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『99.9%は仮説』

竹内薫『99.9%は仮説――思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書)なる本を借りてきた(基本的に、新書はまず図書館で借りることにしている。だいたい、あとでもう一回読み返すような内容の新書などめったにないし、古本に出すにも値がつかないので困るのである)。

しかし、期待してなかったけど、意外にこれはいけます・・! いけるというのは私の場合、授業で使えそうということである。この本は科学というものは仮説であって、真実だと思いこんではいけない、ということをいろんな例を出して述べている(コペルニクス説が神中心の世界像を壊したなどというのは、ちょっと勉強不足であるが)。要は、「常識を疑いなさい」ということを言っている。

哲学とは常識を疑うことだとよく言われるが、それは別に哲学の専売特許ではない。常識を疑うということは哲学というより「学問」あるいは「思考」の前提であり、出発点であるということだ。人類学であれ社会学であれ、常識をそのまま信じていては進歩がないのは変わりない。よって、常識を疑っているという理由で哲学を特別視する理由もないのである。

『99.9%は仮説』には、永井均が仕入れ先と思われる、「世界数秒前開始説」もとりあげられていて、それを反証することはできないと述べられている。

竹内薫は、すべて絶対確実なものはないということをあっけらかんと肯定している。近代哲学は、「絶対に確実なものは何かを知る」という欲求から始まったはずだが、「そのようなものはない」という状況を、べつにニヒリズムだとも思わず明るく認めているわけである。これはやはり日本文化の伝統の一つではないかな? そもそも「絶対確実なもの」を求めようなどという思想がとんでもなく西洋的なものかもしれないのである。日本人は「すべては仮である」ということを当然と見なすという文化を持っていた。仮であるものにおいて、一瞬であれ輝きを認めることに、永遠を見出していたのだった。

それはともかく、「すべては仮説である」ということ、科学であっても、何事かを絶対的に証明し、「真理」を発見したわけでないこととか、先端科学者のやっていることもけっこうアヤシゲだったりすることもある、などということが非常にわかりやすく述べられているので、学生にはイチオシの本であろうと思う。

もう一度いうが、常識を疑うことは「学問」あるいは「知」の前提であって、それ自身は哲学の問題ではない。では哲学固有の問題とは何か、といえば、それは「実在についての常識を疑う」という「問いの方向性」にあると言うことができよう。

はっきり言うとそれは「どう考えてもいい」のである。ただその仮説が、美しい生へと導くものか、そうではないのかという相異があるのみである。美しい生とは、自分だけのことではない。どう考えてもいいが、その結果は自分で引き受けるのである。

私が「凡庸なる哲学史」の本を批判したのは、現在、常識的とされている哲学史の構成、つまり過去の哲学からのとりあげるものの選択、その描き方に疑いを抱いているからである。端的に、そのような構成で人類の哲学的探究の遺産を扱うことは「美しくない」のである。その常識的構成を、たとえ入門者向きだからという理由であれ、それを疑問に付すことなく採用してしまうことは、その常識を「良し」とするという選択を行ったことを意味している。しかし、一方で哲学を「常識を根本的に疑うこと」などとその本で述べるというのは、自己矛盾の最たるものではなかろうか。そもそもその本自身が、その知的要請を実践できていないわけではなかろうか。入門書は常識的構成でよいというのは、結局、高校の倫理の授業や大学の(常識的なる)哲学の授業の参考書としても有用でなければならない、といった、世間の常識に合わせたという行為であろう。もとより、それを百も承知の上で、自分は凡庸なる本を書いていると自覚しているというなら、それは一つの「お仕事」としてありかもしれないが。しかし、その著者が、本当に常識的な哲学史の構成に疑問を抱いているなら、それはその本に何らかの形で反映されたことだろうと思う。結局、そういう常識を疑えていなかったということではなかろうか。いや、もう少し正確に言えば、「哲学は疑いだ」はけっこうだが、そもそもどういう方向に、何を疑っていくべきなのかという点で、近代哲学の地平を超えていないから、常識的な構成を疑えなくなってしまうのである。つまり、疑うことはあたりまえであって、問題は「疑いのスタイル」なのだ。私は、近代哲学の「疑いのスタイル」は美しさに結びつかないものが多いのではないかと思っている。疑いはほんの出発点にすぎない。大事なのはそこから、ある「魂のあり方」へ至る道である。その道が哲学なのだ。その点を見失った哲学を大きく取り上げる必要はないのである。

つまり、常識的な構成は、「疑うこと」のみに価値を置き、そこから「ある魂のあり方」に至ることが大切だという価値観を持っていないのである。したがって、そういう構成を採用する人は、「ある魂のあり方に至るということは哲学の最重要問題だ」という考え方をしていないことがわかる。この点で、私から見れば、世間一般の「哲学的疑いについての常識」を超えていないということになるのだ。なおこれは、あくまで私個人の価値観からの判断であることは、言うまでもない。

この本の話からは外れるが、もう一つ哲学において大事なことは、「根本感情」だと思っている。これはハイデッガーの用語でもあり、「根本情調」などとも訳されているが・・つまり、根本的な「魂の気分」である。哲学的な探究を主導するのは、この「魂の気分」なのである。たぶん、それを共有しうる思想が、「わかる」と感じられるのであろう。哲学には論理的体系性を重視するものがあるが、それは、本来は、「論理的、整合的であることは美しい」という魂の気分から発した一つのスタイルである。プロクロスの神学綱要やスピノザの命題集などにもそういう気分は感じられる。しかし、哲学はそういうスタイルでなければならないと、制度的に縛られるようになると、これはもう根本的な自由の喪失である。哲学の表現自体に、そういう魂の気分をもっと浸透させるべきだろうという考え方も当然あって、ギリシア哲学からそういうスタイルのものはあった。つまり私が言いたいのは、哲学史においても、それぞれの哲学の「根本感情」から説明していかねばならないだろう、そうでなければ生きた哲学史にならないだろう、ということである。そこまで踏み込めているならば、これは凡庸ならざる哲学史である。そうではなく、単に理論の図式的整理に終わっているならば、それは謹んで凡庸の名を贈るにふさわしきものであろう。

(なお、この批判は、現在すでに出版され、私の目にとまった数冊の本を対象にしており、言うまでもなく、未見の本はその対象とはならない)

ということで、

433403341599・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方
竹内 薫
光文社 2006-02-16

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