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その他に読んだ本

山内清海『神の似像の霊性』(サンパウロ社)
これは聖書、アウグスティヌス、トマス・アクィナスにおける「神の似像」の思想を平明に解説したもの。わかりやすいが、さすがにトマスの所はちょっと難解。しかし結局、カトリックの正統的な立場を説明するものとなっている。つまり、人は生きている限り本当に神そのものにはならないということ。つまり「人は神と似ている」と言うが、「人は究極的に神と一致しうる」とまでは決して言わず、それを冒涜と考える。こういう西方キリスト教の思考限界もまたはっきりと示された。

薗田坦『クザーヌスと近世哲学』(創文社)
クザーヌスに近代哲学の萌芽を見ようとする論であるらしい。基本的に、ルネサンスの「魔術的思考」を離れて合理的な思考を生み出したとの視角で、およそ私の問題意識とは正反対であるといえる。つまり近代化肯定論者である。しかしクザーヌスにはそのように論じうるような側面があることは否定しない。とはいっても、私はあまり読む必要がない本であるようだ。

トマス思想をめぐる放言

前に書いた、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』はすごいいい本だったんだけど、その「intellectus」についての話の流れで、トマス・アクィナスの認識論についての本を読んでみた。

宝満和美『トマス・アクィナスの知の哲学――認識と存在について』(文芸社)

いや、これはよかったですね。文芸社というから自費出版ですよ。しかも就職していないし、もう執念ですね・・いや、そんなことはともかく、これでやっとトマスというものが少しだけわかってきた。なんでこんな超マイナーな本を知っていたかというと、リーゼンフーバー先生の『中世思想史』の参考文献にあがっていたからだ。巻末にはなんと、ラテン語による要約つき! 最後のページのラテン語は、何かおもしろいことを書いているらしいが、残念ながら読めません。

ものはなぜそこにあるのか? 太陽が太陽としてあり、馬が馬としてそこに存在し、それを私が認識しているというのはとんでもない神秘ではないのか? という問いに答えようというものである。

その点で、どうしても近代にはだめになってしまったところがあって、それはオッカムに始まってデカルト・カントへとつづいていき、たぶんそれは現代の「共同主観性パラダイム」へとなだれこんでいるはずなのだが、そういう認識図式とは違う可能性がトマスにはあったということ。

私がおぼろげに感じていたことがらがきわめて厳密に論じられている。

つまり、「人間は神の知性を分有している」ということがはっきりといわれている。

たとえば、馬というものは、人間が勝手に馬というカテゴリーを創造したわけではない(俗流ソシュール主義はそのように考えるが)。馬なるものを存在せしめようというものが神より発してそこに存在する。それを私が馬であると認識できるというのは(それをどう呼ぶかは言語により異なるにせよ)、その「あるもの」が馬というものであるということを理解できる何かが、私の中にすでに備わっているからだということである。そのように、人も(私も)馬も、ともにこの世界にあるべく創造されている。神においてその両者はぴったりつながっているのである。

この、あたりまえとも見える、日常世界をいま私がこのように見ている、感じているということ自体、私の中に神の知性が分有されていることの証拠である、というようなことだろう。

このトマス思想を理解するためには、トマスはたぶん「存在するものはすべて良い」と感じていた、ということを思い出さなくてはならない。いかなるものでも存在するものは良いのだ。存在するということ自体が神の愛の表現なのだ。原爆やアウシュビッツを経過した現代人は、なかなか「存在するものはすべて良い」と断言する自信が持てないのだが、トマスはあくまでそういう場所に立っている。いかなる苦しみがあろうとそれは神がそこに存在させているもので、それは善なのである。つまりそれは魂の修練を与えているという神の愛なのである、ということだろう。そのように完全に信じ切るということが信仰である。

しかし私は、トマス思想とはちょっと違って、存在するものをいきなり神のイデアから説明するのではなく、そこに「世界霊魂」という中間項を置く、という新プラトン主義的な世界理解に近い立場を取っている。もっとも、世界霊魂も究極的には神の意志により動いているので、それは少しばかり説明を詳しくしたというものでしかないかもしれない。ともあれ、この実際にここで展開されている物質的地球世界は、ある一定の秩序を持ち、そこに多数の事物が存在しているが、それらを統轄してこの地球世界を出現させているのが世界霊魂である。いや、正確には地球霊魂というべきだろう。他の星の世界もひっくるめて実在世界を運行しているのは、地球霊魂よりも高次の世界霊魂であろう。地球霊魂は、物質世界だけではなく地球にまつわる非物質世界をも統轄していると考える。人間は、ある目的があってこの地球世界に入るときには、この地球霊魂と同調し、この地球世界特有の認識構造、認識カテゴリーを身につけるに至る。肉体という物質的感覚器官(として認識されるもの)が創出されるのも地球霊魂との同調によるのだろう。

しかし人間は、こうした地球世界に同調している部分だけではなく、それよりもさらに高次の、「もと」の世界を認識する能力も潜在的に持っているのである。それが魂の高次の部分であって、これはいわば「本体」で、地球よりも高次の世界にいるのである。以上は「ぶっ飛び思想」ではなく、新プラトン主義的世界観を現代風に表現したものであるので、お間違えなきよう。

トマスは、魂の本体が高次世界にあるというようなことは言わない。その意味では新プラトン主義哲学の方が「わかっていた」部分があると思う。それでもトマスは、近代哲学よりはずっと真理に近いことを述べていると感じられる。

投票結果

投票総数:130

質問1: 霊的に「見える人」(つまりふつうの人が見えない次元のことがわかるということ:視覚以外でわかることも含む)は、ふつうの人よりも霊的に発達しているといえるでしょうか?(ふつうの人よりも霊的な覚醒が進んでいる、という意味)

 ・そういえる            0票
 ・必ずしもそうとはいえない 130票

質問2: 霊的に完全な覚醒に達した人は、必ず「見える」ものでしょうか?(「見える」の意味は、質問1と同じです)

 ・必ず見える          32票
 ・必ずしもそうとはいえない  98票

投票は締め切りました

投票総数は130通。集計が大変・・

はっきりいうと

これから多少、休暇モードかな。春物更新で更新プロジェクトを完結するべく、オンラインストアばかり見ている日々・・(^^;

投票メールが

きょうはほとんど来なくなった。ということは、ほとんどの人は2日に1回は見てる、ってことかな。

ということで投票は今日くらいで締め切ろうかな。

やっぱり激動?

あらら・・坂本さんのブログでは、坂本さんも23日にめまいが出てひっくり返りそうになったそうですよ。

今度の満月前後からの激動もすごいですからねえ・・月食もあるんでしたか。

ここのところ部屋ではホワイトセージを焚いてます☆

「あなたがたに平安があるように」

投票は、予想外に多くて、集計が大変そうである。が、もうちょっと受け付けることにする。

今回は特に、書くことはない。
なんとなく、浮かぶことは、

「あなたがたに平安があるように」

とのことば。キリストが言っている。

いや・・チャネリングしたわけではありません・・聖書にのっています(^^)

ご質問

ちょっと、いろいろあって、霊的なことがらに関し、人はどのように理解しているのだろうかと、気になってきました。

そこで、このブログを借りて、「ご質問」を投げかけてみます。

質問1: 霊的に「見える人」(つまりふつうの人が見えない次元のことがわかるということ:視覚以外でわかることも含む)は、ふつうの人よりも霊的に発達しているといえるでしょうか?(ふつうの人よりも霊的な覚醒が進んでいる、という意味)

 ・そういえる
 ・必ずしもそうとはいえない

質問2: 霊的に完全な覚醒に達した人は、必ず「見える」ものでしょうか?(「見える」の意味は、質問1と同じです)

 ・必ず見える
 ・必ずしもそうとはいえない


せっかくですので、回答を「投票」する場所を作ってしまいました。

よかったら投票してみてください。
数日後に、私はどう考えるのかを書くことにします。

(※回答は締め切りました)

またもや

「暴風雪」ですってよ・・snow

intellectus の頽落

前項に関係するが、このブログの性格を考慮して、最も基本的なことだけを書いておこう。

ギリシア哲学では、一般に、人間には高次の認識作用があることが認められていた。高次の認識作用というのは、通常の知性を超えて、より高次の次元から存在世界を理解する能力ということである。その、高次認識能力の部分を「ヌース」と呼ぶ。つまり、人間は宇宙的なことがらを知ることが可能である、と考えられていた。

キリスト教は、高次の認識作用の可能性を否定したわけではなく、それは人間単独の努力では不可能で、そこに神の恩恵やキリストという媒介が必要だと言った。

ギリシア哲学とキリスト教思想の平行・融合として、ローマ時代の哲学が進行していく。

ヨーロッパでは、9世紀のカロリング・ルネサンスによって初めて哲学ができたが、基本的には、ローマ的な、ギリシア哲学(特に新プラトン主義)とキリスト教の融合という色彩が強いものである(例としてエリウゲナ)。

13世紀になり、アリストテレスの影響を受けたトマス哲学が成立したが、そこでもなお、アリストテレスに含まれる「能動知性」のコンセプトを通して、ギリシア的な「ヌース」の思想が流れ込んでいた。トマスによれば、intellectus とは、通常の知性を超えて、存在世界の深みを知ることができる、高次認識作用を指すものである。

簡単に言えば、その後のヨーロッパ哲学の問題点は、そうした「高次認識作用」が人間に潜在することが、疑われ始めたという歴史をたどることである。

その始まりは、14世紀のオッカムであり、その「唯名論」の思想によって、人間の知性が宇宙の深みに入り込んでいくという可能性が否定された。ここに、主観・客観、人為・自然が二元対立する図式ができあがり、それはカントによって完結する。ここで、intellectus は、過去のような高次の意味をはぎ取られ、単なる知性に格下げされていく。

シェリングなど、高次認識作用の思想的復権を模索する動きもあったが、一方では、高次認識作用を前提とする知的営為を求める人々は、知的世界の主流から去り、「神秘学」を形成するという動きも出てきた。シュタイナーなどは、そういう流れにある。

言ってみれば、近代の神秘学とは、知の主流から「高次認識作用」がすっぽり落ちてしまったために、地下にもぐってゲリラ戦に出ているようなものだ、と理解すればよい。
現在の「精神世界」と呼ばれる文化は、そうしたゲリラ戦的神秘学が、閉鎖的なサークルを破り、メディアに乗って大衆化してきた運動である。

仏教では、知には二種類あり、一つは世俗諦(せぞくたい・ふつうの知性を用いた知識)、もう一つは勝義諦(しょうぎたい・ふつうの知性を超えたところでものごとの真理を認識すること)である。

ヨーロッパ思想は、中世までは「勝義諦」を承認していたが、近代になるとその可能性を否定するようになり、「勝義諦」を肯定する立場を「非合理・反合理」と見なし、それに「神秘主義」のレッテルを貼った。そういう立場は地下にもぐった。その状況が今も続いているということである。

従って、「勝義諦」が存在するということを前提として、学問を再構築する必要が出てきているわけで、いろいろ問題点が多いにせよ、トランスパーソナルなどは、その方向へ行っている。

高次の認識作用が人間には可能であるということは、本来、東西の伝統思想では受け入れられていた思想である。それは、むしろ人類思想においては「大道」なのであり、異端ではないのである。

「神秘主義」というカテゴリーの問題性


ともあれ、哲学的・神学的思考の語りは、創造の円環のミーメーシス(模倣的再現)として、創造の究極の高みに迫ることをこころざしていました。

 この神のミーメーシス、イミタチオ、追従、追想は、しかし、けっして今日の意味で「非合理的」なものとも「反知性的」なものとも考えられてはいませんでした。

 早い話が、いましがた見たエリウゲナの「四つの自然」が織り成す神の創造の円環、テオーシス」、「デイフィカチオ」にきわまる創造・被造の円環の遍歴にしても、古典ギリシャというよりは中近東的・ヘレニズム的色合いの強い、神の洞観(ノエイン)にきわまるひとつの整然とした物話(ロゴス)の体裁を取っており、その意味でおよそ反‐知性(ヌース)的でも反-理性(ロゴス)的でもありませんでした。

 この種の思考を「神秘主義」と規定して、ときに反合理的、反知性的なものと見なすようになったのは、実は比較的新しく一八世紀終わりから一九世紀はじめにかけてくらいからのことです。ロゴスがその物語性を失い果てて近代科学や啓蒙の理性・合理性になり、知性もまたカントあたりで高度の知的直観能力としてギリシャの「ヌース」以来保ちつづけていた高い位置からすべり落ちた。いわばその空白、意味論的欠落部分を埋めるべき当惑をはらんだ概念とて作られたのが「神秘主義」の語にほかならないといってよいでしょう。

 mustikos,mysticusという形容詞は古くからありましたが、このほうは、「理性」はいましばらく措くとしても、すくなくとも「知性」と両立不可能な体験にかかわるというように理解されることは、かならずしもありませんでした。

  「神秘主義」という思想的・思想史的カテゴリーを使ってはいけないというつもりはありませんが、しかし、無神経かつ無自覚に、それを過去に投影して使うときは、総じて一七世紀以前のヨーロッパ哲学史は、一見整然と見えながら、その実、救いようのない歪曲(存在忘却とか神の死とか、大きなことはさしあたっていわぬとしても)におちいってしまうことを肝に銘じるべきです。

坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』 岩波書店、p.35-6

以上は、研究家には常識として知られていることなのだが、ふつうの人はあまり知らないことだろう。

つまり、ふつうの意味での知性(悟性ともいうのだが)を超えたところで、存在の根本にかかわる領域について直観できる能力が人間にはあるということは、十八世紀以前には、一般に認められていたのである。
それは、知性に反するものとは見なされていなかった。

近代の人は、そういう、神の領域、霊的な領域に関わることを知的に理解するという「学問」が成立していたということを、理解しにくいらしい。
そういう領域について考える、語るということ自体、反知性的、オカルトであり、「あっちへ行った人」だと思う、これが近代人の偏見である。
そのような偏見は、近代ヨーロッパが生み出した「人類的な知の歴史からの逸脱」なのであり、踏み外しであったので、それを元に戻し、本来あるべき位置に戻すということ、それが霊性思想である。

春物コーナーにて

用事があってジャスコに寄った。一角にクロコダイルのコーナーがあって、通りがかりにちょっと見ると、春物のジャケットがある。それを見て驚いた。チェンジポケットがついている。

春物コートの方にもついている・・ これがトレンドなのかしら? ランズエンドの新作ジャケットもみなチェンジポケットがついているのである。

そこまでディープにトラッドが流行しているとしたら、私としては喜ぶべきことであるが・・ いや、なんせ、田舎のことなので、世の動きには疎いので。

クロコダイルは、品質も値段も、だいたいエディー・バウアーと大差ないように見えた。なんかジャスコっていうとちょっと偏見があるんですが(^^; わるいものではなさそう。

私の衣服大更新プロジェクトは去年の五月か六月から始まっているので、春物はまだ更新されていない。もう少しがんばらねばならない(笑)

※注: チェンジポケットは、右側の脇ポケットのさらに上についている小さなポケットのことで、小銭を入れる用途のものだが、トラッドファッション特有のデザインである。

閲覧ページ記録

過去ログウィークだが、読んでくれているかどうか・・ ココログにはアクセス解析というのがあって、その中に、一人が何ページを表示したかという記録もある。それによると、これまでの最高記録は、一人で一日に538ページを表示した人がいる。第二位は、361ページである。みなさんもがんばっていただきたい・・(笑)

と、いうのも

前回のようなことを書いたのは、メッセージを読んでみて、ごく一部ではあるが、明らかに何か勘違いしている人が見られないわけではなかったことがある。

まるで私を、教祖か何かと思っていて、神か覚者に対してするような質問を、私にしてきたり。
何かの「権威」、お墨付きを求めてきたり。

また、あまりに「精神世界」にひきつけて読もうという人が多いな、とも感じた。

私は、いわゆる精神世界系の本ばかりを読んで、思想を形成してきているわけではない。

私の基本は「不易流行」である。つまり、古典に根ざしつつ、また現代にも真実の表現があることを見ていこう、というものである。

それなりに、キリスト教神秘神学、新プラトン主義、仏教、ヨーガの哲学等々を学び、根本をおさえた上で、現在浮上してきている霊的な情報類にも、重要な意味を持つものがあることを否定しない、という立場である。
そうした総合に立つものが「普遍神学」で、それは一冊にまとめたので、だいたい骨格はできあがっているともいえる。

基本的に、オカルト的な香りのするものは、受け入れていない。
クロウリーの神秘主義など、この世で最もきらいなものの一つである。

「スピリチュアル」という言葉は、今の日本では軽すぎるノリがあるので、あまり好きではない。
それでもあえて使うことがあるのは、人に注目させるための「釣り」である。

過去ログ週間です

しばらくは、どうでもいいことしか書かないかもしれないので、そういうときは一つ、過去ログをゆっくり読んでみていただきたい。

前にも言ったが、ブログというのは、あることを体系的に知るということには、あまり向かないメディアである。
ただ更新を追っていくだけでは、私が考えていることの全体はなかなか伝わらないだろうと感じている。
ある程度まとめて読んでいただきたいのである。さらに、本を買ってもらえればさらにいいのだが(笑)

冬の一日

春物のカタログが来たので読みふけってしまい、ブログの更新など頭になかった(笑) 病院での診察待ちの時間など、頭も使いたくないので、カタログを持っていくとちょうど時間つぶしに最適である。

とはいうものの、外は豪雪モードである。あのごついダウンパーカーは、雪の降る中、「車の雪下ろし」などをしている時には最適なんですが。

浴室の気温が5度しかない。冬場は石油ストーブを持ち込んで暖める。それだけだと時間がかかるので、きょうは電気ストーブも併用する(ガスが使えない場所なので)。

・・と、実は、いろいろなことが進行中だが、そういう裏の事情については非公開とさせていただく。

緊急のエッセンス

急に症状が出て、エッセンスのミックスボトルを作るのもめんどうなときは・・コップの水に、エッセンスを2滴ずつたらして、何回かに分けてすする、という手があった。

眼の奥が痛くなり、首筋が張ってくる頭痛は、葛根湯の適応症状だが、エネルギー的には、光を受けすぎて一時的に目がくらんでいる状態である。物理的な光で目がくらむのと同じだが、それがエネルギーレベルで起こっている。このようなときは、FESのラベンダーとセントジョンズワートを基本にして、あと症状に応じて何かつけ加える。バッチのレスキューレメディーでも当座としてはいいと思う。

サードアイ酷使しすぎ・・チャクラバランスもとらなければ。そこでドリーンの「大天使カード」を引くと「チャクラ・クリアリング」と出たよ。なんかできすぎ・・でもせっかくそう言っているのでチャクラ・クリアリングのCDやってみるか。

変容的?頭痛について

そうそう、変容にともなうものとみられる頭痛にはどうしたら、という質問を送ってきた人がいたけど、そのことについてはこれでもかと何回も書いているはずなんですが・・、あんまり読んでないのかなあ。

とにかく葛根湯ですよ。それから首ホットン。フラワーエッセンスはバッチよりもFESが適している。過去の記事をよく読んでね。

かくいう私は、現在も首ホットン中・・(笑)

喫茶去

期間限定でメッセージを受け取ったが、最近自分はこういうふうに変わってきた、という報告のようなものが多数を占めていた。

一方で、少数ながら、何か思いつめたようなエネルギーで「質問」を送ってきた人もいる。

ここでは、その質問には、あえて答えない。というのも、その人がいま本当に必要としているのは、けっして、その質問の答えではないからだ。むしろ、そのような質問が出てくるような「存在のあり方」を変化させていくことが必要となっているように思えるのだ。存在のあり方(それをエネルギーという表現でも語るのだが)が変わってくれば、自然と、その答えは自分なりに明確になってきたり、また、その答えを知ることはたいして意味がないと思えるようになってくるのである。

いわゆるスピリチュアルというのは何のためにやるのかなど、答えはあまりにも自明である。自分が幸福になるために決まっているのである。一点の曇りもなくそのように断定できるような「存在のあり方」でそこにあるということだ。ここで「じゃあ人のことはどうでもいいの?」などと質問するというのは、頭だけで考えている証拠だ。

禅に、「喫茶去」という話がある。
思いつめた表情で道を問う修行者に対し、「まあお茶をのんで行きなさい」と答える、という話である。
ダージリンにしますか、アッサムですか?
スリランカは、ウバとディンブラでは、またずいぶん違います・・

「それってスピリチュアルと関係あるの?」
その問いに対して、老僧は、何も言わずにほほえむだけである。

特別企画は終了しました

またそのうち、企画したいと思います。

ありがとうございました。

石のお店とゴールデン・タロット

きょうは大雪だというのに、石のお店に遊びに行き、いろいろ見ているうちに結局買ってしまった。クリスタルのクラスターと、ルチルのブレスである。2万円コース。ある程度予想された結果ではあったが・・(^^; ちなみにこれまでのマラカイトのブレスは、全体に白っぽい膜ができたように色がくすんできているので、「お役ご免」ということになった。これまでの間、いろいろと邪気を吸着してくれたらしい。おかげで邪気は受けにくくなったが、ルチルにチェンジしてどのようなエネルギー変化が起こるのか、楽しみである。

お店に「ゴールデン・タロット」が置いてあった。前から気になっていたが中を見ると、その美しさに感心する。これは、ライダーウェイトのデザインの基本を踏襲しつつ、中世・ルネサンス風のシックな絵柄にできている、ひじょうに美しいカードである。オーストラリアの女性デザイナーが一人で全部作ったものである。彼女の趣味らしく、カードにはひんぱんに犬が登場するのもおもしろい。

ついでに、そのタロットでお店のママを占ってあげたら、またもやぴったりのカードが出て大喜びで、石の代金をサービスしてくれたのであった(笑)

下はゴールデン・タロット。
全部、金でふちどりされている。シックであるが、ライダーの図柄がすぐ浮かぶので、意外と占いやすい。速攻で注文したが、これからずっとこのカードにしようかしらん。

1572814349Golden Tarot
Kat Black
United States Games Systems 2003-12

最近の趣味

もともと、日本の古い筆文字を解読するのが好きなので、これまで「古今集」の書道手本とかを読んできたが、この正月以来、「源氏物語」に取り組んでいる。

世の中には不思議な本が出ているもので、源氏物語の写本の影印と、それを活字に直したものが二段組になっているという、影印本を読むための本がある。不思議というか、これは大学の国文学科の授業のために存在しているもので、けっこうなロングセラーであるらしい。

これで読むと、活字で読むとはまったく味わいが違うのである。何というか、「ブツ」に触れている。たしかに「手触り」のあるものに触れているという確実なる感覚がある。

これは、骨董品をいじるという感覚に似ているだろう。活字は、情報である。それは空を飛ぶようなはかなさがある。だが、紙に手で筆写したものは、たとえコピーとはいえ、それが物質としてここに存在しているという手応えがある。この、ここに美が確実に、物質の中に顕現しているという感覚。小林秀雄が書きたかったのもそういうことではなかろうか(今の人は、小林秀雄など読まないであろうな)。

もちろん注はついているが、簡素なものなので、現代語訳を脇に置いて読む。ひじょうにゆっくりとしか進まず、まだ、桐壷、若紫、そして紅葉賀の半分ほどしか読んでいない。

解読することは、上の段に活字があるので対照すればよく、思ったほどむずかしくはない。要は、現代では使われていない字体の仮名がいくつかあるので、そのパターンを覚えてしまえば98%くらいは読めてしまう。英語を勉強するよりはるかに簡単である。(ただ、影印が縮小してあるから小さすぎる。倍に拡大コピーしている)

しかし、もっと根本的にいうと、これを読みながら、「なんか、昔やってたな」という感覚もしてくるのである。つまり、過去の日本に生きていたときの微かな記憶が活性化しているのだろうか?

そういえば、知人で、ヨーロッパ中世の写本の字体を書いてゆくという、カリグラフィーというものをやっている人がいるが、「昔やってたわ」という感覚がしているそうである。

そういうものですかね?

それにしても、源氏物語自体がひじょうに面白い。どこが面白いのかという話は、またこの次にするが。ただ、この対照本は、藤裏葉までしか出ていない。その後は、影印だけが出ている本はあるのだが、そこまでやるのかはまだ未定というところである。

どんな現代語訳を見ても、原文の持っているエネルギーを正確に転写はしていないことがわかる。
その中では、与謝野晶子訳が古典だが、最近のでは瀬戸内寂聴のもまあまあだと思う。

今日の風は

なんだか、ニュースではものすごい地吹雪の映像とかが映っているが、こっち方面はきょうはたいしたことない。昨日の方が風は強かった。

きょうの、対話の試み

「明らかにしなさい」
「何を明らかにするのですか」
「あなたの本体です」
「本体とは何ですか」
「あなたの始まりです」
「始まりとは何ですか」
「始まりは始まりです。始まりは円です。始まりは星です」
「それはどういうことですか」
「あなたの中の銀河の流れです」
「銀河の流れとは何ですか」
「見なさい。その白い光を。見なさい。その虹色の輝きを」
「どういうことですか」
「すべてはよいということです」
「すべてはよいとはどういうことですか」
「その光の中にあるということです」

Liquid Mind VII

ひさびさのリキッド・マインド買ったぞ~

カイマンで、4日注文、13日の到着でした。


Liquid7


Liquid Mind VII: Reflection
Liquid Mind

今日の天候

吹雪いていて、遠くの方が白くかすんでいる。
ひさびさにダウンパーカーの出動である。しかしこれを買う前の去年はどうしていたのだろうか?

髪型更新の話

ヘアスタイルが更新されたと書いたが、どういうものかと言えば、要するに「天然パーマ」(っていう言葉はまだあるのか?)である。まあ、「くしゃ髪」ですな。ヘアワックスというものを用いてやるもので、「動きをつける」とか、表現するらしいが・・

ギャッツビーのヘアワックスが、いろいろカラフルな容器で出ていて、それぞれにそれに適したヘアスタイルの絵がついているが、それでいくと、「オレンジ」のものにあたる。ただ、その絵ほど長くはない。前は短くしていたので、そこまでまだ伸びていないのだが、しばらくは切らずにその絵くらいまで伸ばそうと思う。

ちなみに、そのオレンジのヘアワックスを使ってみたが、たしかに、このスタイルにするにはとてもやりやすい。ダテで絵がついているわけではない。若者をターゲットにした商品のようなので、やや気が引けるが、たしかにめざすのはこのスタイルなので・・

始まることと始まらないこと

考えてみると私は、前から、「始まりかけた人」に対し、その背中をどーんと押してのっぴきならない状況に突き落とす、というワザを得意分野としているようである(笑) そのため、そういうプロセスにある人にはどのような情報やサポートが必要であるか、というようなことは自然と知識が増えていった。

一方で、このまえ「始まらないという人はなぜ始まらないのか」という記事を書いた。「私は始まりません! 始まりません!」と何度も言うような人に出会ったことがあるが、要するに、この人は「自分は始まらない人である」ということを確認して、安心したいのだな、と感じた。つまりそのような意識設定をしていて、それを守りたいという意識がそういう確認を求めているのである。

初めから興味がない人はこんなブログなんかを読むことはないので、そういう場合は、ある部分では興味があるが、その反面恐いという感情があって、「自分は始まらない人であることを確認する、という前提の上で、始まった人のことを読みたい」という状況にあるわけである。

始まるというのは、ただ受け身で待っていていつの日かどーんと始まる、なんていう場合もまったくないわけではないが、そういうケースは少ない。多くは、何かセミナーを受けるだとか、ヒーリングを受けるだとか、瞑想やヘミシンクを始めるとか、何らかの「始めるアクション」がきっかけとなって始まるものである。そのように「やること」など、いまは、やろうとすればいくらでもある。それでも何もやらないのは、要するに「やりたくないから」である。始まるのが恐いからである。

それがいけない、というのではない。自分は始まりたくないが始まった人のことは読みたい、というのはいっこうにかまわない。ただ言わせていただくと、そういう人もいつかは必ず始まる。そういうふうに読んでるということ自体が、始まることの準備が進行していると理解すべきである。しかしまだ、自分が着手する時期には至っていないだけである。初めから、絶対に始まらないと規定されている人などいない。だから、そのように決めつけず、自分はどういう時期にいるのかをよく理解してもらいたいのである。これを読んでいる人のすべては、いずれは始まるのである。ただ、「始まる」のは、「始めることから始まる」のである。そのアクションを恐れなくなったときが、始まる時である。

最近のエネルギー変化

それにしても、今回の新月・食はかなりきびしい。エネルギーの影響で体調を崩す人が続出している。世界的にも、アメリカでは銃の乱射事件が相次いで何十人も亡くなっているし、韓国では南大門焼失である。なんだかすごい・・ エネルギー管理には十分に気をつけなければ。悪いこと言わないから、ポマンダー買っておけば? しかし、どういう方向に向かうのであろうか。過渡期的な状況なのだ。

ちょっとしたヒーリング

きょうは、スピ系の弟子筋?にあたる若い人二人とひさびさにお茶&ディナーであった。

そのうち一人の子が、どうも元気がない。どうもみぞおち、第三チャクラあたりがかなりつまっており、エネルギーが停滞している。さらにそこに、いろいろなネガティブなエネルギーも浮上しているように見える。

話を聞いてみると、スピ系のプロセスのある時期によくみられる症状であることがわかった。バランスが崩れているが、それにはどうも「受け」というか、周囲のネガティブなエネルギーを吸着することも入っているようである。

自分がかつて通った道だと、よく見えるもので、とりあえず思いつく対処法をいろいろ教えた。

まず簡単な方法として、エネルギー的な防御と調整のために、ポマンダーの使用をすすめた。ポマンダーにもいろいろあるが、わからないときはとりあえずホワイトでいい。それから受け体質に効果のある、FESフラワーエッセンスの「ヤロウ環境フォーミュラ」も紹介した。エネルギーワークができる人には、もっと進んだ方法もあるが、とりあえず誰でも効果が出やすいものとして、こういうグッズを使うのが早道である。

また、エネルギーバランスの乱れから身体的にも不調をきたしているので、そういう症状には、肉体レベルにも作用しやすい漢方の使用をすすめる。で、症状を聞いて処方してくれる漢方薬局を紹介する。

あと、気功やヨガなど、ストレッチと共に気を整えていく技法も効果があるだろう。

上下のエネルギーが分離して、気が上がっている傾向があれば、ポマンダーのディープレッドも効果がある。

まあそんなことで、かばんにホワイトポマンダーとクイントエッセンスが入っていたので、それをちょっと試してみる。

ポマンダーを使って気持ちよくなり、そのあとにサナトクマラを三人で使ってみると・・「あっ変わった」とはっきりした変化が感じられた。

照明は変わっていないのに前よりも明るくなった感じが、あきらかにするのである。イメージ的には、微少な光の粒子がきらきらと飛びまわっているような感じだ。

そうなんです、この光は、いくぶんとも「あっち」の世界の感覚に近いんですよね・・とは、はっきり言わなかったが。

改めて、オーラソーマおそるべし、という印象を強くした一瞬だった。

気がつくと、調子の悪かった子が、いつのまにかみぞおちの停滞がなくなり、スムーズに流れており、リラックスした笑顔が浮かんできた。

まさにこれがヒーリングというもの・・という感じであろうか。

なかなか・・

いや~きょうは濃密にエネルギーワークである。

いろいろ、動いているので、なかなか忙しい。時間を無駄にしないようにしないといけない。

きょうのつぶやき

しかし、髪型を変えるのって、エネルギー変化にはすごい影響があるね。まあ、女性には多くの体験があることだと思うが・・

また、タロット五人。今回は「踏みこんだ人」も含むので、霊的問題専用のオショー禅タロットも併用する。
しかし相手が大人なので、いつものような若い子とはちょっと勝手が違った。

またまた、不思議なほど適切なカードが・・というのは、私にとってはほとんど日常的な、あたりまえのことなんだが、タロットが初めての人はびっくりするものかしらん♪

こちらのブログは

こちらのブログは、現在もっぱら「スターパーソン系」のエネルギーで運営されております(笑) したがって、魔術師・魔女・秘密結社系エネルギーの人には合わないかもしれません。

きょうは何か、アクセス数が大変なことになっているが、たまに、一回にきわめて大量のページを閲覧する人がいるのかもしれない。

7日の新月以来、ゆるやかだが確実に、エネルギー変化が進行する。
今夜はなぜか、ひさびさに「チャクラ・クリアリング」である(笑)

天界の美について


日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる 入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず

日暮れ前になってさっと時雨(しぐれ)がした。空もこの絶妙な舞い手に心を動かされたように。美貌の源氏が紫を染め出したころの白菊を冠(かむり)に挿(さ)して、今日は試楽の日に超(こ)えて細かな手までもおろそかにしない舞振りを見せた。終わりにちょっと引き返して来て舞うところなどでは、人が皆清い寒気をさえ覚えて、人間界のこととは思われなかった。(与謝野晶子訳)

これは源氏物語の「紅葉賀」の一節である。
音楽と舞いとのあまりの美に、寒気を覚える、この世のものと思われない、という感情。
こういうものがわかる人こそ、「もののあはれを知る」と言うべきなのだろうか。

さきほど、誘惑に耐えきれず、「花のワルツ」を聴いてしまったが、このときもそれと同種の「寒気」を覚え、この一節が思い出されたのである。

その少し前に、こんな一節があり、

一日の源氏の御夕影、 ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに・・

これは、帝は、源氏の舞い姿のあまりの美しさに、恐くなって、読経などをあちこちでさせたということ、それを聞いた人々ももっともなことだと思った、という意味である。

「ゆゆし」とは、何かこの世を超えたことがらに関わっているような恐さを表す言葉であるらしい。帝は何が恐かったのであろうか。おそらく、「源氏はこのままどこか(天界)へ行ってしまうのではなかろうか」という感情に動かされたのである。そして、そういう感情は、この時代の人々にとっては、理解できることであり、異常な行動ではなかったことを意味している。

ここに何か美の本質が現れているような気がしないだろうか?

「花のワルツ」を聴いていると、天界の美とはいかなるものであるか、その微かな記憶が動き出すような気がして、まさに「ゆゆし」というか、私はなぜここに存在しているのだろう、というこの世ならぬ不思議な気分に引きずりこまれてしまうのである。

しかし、その美の世界から、何かのメッセージを受け取り、それをあえて人間語に翻訳するならば、それは次のようなものになるのである。


いつも喜びの内にあるように。

そういえばパウロもそんなことを言っていたなあ・・と思うのである。

「どこかへ行きそうになる」という衝動こそ、その至高の美の世界からの呼びかけなのであろうか。

ところで、今日の時点で、私がイメージする最高の「天界音楽コンサート」のプログラムは次のようになる。


ワーグナー作曲「楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕への前奏曲」
モーツァルト作曲「クラリネット協奏曲」
(休憩)
ベートーヴェン作曲「交響曲第六番『田園』」

(アンコール曲)
チャイコフスキー作曲「バレエ『くるみ割り人形』より『花のワルツ』」

いや、最初のマイスタージンガーは、「ローエングリーン」の第一幕への前奏曲でもいいかな? そうするとこれは「深い憧れ」の感情から出発することになり、また違った趣となるであろう。
こんな音楽会を誰か企画してくれないだろうか?

次には、「地球界に降下した魂の苦悩を語る音楽」のコンサートプランを作ろう(笑)


なお、「田園」については、あまり有名でないが、次の演奏を強く推奨する。

B000026BSLBeethoven: Symphonies Nos. 4-7
Wolfgang Sawallisch Ludwig van Beethoven Concertgebouw Orchestra Amsterdam
Angel 1999-11-02


ただし、「天界の美」をめざす人は、再生装置にはある程度のお金(10万円以上)をかけてほしい。
それ以下では、はっきり言って、どんなCDがいいのか、という議論はあまり意味がない。CD選びなど二の次である。大事なのはまず再生のクオリティーだ。
またスピーカーは、高音の伸びがいいタイプのものがおすすめである。

更新はつづく

「更新」が継続中。きょうは知人の紹介で新しい美容院に行き、ヘアスタイルが果敢なる変身を遂げる! お見せできないのが残念である・・

着ていった服はすべて更新済みなのは言うまでもない(笑)

一段落したので・・

光を感じて、それの「翻訳」を求めてみた。
言語化できたのはその一部分でしかない。
なんというか、音楽評論を書いているような感じか。
これは「詩」だと思って読むのがまちがいない。


根源の光・・
その光があなたをつつむ
どこまでもその中を歩みなさい

あなたのまわりにある美しいものの中へはいっていき
すべての不純なものを浄化していきなさい
あなたはまわりのものを美しいものへと変えていく
そういう力があなたの中にあるのです
このレインボーの光、七色が溶け合った真っ白い光の流れ・・
その中に入り、漂いなさい

あなたはもはや、弱い者ではない

ホワイトポマンダー

ホワイトポマンダーのエアコンディショナーがなくなってきたので、今度はふつうのボトルを購入。

やはり、ホワイトは基本ですね。その後何色のクイントエッセンスを使っても合うから・・ ホワイトとはレインボーライトなのだ。

ポマンダー+クイントエッセンスのコーディネートって、15×15あるわけだろうが、いろいろ実験してみるのもおもしろいかも。

きょうは忙しいのでこのへんで。

日常話も・・

明日までに卒論7本・・ブログなんて書いてる場合じゃないんだが、ま、気分転換も必要、ということで。

最近、冷え込みが来ている。風邪を引きそうになると、葛根湯と首ホットンである。

実用的な服を購入する。最近、普段着用には、LLビーンのものを着ることが多くなっているのだが、今度は、フランネルのシャツが不足していたので購入。特に「シャミーシャツ」と言われるものの、生地の厚さには驚く。ごついという表現もあてはまるが、かなり暖かく丈夫この上ないので、実用的には申し分なし。お値段も、ジャスコで売ってるようなシャツとさほど変わらないので、なかなかいいかも。

勘違いしている人がいるようだが、LLビーンはオシャレで着るものではありません。実用服です。

SH思想理解度チェッククイズ

というわけで、「SH思想理解度」をチェックするクイズを企画。
「理解していますか?」などと書いてあるが、別に、すべてを知っていると自負するようなポジションから言葉を発しているわけではなく、「SH思想ではそのように考えていることを理解しているか?」というほどの意味である。

わざと、ちょっとむずかしめに書いているので、難易度が高くなっているかもしれない。

最大のハードルは、「世界構造の認識」が、その世界からは超越した地平性の形成によってなされる、という理解。これは、現象学と唯識を徹底的に学べば理解できる。このことを基礎として、地平性形成を「場所」として理解すれば西田哲学の方向へも出られるし、ともかく、地平性の理解が最大のポイントである。そこから、その地平性の彼方と接続しうるという「超越」の可能性を見ることができる。これらは、トランスパーソナルなどをいっさい使わなくても、これまでの哲学を重ね合わせれば到達できる観点であると考える。

もちろん、現象学や唯識では「宇宙根源を措定する」などということは暴挙と思われているということを、知らないわけではない。
それにもかかわらず、あえてそうした根源を措定するという、伝統哲学の基本に従っている。ただし、根源を措定するものの、すぐさまその実体性を否定するという、否定神学的な観点を直ちに導入するのであるが。

ホルヘ・フェレルなどは、仏教的な「無」とブラフマンを同一のものと仮定するのは許し難い、などと言うのであるが、そもそも仏教の無というのも結局は、「そこ」へ行くための方便に過ぎない。方便としての語り方をあまり絶対視するのもおかしい。無とは、別の面から見れば、無限の光と言ってもかまわない。文献的に立証できないなんて、そんなことを気にする必要がないのは、アカデミズムを「踏み越えた」者の強みであろうか(笑)

宇宙根源なんて、「立証」できるはずがない。ただ、そこへ向かっていく「道」があるのみだ。「道」を「証明」に置き換えようとしたことが、哲学のパワーを喪失させたのだと思っている。


SH思想理解度チェッククイズ

Q1:あなたは、「客観的な世界など存在しない」と理解していますか?

Q2:あなたは、世界にはまったく実体はなく、すべては認識に依存することを理解していますか?

Q3:あなたは、その認識構造を作り出す「地平性形成の働き」(これがいわゆる魂のこと)が、この世界に対しては超越として存在していることを理解していますか?

Q4:あなたは、その超越としてある地平性形成の働きが、現在の「私」を構成している「自我性」を作り出す作用でもあることを、理解していますか?

Q5:あなたは、その地平性形成の働きが、現在の私の身体性の原因となっていることを、理解していますか?

Q6:あなたは、その地平性形成の働きは、現在の私において成立している世界構造とは異なる世界構造を成立させる可能性をもつことを、理解していますか?(わかりやすくいえば、魂は、複数の生を展開させている、ということ)

Q7:あなたはまた、上記の「複数の生」は、根本的には時間的に継起するものではなく、時空を超越した領域において、同時に生起するものであることを理解していますか?

Q8:あなたは、私以外の生物や、また自然、地球などは、それ独自の地平性を持ち、それらの地平性と私の地平性との交響によって、いまここでの世界認識が成立しているということを、理解していますか?

Q9:あなたは、私が「私である」という認識が成立するのは、宇宙根源の自己性の分有としてこの私が存在することに由来するからだということを、理解していますか?

Q10:あなたは、この地平性は多次元的であり、重層していて、それはさかのぼれば宇宙根源より発していることを、理解していますか?

Q11:あなたは、「私」は多次元的な地平性を内蔵する存在であり、またその根底において、根源への超越へと開かれている存在であることを、理解していますか?

Q12:あなたは、宇宙には、現在の私の世界地平とは交わらない地平性をもつ存在者があり、私の五感では知覚できなくとも、彼らとの交流が常に行われているということを、理解していますか?

Q13:あなたは、宇宙根源はある意思を持ち、全宇宙をある完成した状態へ向けて運行しているということを、理解していますか?

Q14:あなたは、宇宙根源、もしくはその意思を体現するところの存在者は、上記の目的のため、私に対してエネルギーを発してより根源へと引き上げるという可能性があることを、理解していますか?

Q15:あなたは、上記のことすべてが、伝統思想には含まれており、何も新しいものはないということを、理解していますか?

ちょいとお断り

この一週間のアクセス数の平均が1000を超えているが、はたして、そのうちどのくらいの人が、「SH思想」を理解してくれているであろうか?

以前によくあった誤解を正しておくと・・

「トランスパーソナル心理学」はやっていません。
「霊性の存在を学問的に証明すること」もやっていません。

霊性の問題というか、そもそも思想というものに「証明」はありえない、という立場である。厳密なる証明を求めるという知のあり方が有効な領域もあるであろうが、霊性にはそれはあてはまらない。霊性に関することがらはつきつめればアート的表現となるしかないと考えている。

「霊性とアカデミズムを結ぶこと」も、意図的にやってはいません。

アカデミズムというのはここでは狭義の意味で、既成の学問研究者集団によって構成されている知的生産活動を指す。私はそういうものにことさら「認められたい」との姿勢でやってはいない。そういうことはどちらでもいいのである。ただ自分の求める表現を追求することしか関心はない。

そういう試みを否定するわけではないが、ことさらに自分の表現方法を狭くするつもりもない、というか。
ただ、そういう形で書くことも、ないわけではない。

たとえばいえば、交響曲だけじゃなくて弦楽四重奏曲も書くよ、ていうようなものである。
「作曲とは弦楽四重奏曲のみが正当である」ということはありえない。今の思想アカデミズムは、それと同様の、表現メディアに対する規制があるので、それに従順であるつもりはないということである。

アロマとオーラソーマ

最近はアロマではなくて、そのかわりにオーラソーマのポマンダー、クイントエッセンスを使うことが多くなっている。

アロマは、気分的なものやいろいろな肉体的症状に効果はあるのだが、エーテル体やアストラル体への効果というか、本格的な「スピリチュアル・アロマセラピー」ができるかという点になると、生活の木クラスのアロマでは、それほどものすごく効くというわけにはいかないのだ(ある程度の効果はあるが)。そのためには「セラピークラス」といわれる、もっとお高い高級バージョンを使わなくてはいけないらしい。

私はエクイブリアムボトルを使わず、ポマンダー・クイントエッセンスから入るという変則だが、これらはふつうのアロマよりも一段上の次元のヒーリングだという感じがする。お安くないが、少しずつ買いそろえてもっと多くの種類を手元に置きたいと思う。

きょう感じたメッセージ

イメージを受け取ることにこだわらなくてもいい。
どこまでも上に突き抜けてみなさい。
そのエネルギー・光を受けるということの方がたいせつだ。

リカバリー?

三日違いでセールを逃したコートは・・ものはなかなかいいですよ。ただ春先向きなので、きょうの雪空にはまたヘビーなダウンパーカーが出動である。

3700円得をし損なったが、別のお店で、期間限定割引とキャンペーンコードによって3900円の得をしてカバーしたのだ。よく考えるとそういう問題ではないが、きょうは頭がヘリクツモードになっているのである(笑)

ちょっといってるマーク

気がつくと、この埼玉県のマークは、スピリチュアルな観点からけっこういけてるように思える。

Saitama_2


ちなみに私は埼玉県出身。「埼玉県歌」の一番も歌えるのだ(笑)
♪秩父の雲のむらさきに~~♪♪

花のワルツ

最近は、「第五」も時々聴くが、最も好きなのは、ほかでもない、チャイコフスキーの「花のワルツ」である。

この音楽は、強烈に、「天界の記憶」を刺激する。これはバレエ「くるみ割り人形」の一曲であることはいうまでもない。バレエのDVDで見ると、あまりに天界のエネルギーを強烈に感じるので、その後、天界へのノスタルジーに圧倒され、日常生活に戻りにくかったりするので(笑) ふだんは、音楽にとどめておく。

実際、天界がいかに素晴らしいところであるところかを少しでも思い出しさえすれば、この地上的な生の問題の多くはそれだけで解決してしまうのではないかと思っている。

「花のワルツ」を舞うように、この地上的な生を送ることができたら、と最近思う。
いや、このワルツのフィニッシュの瞬間に、地上から消えて、天界へと移動してしまうのが理想かもしれない(笑)

天界の波動を表現するには、「舞い」が最もふさわしいメディアかもしれない。

バレエには、「白鳥の湖」や「ラ・シルフィード」のように、天界と地上との二元対立をテーマとしたものもあるが、私はどちらかというと、「くるみ割り人形」「ドン・キホーテ」「海賊」みたいな、ひたすらに踊りまくるような作品の方を好んでいる。

私がこの記事で言いたいことは、要するに「天界とはいかに素晴らしいところなのか」ということである。それは言葉で説明しても仕方がないから、たとえば「花のワルツ」を聴いてみたら、と言うのである。

愛とか、光とか、言葉だけで言っても仕方がない・・実際に、それを味わってみなくては。

CDも安いですから・・(たとえばこれ↓)

B000I0S89Mチャイコフスキー:3大バレエ
カラヤン(ヘルベルト・フォン) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 シュヴァルベ(ミシェル)
ユニバーサル ミュージック クラシック 2006-11-08

これでいいのだ

用事があって何かのお店に入ったときに、テレビがついていることがあって、時々「天才バカボン」をやっているのに出くわすのである。

それにしても、あのテーマソングは、何ともインパクトのある言葉が並んでいるな、と思う。

これでいいのだの連呼である。すごいですね~このバカボンのパパの「これでいいのだ」は。私はこれを、「宇宙の全肯定」と呼びたい。いかなることがあろうとも、最後に「これでいいのだ」と断言するということ。何があっても、またまったく理由もなく、論理もなく、ただ、「これでいいのだ」と断言する。・・このセンスが、なかなかいけてます。

そして、元祖天才バカボンのパパだから、パパなのだも、圧倒されますね~ 私はこれを「究極的な自同律の強靱さ」と呼んでおこう。まったく何の理由も論理も提示されず、ただそのように断言するというセンスがまたひじょうにすばらしいのである。これを言い換えてみよう。「私は私だから、私なのだ」である。なんという強靱なる言葉ではないか・・

さて、この記事は、もちろん、へりくつである。しかし、これでいいのである(笑)

卒論7本

渡されたが、なんか、とんでもなく重いですね。5キロ以上はありそうな・・

霊的体験は近代的世界観をはみ出るもの

結局、今までの霊性的学問が駄目であったのは、本当の体験から離れたところで、文献的知識ばかりで構築された思想であったということ。これは根本的にある問題だ。

また、現実に体験の世界で生じる事象は、近代世界の「常識」とあまりに離れすぎていて、下手に語ればたちまち「怪しい人」になってしまうという状況があったことだ。つまり、哲学以外の大多数の学問は、世の中の「常識」を前提として、その上で構築されている。しかし霊的体験は、その常識的世界観を逸脱してしまうから、そうした近代的学問の枠組みのみでは、語ることができないのである。むしろ、超近代的なる事象を、近代人が理解できる枠組みで説明しようとすることとなってしまうが、これはもう立派な「反動勢力」ということになるのである。

残念ながら、宗教学や人類学といわれるものの一部には、そういう、近代的世界観を防衛するための「反動」となってしまっているものもないわけではない。

近代的世界観を崩さないという前提の上で霊性を統合したい、などというのはむなしい欲求である。そのようなことはありえない。近代的世界観の成立根拠を厳しく問い詰めていく方向の先にのみ、霊性の知的な把握がありうるのだ。その意味で、哲学の基本知識が入っていない霊性の学問は、基本的に危ういのである。宗教学なんて中途半端な学問をやっている人にはそういう危うさがつきまとう。

霊的体験など、まともに語れば「ぶっ飛び」に決まっているのである。ぶっ飛びでないものなど、ホンモノではない。つまりその本質として、近代的世界観をはみ出るものが含まれている、という意味だ。だから、そもそも、ぶっ飛びだと思われないように語っているというのは、世間の誤解を避けるためにあえて言葉を濁しているのか、それとも本当は体験的にはあまりわかっていない人なのか、そのどちらかである。

しかし、近代的世界観をはみ出るということは、即、怪しいということではない。非近代的な哲学をよく勉強するならば、存在についての根本的に異なった理解がありうることがわかるのである。

近代の霊性思想を見ると、「わかっている人が、あえて言葉を濁して語った」ものを、「体験の乏しい人」が、そのように書いてあるものがすべてだと本だけで理解して、それが「ホンモノの霊性」だと誤認する、というプロセスが認められる。

だから、わかっているのかの真価が問われるのは、禅などで「魔境」として退けられる「アヤシゲ」なゾーンを、きちんと位置づけられるものになっているのか、という点だ。

ウィルバーの思想はその点、明らかに「逃げ」が入っているし、それに追随する人々は、残念ながら本だけで理解する人々ではないかと思う。

べつに、アヤシゲではない。ただ、天使的存在というのと、魔的存在というのがいますよ、と言いたいというだけのことなんだが(笑) その程度のことがアヤシゲと思われてしまう近代的世界観というのは、よくよく出来の悪いものだ、というしかない。

ボディケア

身体技法は、無理をしてはいけない。少しでも続けるということが大切だ。ピラティスはたくさんやればよいというものでもないので、少しずつレパートリーを増やしていく。ピラティスというのはものすごくワークの種類があるのか、今度の本で私が知っているのはちょっとしかない。最もベーシックなものからいってみる。

ヨーガも平行したいが、龍村修さんのDVDでは、「修正法」がよさそうだ。これも欲張らず、まずこれだけでも毎日のメニューに加えたいところだ。

これらはワークというより「ボディケア」という感じだ。私が前から持ってるピラティスのビデオなんかは、わりとワークアウトの要素もあって、腹筋運動でやせるというところもあるが、今度のはケアという感覚だ。

またどうでもいい話

この前注文した春コートだが・・注文した翌日に、1500円割引特典のニュースレターが来て、ショックを受けたと思ったら、そのまた二日後に、いきなり10%セールはないでしょう・・わずか三日の違いで3700円もの差が生じているんですが・・まさかこんなに早くセールになるとは読めなかった。別に損をしたというわけではないだが、損をした気分になりますね(^^; 数ヶ月たってセールになるのならアキラメもつくんだが・・

大ショックですよ・・もう少しでオーラソーマのポマンダーも買えようという金額だ・・

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