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intellectus の頽落

前項に関係するが、このブログの性格を考慮して、最も基本的なことだけを書いておこう。

ギリシア哲学では、一般に、人間には高次の認識作用があることが認められていた。高次の認識作用というのは、通常の知性を超えて、より高次の次元から存在世界を理解する能力ということである。その、高次認識能力の部分を「ヌース」と呼ぶ。つまり、人間は宇宙的なことがらを知ることが可能である、と考えられていた。

キリスト教は、高次の認識作用の可能性を否定したわけではなく、それは人間単独の努力では不可能で、そこに神の恩恵やキリストという媒介が必要だと言った。

ギリシア哲学とキリスト教思想の平行・融合として、ローマ時代の哲学が進行していく。

ヨーロッパでは、9世紀のカロリング・ルネサンスによって初めて哲学ができたが、基本的には、ローマ的な、ギリシア哲学(特に新プラトン主義)とキリスト教の融合という色彩が強いものである(例としてエリウゲナ)。

13世紀になり、アリストテレスの影響を受けたトマス哲学が成立したが、そこでもなお、アリストテレスに含まれる「能動知性」のコンセプトを通して、ギリシア的な「ヌース」の思想が流れ込んでいた。トマスによれば、intellectus とは、通常の知性を超えて、存在世界の深みを知ることができる、高次認識作用を指すものである。

簡単に言えば、その後のヨーロッパ哲学の問題点は、そうした「高次認識作用」が人間に潜在することが、疑われ始めたという歴史をたどることである。

その始まりは、14世紀のオッカムであり、その「唯名論」の思想によって、人間の知性が宇宙の深みに入り込んでいくという可能性が否定された。ここに、主観・客観、人為・自然が二元対立する図式ができあがり、それはカントによって完結する。ここで、intellectus は、過去のような高次の意味をはぎ取られ、単なる知性に格下げされていく。

シェリングなど、高次認識作用の思想的復権を模索する動きもあったが、一方では、高次認識作用を前提とする知的営為を求める人々は、知的世界の主流から去り、「神秘学」を形成するという動きも出てきた。シュタイナーなどは、そういう流れにある。

言ってみれば、近代の神秘学とは、知の主流から「高次認識作用」がすっぽり落ちてしまったために、地下にもぐってゲリラ戦に出ているようなものだ、と理解すればよい。
現在の「精神世界」と呼ばれる文化は、そうしたゲリラ戦的神秘学が、閉鎖的なサークルを破り、メディアに乗って大衆化してきた運動である。

仏教では、知には二種類あり、一つは世俗諦(せぞくたい・ふつうの知性を用いた知識)、もう一つは勝義諦(しょうぎたい・ふつうの知性を超えたところでものごとの真理を認識すること)である。

ヨーロッパ思想は、中世までは「勝義諦」を承認していたが、近代になるとその可能性を否定するようになり、「勝義諦」を肯定する立場を「非合理・反合理」と見なし、それに「神秘主義」のレッテルを貼った。そういう立場は地下にもぐった。その状況が今も続いているということである。

従って、「勝義諦」が存在するということを前提として、学問を再構築する必要が出てきているわけで、いろいろ問題点が多いにせよ、トランスパーソナルなどは、その方向へ行っている。

高次の認識作用が人間には可能であるということは、本来、東西の伝統思想では受け入れられていた思想である。それは、むしろ人類思想においては「大道」なのであり、異端ではないのである。

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