またしても
ベートーヴェンの「第五」を聴いてしまい、ハイテンションである。
なかなか寝られなくなるので困る。
今回はこのテンションを研究の方に向けようかと思う。まずは、『ルターとドイツ神秘主義』である。
しばらくは金子センセイの本を系統的に読んでみよう。
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ベートーヴェンの「第五」を聴いてしまい、ハイテンションである。
なかなか寝られなくなるので困る。
今回はこのテンションを研究の方に向けようかと思う。まずは、『ルターとドイツ神秘主義』である。
しばらくは金子センセイの本を系統的に読んでみよう。
ひさびさにピラティス本・・『ゆがみを直すピラティスレッスン』というDVDつきの本を買ったが・・これ、ものすごくいいですね☆
ていうか、私がピラティスに注目してちょっとやったのはもう3,4年くらい前なのかな? その頃はピラティスが入ってきたばっかりで、日本語によるDVDなどはそんなにいいのが出ていなかった。私も英語版のを買って始めたのだが・・ 最近のピラティス本の爆発的な増加はどうであろうか。ヨガブームとも連動しているのだろう。
この本はまず「ゆがみを直す」というのがいい。ピラティスの本質はそこにあると思うからだ。たしかにお腹周りが引き締まるという効果もあるので、それを求めて始めるのも間違いではない。何を隠そう、私がひさびさにピラティス本を買ったのも、ウエストのサイズをあと一段階下げられないかな、という動機も混じってはいたわけだが・・(笑)
しかし、私がワークの上で、身体レベルで最も注目しているのは「中心軸」の問題で、エネルギーワークにしても、また霊的なワークにしても、それがすべての基礎となる。また高岡英夫のセンター論などを引くまでもないことである。禅密気功に注目しているのも中心軸にフォーカスする技法だからだ。
となれば、近代的身体技法の中でも最も中心軸にフォーカスしているピラティスに注目するのも当然といわねばならない。ピラティスは、骨盤のゆがみを直すことで中心軸を通していくのだ。それは、骨盤の周りにある深層筋肉のエクササイズによって可能となる。
とまあ、そういう理論的知識はすでにあるわけだが、実際にやってみると、日頃中心軸に気をつけているとはいえ、まだまだゆがみはあるな、と実感する次第である。
この本は「やせる」という売れそうなタイトルをあえてとらず、「ゆがみを直す」という点を正面に据えているところが大変好感の持てるところである。そして、DVDの説明が非常にわかりやすいので、ありがたい。
ピラティスは大変にサトル(微細)な身体感覚を要求する技法でもある。なので、身体技法の世界に本当に初心者の人は、最初は教室に通って要領をつかむ方がベターかもしれない。
とはいえDVD書籍としては、この本は相当なるおすすめといえる。もっとも、最近は同レベルの本もいろいろ出ているのかもしれないが。
「身体論」カテゴリーの記事は何年ぶりだろう・・?
私にとってそれはすでに、ヒーリングやスピリチュアルと一体のものなのだが。
言い遅れたが、私が以前ピラティスをやったときは、4ヶ月で5キロ位やせたと思う。
そういう効果のほどは実証済みである。
(※注 : ひとこと、断っておきたいのだが、私は自分のやっているワークのすべてを、ここで公開しているわけではない。ここではあくまで、初心者がやっても危険のないようなものだけをチョイスして紹介している。私がこういう初心者的なことばかりやっていると誤解する人がいるので、蛇足だが書いておく)
DVDではじめるゆがみを直すピラティスレッスン―1日10分セルフ整体でキレイ&元気になる! 石川 英明 ナツメ社 2006-03 |
こんなブログばかり書いていてはいけませんな。少し精神に活を入れるために、また「第五」でも聴きますか。
(「哲学の試験」につづく)なんか、最近では、「自分の意見を言いなさい」という教育が多いようなんだが、これも行きすぎるとちょっと弊害がありそうな気もする。
伝統的な文化では、自分の意見なんか最初は一切いわせない。とにかく徹底的に「型」を身につける。その過程では自分を殺して、ひらすらその「型」に入っていかねばならないのだ。
霊的な文化においても、早い段階から「自分の意見を言え」などというのは何の益もない。むしろ有害である。
かなりの段階に達するまでは、徹底的に聞くこと、聞き取ること、そして、その中へ自分を委ね切ることの方がはるかに大事である。
なんだか最近、「偉大なものに畏敬の念を抱き、自分を捨ててそれに近づこうとする」という魂のあり方が、あまり尊重されていない。それは、早い段階から「自分の意見を言え」とやりたがる教育にもその一因があるのではないか、と思うわけだ。
ちなみに試験では、「これから自分の意見を言います」など書くのは、ぜんぜん勉強をしてなくて問題がまったくわからず、とりあえず何か「自分の意見」を書けば少し点をくれるかも、というものでしかない。こういう「意見」など、ほとんど思いつきのタワゴト以上のものに出会ったためしはない。いうまでもなくこういうのは即、不可である。偉大なるものに沈潜する経験のない精神が抱くことができる「自分の意見」など、石ころのようなものである。ひとたびは、自分を捨てて偉大なるものに飛びこむところからしか、何も始まりはしない。ひとまずは、先人が到達した高みまで必死によじ登ることが必要なのだ。
またイルカくんが書けと言ってます。
どうして、始まらないのか? ・・それは、霊性のことがらに興味があって、その周囲をいろいろ回ってのぞき見をしているのかもしれないけど、本当にその門をくぐるのがこわいのじゃないのか? っていう考え方もあるかな、ということ。
実はこういうサイトを見に来ていること自体、すでに始まることの準備ではあるのかもしれない。
そして、「始まるということはこういうことだ」と自分のイメージで決めてしまって、実は内側で始まっていることに気がついていないということもある。
私は本当に始まっているのか? もし、先へ行くことの恐れがあるとするなら、それはどういうものなのか、それを考え始めるということは、もう十分に「始まった」ということになる・・
・・と、イルカくんは言っています。ではまた、
この前、たまたまいつものライダー=ウェイト版タロットが手元になくて、ずいぶんひさびさに、オショー禅タロットでやってみた。
これがなかなかおもしろい・・これは、霊的な変容について占うときにはぴったりのカードかもしれない。
なんせオショー禅であるから、「手放せ」とか、「自我の抵抗をやめよ」とか、そんなメッセージばっかりですからね(笑) あるいは、「ロープのないバンジージャンプで飛べ」とか・・
いかにもオショーっぽい思想であるが、また同時に禅といえば禅である。
オショーという人はいろいろ評価があるのだろうが、一休さんを目標にしていた人であることを考えると、ある程度それに近い役割は果たしたのかもしれない。
オショーがやばいというなら、一休もやばいであろう。
それは一つの役割ということであって、それが完全な覚醒のあり方かというと、そういう目標とするということ自体が矛盾となる。基本的には、変容の過程にある人を崖から突き落とす役割だ。
大いに禅タロットをやって突き落とされていただきたい(^^;
しかし、「オショー禅タロットのための音楽」なんてのも出てるんですね。
Osho Zen Tarot: The Transcendental Game of Zen Osho Ma Deva Padma St Martins Pr 1995-04-28 |
さてこれからしばらくはお気楽モードですごそうか・・と思っていると、卒論の査読がなんと7本も回ってきてしまった!
これから試験の採点もある・・今年の哲学では、「考えさせる問題」をやめにした。存在の問いについて思うところを述べよなんていう問題はどう考えても難しすぎるということに(今さら)気づいたのである。そういう問いは、自分の中に深く入れ込むことに意義があるので、それを無理に言語化しない方がいい場合もある。なんとなく感覚で感じているだけでも、「表現の専門家」にならないのなら、それでいいのだ。だから、そういう問いがどの程度しみこんでいくかを試験などで見るのはやめて、試験では、話されていたことをどれだけ理解したかという単純素朴なる「知識」を問うものだけでよいのだ。イデアとは何かとか、そういうことは考えるための基本的な材料であって、そういうものを正確に理解しておくというのは、判定できることだし、またそれ以外に判定することがらもないのである。それは哲学の本質ではないが、本質はどのみち試験不可能であることに気がつけば、無理にそれをテストしようという発想も起こってこない。
このような、深さを重視することがらにおいては、「性急にアウトプットを求めない」ことが大事なことで、表現に至る前に熟成する期間というものを考える必要がある。考えるのならば数十年かけて考えればよいのであって、「考えさせる問題」を出して、その数十分に何かを書かせることは、一見いいことのように見えて実はあまり意味があることとも思えなくなったのである。
あ~~ 実は、昨日は思い立って、アクセス数の最高記録に挑戦したのだが、惜しくも、12の差で記録更新ならず・・ たぶん夜11時にもう一回更新を入れていれば行けたと思うんだが・・ ともあれ、アクセス数を伸ばそうと思ったら、記事をいっぱい書くということ、これにつきるようである。
この実験はもうやめるので、これからはふつうのペースに戻る。
去年の年末に、2008年はどういう年なのかのメッセージを受け取ったのだが、まだ書いていなかった。いや、基本的にパーソナルなものなので、あらゆる人にあてはまるわけではないのだが、他のいろんな情報を見ても似たような部分もあるので、書くことが可能なところだけ書いておこう。
根源回帰の年となる。そのため、不純なものが浮上して消えていくので、時として痛みを伴うこともあろう。
一日一回は光の世界につながるがよい。
こういうものだ。もう少しいろいろあるが、それは私個人に関することなので割愛する。
「私なんか、始まるわけない」と思ったあなたは、またネガティブ思考にはまりましたね・・イルカくんから叱咤激励が届きましたのでお伝えいたします。
入試業務の担当から外れたと連絡があった。それは楽でよいことだが、今度は久々にラルフローレンのスーツでいくつもりだったので、着る機会が一つ減ってしまった。はっきり言ってスーツはほとんど着ないので、まともなものはそれ一着しか持っていないのである。
この前の「WEB拍手」で調子に乗ってしまったかもしれない。前は、特に書くことがない日は書かなかったのだが、このところはどうでもいい話でもいいから毎日書く方がいいのかな・・などとも思う。
きょうはトラッドの紺ブレザーが初出動だったが、なかなか着心地がいい。というのも胴絞りがないので楽なのだ。これは基本的に普段着としての機能を追求しているように思える。
アメリカ大統領選の映像が最近しばしばテレビに登場するが、一つ気づくことは、アメリカの政治家は決してボタンダウンのシャツを着ない、ということがある。
私の聞いた話だと、ボタンダウンといえば「WASP」であるというイメージがアメリカでは強いのだという。つまり決してこれはアメリカ人に普遍的なデザインというわけではなく、白人中産階級を象徴するものでもあるので、政治家がこれを着るとアフリカ系やヒスパニック系などにはマイナスイメージとなるらしいのである。以前、小泉さんがサミットにボタンダウンシャツで登場して、一部で物議をかもしたことがあるという。おつきの人々の知識不足だったというわけだ。多民族国家はいろいろとむずかしい。
ま、私はべつに政治家になるわけではないから、何の関係もないけど(笑)
変容の症状として、頭痛や、激しい首の凝りなど、風邪の初期症状にも似たものが出ることが多いのだが・・私の経験上、これに効くものは、まずは葛根湯。
そしてぜひおすすめなのが、この「首ホットン」である。
これで次の日にはだいたい治っている。
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ま、変容といわず・・ふつーに、肩こりに効くというものだが・・
それと、エネルギーを肉体に馴染ませるには、特にFESのエッセンスをブレンドして服用することだ。
詳しくは『フラワーエッセンス・レパートリー』を読むとよいだろう。高い本であるが、この程度の投資を惜しんではいけない。それだけの価値はある。
ま、ラベンダー、セントジョンズワート、アンジェリカ、ヤロウなどが定番だが、ほかに症状にあわせて、いろいろ組み合わせる。
「始まってしまった人」には、こういう情報の価値がわかると思う。
それからそういう人は、ミンデルの『シャーマンズ・ボディ』もおすすめしておきたい。
これはシャーマニズムという狭い範囲の話ではなく、「始まってしまった人」は、いかにしてそのプロセスに委ねていくか、というようなことが語られている。
シャーマンズボディ―心身の健康・人間関係・コミュニティを変容させる新しいシャーマニズム アーノルド ミンデル Arnold Mindell 青木 聡 コスモスライブラリー 2001-08 |
きょうの外出は、下着からコートまですべての衣服が今シーズン更新したもの、というすごいことになっていた。昨シーズンのものはマフラーのみで、これはもともと気に入りだったので、新しいマフラーはキャンセルした。もっともいろいろコーディネートして出かけても、女子学生にはほとんど会わなかったので・・(いや、そういう意味で着ているわけではないけどね(笑) エネルギー的理由が第一だが・・)。そしてきょうはまた、スプリングコートを新たに注文! まあこれで、あと春夏物が少しだけで更新が完了するので、だいぶめどが立ってきた。エネルギー更新プロジェクトは着々と進行中・・この辺で、今度は巨大なクリスタルなどを購入して、部屋の波動をさらに上げよう、などとも思っている。
エネルギーといえば、最近、激変の時期は過ぎたので、エッセンスは今のところ使っていない。エネルギー調整といえば、オーラソーマのクイントエッセンスである。このところは、「サナトクマラ」を愛用中である。
右ブックリストで推薦している『魂のロゴス』はアマゾンで品切れ扱いになり、マーケットプレイスではぼったくり価格がついているが、他のオンライン書店(楽天ブックス、セブンアンドワイ、BK1など)ではふつうに買えたりするので、だまされないよう注意されたい。
決して版元品切れになっているわけではなく、アマゾンの扱い中止は、一時的なものではないかと思われる。
置き忘れたと思ったら、自分で引き出しにしまっていたということが判明・・(笑) 変容に伴う症状には「健忘症」も含まれるらしい・・??
しかし、そのマフラーを交換してまた新しいものが買えるのだと、前向きにとらえることにする(笑)
前から読んでいる人にはわかっていることだと思うが、もう一度明快な形で書いておこう。
私の立場は「トランスパーソナル」ではない。トランスパーソナルとは、この場合、「東洋の霊性と西洋の心理学との融合によって新たなパラダイムを創出しようとするもの」と定義される。なお、東洋の霊性だけではなく西洋の伝統的霊性も含むこともある。
私の場合、心理学のみならず近代の諸科学と、伝統的霊性との折り合いをつけようという志向を持ってはいない。そのような試みの価値を否定するわけではないが、私自身としては関心がないのである。
これまでの霊性思想、つまり、神秘体験と結合した「神秘神学」の伝統に学びつつ、それを拡大された視野から、現在という立場から表現するということが、「普遍神学」と名づけられたことである。それを「霊性学」と呼ぶこともできよう。
トランスパーソナルというのは、その成立からしてどうしても、心理療法やケン・ウィルバー思想などを中心に回っているが、私自身はそうしたものにそれほど興味があるわけではない。心理療法の中にいかにして霊性を取り入れていくか、というのは心理学者が考えることであって、私が考えることではない。トランスパーソナルの学界では、なんとかして心理学の一派として認められたいという志向が強いようであるが、私はそういうことにもあまり興味がない。
トランスパーソナルは、心理学・精神医学に霊性という視点を持ち込んだという点では大きな貢献をしているが、霊性についてのこれまでの学問を全部受け止めきっているようには見えない。トランスパーソナルはあくまで霊性について独自の観点から研究している一グループであり、霊性に関する学的探究を現在において代表するものとまではいえない。
なお、このブログ内を「普遍神学」で検索すると、トランスパーソナルが言い表すことがないが、普遍神学でははっきりと言われていることが何であるかを、具体的に述べている記事がある。たとえば、魂の先在性、転生、中間次元の意識存在者の問題などがそれである。これらは神学という立場でのみ述べうることがらである。
一般に考えているように、キリスト教会と神秘主義は決して対立しているわけではない。
「魂は神性に似せて作られており、魂の根底において神性との交わりが生じうる」ということは、西方のキリスト教では一般に受け入れられていた。
ただそれは、魂において神性との一致を体験するということだが、それから更に進んで、エックハルトのように「私は神そのものである」とまで言ってしまうと、異端の疑いをかけられる。
この21世紀から見れば、エックハルトの言うことも本当ではある。ただ、実際に私が神であると言いうるまでのレベルに、人類が達するということはまずふつうはない。たとえ地球を卒業したとしてもなかなかそこまで行くものではない。現実的に、今の人間に手が届くのは「魂の根底で神を感じる」というところまでだ。そこまでならなんとか行けるのである。アウグスティヌスが書いていたのはそういうレベルの神秘主義であるが、それはたしかに究極ではない。しかしふつうに、私たちが目標とするには十分すぎるほど高いレベルではある。
一方で、禅などは、私が絶対だということを自明の前提として出発するが、ここにはまた、自分の到達レベルを過大評価する危険も生じる。つまり、魂の根底において「無条件の愛」が注がれているということさえ体験できていないのに、「空になった」などというとんでもない妄想に陥ることにもなりかねない。まずは、「魂の根底において絶対的なものへの開けが生じる」というステップを踏んで、その先へ行かねばならないだろう。
つまり、エックハルト的な言い方は、真実ではあるのだろうが、ふつうの人にはあまりにレベルが高すぎる話なので、誤解を生じやすいし、またなかなか現実的な目標とはできない、というところがあろうかと思うのだ。エックハルト的なところを究極だと知りつつも、現実的には、魂の根底において神の愛を受け取るというようなところからやっていくのが常人の道というものだ。その意味で禅は、あまりにもむずかしいことを要求しているもので、とても一般向きでないとも言えよう。
ともあれ、西洋的霊性として、「魂の根底において神性との交わりが生じる」というテーゼが第一点。
そしてもう一点、西洋思想の根幹をなしているものとして、平井センセが示唆しているように、「この宇宙を作り為している根源的な生成力」を見るということがあるように思う。
それは、スピリトゥス、聖霊、その他、「プネウマ」や、「種子」というイデーとして受け継がれてきた(この辺は平井センセの独擅場)。西洋思想とは、ぶっちゃけいえば、基本的に、新プラトン主義とキリスト教思想とのからみあいで展開されていたのだが(それにアリストテレスの学問体系の影響が加わる)、そういう、宇宙根源から発する生成力というヴィジョンは、その両者をつらぬいて、17世紀頃までかなり持続していたもののようだ。パラケルススなどは、その二つの伝統を融合させようと試みた。こっちの系統は、中国やインドの伝統も共通するし、「微細エネルギー次元のテクノロジー」というテーマとつながり、代替医療などでアクチュアルな問題ともなってくるのだ。
上記二点を総合して、霊的な世界ヴィジョンが成立するのだが、この二点とも、近代という時代が破壊しようとしたのだった。
オカルティズムというのは、言ってみれば、破壊されそうになったものが、ゲリラ戦に打って出たということである。
しかしながら、そのような、近代的世界観の支配力は、現在、急激に弱まってきた。
そのため、あくまで「アンチ」として存在していた、オカルト的、秘密結社的な神秘主義のありようは、もはや古い存在形態になりつつあるということだ。
そのような「アンチ」には、ルサンチマンが内在している。それはもはや、自分を解放するために邪魔になってきているのだ。
・・話がどこへ行くかわからなくなってきたので、この辺でやめておこう(笑)
金子晴勇『ルターとドイツ神秘主義――ヨーロッパ的霊性の「根底」学説による研究――』を読んでいるが、これは非常に素晴らしい著作ですね。
金子さんの本は数点読んでいるが、この本がこんなによいとは・・これは、ルターのことばかりではなく、ドイツ神秘主義はおろか、ヨーロッパ思想全体という視野のもとに、神秘主義や神秘神学の伝統について述べたものであるらしい。そもそもヨーロッパ的な霊性の伝統とはどういうものだったか、ということで非常に勉強になる。
また、「いまごろ読んだのかよ」と言われそうであるが・・(笑) ルターというのはこれまで盲点だったんですね。ルターが優れた神秘主義者だということは当然知っていなければならないことなんだが。しかし、ルターにはそれまでのヨーロッパ霊性の伝統が滔々と流れ込んでいるということだ。
神秘神学というのは、「魂の根底において神性との交わりが生じる」という神秘体験が存在することを前提として、それはいかなる意味であるのかを哲学的に反省するものである。体験の世界は、容易に危ない方向へ行きかねない危険性を持つので、それがちゃんとした道で、間違いなく神へと続いている道なのかを確認するために、神秘神学が存在していたということである。
ロースキィは、東方キリスト教にそうした神秘体験と分離していない神秘神学の伝統があったことを示したけれども、それは西方にもないわけではなかったのだ。そのへんのことを全体として把握しているのは、金子センセが第一人者なんですなあ。
どうも、厳寒である。小路は圧雪になっているところがあり、危険である。スーペリアダウンパーカー出動二回目である。雪かき作業にはよい。
そんな中、ついにトラッドの紺ブレザーを買ってしまったのだった。やはり、段返りボタンはなかなかよろしい。
楽天市場に出ているフクスミというお店は、トラッド好きの間ではけっこう有名なのかな? お手頃な値段でかなりものがいいので、今後ここで数着のトラッドジャケットを買うのではないかとの予感・・ 生地見本も送ってくれて、対応もよかった。
しかしこれで冬物もだいぶ更新を果たした。あと五万円くらいで終了するかな?(笑)
「吹っ切れた」という感じがする。全体に存在感覚が軽くなってきた。気持ちの余裕というか、「こだわり」が抜けたというか。ネガティブな想念が浮かんできても、「浮上してきたな」と気がついて、それを流すことができるようになった。この現実はある意味では夢なのだと気づいているが、同時に、この現実にいることに不安や居心地悪さは覚えない。ただ、こちら側はすべてにエネルギーが重いので、めんどうくさいところはある(笑) 未来については、「何とかなる」という感覚がある。
高次元の世界には形態がない。そこでの情報伝達は何ともいいがたい不可思議な形で行われるものであるらしいが、それは完全には理解できていない。高次元の自分も形態はない。ある意味では、光のようである。しかし、根源の光と同じものではない。
とりあえず、激しい身体症状が起こる時期は通り抜けた。ほっと一息というところだ。次なるステージは数ヶ月以内に来ると予想している。
今回は覚書モードである。
もう、スピリチュアルもヒーリングも日常と分離していないので、カテゴリーはすべて「日記」になってしまう。
こんなごついものをいつ着るんだ・・と思ったダウンパーカーであるが、きょうは、新幹線が一時止まるほどの強風が吹きまくり、雪も吹きつけるという・・つまり、「吹雪」の状態である。この日に着ずしていつこれを着るんだ・・というわけでさっそく着用した。下は比較的薄着でも、寒さを感じない。また、前がジッパーだけでなくベルクロでも止められるようになっているのもポイントである。下に、いつものシティカジュアル系の服を着てても違和感ないので、かなり使えるものだと思った。
しかし・・一昨日、どうもマフラーをどこかに置き忘れたらしい。カシミア100の安くないものであったので痛いが、そこは、「たぶん新しいのを買えという天の指示であろう」と前向きにとらえる。さっそく新しいマフラーを買ってしまう。
このように、新しい服を買いまくるという症状が現れている人がほかにもいるようだが、どうやらこれも「変容」に伴う反応の一つではないのか? と思われてきた。頭痛や動悸などの身体症状と同じように。
つまり、エネルギーが変化しているので、これまでの服を着るのに違和感を感じるようになってきたのだ。古い服には、その古い自分のエネルギーが付着している。それが現在のエネルギーと異なるために、まるで他人の服を借りてきているような違和感を感じてしまうのであろう。
私の場合、昨シーズン着ていた服を見ると、なんでこんな質の悪いものを着ていたんだろうと感じることが多い。質の高くないものは受け付けなくなってきたのだ。その意味で、着るものも「どうでもいい」というわけにはいかなくなったのである。・・というわけで、洋服代がかかるのも、変容に伴うコストの一つと割り切ることにする。あんまり本には書いてないが、こういうことはたしかにあるらしいのだ。
どーでもいい話題などいくらもあるが・・この時期、各メーカーが冬物セールをしているので衝動買いも増えてしまいます。きょうはエディー・バウアーのウェザーエッジスーペリアダウンパーカーというものが到着した。これが予想したこととはいえすごいヘビー級である。北海道でもないのにこんなにすごいものがいるのか? と思わなくもないのだが、30%セールに加えてさらに2000円引きだったし・・ 普段は、駐車場から建物までの間しか外を歩かないので、たいした防寒着は必要ないのだが、以前、白鳥の湖に行ったとき(バレエではなくてリアルな湖)、もっとヘビーな防寒着の必要を痛感した次第で・・ 一着くらい思い切りヘビーなものがあってもよかろうというわけでね。しかし雪の降らないような地域ではまったく必要ないものだろうと思う。
ところで私は最近、アメトラ(アメリカン・トラッドのこと)に興味を持っているのだが、私の周囲ではなかなか実物にお目にかからない。きょうの朝刊を見るとコラムにハーバード大学教授の写真が出ていた。国際政治にはあまり関心がないので記事は読まないのだけど、その教授の写真に目をやると、なるほどたしかに段返りの三つボタン、ボタンダウンシャツ、紋章柄のネクタイと、完全なアメトラで決めており、これがホンモノか~~と思ったわけである(東海岸の教授など、実際に会ったことはないので)。私もブルックスブラザーズなどで一発買ってやろうかと思ったが、考えてみるとスーツは入試と式の時しか着ないのでもったいない。しかしやはり段返り三つボタンを着てみたいので、紺ブレザーでも手に入れてみようかと思う。
・・しかし、こんな記事がつづくと、こんなことばかり考えて生きているのかと誤解されてしまいますな。この次は他の話題にしよう・・
日常の話題ということで・・きょうも帰ろうと思ったら女の子二人が来て、タロットをやることに。きょうは冴えに冴えて、ずばすばと、これ以上はありえないくらいのぴったりのカードが連続して出ていた。私は、あたる・あたらないという基準でものを考えていないので「あたった」とは理解していないが、不思議なくらいぴったりしたカードが出たり、同じ人が二回も三回も同じカードを引いたり、カードの展開が見事なストーリーを語ったり、いろいろと奇妙なことはよくある。それはどういうことなのか、論理的説明を考えることもできるけれど、そういうことはおもしろくないので、それはわからないままにしている。
これまで何百回もやっていながら、なぜか、大アルカナの「力」だけは一回も出たことはない。これも不思議なることである。
占いのテーマは恋愛と就職の問題が大半である。
男の子とまったくつきあったことがない女の子というのも、世間で考えるよりはずっと多いのだということもわかった。
・・ということで、この前服装の話が出たが、私はふつうお仕事に行くときは、この時期、コーデュロイ、ツイル、ツイードなどのジャケット、コーデュロイパンツ、柄物のドレスシャツ、という感じ。これは職場ではかなり「ちゃんとしている」方に入る。オフ日でもそういったかっこうをすることが多いが、きょうは気分を変えて、LLビーンである。LLビーンといっても定番のフィールドコートは、さすがに私のイメージには合わないので、それをもう少し都会風にアレンジしたバージョンである「アディロンダック・バーン・コート」というものを着ている。今シーズンはこれがなかなか気に入っていて、近所のスーパーへ行くときなどはいつもこれである。保温素材入りなので、けっこう暖かい。あんまり気に入ったので、春先用に保温素材なしバージョンをもう一つ買おうかとも思ったが、今シーズンはほとんど完売のようである・・ なお、都会風といってもそれはフィールドコートに比較しての話で、基本的にはアウトドア系(野良着?)である。家の合間に畑が残るような場所を歩いているのが、なぜか似つかわしい・・
そして・・最近、買おうかと悩んでいるのが、グローバーオールのダッフルコートである。しかも、いちばん高い9万円コースのものである。耐久性を考えれば高くはないと思うが・・
宇宙語ばかり書くなどといわれることがあるが、私はすでに、自分の一部が宇宙に帰ってしまっているわけよ(笑) そのように自覚した時からエネルギーが変わってきたというか、根本的な自由を自覚したというか、何をどうしてもいいんだということがわかったような気がしたわけだ。そういう、地球への執着を解いた方がむしろ楽しく生きられるんだな、ということも、おぼろげにわかりかけてきた。
でも正確に言えば、宇宙語は文字で表現できない。ほんとの宇宙語なんてこんなものじゃないよ。
自由ということで言えば、何か根本的に「突き抜けた感じ」のするものがいいんだな、と最近感じる。
いかにも「これが神秘ですよ」てなぐあいに、それっぽい雰囲気を出そうとしているものとかは、たしかに地球より高次ではあるけれど、ある次元に構築された共同現実であって、そこに入ってしまうということは本当の解放ではない。その方法では、地球の重力から離脱できない。そう感じるようにもなった。
21世紀になって、地球のエネルギーが急速に変わってきており、20世紀までは有効だった方法が、古くなってきている面がある。
どこまで突き抜けるのか。限界なく突き抜けるとはどういうことなのか。それを探究することに興味がある。
大事なことは、「高次元のエネルギーを受け取ること」だと思う。
結局、それがわかるか、わからないかということなのだ。どうしてそんなことが必要なのか、などと思うのは、わかっていないということである。
アストラルの光などいくら知っていても意味はないのだ。死んだら誰でも行けるような世界を見たからといって別に意味はない。ふつうに生きていたのでは死後も行けないような世界を知るようにならなければいけないだろう。そのために地上に来ていると言ってもいいほどだ。何としてもコーザル以上の光・エネルギーが受け取れるまでにはなりたいものだ。そうすれば死後も楽になるものであるらしい。
コーザル以上の光とはどういうもので、それを知ることにより、どのような変容のプロセスが起こるのか・・そういうことが大事なことではなかろうか。
ま、これは、自分に言い聞かせているコトバである。
前日の「WEB拍手」が思いの外多く集まったので、時々地球人的記事も混ぜることにする。
報道にアメリカ大統領選の話題が多くなってきた。
私としてはやっぱり、ヒラリーさんに勝ってほしいですね。それはなんといっても、強い女だとはいってもやっぱり女だから。つまり、女性がトップになるということ自体が、社会の意識を変える大きな動きにつながっていくだろうという見通しがある。これまであまりにもマッチョ過剰だったアメリカ政治に、女性性のエネルギーが多少とも注入されるということは、地球全体のエネルギーを変化させうることだと思う。人類の意識は、ハートによって高次の愛のエネルギーを受け止めるということがいま最も重要なテーマになっているのだが、女性リーダーの登場は、その過程を促進させるのではなかろうか。
最近、毎日多くのアクセスをいただいていますが、このところなかなか更新する余裕がなく、書いてもどーでもいいことばかりだったりするので、多少は心苦しいものが・・(^^;
センター試験が無事終了した。しかし思ったのは・・集合場所に集まった面々の服装はいったい・・「ネクタイを着用すること」ということのみが共通の規定であるが、それ以外はまったくドレスコードが存在せず、無秩序・混沌たる、何でもありの世界が・・ 日頃は、ネクタイをする人などほとんどいないため(学長でさえ、来客以外はノーネクタイである)、ネクタイ着用というコードに対応すべく、それぞれの反応があるわけで、どーでもいいような、量販店で買ったような地味なスーツ・ネクタイの人もいると思えば、ど派手なツイードジャケットにコーデュロイのパンツとか、昔なつかしいニューポートの紺ブレザーまで登場・・某教授は、ダブルの紺ジャケットだが、よく見るとネクタイに「ドラえもん」の絵が・・(笑) 「最前列の女の子がぷーっと吹き出してましたよ。ははは・・」と喜んでいた。しかし、あまりのカオス的状況にめまいを覚える。一見ふつうでも髪型がポニーテールだったりするし。
大別すれば、服装はどーでもいいのでそのへんの安いスーツですます(スーツは年に数度しか着ないのでもったいないということ)パターン、どーでもいいのだが地味なスーツを着るのはいやなので多少工夫を試みる人々、また一方で、ここぞとばかりにドレスアップして決めてやろうというタイプとか、あるわけだ。ちなみに私は黒ブレザーで攻めてみました。なぜ紺でないかというと、受験する高校生の服装が紺ブレザーであることが予想されたから。同様の理由でレジメンタルタイも避けるというわけである。あんまり受験生と同じようなかっこうでは具合悪いですからね。銀ボタンの黒ブレはなかなかよいと思う。
やはりネクタイというのは慣れていないと激しく首が凝るものである。私もせっかくの機会なのでラルフローレンで買った少しばかり高いネクタイをしたのだが、気分がよかったのは最初の一時間くらいで、あとはまったく首が疲れてこまった。終わったあとに「首ホットン」が欠かせない。
きょうもどーでもいい話だが、もし「WEB拍手」が入らなかったら、今後こういう話はやめておこう(笑)
細川亮一の『アインシュタイン・物理学と形而上学』だった。なんともすごい題名・・ 細川さんは哲学をやるか物理学をやるかだいぶ迷ったそうで、最初に理系に行って哲学に転向したらしい。私にように初めから理数系科目の成績がいまいちで文系しか考えなかった人間とは頭のできがちがうようである。そういう細川さんのある意味での総決算のような書であるらしいが・・いかんせん、物理学のことを書いてある部分は私にはよくわからず・・(笑) 数式はないんだが。なんとか哲学の話をしている部分はわかったが、結局かなりのとばし読みとなってしまい、今年もアカデミックな方面では暗雲がたれこめておりますね(笑)
なぜか前から持っている服を着る気がしなくなり、ほとんど新しいものばかり着るため、洋服代が猛然とかかっている(^^; カードの明細書を見るのが恐ろしい・・ エネルギー変化の一環として、そういうこともある。
きょう(といっても日付が変わっているが)も、ベートーヴェンの交響曲第五番と、さらに第三番第一楽章を聴いてしまう。
まったくすごい。夢想だにしなかった、「新しい次元」の世界が開かれた時の驚愕を表現しているように、感じられた。天の中心が開けて、その向こうが見えるという感じだ。
その驚愕をあえて思想的言語で表現するならば、それは「精神の完全な自由」ということである。それはどういう意味か? 「私はすべての創造者である」ということだ。これがこの曲にこめられた根本直観であると考える。
興奮して寝付かれなくなるのが難点ではある(笑)
思うに、東洋では、霊的覚醒というものを、良寛さんみたいに、すべてを捨てて、何も欲しなくなるというふうに理解することも多い。いま売れているらしい加嶋さんなんかもそうだ。
ところが、霊的覚醒とは、驚異的な「爆発」でもある。そのビッグバンのような巨大なエネルギーをわがものとすることでもある。そのアスペクトを表現したのが、第五番なのだ。
話は変わるが、14日はアクセス数が一気に1000を突破した。
まるで、交響曲第五番の第四楽章に突入するところみたいな、爆発的な上昇であった。
ともあれ・・これからは、自分に制限をかけるような言い方・思考は、すべて放棄することが必要となってくるだろう。
どうせとか、自分にできるはずがない、という思考は、浮かんだと思った瞬間に手放すということ。
そのネガティブな思考が浮上した瞬間に、光明をイメージしてそれを消去すること。
それをしないと、どんどん置いて行かれる。
できない人は、遠慮なく、先を行く人や、または人じゃない存在に、援助を求めることだ。
援助というのは、光を媒介してくれる、という意味である。
上から光が来ているというのは、援助のエネルギーが強化されている、という意味だ。
これまではむずかしかったことが、とても簡単になってきている。
だから駄目だと思わず、やってみるしかない。
ネガティブな感情の解放が進んでいく。
浮上してきたときに「あっ浮かんだな」と気がついて、それを放つ。
そういう練習をする。ネガティブなものをつかんでしまって、自分はだめだ的な思考に落ちてしまうと、解放が進まない。これは浄化のために起こっているので、気づいて放つという意識を持つことが重要だ。
まあそんなことは、いろんなところでいわれていることなので、ここであらためて書くこともないが・・
思わず書いてしまったのはまた例によって「イルカくんの指示」なのかなあ・・どうも勝手に手が動いて・・(笑)
最近いちばんエネルギーが合っている音楽は、なんと、ベートーヴェン・交響曲第五番である。
何をいまさら・・というくらいの名曲だが、違う耳で聞くと、違って聞こえる。
これは真に恐るべき音楽だ。私からすると、これはアセンション音楽そのものなのである。
冒頭の有名なメロディーは、どう聞いても、「お呼び」である。
つまり、「宇宙からのお呼び」が突然襲来し、ビビビっと魂が目覚めてしまって、最終楽章ではついに宇宙ロケットに乗り、次々と次元突破をして精神が爆発的に拡大する、ということを描いている・・ように聞こえる。
その、「次元の壁を突き破る」という感覚が、なかなか・・壁を破るときというのは、破ったと思った瞬間、爆発的に拡大する。あっと思ったら、無限の光になっている。・・まあ、そんな感覚だ。
つまり、覚醒だ。交響曲第五番は、そういった精神の覚醒を表現している。
これまでこの曲にくっつけられてきた「人生論的意味づけ」は、すべて忘れよう。
この曲は、宇宙意識の目覚めを表現した曲だ。
これは江戸時代に作曲されたものだが、人類の究極的な未来を描いている。
今までの一年で、宇宙より到来しているエネルギーの量は、もう信じられないくらい劇的に増えているのだ。それはどう考えても否定できないことである。
私はそんなエネルギーなんてわからない・・なんていうネガティブ思考にハマっているひまなんか、もうないのだ。
とにかく、今ここで、その光をつかめ!! と、言いたいことは、とりあえず、それしかない。
本音モードで語るとしたら、いちばん言いたいのは、そのことである。
もう過去のルールはあてはまらなくなっている。今までできなかったことも、もうできるようになるのだ。
自分への制限を解除しなければいけない時期なのだ。
今年は、「これまでの習慣でしみついた常識を手放す」ことがますます、求められるのではなかろうか。
地球の習慣を振り捨てていくということだ。
最も大きなものは、「葛藤を手放すこと」。
葛藤が出てきたと気づいた瞬間に、それを放つこと。
そうして光明のみに徹底すること。これが今年のテーマとなりそうだ。
実は、きわめて、シンプルなこと。シンプルなことがなかなかできないというだけ。
しかし「私にできるはずがない」という思いこそが、いちばん初めに手放すべきものだ。
「何の努力も必要としない世界」へ、努力することなく至る。
何かを失うことは、より大いなるものを受け取るための準備である。
とりあえず、デザイン変更である。
波動調整にはこれが手っ取り早い。
このブログもちょっと波動調整中。少し変えようと思う。