私は宇宙人!?(笑)
前に、「私は行こうとしているのだから」などと書いたことがあるが、気がついてみれば、私はすでにそこにいるのだった。だから、行くということも必要がないのである。私はそこにあり、また同時にここにいるという、その同時的、多次元的な存在という現象をそのままに受け入れればよいことなのであった。
それはべつに私だけというわけではない。地球にいる人間はみな、ただ地球のみに生きている存在ではない。誰も皆、地球に来ているのはその一部にしかすぎず、その本体の部分は宇宙の別の領域にあるのである。ただ、その別の領域というのは、皆が同じというわけではない。けっこういろいろであるらしいのである。もちろん究極的な根源としては同じであろうが、現実としては(どういう意味で「現実」なのかは微妙だが)、究極ではないが、地球よりは高次元にある世界領域がいろいろあって、その一つに住んでいるというのが一般的な存在状態(として自覚されているもの)であろう。
つまり、私はたしかに地球人であるが、同時に宇宙人でもあるのだ。それが、根本的な現実である。私の故郷は、銀河の奥の方にある。これは私にとってはぶっ飛びではない。「私が生まれたところはさいたま市ですよ」というのと次元の差があるだけで、同一の現実の中にあることなのである。
だれしも本体的には宇宙人なのですよ。だって、魂が生産されているのは地球ではないのですからね・・すべての魂は「地球に来ている」のである。
「未知との遭遇」や「E.T.」のような作品が「宇宙的郷愁」を刺激するのも、そうした根本感情に触れるからである。
魂は「かしこ」から地球に来ている・・これはプラトン派の根本的な直観であった。たぶんこの時代の人は、自分がどこから来たのか漠然とした記憶を保っていたのだろう。
地球的現実と宇宙的現実とのあまりの落差に圧倒され、地球が恐くなり、こちらに来た目的を見失ってしまったのが「グノーシス派」の人々である。
キリストは、地球領域と高次領域とのラインをあらためて確保し、「ここにいるが、かしこに属している」という魂本来のあり方を思い出させようとしたのだ。そのために高次領域から派遣されたのである。
以上のことはプラトン-キリスト教のラインにおける古代思想ではかなり明確に理解されていたことがらである。
その後、キリスト教はその本質を見失いがちになったが。
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