると言われている。つまり、その時にははっきりと見るべきことがらを、いまはおぼろげな予感として知るのだ。それが信である。つまり信とは、頭であれこれ考えて決めることではない。頭を排除するわけではないが、根本的には「魂レベルの体験」である。あるいは、魂のある状態である。信とは、「持つ」ことができるものではなく、むしろ「入る」ものではなかろうか。

究極的に言えば、すべて自分の中にあるというのはウソではない。というときの自分とはすでに「宇宙的な自己」であり、神名としての「私はある」になっているということである。しかしそうならない限りは、それは自己の外なるものとして表象されるだろう。つまり、超越者とは「あなた」であって、私ではないのである。これは厳然とした事実である。したがって、自己探求というのは、「いま自分と考えているもの」の中に何かを探すという方向ではありえない。むしろ「呼びかけを聞く」こと、受け取ることから出発するのである。実践的に言えば、「すべては自分の中にある」などということは、知識として知っていることは必要であっても、探究の過程ではあまりそういうイメージにこだわらず、むしろ大いなるものへ向かっていかに自分の根底を開くか、という感じでやっていったほうがいいように思う。つまり、かなり進んだ段階になるまでは、いまの自己のあり方を否定する(というか、一時中止する)ということがテーマになるのだ。その意味では「他力」である。伝統哲学では、「小さい自分を捨てる」ということが共通してテーマとなっている。もちろん、言うだけなら簡単なことだが、結局はそれにつきるのだと言ってもいいように思う。谷先生も「己を無みする」と何度も強調する。そして、「神性の受容」によって「存在の現成」にあずかるのだという。だから重要なことは、人間とは神性を受容しうるように、己の根底に開けと動性を持っている、との直観に至ることである。

・・と、なんだか論文のコメントとしては支離滅裂になったようにも思えるが、ともかく、谷隆一郎・大森正樹・宮本久雄の三先生の著作は、教父哲学の今日的意義、つまりあえて現在において「神を求めることの哲学」の可能性を考えてやまないものであり、霊性哲学への入門として優れている。ギリシア教父の思想は、ロースキーの『キリスト教東方の神秘思想』によって、私に深甚な影響をもたらし、それ以来、キリスト教とプラトン主義思想の美的な融合というヴィジョンにとらえられている。これに、自分の育った霊的世界である東洋の哲学伝統をも融合させるという方向のうちに、私自身の思想が形成されてきた。しかしロースキーの本は初学者にはかなり厳しいので、このお三方の書物から入ることをお勧めしたい。いずれも、研究と霊的探究を分離する立場に立たず、あくまで現在におけるその霊的思想としての可能性を問う方向であるため、専門的になりすぎず、決してむずかしくない。

注:この論文を読みたい人は
大学等に所属している人は、その附属図書館の参考係まで。その他の場合は、国会図書館のコピーサービスを利用する。郵送で受け取れる。自分で利用登録して依頼するか、もしくはもよりの公立図書館を通して依頼できる。有料(そんなに高くない)。

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