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霊的弁別

よく、「すべて必要なものは自分の中にある」といわれるが・・

これは言うまでもなく正しい。大原則である。しかしながらこれは、「すべて必要なものは自分で作ることができる」という意味ではない。

現実的には「必要なものを自分で選ぶ」という形になることが多い。

「すべては自分の中にある」は原則だが、実際にはそれだけで霊的な道を歩むことができるわけではない。こういう言葉だけで満足してしまうのは、要するに教養神秘主義、ペーパー神秘主義のたぐいである。学者などには、こういうわかりきったことだけを本で書いたり、シンポジウムでしゃべったりしている人もまだいるが、もはや世はそのレベルのものを求めているわけではないのである。

つまり、実際には、「先人が切り開いた道をたどっていく」ことが霊的な道なのである。独力でそれを開拓することができるくらいなら、そもそも転生などする必要もないくらいである。

たとえばいろいろな瞑想法などが世に広まっている。これらも、もしパワフルなものであれば、それはそれを開拓した人が「上」の次元とのエネルギー回路を開いたということを意味している。力のあるメソードとはそういうエネルギー的なチャージが存在しているものだ。そういう意味においては、それは「宗教」にちがいないのである。伝統的な意味の宗教ではないが、だれか先人のエネルギーによって開かれた道を行く、という意味では宗教的な行為になるのである。であるから、これはあんまりカジュアルに考えるべきことではない。瞑想法などのメソードは、その来歴をよく知って、誰がどういうエネルギーでどこにつながったものであるのか、そういう見当をつけてから参加する方がよいのではないか。

「とにかくやってみればわかる」のはたしかだが、「やってみたらカルトでした」では、エネルギーレベルでの損傷は免れない。盛り場で適当にお店に入ってみて、「入ってみたら暴力バーでした」だって、「やってみればわかる」にはちがいない。どういう結果でも受け入れる覚悟があれば、「とにかくやってみればいい」で進めばよろしいだろう。つまり、やるかどうかは慎重な判断を要する。そこでまったく迷いがないのかどうか。それを見きわめるということである。

もちろんすべてはわからないので直観の部分も多い。しかしそういう、エネルギー的な「サニワ」(霊的弁別)を軽視してはならない、ということである。そして「自分はこのエネルギーを受け入れる」という決断をしてから始めるべきものだと思う。

霊的な道で重要なポイントはそこである。そのことを言っていなくて、「すべては自分の中にある」などという決まり文句以上のものが出てこない人は、あまり体験がないペーパー神秘主義者だと思っていいだろう。「上」の次元とのつながりなしに、何も始まりはしない。

なんか前項で書いたことと一見反対のようだが、実はそうではない。
そういう時代だからこそ、ということである。

霊的感覚と「不易流行」――クジラさんの指導による??

さて・・このところ、時々クジラさんを身につけている。クジラさんは、あまり強烈でぶっ飛ぶという話もあったが、幸いにぶっ飛んでいない。むしろ波動が合う感じで気持ちよいのだ。

ところで、最近考えるところだが、これはもちろん何らか学問的な話ではまったくない。

このところ地球領域に流れてくる高次元のエネルギーが増しているという話・・これはどう見ても、ある真実が含まれていると思う。量も増しているし、確かに「加速」している。どんどん急になっている。それはこのところ間違いなく感じるところである。これはもちろん、われわれの側の感受性が開けてきている、ということと呼応しているだろう。

霊的成長についての、何らかの高次元における「ルール変更」があったのか? ・・基本的な原則はもちろん変わらないが、「加速」が起こっているのは確かだ。つまり因と果とのタイムラグが、これまでとくらべてすごく短くなっているのかもしれない。それから、このときとばかりの「スペシャルバーゲンセール」のようなことも確かにないではないようにも感じられる。

そもそも臼井先生にしてからが、このシステムの簡単さは、それまでの霊的なシステムの常識を破るものである。

エネルギーを受け取る人の数が増えてくると、ある「臨界点」から急激に加速してくるということは、ピーター・ラッセルなども早くから指摘していたが、どうもそういうことがあるようだ。

思うにここへ来ると、伝統的な修行の完成されたシステムだけをよしとしている考え方だけでは十分でなくなっているようにも思う。そういうふうに伝統のみを高しとして、最近起こってきたニューフェースのメソードを見下ろした気分にひたっていると、あっという間に一気に抜き去られてしまうこともあり得るだろう。新しいものが出てくるのは、それなりに理由があるのであって、やはりその時にふさわしい「旬」というのもあるのだ。俳句ではないが「不易流行」である。変わらぬ原則を見ていると同時に、新しく起こったものにもそれなりの意味があることを理解しなくてはいけない。たしかにそこにはガラクタもニセモノも含まれていようが、自分に合ったものを見つければ、信じられないようなスピードで一気に開花するようなこともかなり可能になってきているように感じられる。

やはり、これまでにないまったく新しい時代に入っているのである。だから、これまでの常識だけで判断することはできない。古典によって「大原則」を学び、それを応用して、新しいものから本物を見分ける、ということだろう。

この時代へ来て重要になってきているのは、「他力」コンセプトの復興ということが一つある。これはつまり、「宇宙から差し伸べられている救いの手につかまれ」ということである。もっと具体的にいえばそれは「エネルギー」として受け止められるものである。いわば「救世の大光明」である。そういう力がたしかに来ている、と実感できるということは、理屈ではないのであって、魂の感受力の問題である。それがいまきわめて重要になっているように感じられる。まさにいま、何が来ているのか。それをよく感じてみるということである。

なお、いま書いた文章は、私自身、「なぜそうなのか」ということは、半分もわかっていない(笑) かなり直観で書いている。しかしどうも、これを書けといっているのはもしかするとクジラさんなのかもしれない(大笑)

また、アトランティスをめぐる哲学的?な追想

アトランティスは別の時空・・とか書いたが、実はもう少し複雑な気がする。
おそろしく複雑だという直観はある。しかしそれをもう一つ言語化できないような感じがする。以下の話は、「わからない」という人のケアをするところまで余裕がないので、わかる人のみトライしていただきたい。言うまでもないが、以下はすべて「そう考えることもできる」という思考実験である。これが真理だと主張しているものではない。ま、SFのようなつもりで読めばよい。

つまりそれはこういうことだ。いま私たちが経験している時空とは別の時空構成の世界があって、それはいわばパラレルな地球である、ということだった。つまり地球とは多次元なのであり、私たちには見えない次元にも地球は展開されている。

そうすると私たちの時空Aとはべつに時空Bがあって、アトランティスとはその時空Bの過去にあったもので、時空Aの過去には位置していない・・もしかするとこのように、先の議論を理解したかもしれない。が、これはまったく不正確なのである。

そのように考えるということは、いつのまにか、過去とは客観的存在であるという前提に立ってしまっている議論である。より厳密に表現するならば、アトランティスがあったとして、それは時空Aの過去でも、時空Bの過去でもないのである。そもそも、過去は客観的には存在していないのである。私たちはどうしても、過去が実在していたという常識から離れられないところがある。

本当にあるのはいまここに成立しているという「現在」しかないのである。過去もまた「現在」による時空構成においてのみ、実在しているように見えるのである。本当に存在しているのはここの時空構成のみで、あとはすべて「虚」であるということが骨身にしみてわかっていないと、ここで間違ってしまう。

以下のように考えるのは間違いである――かつて、アトランティスが存在していた時空Aは、アトランティス滅亡後も存続し、その時空Aでは依然としてアトランティスを直接の過去とする歴史を有しているが、私たちはその時空A から離れ、アトランティスが存在していなかった時空Bに移行した。――私のこのあいだの説明をそう理解したとしたら、それは誤解である。私はそのようなことを言おうとしていない。

上のような意味での時空Aなど、実は存在しないのではないか。つまりアトランティスとは、永遠の中ではなおも実在すると言えなくもないが、魂の歴史という観点から見れば、人類にとっては「記憶」として、つまりかつての魂経験の残像としてあるものなのだ。私は、アトランティスの滅亡とは、その時空が地球意識場においてアクティブな現象世界からは閉じられたということかもしれない、と思っている。アトランティスという物質がなくなったのではない。アトランティス文明という時空構成が終息したのである。もちろんこれは、レムリアについても同じことかもしれないが・・

つまり現在の時空の場は、アトランティス滅亡以降に開かれたものではなかろうか。つまり、現在私たちが地球と思念している時空構成はそこに始まっているのである。この時空は、アトランティス以前には実在してはいなかったのである。私たちの時空には、アトランティスもそれ以前も存在しないのは当然なのだ。あらかじめこの時空があって、アトランティスのあった時空から移住してきたわけではないのである。

つまりある文化期が終わるということは、地球の時空がいったんそこでリセットされるということではないだろうか。もちろんこれは、地球の時空が同時に多数並存しうることを否定することではない。

このことは常識にとらわれている人には理解できない。早く言えば、私たちが学校で教えられてきた「地球の始まり」は、本当の始まりではない。あれはただ科学者が夢想している物語である。本当は、地球は何度もその時空構成をリセットしてきている。私たちがいるのは、その何度目かに創世された時空である。このような発想はアメリカ原住民の神話にもあったはずだが・・(たしかナバホだったか)。私は、シュタイナーが言っている文化期とは実はそういう意味ではなかろうかと推測している。地球の歴史というものを、直線的な時間軸を超えて理解しなければならない。過去とは時空の一部としてその時創生するのである。つまり、私たちが理解している、この時空の中の過去とは、本当は客観的に実在するものではなく、私たちの魂にインプットされている「記憶」によって、実在するかのように見えているものである。もし高次元の意志によってある時空構成が創造されるという場面を想定したならば、その場合、その時空構成において生きるべき魂に対して、その時空構成を生きるにふさわしく「記憶」が調整されるということも、ありうることとして考え得るだろう。もちろんその深層の記憶においては、その魂が経験したすべての事象が消滅せずにあるはずだろうが、表層まで活性化する記憶としては、調整も不可能なことではないだろう。時空の創造とはそこまでを含んでいるとしたら? そのようにして、魂が経験した多くのことがらは、表面からは「消された」。その結果、私たちはアトランティスを思い出すことがない。もしその記憶が蘇ることが大規模に起きるとすれば、それは、この現在の時空構成のルールに変動が起こっているということだ。つまり時空構成自体が変動してきているのだ。

念を押すが、過去というものはないのである。あるのは、記憶の構成だけなのである(小林秀雄先生もそう書いていたのですよ)。つねに、現在以外は何もないのである。

アトランティスは、客観的な過去としてあるかどうかではなく、記憶の問題なのである。その記憶が現在の時空構成からは消されている、そのように私たちは「歴史」を理解しているという、記憶の調整があるのではないか。それは、私たちは、アトランティス後に創造された時空にいるから、そうなっているのだ。

現在が変化すると共に、過去もまた変動する。過去とはつねに「私たちの理解する過去」である。それ以外の客観的過去というものはない。だから、アトランティスは、「私がいまいる世界は、アトランティスを過去の中に位置づけることを否定するという構成を持っている」から、アトランティスは過去にはないのだ。アトランティスが歴史の中に存在するという時空構成に変化すれば、アトランティスは過去に存在したのである。歴史とはそういうものであり、時間とはそういうものである。

この時空構成は永遠の昔からあるものではない。実はかなり最近にできたのかもしれない。いうまでもなく、私は魂次元では、「この時空構成の地球」ができる前も生きていた。それが滅亡した後も生きるであろう。その時私は別の時空に生きる。それを象徴的に「他の星へ行く」と表現するのである。

アトランティスなんてぶっ飛びテーマにも思えるが、実はこの議論は、哲学の最も基本的な問題を扱っているということが、わかる人にはわかるはず・・だが・・(^^;

以上、とても難しい問題だった。もちろんこれは、問題の1%も解決していないだろうとは理解している。その本質は人知を超えるもので、肉体を持っていてはその知に達することは困難なのかもしれない。ただそこに、計り知れぬ神秘があることだけは感じることができるだろう。

やっぱりLiquid Mind

しかし・・ほんとにLiquid Mind の音楽はすごい。これをかけつつ気功やエネルギーワークをしていると限りなくいってしまいそうな・・というか、宇宙空間に漂う感覚になる。
私が気功や瞑想をする部屋にはオーディオ装置があるのだが、やはりこちらでかけるのがよい。寝室兼書斎にはWaveRadio CDがあるのだけれど、この高性能機でもやはりラジカセでは、Liquid Mindの真価は現れない。やはり「音の場」が全体を包み込むようになり、その中で微少な「光の渦」が回転するような感覚にならないと。

「12,3万投資すれば、毎日好きなときに神秘体験ができる」と言えば、信じるだろうか。それが、オーディオに投資することなのである。ばか高い機種はいらない。10万円を超えたあたりで、明らかに臨界値を超えたという感覚が出てきて、音楽の奥底にひそむ「霊的なエネルギー」が確かに感じられるようになるのだ。そもそも、実演をある程度聴いていないと、「そういうエネルギーを感じることがある」ということ自体に気づかないから、コンポなどでCDを聴いて、「こんなものか」と思っているのかもしれないが・・それはもう全然違うのである。でも、そう書いているのを読んだだけでは、なかなか「そこまでは」と信じてもらえないでしょうね。「この曲はどの演奏がいいか」なんていうのはその後の話。

信じるといえば、イルカペンダントでイルカくん意識場とコンタクトするという話は信じてもらえたのだろうか? すでにペンダントを買ってイルカくんと交信を試みている人はいないでしょうね(^^;  イルカくんは「あんまりマジメに受け取らないように」とも言っているのだが・・はたして・・ でもイルカペンダントはいいですよ、実際。

今後のお仕事予定

これからのお仕事計画。とりあえず、文章を三本。

一つは、「ものがそこにあること」の深みを感じることから、そこに介在する「イデー」、そして、それを媒介する「スピリトゥス」など、平井センセ的問題圏を、存在論の再ヴィジョン化という観点から素描する。

あとは、無から創造するのも大変なので(笑)、以前このブログで少し書いた「普遍神学構想」についてまとめてみる。考えてみると簡潔にまとめたものはまだなかったので・・ あと一本は、これもブログで書いた、フェレルによるトランスパーソナル批判についての文章をまとめなおしたもの。

というのも、「最近五年間の業績」というのを書かねばならないのだが、2003年に出版した二冊の本はまもなく期限切れになって、書けなくなる。そうすると書くべきものが少なくなりすぎるという危機に陥ることに気づいてしまったのである(笑) そういえばこの数年間、どちらかといえば個人的探究をメインとしていたものだから・・しかしそろそろ書くことに力を入れねばならない。

そのことをある人に「ブログの功罪だね」といわれてしまった。たしかに、こちらを書いているといつも書いているように思えてしまうし、書いて即時に発表するということに慣れてしまうと、世間との緊張関係を持って、自分の中に「ためて」、ある程度の時間をかけて練っていくということができにくくなってしまう気がする。書いてから発表されるまでに半年かかるなんてことは想像の外になってしまう。ブログも善し悪しか。ブログはイルカくんにまかせて適当に遊ぶことにしようかしら・・(^^;

錬金術図版集

タッシェンの『錬金術と神秘主義』――これは久々に平井センセつながりである。そこのHPに出ていたものだが、とんでもなく面白い。かなりはまりますね。イルカくんも大喜び(^^)
これは解説はちょっとだけで、ほとんどが錬金術関係の図版集みたいなもの。時々、対比のためか、インド系の図像も入っている。

早くもとある講義の「タネ本」となった。なにせテーマが「宇宙卵」やら「対立物の一致」「宇宙樹」みたいなものばかりだから、またまたドンピシャというか・・

いったいどんな講義でしょうね(笑) しかしこれは、英語が読めなくても楽しめるかも。値段も安い・・やはり平井センセは偉大である(^^;

3822850381Alchemy & Mysticism (Klotz)
Alexander Roob
Taschen America Llc 2006-08-02

クナイプ製品情報

こんな文章を発見!


平素は弊社クナイプ製品を御愛用いただき、誠にありがとうございます。

現在、一部クナイプ製品の天然物由来の原料が極めて入手困難な状況で、今後の目途が立っておらず、この度一部クナイプバスソルト製品(オレンジ・リンデンバウムの香り、ラベンダーの香り、ワコルダーの香り、トライアルセット)を販売停止することにいたしました。製品の入荷を長らくお待ちいただいておりましたお客様には、このような結果となりましたことを心より深くお詫び申し上げます。
なお、その他6種のハーブのバスソルトはこれまで通り販売を継続してまいります。販売停止となった製品を御愛用いただいておりましたお客様には大変ご迷惑をかけ、誠に申し訳ございません。

何卒御理解賜り、また引き続きクナイプ製品に御愛顧賜りますよう心よりお願い申し上げます。

http://www.kneipp.jp/product/list.html


ラベンダーが二度と手に入らないとはちょっとショックですね・・
ラベンダーの香料がなぜ入手できないのか理解できませんが・・

オレンジ・リンデンバウムも試したかったが、あとメリッサだけが頼り。

ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』に関するメディテーション

ずいぶん前に予告したまま忘れていたが、とある機会に書いた文章をここに転載する。


ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』に関するメディテーション


 彼は一冊の書物をとりあげて、ゆっくりした低い声を出してその一節を読み始めた。

「私が読むために本を開くとき、まず頁全体を、文字を区別することなく見ます。引き続いて私が、個々の文字と語と文章とを識別しようと欲するならば、私は個々のものに順次個別的に目を向けてゆかねばなりません。私は、一つの文字から次の文字を読み、一つの文章から次の文章を読み、さらに一つの節から次の節を順次読むことによってのみ、読み進むことができるのです」

 この小屋は静寂な森の中にあり、ときおり小鳥の声が聞こえている。その中を彼のなめらかな声が流れていった。

「しかし、主よ、あなたは同時に頁全体を見渡し、時の長さなしに読むのです。また、われわれのうちの二人が同じ頁を読む場合に、或る者は速く、他の者は遅く読むということがあるのですが、しかしあなたは、この両者のいずれとも一緒に読んでくださるのです。それゆえに、あなたは時の経過のなかで読むのであるようにも見えます――なぜならば、あなたはこの二人の読んでいる者のそれぞれと一緒に読んでくださるのですから」

 彼は、読むということについての本を読み、私はそれを聞いているのであった。

「しかし、あなたは時を超えて万物を、同時に観るのであり読むのです――なぜならば、あなたが観ることはあなたが読むことなのですから。実はあなたは、あらゆる書かれた本とこれから書かれうる本とを、時の長さなしに同時に永遠からすでに観てしまっておられるのであり、同時に読んでしまっておられるのですが」

 彼は、ここでふと読むのを止め、私のほうをちらと見た。すると、私の内なる映像の中に、ある像が浮かんできた。それはイコンであり、私はそれをどこかで見たことがあったように思った。その中からは、海の深淵を思わす青色の瞳が輝いていた。


「・・このことと並んでさらに、あなたは全ての読んでいる者と一緒にこれらの書物を順次読んで下さるのです。また、あなたは、或るものは永遠において読み、他のものは時間のなかで読んでいる者と一緒に読むというわけではなくて、このことはあなたにおいては同じものを同じ仕方で遂行していることなのです。なぜならば、あなたは不動の永遠であるのですから、あなたが動くことは不可能なのです。ところが永遠は時間を見捨てることがありませんから、時間と共に動かされるように見えるのです――実際には運動は、永遠においては静止であるのですが」

 私はこの「像」の深い眼にますますとらえられていた。そして、この「眼」と向き合い、その超越的な力を感じることこそ、いまその一節が読まれた「本」の本質に属している、という思考がよぎったのである。

 彼は本を傍らの机の上に置いて、沈黙していた。彼は、修道士のような印象も受けるが、まだ見たことがないような白い衣を着ていた。依然として私の精神内にはかのイコン像があり、そして同時に肉の眼では彼の姿が見えていた。

 私は彼に話しかけた。
 「いま、あなたが読んでくださいましたことばには、何かひじょうに強い力を感じます」
 「それは幸いです」と彼は静かな声で返答した。
 「私は、『観られている』ということ、それもまったく完璧に、くまなく、徹底的に見られているということを理解します。そしてそれが同時に『読まれていること』でもあるのですね」
 「そうですね」
 「そういたしますと、すべてはすでに読まれており、また書かれていることになるでしょうか。つまり、主はすべてを書き、そしてそれを読んでおられるのでしょうか」
 「そのとおりです」

 私はまた、イコン像の眼の中へ沈潜していきそうになった。
 すると彼が口を開いた。
 「本というのは世界のことでもあるのです。世界は神によって書かれた書物なのです。したがって世界を注意深く見ることによって、神のことばを聞くこともできるのです。このことはかの聖ボナヴェントゥラ師など、数多くの人びとによって説かれましたね」
 「はい」
 「神はすべてを同時に読みます。しかし人は時間という制約のなかで、一行ずつ読んでいくしかありません。決して、或る一冊のみで、すべてが解かれ、表されることはありません。人の知性は神の知性と比べて縮減したものであるからです。世界という本は決して読み尽くすことができないのです。世界に存在する者はすべて神聖文字です。しかし文字とは神の痕跡です。私たちは、その文字を書いた者自身に心を向けなければなりません。いうまでもなく、あなたも、また神の書いた本の一部でもあります。あなたはすでに書かれているものであり、すでに読まれております。しかしながら、あなたもすでにお感じのように、読まれていることは観られていることであり、完全に観られていることを自覚することは、あなたの魂に何か喜びをもたらすものでしょう」
 「そのとおりです。私はいま、『観られていること』を知ります。そのとき、何か私の理解を超えたものが、力強く流れいり、『溢れ』となるように感じます」
 彼はうなずいた。そして、「あなたが『溢れ』を感じるようになったのは幸いです」と言った。そして、静かな声で続けた。
 「神の計画は、永遠のなかですでに完成しています。神の書物はすでに天界において書かれております。地上のいかなる聖なる書物といえども、その天の書の不完全な写本にすぎません。しかしそれは、あなたがたの『読みうる力』に合わせて与えられた神の配慮でもあるのです。あなたがその『読みうる力』を増すとき、もう少し次元の高い書物が、地上において現れるでしょう」
 「神の計画とは何でしょうか」
 「おや、すでに『溢れ』を経験したあなたには、その永遠でもあり、また未来世でもある完成した世界が、見えていないはずはないでしょう。いうまでもなく、その時には、隠れていたものはすべて明らかになるのです。あなたにその栄光が見えていないはずはないでしょう」

 このとき私の内なるイコン像は、さらに輝きを増したようにも見えた。そのとき私の精神内では、「私の眼に対して真実はまだ隠されている」という或る痛切な思いと、或る見えざる栄光の世界を一種の力として感じることとが、同時に起こったのである。
 私の肉の眼はくらみつつあったが、そこに彼の静かな声が流れてきた。

 「あなたが世界と思っているものは世界の一部でしかなく、宇宙の無限の中では一粒の砂よりも小さいものでしょう。あなた方の持っている本には、いまだに本当の真実が書かれたことはなく、その神の書の写本の写本、ごく微かな影のようなものしか地上にはありません。それでも、地上の人が神へと帰還するその道筋は、その中にすでに存在しています。その入口を見つけるならば、あなたは、地上の本ではなく、あなたの内なる眼によって、神聖文字で書かれたものを、読むことになるでしょう。そのこともまた、ある永遠の一日において、すでに書かれているのです。あなたにはその文字が読めるでしょうか。読むということは、それを地上に降ろすことなのですね」

 私がそのことばについて考えていると、さらに彼は続けた。

 「およそ地上的なものは、神の意志の中に存在するイデアに由来しないものはありません。地球は完璧な秩序をもち、それは地球霊によって統轄されていますが、この地球霊は天使的位階のものであり、神から発出したイデアのイデアなのです。人は、その魂を浄化するため、地球に置かれていますが、永遠から地球に属するものではありません。魂はすべて天に由来するのです。神の計画において地球は神との交わりへと向かっていますが、その地球の物質界的な使命が終わるとき、人の魂はまた別の領域へと旅立つことになるでしょう。あるいは魂によっては、地球の神化の時の前に、別の世界へと移しかえられることもないとは言えませんが、こうした神の深慮については、軽々しい言は慎むべきでありましょう。もう一度最初に戻りましょう。あなたは神によって『読まれている』のであり、『観られている』のでした。その『観られていること』を知ることは、神の発出であるエネルゲイアに与ることであり、神の栄光への予感を与えられることでもあります。あなたは、その身体にまつわりついた重いものを浄化することなしに、この浄福へと到達することはできません。あなたがその『光』を知るようになると、あなたには、かつて知ることのなかった『観ること』が備わってくるでしょう。あなたはいま、『観られて』はいるが、ごく一部しか『観る』ことはできない。しかしあなたが光の中へ歩みいるとき、あなたの『観ること』は少しずつ完全へと近づくのです。その時あなたは本当の意味で『読むこと』もできるようになるのです。あなたが、完全に、永遠から『すべてを読む者』であり、『すべてを観る者』となるときも、永遠の世界では約束されているのですが、あなたにはそれは、果てしない未来とも思えることでしょう」
 彼は、ちょっとことばを切った。そしてまた、机の上の本をとりあげ、ある頁を開いて、ゆっくりと読み始めた。

 「私はこれが達成されることを予感しています、私は王冠を請い求めているのですから。主よ、私を引き寄せたまえ、――あなたによって引き寄せられない限りは、誰もあなたに到達できないのですから。引き寄せて下さるならば、引き寄せられた者はこの世界から引き離されて、栄光に満ちた生命の永遠性のうちで、神よ、あなたに絶対的に結合されることになるのです。アーメン」

 イコン像の海のような眼が光っていた。
 森の静寂のなかを、風が木の葉を揺らす音が響いた。私の肉の眼は白い衣をまとった彼を観る。その眼を観る。
 彼と私は、そのまま、沈黙のうちに座っていた。森の微かなざわめきが続いていた。
 


 

*引用は、クザーヌス(八巻和彦訳)『神を観ることについて 他二篇』、岩波文庫、49-50頁、154頁。

*もしひまがあったら、上の本を入手して、その最初のところを読んでいただきたい。この文章の「仕掛け」がよく見えてくるものと思う。

イルカくんの示唆による、アトランティスおよび銀河連邦についての普遍神学的対話

と・・落ち着いてきたと思ったら、またもやイルカくんが・・
「アトランティスについて書いてみたら?」などと言っている。そんなぶっ飛びな・・と思ったが、「この前ヨーコちゃんが遊びに来たとき、アトランティスの話が出たでしょう。アトランティスをどう考えるかは『普遍神学』のよいケーススタディーになるよ」とイルカくんは言う。

たしかにヨーコちゃんは「アトランティスってほんとにあったんでしょうか?」というソボクな疑問を口にしたわけだが、その答えはなかなか容易ではない。つまり、

「まずもって、その『ほんとにある』というのは一体どういう意味なのだろうか?」という話から始まってしまうので、こうなるともうヨーコちゃんの理解の範囲を超えてしまうではないか。

そこで仕方なく、ここで、昔なつかしいマリコちゃんを召還して、普遍神学の一端を述べることにしよう。マリコちゃんは頭がいいからね。森本先生のもとで、すでに普遍神学をディープに研究しているし。
「いいね~ これは、次の本のエナジーの先取りだよ」とイルカくんが言っている。

どうもイルカくんは、次の本に登場したがっているようである。

「ではマリコちゃん、『ほんとにある』ものは何であるのか、この問いが最もむずかしいものであることは理解しているね」
「はい、森本先生もそう言ってましたから」
「つまり、『ほんとにある』と言うのは、ある意味では『私の意識』だけなのだ、ということも聞いているね」
「ええ」
「本当にあるのは『私の意識』しかない。しかしこれは真理の一面でしかないことも事実ではある。いま、私が経験している世界は、私の意識の中にある『時空構成』が埋め込まれているからこそ、存在するものとして現象している。そういう『時空構成』の存在に気がついたのは誰だったかな?」
「古くは仏教の唯識で、最近ではフッサールですね」
「けっこう。でもその『時空構成』はどこに由来しているのか、という問いは、現象学では解決できなかった。唯識ではそれを、阿頼耶識の中に蓄積されたカルマの種子による、と理解している。しかし、そう考えるだけでは不十分だ、という議論があったね」
「はい。それはあまりに個人レベルだけを見ている議論ではないか、という話が出ていました。むしろ、人類なら人類全体で、『時空構成』が共通している原因があるのだと」
「それが、『地球意識場』の仮定だったね」
「そうです。アニマ・テラエ(地球魂)と言っていました」
「それはつまり何か? といえば、それが私たち地球人の経験する基本的な時空構成、つまりは『マトリックス』を形成し、そういう認識構造を私たちの魂それぞれに刻印していることになる。その時空構造の中で、私たちは地球の過去、現在、未来があると理解している。しかし本当には、そのような時間は、その時空構造が座標を定めることにより、存在するように見えるだけだ。本当に実在するのは、『いま』しかないのだ」
「『いま』と『ここ』ですよね」
「さらに地球に存在すると思われるものすべては、この『地球意識場』にそのイデア的根拠を有している。私たちが地球にある何ものかを認識できるのは、それが共に『地球意識場』という同一の根拠を持っているからであり、基本的な構造の相同性をもつからなのだ」

ここでイルカくんが「ちょっと言葉がむずかしいよ~」と横やりを入れる。
どうも、相手がマリコちゃんだと、つい飛ばしてしまうのだ。

「で、早くアトランティスに入りなよ」とイルカくんが言うので、そろそろ核心に入ることにする。

「ところでマリコちゃん、ここは重要なとこなんだが、『地球意識場』が生み出している時空構成は、私たち人間が経験しているものが、唯一とは限らないのではないか、という考え方をしてみることはできないだろうか?」
「どういうことですか?」
「つまり地球意識場は、私たちが経験している『物質的時空構成』以外にも、『非物質的時空構成』を作り出しているという可能性を、排除することはできないと思うんだ」
「つまり、地球も多次元だということですか?」
「そう、その通り。地球という世界は、私たちが見ている地球世界が唯一のものではないんだよ。地球は、物質次元と非物質次元の双方で成立している世界領域なんだ。そしてたぶん、非物質次元は何層にも多次元に展開されていると思う。そして、私たち人間も、物質次元のみに生きているわけではないのだね。人間も多次元である。人間の根源は地球を越えた宇宙のコアにあるはずだが、さしあたってそこまでいかずとも、人間は地球の非物質次元に対応するような部分も持っているんだ。そうした非物質次元を認識する、いわゆる『微細知覚能力』も、人間は潜在的に持っている」
「個々の人間も、地球の物質次元と非物質次元の双方に生きている・・」
「そうなんだよ。私たちはいま物質次元の地球に生きていることは確かだが、魂のある部分では、地球の非物質次元にいるんだ。現に魂の一部はそこにいるんだよ。それがふだんは知覚できていないだけなんだ」
「それをひっくるめて地球人なんですね」
「そうだ・・ここでようやく、アトランティスの話に近づいてくるが・・」
「・・そういえばアトランティスの話でしたね」
「マリコちゃんまでそう言うなって・・つまりね、アトランティス神話が語っているものは、この物質次元の地球における『過去』に存在していたものではないだろう、と思うんだ。つまり、私たちが常識的に理解している『歴史』においては、アトランティスは実在しない」
「それははっきりしていますね」
「それが普通の意味の過去にあると考える人はちょっと問題だ。つまり、アトランティスは、現在の人類が理解しているような『時空構成』の中に位置づけられるものではないんだ」
「というと、その外に?」
「そうさ。アトランティスの神話は、プラトンも語っているほど、古くから知られた神話であり、それはおそらく、人類の『太古の記憶』を伝えているのではないか、という直観は、多くの人が持っていると思う。だがそれは、『この地球』の歴史ではないんだ」
「もう一つの地球?」
「・・そう言うと、いかにもぶっ飛びみたいだが・・地球意識場の中に含まれる、様々な時空構成の一つだ。それは現在の時空構成から見れば非物質領域に見える。しかし、現在の物質とは性質が違うにせよ、その領域にあっては、それなりに物質らしき存在があった(ように感じられた)かもしれないね。つまり、アトランティスは、そういう『もう一つの地球』に生きていた時の記憶かもしれないな、と思う」
「つまり人間は、違う次元に生きていたことがあるというわけですか」
「ある意味ではね・・すべての人間がそう、とは言えないと思うが、もしかするとその一部はね・・そういう領域にあった文明に住んでいて、その領域の文明が何らかの理由で崩壊して、地球意識場の中にある別の時空領域へと魂を移行させたことがあったのではないかな」
「魂が次元の旅をするのですか?」
「もともと魂は次元間を旅する存在だよ。そんなことはあたりまえじゃないか」(ここで、イルカくんが「おおぅ!」と歓声をあげた)
「魂はもともと地球にいたわけではないのですからね」
「魂はすべて宇宙のコアから来ているんだよ。その究極においてはね。しかし、地球意識場の中にもいろいろ次元があって、その次元間でも旅をする、と考えて何か不都合なことがあるかな?」
「銀河のある星から地球に来た魂もある――なんて話ほどぶっ飛びではありませんね。まあ、いい勝負かもしれませんけど」
「星から地球へ! だって地球から星々へと旅立つのも人間なんだから、その反対があってもよかろうじゃないか。この宇宙にある非物質的存在領域は無数だよ。地球意識場の中にいま住んでいるからって、未来永劫その引力圏に生きていることもないんだよ。それがむかし、仏教で『輪廻から解脱せよ』ということばで言われていたことだよ。つまり、地球意識場の範囲内で回っていないで、その圏内から離脱せよってことさ」
「そういう、非物質領域にあった文明というのは、ほかにもあるのでしょうか?」
「さあそれはね・・アトランティスの話にしたって、べつにそれが『証明』されたわけじゃなく、これは一つの解釈にすぎんしね。でも、非物質領域に知性的意識体が存在することを認めてしまえば、この宇宙にそういう文明が存在するというのは当然すぎるほど当然の推定だよね。そして、そのような非物質的文明と何らかの交流が、この地球物質領域という時空構成に存在する文明との間にあったからといって、べつにそれほどぶっ飛びとも思わないよ」
「先生の価値基準は、人とはちょっとずれますけど・・」
「森本先生も言っていたろう? この宇宙は、無限の意識場が互いに交流しあっている、巨大な『交響世界』なんだ。それが仏教において、インドラの網とか、華厳とかで表現されてきたことなんだよ。いまこの瞬間にも、私の意識場は、宇宙のさまざまなエネルギーとの共鳴のうちにあるんだ。だんだん敏感になると、それに気づいてくるよ」
「無限の交響・・」
「交響だよ。大調和だよ。それが、銀河の回転する壮大な響きなのさ」
「交響する意識場・・ですね」
「そうした無数の意識場がね、ある次元でつながっている、そういう次元もあるのさ。そこではみなが一つの意識場をつくるんだ。それがすごい光なんだよ。それがたぶん『銀河連邦』の名で呼ばれているものなんだ、と思えるんだ。それはSFの世界じゃない。宇宙の深奥にたしかにその銀河連邦があるのさ。その銀河連邦の壮大なる光を、人間もいつかは見ることになる。それが地球意識場の『開国』なのさ。そこに新しい時代が始まるんだよ。その時私たちも、その銀河のコアへと旅立つのさ」
「美しい物語ですね・・」

ここで、イルカくんの楽しげな笑い声が聞こえた。
「楽しいね~~」イルカくんはかなりごきげんだった。
「きょうはこんなところでいいかい?」と聞くと、「ま、そんなものかな」と言う。
ということなのでこの辺で終わりにする。
最後に、イルカくんいわく――「では、また会おう! でも、くれぐれも、あまりにマジメに受け取らないようにね」

レイキテキストについて

ハイの状態は少しおさまってきた。しかしこのエネルギーはある程度恒久的なものだろう。じょじょになじませていく、という感じである。

イルカくん一流のジョークはお楽しみいただけたであろうか?

さて、レイキの話だが、レイキといっても私は専業ヒーラーのようなレベルのものは提供できない。その分値段も安く設定される。

講習ではなぜか、望月さんの『癒しの手』が事実上のスタンダードとなっていて、レイキ講習のテキストといってもほとんどこの本と同じ内容のものも多いのである。

そこで私は、似たような内容のテキストを作るよりは、この『癒しの手』をあらかじめ購入して読んでもらい、自分ではポイントだけの解説をすることにしたい。
ただこの本は、ちょっといいことばかり書きすぎているきらいがある。たとえば「一回習えば能力が落ちない」というのは言いすぎであって、これは運転免許と同じようなもので、まったく使っていなくても、ゼロにはならないが、毎日やっているとくらべれば雲泥の差ができることは事実である。邪気を受けにくいといっても、まったく防御が必要ないというわけではない。ヒーラーとして成長するためにはそれなりに「鍛錬」も必要だということがあまり強調されていないので、その点には注意を要する。しかし全般的には、入門書としてこれを超えるものはなかなか出ないということも事実である。とりあえず一度は読むべきだろう。

そもそもレイキはそれだけでプロのヒーラーになるためのものではないと思う。これはアマチュアヒーラーを多数養成し、ある程度のヒーリング能力と、高次元の光とつながるというきっかけを、多くの人に与えるためのものである。レイキヒーリングで商売として成り立たせるためには、その他の技法と併用したり、また私の師匠のように、カルナレイキを使ってパワーアップしたりすることが必要であるらしい。レイキのエネルギーだけではなかなかプロのレベルにはならないらしい(養成のシステムがきちっとしていれば別だが・・そういうところもないわけではないでしょうね)。だからアチューンメントといっても本格的なヒーラー養成とは違う。ちょっと上達した人が初心者を教えるという程度のことである。しかし臼井レイキからスタートして、いろいろ「深める」ことはできる。

深めるということで発展系レイキというものがあるわけだが、これはまず、カルナレイキとセイキムレイキが定番である。まずここから始め、十分直観がとぎすまされてきたところで、その他「ご縁のあるもの」に進んでいくのがよろしかろう、と思う。しかし中には、エネルギー関係の資格を30以上も書き並べている人がいたりするが、それはさすがにどうか? まあそこは、各自の内的直観でご判断されたい。

さて、もう一冊、レイキのテキストとして土居裕『癒しの現代霊気法』をあげたい。こちらはレイキの「光とつながる」面が強調されており、瞑想法などもある。『癒しの手』とあわせてこの本を必読に指定したい。つまり講習代は安いが、このテキスト代がべつにかかる。しかし、ほとんどの人は『癒しの手』くらいは読んでからアチューンメントを受けようとするのだし、それで講習のテキストがほとんど同じ内容だったらどうかと思うだろう。その意味で、初めからこれを買っておいてもらって、テキスト代分を安くする方がよいのだ。

4777105725癒しの手
望月 俊孝
ゴマブックス 2007-01-18

4906631347癒しの現代霊気法―伝統技法と西洋式レイキの神髄
土居 裕
元就出版社 1998-05

それにしても・・私がこういうことを平気で書けるというのも、石川勇一さんの「スピリチュアル・ヒーリングをやります」の宣言に衝撃をうけたせいでもある。相模女子大学准教授(だったっけか?)というお人ですからね・・ 言うだけでなくて現実にやっているわけですから・・「そこまで言っていいのか」と、パワーを与えられたのは事実で・・。閑な人は検索してみんさい(ここでも以前に書いた――こちら)。それと、興味があれば石川さんの本も読んでみれば? ・・と、これは、ささやかな「お返し」である。

クナイプ・バスソルト

最近の気に入りは、クナイプのバスソルトの「メリッサ」である。これは、気分がリラックスするのと体が冷めにくくよく暖まるのとでたいへんよろしい。同じバスソルトのラベンダーもいいが、暖まり効果はメリッサが上回る。

このシリーズ、ソルトとアロマのパワーが合体しているというなかなか強力なものだが、人によっては、着色料が使われているのが気になるかもしれない。しかし、このグリーン蛍光色のお湯というのも癒し効果があることは否定できず、一長一短だが、私としてはメリットの方が大きいと判断している。

このように、心身(魂と肉体)のバランスを維持するためには「細かいノウハウの積み重ね」が必要になる。とかく意識拡大のぶっ飛びばかりが注目されるが、同時に、このようなノウハウを積み上げていくことも大事なのである。そういうことの大切さを知らない人は、ペーパー神秘主義者であろう。宇宙旅行は、可能な限り万端の準備を整えて取り組むべき行為である。

しかしメリッサの香りは万人が好むというものでもなさそうなので、まずはお試しセットから始めるのがよろしいだろう。

B000FQOJ74クナイプ バスソルト メリッサの香り 6包入
クナイプ 2002-10-28

レイキについて考えること

アチューンメントは準備中だが、とりあえずは自宅二階で始めることになる予定である。人数がまとまれば東京でスペースを借りて・・ということも不可能ではなかろうが。

レイキの料金は一般に高すぎるのではないかという声がある。レイキで生計を立てようと思えばある程度の値段になるのはしかたがない。そのかわり、専業ティーチャーは一般(兼業)ティーチャーではできないサービス(アフターサービスを含め)を提供して、差別化するしかない。よく探せば安くやってくれる個人ティーチャーもWEBでたくさん見つかるのだから、選ぶ人次第である。ただし、ファーストからサードを一気にやってしまうのは避けること。好転反応が出すぎて大変になることがありうるからだ。

しかし本来、レイキというのは、プロの人にお金を払ってヒーリングを受けるというよりは、誰でもヒーリングの能力を身につけて、自分や家族などをヒーリングする、そのような人を世の中に増やしていくためにあるのではなかろうか。だからやはりアチューンメントを中心に考えるべきだと思うのだ。ヒーリングを受けるのは、そのエネルギーとはどういうものであるのかを実際に体験して、アチューンメントを受けるかどうかを決めるというためという意味になる。もちろんセルフヒーリングができたとしても、人にやってもらうのはまた違うので、たまにはそういうのもいい。プロもいていいのだが、アマの裾野を広げるということが大事なことだ。

私が疑問に思っていることは、ファーストからセカンド、サードとなるたびに料金が高くなるということである。これはどういう理由があるのか? 私は、料金を取るのは、物質次元でのヒーラーの肉体と時間の使用料、場所などのセッティングのための費用ということだと思う。エネルギー自体は誰かのものではないのでお金を取ることはできない。あくまで物質次元でいろいろやることについてのコストに対するものである。

それでいくと、ファーストとサードで、べつにやることがそれほど変わるわけではない。むしろファーストの方がたいへんともいえる。物質的なコストという点ではあまり変わらないのであるから、サードの方を高くする理由はないように思える。サードを高くすると、それだけ付加価値がつくわけだろうが、そもそもレイキとは根本的にはサードのエネルギーを受けるためのステップだという私のとらえ方からすれば、サードはファーストと同じ料金にして受ける人を多くするべきではないかと思う。従って私は、ファースト、セカンド、サードを同料金にするつもりだ。なおティーチャーコースについては当面は考えていない。世のティーチャーコースはちょっと安易に行われすぎている面もあるようだ。

まあ、いろいろ師匠とも相談しながら・・である。それに先だって、遠隔レイキのモニター募集をしようかという計画もある。

きょうはあんまりぶっ飛びじゃなくて期待はずれでしたかね?(^^;

不思議な日常

最近書いたものを読み返すと、自分でもびっくりである(笑)
これはいったい何だ? ・・どうも、自分の中で何かが「解除」されてしまったようなのだ。

気がつくと、いきなり、なくなっているので、ちょっとびっくりだが・・まあいいか。こちらの方が「自由」なんだから。

・・ということらしいのである。しかし、いくら「自分の真実を言い表すこと」がテーマとはいえ、あまりに急激ですからね(哄笑) なんか、書き出すと多次元性が活性化するので、日常的な自分とは違うレベルの自分のエネルギーが強くなってしまう。慣れていないと、いつのまにかシフトしてしまうので、ちょっと大変だ。こういうことは、まったく初めてというわけではないのだが・・

このところイルカくんをつけている(コルテのイルカペンダントのこと)。なんと言ってもイルカくんは、質問をするといろいろ答えてくれるので面白い。イルカくんといっても男性ではない。どうも中性ぽい。
というのをもう少し説明すると、多次元的な意識のある領域で、「イルカ」という言葉で象徴される、あるエネルギー領域との共鳴が起こっているような感じだ。つまりどこかでつながっているような感覚があるのだ。イルカといっても個々のイルカではなくて、たぶんシャーマニズムでは「イルカの精霊」と呼んだような、非物質次元にある意識場なのであろう。もしかするとこの動物は、非物質次元の方をメインとして生きているもので、肉眼で見ることができるのはそのほんの一部なのかもしれない。・・というようなことは、人間も同じだろうと思うが。

クジラとなるとこれは大変である。内的アドバイスに従って、まずは10分くらいから慣らしていく。重低音のような感覚がやってくる。

きょうは肉体レベルでは休養日に当てて、だいぶ回復してくる。
秋の空に広がるうろこ雲を見ながら露天風呂に入ったのである。

それから、以前も書いたことがあるが、こっちのアルバムである。

B00000I57BLiquid Mind III: Balance
1999-03-02

しばらく品切れだったが値段が安くなって再発売したようだ。
(追記:と、思ったら何かの間違いだったのか? ・・でも、マケプレでもいいし、HMVでも買えますよ)

なぜかこの曲はイルカ波動と妙にマッチする。これをかけながら気功とかエネルギーワークなどをしているとどんどん意識拡大してくる。非物質次元の広大なブルーの宇宙、そこを自由に泳いでいるイルカ、というようなイメージがぴったりする。

あんまり拡大しすぎることがあるので、初めは、翌日がお休みという日に試してみることをすすめたい(笑) 波動に敏感な人は驚くはず。敏感でない人も、よく眠れるようにはなるだろう(^^;  前も言ったが、これほどのヒーリングミュージックはそうあるものではない。もしアチューンメントをするとしたら、BGMは迷わずこれになるだろう。

ヘミシンクの「Higher」も最近よくかけているんだが。

最後にイルカくんからのメッセージ(?)らしきものを書いてくれと言うので、書くことにする。
「わたしたちはどういう世界に生きているか知っている?
 どうして自分に制限をするのだろう?
 あなたは自由なんだよ。
 わたしたちの世界を一度みてごらん」

きょうもぶっ飛びだったな~
マジメな人がひっくり返ったら、それはそれで面白い(^^)

舞文曲筆的メッセージ

このところ文字を書こうとすると思わずカゲキな内容になってしまう・・すでに一部の人の頭の中では、私は「いってしまった人」に分類されているのかもしれませんな(笑) しかし事実、私は「行こうとしている」のだからしかたありません。どこへ行くかって、地球の外である。私は、もう地球には戻ってこないようにしようと決めた。つまり、地球には二度と転生しないということ。そのような意志の下に残りの人生を生きようと決めたのである(もちろん、これはカルマ的な転生という意味である)。

おいおい、そんなことを書いて大丈夫かよ・・と心配している人もいるでしょうね(笑) しかしどうも、私の胸に下がっているイルカくんが、「自分の真実の中を生きる限り、何も恐いものはないんだよ」などと言うのであります。「あんまり真剣に考えすぎなくてもいいんだよ」などともおっしゃいます。しかしイルカくんの優しさ、地球人への愛はすばらしいものですなあ。

私はいま、肉体的には、かなり疲弊している。しかし精神的にはとてもクリアーで、こんな感じである。つまりは「ソー状態」とも言うのかもしれないが(笑) もちろんこの文章は、いわゆる「舞文曲筆」であります。何事も、あんまりまじめに受け取りすぎないように、とイルカくんのアドバイスです。

銀河への望郷

「コンタクト」という映画。
なんといっても、「銀河連邦への地球の開国」をテーマにした映画といったらこれである。
またスピルバーグの「未知との遭遇」もそうした作品。

「その日」は、いつかは来る。必ず来るのだ。地球人が、銀河文明というものの実相を知り始める日が。もー、ワクワクしますね。
2012年がそれなのだ、と信じている人もいるらしいが、それについては、ノーコメントである(笑)。

しかし、この感覚は何であろうか。その、宇宙のはるかな深奥への、止めようもない「望郷」の感覚は・・ ほんとうの「故郷」についての、かすかな記憶・・もう少しで思い出せそうで、完全に思い出すことのできない「あの日々」のこと。

みなさんも「あの日々」に私といっしょにいたのでしょう?

そこへのゲートは、もう少しで見えてくるのだ。

B00005HKXLコンタクト 特別編
ジョディ・フォスター ロバート・ゼメキス
ワーナー・ホーム・ビデオ 2000-08-25

それにしても・・と、クジラペンダント

しかし・・この前、連休だったので、少し日常から離れ、いつもより深く「解放」してしまった。そのエネルギー体の拡大はたいへん美しいものであったが、今週はその反動からか、仕事をこなすのがやっとだった。少し休養しなければならない。サポートグッズなどによる対処は、怠りなくやっているつもりだが。

・・と思うのだが、気がついたら、コルテの「クジラペンダント」を注文してしまっていた。実はイルカはずいぶん前から持っていて、時々つけていた。しかしこれはハートへダイレクトに来るので、敏感な体質の私は、これをつけているとあまりにハートが刺激されすぎて、しばしば動悸がしてしまう。ということであるのに、それをはるかに上回るクジラとは、何とも無謀の極みではなかろうか(笑) しかしどうしてもこのクジラのエネルギーのものすごさを感じてしまったので、首にかけないまでも手元に置くくらいはよかろうという「内的メッセージ」に従って買ってしまったのである。しかしほんとに、クジラエネルギーの「大きさ」はハンパではありません。宇宙です。

コルテのイルカ、クジラペンダントはアマゾンでも売っているが、前に書いたように、エネルギーグッズ専門店で買うのがおすすめということである。

邪気と光の世界――レイキについて

私の知っている人の話だが、自己流?で遠隔ヒーリングをしていると(少なくとも専門のヒーラーの指導は受けなかったらしい)、クライアントからものすごい邪気がどーんと来てしまって、それを処理するのに大変だったという話である。

どうなのだろうか・・少なくとも、エネルギー的にオープンになり始めた時期は、そのように「邪気スポンジ」状態になるということも一時的にあるというのは、誰しもあることなのだろうか? そういう時期を通過すると次第に「受け」は少なくなっていくが、皆ある過程で「受け体質」になるのを経過するのはあたりまえで、それを七転八倒して乗り越えねばならない、という考え方がある。

たしかにヒーリングについて少しばかり習うと、すぐに「受け体質」になってしまうということはある。中には生まれた時からそういう体質で、それはどうしようもないと思っている人もあるだろう。

しかしレイキでは「相手の邪気はほとんど受けない」あるいは「受けにくい」と言われている。まったく受けないというのは言いすぎで、邪気に対する配慮を怠ってはならないが、それでも全然受けにくいということは事実である。相手の巨大な邪気がどーんと来てひっくりかえるなどということは、レイキではまず考えられないことである。なぜこのようなことが起こるのか? たぶんそれは、そのヒーリングにおける「場の設定」に問題があったのではないか、とも考えることができる。やはりその設定のどこかに、癒しを高次元の意志に委ねるという要素が不足していたのではなかろうか? つまり、神の光を受けようという思いよりも、サイキックヒーリングが面白くてしようがないという心の方が強くて、それが邪念となってしまったのではないか。

だからレイキでも、委ねる意志が弱くて、自分がやってやろうという気が強くなると、それだけ危険になるということは考えられよう。

私はレイキについて、本質的には、癒しが起こるかどうかということもさることながら、「高次元の意志(光)に委ねる」ということを学ぶツールとしてあると考えている。外気功のような力が簡単につくというのはあくまで多くの人を引き寄せるための方便・・と言ってはいいすぎではあろうが、それは入口であって、最も重要なことは「サード」にあると思う。そこまで行って初めてレイキの本質が少し見えてくる(同じことは土居裕氏も言っている)。サードにおいて知ることができる巨大な光の世界こそ、臼井先生が本当に開示したかった世界ではないのだろうか。それほどまでにその光の世界は偉大なのである。そのような巨大な光が根本的にそのヒーリングの場を支えている。そのようにレイキヒーリングは「場の設定」が行われているのである。そのヒーリングは高次元の意志が介入し、癒されるべきものはそこで癒されるし、そうでなければ、高次元から見て最善のことが起こるということなのである。

つまりは、「巨大な光の世界とのエネルギー的な回路を形成する」ということである。これは密教の現代版・大衆版である。真言密教というものも、その本質は、仏尊の世界とのエネルギー的回路を開くということであったに違いない。たとえば真言や印というのは、その高次元エネルギーを呼び出すための暗号なのである。こういう基本的な密教の原理をレイキも使っている。ただしそれはあえて、大衆化され、万人に開かれたものとなった。そこで残念ながらそれを商業主義に用いる者も出てきてしまっているが、それは大衆化の避けられない一面である。そのことも見透した上で封印が解かれたのであろうと私は思っている。レイキの彼方に光の世界があることに気づいた人だけがそこに入ればいいことだろう。

私も内的なメッセージに従って、そろそろヒーリングやアチューンメントを開始しようかと計画している。その際は、上のようにレイキを理解することに賛同する人のみを対象にしたい。レイキは、誰に受けても同じということは決してない。マスターのエネルギー状態は確実にそこに伝達される。安いとか近いとかいうことではなく、確実に自分の求めるレイキを提供してくれるティーチャーを探す必要がある。

私は自分のトレーニングとして行うので、ほとんどモニター価格のようなものであり、かなり営業妨害的な安値になるかもしれない?(笑)

エナジー変化?

敏感な人はお気づきかと思うが、10月5日から若干、エネルギーが変化している。

意識の多次元化が一つのステージに入ったようでもある。

そこで送られてきているメッセージの一つは「自己の真実を言い表すこと」である。

その結果、「地球中心主義の終わり」のように、一見ぶっ飛びにも見える(しかし先人はみな知っていた)ヴィジョンをあえて書いたということにもなったのである。

今後は、レクチャーのセッションなど、現実的にもいろいろ展開していきたいと思っている。
「銀河意識への目覚め」をテーマとした次作の構想も、始めねばならない。

銀河意識とは

つまりこれではないか・・と思いついた。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」である。

雨の一日

きょうはちょっと、浄化反応が出ているようなので、FESのレメディーと「葛根湯」である。葛根湯は意外に効くのである。

しかし急に寒くなった~

地球中心主義の終わり

べつに私はケン・ウィルバーという人を「仮想論敵」にしているわけではないのだが、それをダシにして語るには有用なので、つい触れてしまう。ウィルバーは最近では、「この肉体をもちながら悟ることが宇宙でいちばん進化したことだ」と信じているらしい。私は、自分が絶対に正しいという立場からものを言っているのではないので、それは間違っているとか、ばかなことを考えるなあ、などとは言わない。ただ、私にはとても理解しかねる発想だということである。つまりその「地球中心主義」はどこから来るのだろう? というフシギさを感じてしまうのである。地球が宇宙でいちばん進化した星であるなどと本気で信じることができるという想像力とはどういうものなのか、それこそ私の想像の外なのである。

キリスト教でも伝統的には、この地球上に神の国が実現することが世の終末である、と信じていた。言ってみればこれも地球中心主義である。私は教父たちの思想を深く尊敬するものだが、この終末論思想は、たしかにあるイデーの本質から発しているものの、表現としてはすでに別の形が要請されているのではないか、との感触を持っている。

地球の進化はどこへ向かっているのか? これはトンデモでもなくぶっ飛びでもなく、まじめに言うのだが、地球はやがて「銀河連盟」へ開かれていくのではなかろうか。いや、これではどう見てもぶっ飛びである。そこでさらに説明するならば、地球人的な意識の制約を脱して、意識の多次元性へ目覚めていくとき、地球人はついに、非物質的宇宙の知覚能力を次第に発達させ、宇宙の深奥にある、めくるめく「意識の共同体」の世界に気づき、その仲間となるだろう、という意味である。宇宙人とは非物質領域にいる意識体のことであるなどというあたりまえのことが人々にわかってくるのも、これから何百年もかかることではないと思う。いつかは地球も「開国」するのである。もっとも、その時期まで、私が地球生命圏につきあっているかどうかは定かではないのだが・・ 以上のことはどう見てもぶっ飛びと見る人も多かろうが、もうここまで書かないと、時代の先端を切り開いてはいけない時期に来たのではないだろうか。それは、銀河、そして宇宙というものの「ほんとうの美しさ」を知るということであろう。私はこの発想は、プラトン主義哲学に忠実なものだと信じている。宇宙の深奥にある巨大な輝きを見たことのない人が、プラトンを論じてもいいものなのだろうか。

宇宙の美しさを見よ――それが根本なのである。

これはべつに、グラウンディングを軽視しているわけではない。地球にいる以上は地球人の常識に従い、堅実に生きる必要があるのは当然のことだ。地球を去るまでは地球人なのだから。地球にあっては地球人として生き、プレアデスに行けばプレアデス星人として生きればよいのである。私も、この地球に生きながら多次元的意識を持つようになるにはどのようにすればよいのか、日々研究中である。

しかしながら、私は地球人であるが、同時に地球人ではないとも言えるわけである。それは事実なのであるから、否定するわけにもいかない。そのような意識で生きるということは、今後の地球人にあっては徐々に、あたりまえになっていくと思う。(なお、キリスト教新約聖書に、「私はこの世に生きているが、この世に属してはいない」という意味の言葉が出てくるが、これも同じことを言っていると思う)

話をウィルバーに戻せば、私はそうした「地球中心主義」の終わりがもう要請されていると思う。人類の思想は宇宙へ向かっていかねばならない。もちろん科学の描いている物質宇宙ではなく、多次元的なエネルギーの層をなす宇宙である。宇宙のコアへ思いをいたすのだ。地球人が、そうした多次元宇宙へ目覚めていくこと、それが「開国」なのである。その時、地球は真に銀河の正式メンバーとなるであろう。それが、アーサー・クラークではないが、「地球の幼年期の終わり」なのである。人間は、地球を超え、星々へと旅立つのだ。いつかはそういう日も来る。人間は地球を超え、星々をめぐり、ついに永遠の「源」まで旅をするのである。これってすでにダンテの神曲・天国編に書かれていなかったか?

私の耳には、銀河の荘厳なる響きが聞こえるようである。

エネルギーグッズお買い物

というわけで新たなエネルギーグッズを買おうとしたが、アマゾンでも売っている。アマゾンだと安いし送料無料なので注文しようとすると、私の「インナーヴォイス」がダメ出しした。「アマゾンではなく(エネルギーグッズの)専門店で買いなさい」という。だって値引きしてないし送料もかかるしでだいぶ高いじゃん・・と文句を言うと、「まあどうしてもそこで買いたいというなら止めないけど」と言うが、意見をまげない。アマゾンとかケンコーコムなどでこれまでも買って問題はなかったが、こういう微細なエネルギーに関係するものになると、お店や倉庫での「保管状態」が気になるところではある。そこでエネルギーグッズにふさわしい適切な管理がなされているか? そこに一抹の不安があることも事実なのである。まあ多少のことならば、余計なエネルギーがついていたとしても浄化することくらいはできるが、そういうことがないのに越したことはない。数百円高いだけのことだ。フラワーエッセンスならフラワーエッセンスだけを扱っている小規模なお店で、店長も自ら使っている・・というところだと安心なのはたしかである。 

微細エネルギー生活

多次元的に拡大するエネルギー・・いろいろやっていると、エネルギーレベルの展開に肉体次元がついていかないことがある。このところ、そういうことも危惧される状況になってきたので、早めに対策を講じる。前にもある程度の効果をあげた、FESフラワーエッセンスである。こういう状況に効きそうな4種類のエッセンスを選び、ミネラルウォーターとブランデーを混ぜたものに入れる。専用ビンをはじめ、必要な品はすべてそろっていた。去年買いそろえた時のままだから、当然であるが。

フラワーエッセンスやオーラソーマなど、微細次元に働きかけるエネルギーグッズをあたりまえのように使う生活というのは、何となく意識も変化してくる。自分が多次元的存在であることが自明のように思え、それが日常生活の一部となってくるような感覚になってくる。これはルネサンスの用語でいえば「気息魔術」ということになり、イタリア・ルネサンスの哲学者フィチーノがやっていたことは、現代でいえばフラワーエッセンス、オーラソーマ、風水、パワーストーンなどと原理的にほとんど同じことである。

地球のコアにクリスタル的なものがあるという話も、聞いてなるほどと思ったが、考えてみれば、ある次元では私は前からそのことを知っていたかもしれない。非物質次元の地球のコアにエネルギー的に接続することは、気功では「地の気」とつながるという言い方で広く行われていることであり、そこで感じるエネルギーの質は、「クリスタル」という言い方がぴんと来るものではあるのだ。そういう意味である。

愛と地球的条件付け

モーエンの『純粋な無条件の愛』の後半で、面白い記述がある。モーエンの前に妖艶な美女が現れ、非物質的なセックス、というかエネルギー融合のエクスタシーを感じるという機会があるが、モーエンはそれは不倫ではないかと思って「倫理的葛藤」を感じてしまうという場面である。しかしやがて彼はそれをのりこえて、非物質界における愛のあり方について学んでいく、というストーリーである。

神との対話シリーズをはじめ、精神世界本の多くでは、「セックスはすばらしい」という賛歌がやたら強調されている場合も多いが、それはセックスを汚いものとして抑圧してきたキリスト教文化へのアンチテーゼとして言われているものであって、もともとそういう抑圧的な文化のない国の者からすると、なんでそんなにセックス賛歌にガンバルのか、という感覚が出てきてしまう。

肉体的な性は、たしかに抑圧すべきものではなく、人間経験の一つとして経験すべきものである。しかしながら、人間がやがて地球を飛び立って宇宙へ向かっていこうという段階になれば、卒業すべきものであるということも明らかであろう。モーエンの記述は、そういう段階で起こることについて、示唆を与えるのである。

そういえば思い出したが、『気功革命』の中に、肉体を触れあわずエネルギー体だけで融合するという非物質的交わりという方法について書かれていた。この方法は、肉体的な関係には「倫理的葛藤」が生じる場合にふさわしい。そして、もしうまく成功するならば、エネルギー的融合のエクスタシーは、肉体的なそれの比ではないのであろう。

プラトン的美学の原則として、「地上世界のものも美しいが、それは、永遠の美の世界の反映として、美しいのである」ということがある。融合についてもこのことはあてはまるのである。たまには、永遠の世界における愛の融合とはいかなるものであるか、思いをはせることもいいのではなかろうか。

肉体的な性の最大の欠点は、「一時期に一人としかその関係を保てない」ということである。もちろん一夫多妻などの文化もあるから、正確に言えば「社会的に容認された枠組みの中でしか」などと言うべきであろうが。このように性関係は厳密にコントロールすることが多くの文化での倫理コードとなっており、それに違反する行為は内面的な葛藤を生じてしまう。苦しみを伴った愛というものなってしまったら、それは無条件の愛からはだいぶ隔たってしまうのは明らかだ。

結局それは、「物質次元の地球界的な条件付け」が、愛の関係にも及んでいるからなのだ、としっかり認識する必要があると思う。これは坂本さんも何回も書いているが、物質界とは要するに「生き残ることと子孫を残すこと」が絶対的な価値観となるようプログラムされてしまっている世界である。社会がなぜ、結婚という制度で性関係をコントロールしようとするのかといえば、肉体的な関係は通常、子どもを生む行為であるので、性関係が乱れるということは、「これはいったい誰の子なのか」という問題が生じてしまい、子孫存続という基本的な秩序を乱してしまうからである。

肉体的な関係とは第一に子どもを生み出す行動である。避妊法があたりまえになってしまったので、そういう最も基本的なことを忘れがちになるが、性とはそのような、子孫存続という地球的なプログラミングが「愛」と結びつけられているという、「愛」の存在形態としては特殊な、地球でしか通用しない形である。性的な欲求を持つということは、自分の中に奥深くに組みこまれている地球的なプログラミングが作動している、ということである。なぜ「愛」にそういうプログラミングが結びつけられるというシステムになっているのか、といえば、それは地球人が「愛について学ぶためのシステム」なのだということも明らかである。つまり、学習のために、「わざと、愛に制限がかけられたシステムに入った」のが地球人なのである。

ま、まだ地球人である以上、その地球的倫理コードを無視した行動はできない。しかし、地球を超えて宇宙へという視野で見れば、非物質的な世界での愛について学ぶということも、そろそろ必要になってきているのだろう。モーエンの記述はそんなことを考えさせる。だから結局、セックスは善だと声高に言うよりも、パウロや教父たちのスタンスが最も妥当なものだと思う。つまり、結婚というルールで生きる人を軽蔑したりはしないけれど、もし可能ならば、そういう物質的な愛の条件付けからは自由になった、無条件の愛のみを追求する人生ならばよりよい、ということである。仏教でも同様で、「清僧」の方が霊性が高いと考えられていたものだが・・もっとも、これは魂次元の話であって、形ばかり独身でも心の中はそのことばっかり、というのでは逆効果である。(おそらく、そういう肉体次元の愛も十分に経験した上でないと、そういう道に行くのは無理があるのかもしれない。パウロのような人はそれまでの転生で十分に経験したのであろう。アウグスティヌスは前半生で、社会的には承認されない形で、おそらくは身分の低い女性と、事実上の結婚生活をしていたのだが、その経験も聖人を生むためには、必要だったのであろう。彼は『告白』の中で、ものすごくそれを懺悔しているが)。

みんながそういうことをしたら地球人類は存続しなくなってしまう・・などと心配しなくてもいいのである。人間はいつか死ぬように、地球人類だっていつかはいなくなるものである。地球という巣から飛び立つ時期が来るのなら、それを押しとどめようとはしないことである。存続を絶対的な価値とすることがまた、地球的な制限である。

本来、愛の自由さは、子孫存続という地球的条件付けのなかに押しこめられるようなものではない。そんな不自由な世界で生きていたら、葛藤が生じるのもあたりまえのことである。そうした苦しみをあえて経験して、愛について学ぶためにそういうシステムが存在していたのだと思う。しかし、そういう地球というシステムはいつまで続くのだろうか? 自分もいつかは地球を越えて宇宙へ巣立っていく、と考えて生きること。そういうヴィジョンをもつということに、私は関心がある。

とりあえず、『気功革命』を参照して、エネルギー体の融合というのを練習してみることから始めてはいかがであろうか?(笑)

せっかくなのでリンクを
(『気功革命』については前にくわしく書いたので、こちらこちらを参照)

4434044303気功革命―癒す力を呼び覚ます
盛 鶴延
コスモスライブラリー 2004-05

自分の真実を言い表すということ

ヘレニズム時代のキリスト教思想、つまり「教父」の思想について話をした。
存在の根源には、人間の想像を超える巨大な「愛」があるということ、そして、私たち人間が「愛」を感じるとき、その愛を感じる能力は、その宇宙の根源である愛から贈られてきているものであり、また、その巨大な愛の「分かれたもの」としてあり、愛を通じて私たちと宇宙の根源はつながっているのだということ・・そしてまた、私たちが「私はここに在る」と言いうること、つまり、私が存在しているという事態そのものが、宇宙の根源にある「私は在る」という宇宙的な自己の分岐として、贈られてきているものだということ・・

ここでの立場上、私はこの思想が「真理」だという立場ではなく、あくまで教父たちはそのように宇宙と自己とを理解した、という立場で話をしていた。しかし私は、これらの言葉に「真理」の響きが含まれていることを感じていた。教父たちの思想はそれほどまで偉大であり、現在の私たちに必要なイデーのほとんどが含まれていることを、確信せざるをえなかった。そして、このような言葉を発することができるということは、「自分の真実を言い表すこと」でもあった。そのように、自分の真実を言い表すということはいかに気持ちがよいものであるか、そこに光が到来するものであるか、も感じざるをえなかったのである。というわけで私は、自分の真実を言い表すというテーマへ向かって、一歩をすすめることができたような気がする。

地球のコアのクリスタル

かなりのぶっ飛びぶりを発揮した坂本さんの新刊だったが・・(これをぶっ飛びと思わなかったら、あなた自身が相当なるぶっ飛びであることを意味するだろう)

そこに、地球のコアはクリスタル、つまり結晶状になっているという話が出ていた。ある程度科学的根拠、つまり物質次元で対応する状況もあるようだが、基本的には地球の非物質次元の話である。

で、私にはこの、地球の非物質次元にクリスタル的なものがあるというイメージは、とてもしっくりきた。というのは、やっている気功法で、天根、地根へと気をつなげていくのだが、地球のコアにクリスタルがあるというイメージを抱くと、ひじょうにうまく地の気とつながることができるのである。そして、地球のコアにあるクリスタルと、天界(あるいは銀河のコアか?)にあるクリスタルをエネルギー的に結ぶというイメージ(気功では「意念」というが)でおこなうと、かなりパワーアップするのである。物好きな人はお試しあれ??

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