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哲学講義もラスト近く

いろいろ日程がおしてきちゃって、ついに近代ヨーロッパ哲学は2回でしゃべることになってしまった。すごいことに・・ スピノザとライプニッツは位置づけが面倒なのですべてスルーすることになってしまう(笑) そういえばベルクソンも無視を決めこんでいる。枠にはまらないということは面白いということですがね・・

今回は、「近代ヨーロッパ哲学は、人類の哲学史においてはアノマリー(例外)だ」という立場を鮮明にしている。ま、聞く方はそんなことはわからないだろうが。

簡単に言えば

伝統哲学期A:8~11世紀 新プラトン主義的キリスト教哲学の時代 エリウゲナなど

伝統哲学期B:12~14世紀 スコラ哲学とキリスト教神秘主義の時代 ~~アリストテレスの影響によるトマス哲学、エックハルトの神秘主義など

伝統哲学期C:15~17世紀 ヘルメス主義哲学の時代 ~~ルネサンス期より、新プラトン主義的世界観が優勢となる。

17~18世紀: 知における「聖俗革命」の成立、宇宙ヴィジョンから「聖」の次元が喪失する。機械論モデルの成立。哲学においては、「疑いの哲学」が起こる。それまでは「宇宙(存在・自己)の根源とは何か」との問いが哲学の中心だったものが、 これ以降、「確実でないものはすべて疑い、これだけは絶対に確実といいうるものは何か」という問いが、哲学の中心となる。

18~19世紀: カントにおいて疑いの哲学が進められ、「世界が実在する」ことさえも確実ではないことが証明されてしまう。ここにおいて、「根源」について哲学からは何も知り得ないというニヒリズムが胚胎するのだが、それがニーチェによってあからさまにされる。一方、ヘルメス主義哲学の地下水脈がドイツロマン主義で表面化し、シェリング、ヘーゲルのような宇宙ヴィジョン的な哲学が生まれた。19世紀は疑いの哲学とロマン主義との対抗である。

20世紀: 疑いの哲学はフッサールによって進められるが、「世界経験がそこに現象している」という事象を生み出すものは何かという問いにつきあたり、この問いはハイデッガーによって再び存在論へと導かれる。そこで結局、「自己を明け渡すことにより根源へ接近する」という、東洋哲学的アプローチへ接近した。一方、ポストモダン派によって、「絶対確実なものはない」ことが確認され、18世紀以来の「絶対確実なものの探究」という意味での近代哲学は終息した。

こんな感じ。

なお、スピ系は、「伝統哲学で語られている範囲内でのみ語る」ことにしており、それ以外は封印しておりますから(笑)

それから、聖俗革命とはむろん村上陽一郎の科学史でのことばを哲学史に応用したものである。「疑いの哲学」とは私が考えたことばで、「疑えるものは徹底して疑い、これだけは絶対に確実と言えるものを探究する」という精神による哲学を指す。これが近代哲学の最も基本的な精神だったという理解である。そしてこれは20世紀に終わったと解釈している。

以上は、細かいところをつつくと暴論のようにも見えようが、ユニバーサルな伝統哲学から離脱したヨーロッパ近代哲学の基本線を、自分なりに描いてみたものである。

それにしても・・哲学の入門書のたぐいを見ると、相も変わらず、「徹底的に疑え」と書いてあって、近代哲学の呪縛から逃れられない人がまだ大半なのだと感じる。常識を疑うというのは哲学というより学問の基本だからそれはいいとして、哲学に求められるセンスはそれ以上に「世界の根源にあるものへの直観」であり、それは言うなれば霊的な性質のものなのである。あるいは「高次なるものへの畏敬の念」とでもいうか。それがハイデッガーもいう「根本感情」だ。それが最も重要な資質なのであって、「疑え」としか書いてないような本は凡庸というほかないのである。根本感情については語るべきものを持っていないということである。

近代精神とは人類史における実験ではあっただろうが、それはもう限定された意味しかもっていない。

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