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愛と地球的条件付け

モーエンの『純粋な無条件の愛』の後半で、面白い記述がある。モーエンの前に妖艶な美女が現れ、非物質的なセックス、というかエネルギー融合のエクスタシーを感じるという機会があるが、モーエンはそれは不倫ではないかと思って「倫理的葛藤」を感じてしまうという場面である。しかしやがて彼はそれをのりこえて、非物質界における愛のあり方について学んでいく、というストーリーである。

神との対話シリーズをはじめ、精神世界本の多くでは、「セックスはすばらしい」という賛歌がやたら強調されている場合も多いが、それはセックスを汚いものとして抑圧してきたキリスト教文化へのアンチテーゼとして言われているものであって、もともとそういう抑圧的な文化のない国の者からすると、なんでそんなにセックス賛歌にガンバルのか、という感覚が出てきてしまう。

肉体的な性は、たしかに抑圧すべきものではなく、人間経験の一つとして経験すべきものである。しかしながら、人間がやがて地球を飛び立って宇宙へ向かっていこうという段階になれば、卒業すべきものであるということも明らかであろう。モーエンの記述は、そういう段階で起こることについて、示唆を与えるのである。

そういえば思い出したが、『気功革命』の中に、肉体を触れあわずエネルギー体だけで融合するという非物質的交わりという方法について書かれていた。この方法は、肉体的な関係には「倫理的葛藤」が生じる場合にふさわしい。そして、もしうまく成功するならば、エネルギー的融合のエクスタシーは、肉体的なそれの比ではないのであろう。

プラトン的美学の原則として、「地上世界のものも美しいが、それは、永遠の美の世界の反映として、美しいのである」ということがある。融合についてもこのことはあてはまるのである。たまには、永遠の世界における愛の融合とはいかなるものであるか、思いをはせることもいいのではなかろうか。

肉体的な性の最大の欠点は、「一時期に一人としかその関係を保てない」ということである。もちろん一夫多妻などの文化もあるから、正確に言えば「社会的に容認された枠組みの中でしか」などと言うべきであろうが。このように性関係は厳密にコントロールすることが多くの文化での倫理コードとなっており、それに違反する行為は内面的な葛藤を生じてしまう。苦しみを伴った愛というものなってしまったら、それは無条件の愛からはだいぶ隔たってしまうのは明らかだ。

結局それは、「物質次元の地球界的な条件付け」が、愛の関係にも及んでいるからなのだ、としっかり認識する必要があると思う。これは坂本さんも何回も書いているが、物質界とは要するに「生き残ることと子孫を残すこと」が絶対的な価値観となるようプログラムされてしまっている世界である。社会がなぜ、結婚という制度で性関係をコントロールしようとするのかといえば、肉体的な関係は通常、子どもを生む行為であるので、性関係が乱れるということは、「これはいったい誰の子なのか」という問題が生じてしまい、子孫存続という基本的な秩序を乱してしまうからである。

肉体的な関係とは第一に子どもを生み出す行動である。避妊法があたりまえになってしまったので、そういう最も基本的なことを忘れがちになるが、性とはそのような、子孫存続という地球的なプログラミングが「愛」と結びつけられているという、「愛」の存在形態としては特殊な、地球でしか通用しない形である。性的な欲求を持つということは、自分の中に奥深くに組みこまれている地球的なプログラミングが作動している、ということである。なぜ「愛」にそういうプログラミングが結びつけられるというシステムになっているのか、といえば、それは地球人が「愛について学ぶためのシステム」なのだということも明らかである。つまり、学習のために、「わざと、愛に制限がかけられたシステムに入った」のが地球人なのである。

ま、まだ地球人である以上、その地球的倫理コードを無視した行動はできない。しかし、地球を超えて宇宙へという視野で見れば、非物質的な世界での愛について学ぶということも、そろそろ必要になってきているのだろう。モーエンの記述はそんなことを考えさせる。だから結局、セックスは善だと声高に言うよりも、パウロや教父たちのスタンスが最も妥当なものだと思う。つまり、結婚というルールで生きる人を軽蔑したりはしないけれど、もし可能ならば、そういう物質的な愛の条件付けからは自由になった、無条件の愛のみを追求する人生ならばよりよい、ということである。仏教でも同様で、「清僧」の方が霊性が高いと考えられていたものだが・・もっとも、これは魂次元の話であって、形ばかり独身でも心の中はそのことばっかり、というのでは逆効果である。(おそらく、そういう肉体次元の愛も十分に経験した上でないと、そういう道に行くのは無理があるのかもしれない。パウロのような人はそれまでの転生で十分に経験したのであろう。アウグスティヌスは前半生で、社会的には承認されない形で、おそらくは身分の低い女性と、事実上の結婚生活をしていたのだが、その経験も聖人を生むためには、必要だったのであろう。彼は『告白』の中で、ものすごくそれを懺悔しているが)。

みんながそういうことをしたら地球人類は存続しなくなってしまう・・などと心配しなくてもいいのである。人間はいつか死ぬように、地球人類だっていつかはいなくなるものである。地球という巣から飛び立つ時期が来るのなら、それを押しとどめようとはしないことである。存続を絶対的な価値とすることがまた、地球的な制限である。

本来、愛の自由さは、子孫存続という地球的条件付けのなかに押しこめられるようなものではない。そんな不自由な世界で生きていたら、葛藤が生じるのもあたりまえのことである。そうした苦しみをあえて経験して、愛について学ぶためにそういうシステムが存在していたのだと思う。しかし、そういう地球というシステムはいつまで続くのだろうか? 自分もいつかは地球を越えて宇宙へ巣立っていく、と考えて生きること。そういうヴィジョンをもつということに、私は関心がある。

とりあえず、『気功革命』を参照して、エネルギー体の融合というのを練習してみることから始めてはいかがであろうか?(笑)

せっかくなのでリンクを
(『気功革命』については前にくわしく書いたので、こちらこちらを参照)

4434044303気功革命―癒す力を呼び覚ます
盛 鶴延
コスモスライブラリー 2004-05

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