カリスマへの警戒
もう一つ思うのは、現在ではもはや「カリスマ型指導者」という形式は古くなっているのではないか、ということ。
つまり「私に従え」として人々を引っぱるという形は、これからの霊的進化にはそぐわないであろうということだ。今は、もっと「内からの進化」を促すような導き方が主流になっている。
強力な霊的指導者に従っていく、というパターンも過去にはあり得た。そのやり方はたぶん「あるところまで」はすごく速く行ける。ところが、ある段階でトラップされてしまう可能性が強いと思う。つまり、その指導者とそれに従う人の間で、ある種の磁場ができてしまい、それがアストラル次元において強力に形成されるので、そういう意識エネルギー場から離脱することがむずかしくなってしまう危険性があると思う。
過去の宗教の多くは、そういうものだった。しかし現在からそれを見てみれば、多少とも、「カルト」という雰囲気を感じてしまう。キリスト教だって、信仰をしないと地獄に堕ちるみたいな言い方で人を脅かしているようなものはカルトである。モンローの言うフォーカス23~25の世界になってしまうわけだ。つまり、「磁場から抜けられない」という状況は、死後も継続するのである。
どうしてもカリスマ性を持った人にひかれてしまう心性は誰しも多少あるだろうが、そういう強烈な個性に教えを受けると、あるところまでは速いが、あまりにもその色に染まってしまって、そういうアストラル次元の共同現実の世界から離脱しにくくなる、というリスクも考えておいた方がいいだろう。
神智学とか、シュタイナーとか、ああいうのも時代的な背景で、多少ともそういうカリスマ性が漂っている。そういうエネルギーの影響を受けないように気をつける必要はある。そこにはすでに、かなり強烈なアストラル的磁場が成立しているからだ。それ以上の次元に抜けられないというわけではないので、その意味ではカルトとは違うが、磁場はたしかにある。
最近に出てきている霊的書物などは、そのようなエネルギーは持っていないものである。内なる導きに従うことが強調されていることが多い。カリスマ性というのも、ある意味では、地球の重力を離脱するための方便であり、地球のエネルギー変化と共に、不必要になっていくのではなかろうか。
こんなことを書くのも、私は最近特に、こうしたカルト的、オカルト的なエネルギーに敏感になっているからかもしれない。どうしてもそういうエネルギーが駄目なのだ。アストラル的に、ひじょうに凝集性が強いというか、その磁場に引きつけてしまうような、そういうエネルギー的な性質を持ったものがあるのだ。そういうものには警戒してしまう。ただ、「駄目」といっても、批判をしてしまうと、また自分のエネルギーが落ちてしまうので、どうしようもなく、とりあえずは「逃げる」しかないという状況だが(笑)