霊的体験は近代的世界観をはみ出るもの
結局、今までの霊性的学問が駄目であったのは、本当の体験から離れたところで、文献的知識ばかりで構築された思想であったということ。これは根本的にある問題だ。
また、現実に体験の世界で生じる事象は、近代世界の「常識」とあまりに離れすぎていて、下手に語ればたちまち「怪しい人」になってしまうという状況があったことだ。つまり、哲学以外の大多数の学問は、世の中の「常識」を前提として、その上で構築されている。しかし霊的体験は、その常識的世界観を逸脱してしまうから、そうした近代的学問の枠組みのみでは、語ることができないのである。むしろ、超近代的なる事象を、近代人が理解できる枠組みで説明しようとすることとなってしまうが、これはもう立派な「反動勢力」ということになるのである。
残念ながら、宗教学や人類学といわれるものの一部には、そういう、近代的世界観を防衛するための「反動」となってしまっているものもないわけではない。
近代的世界観を崩さないという前提の上で霊性を統合したい、などというのはむなしい欲求である。そのようなことはありえない。近代的世界観の成立根拠を厳しく問い詰めていく方向の先にのみ、霊性の知的な把握がありうるのだ。その意味で、哲学の基本知識が入っていない霊性の学問は、基本的に危ういのである。宗教学なんて中途半端な学問をやっている人にはそういう危うさがつきまとう。
霊的体験など、まともに語れば「ぶっ飛び」に決まっているのである。ぶっ飛びでないものなど、ホンモノではない。つまりその本質として、近代的世界観をはみ出るものが含まれている、という意味だ。だから、そもそも、ぶっ飛びだと思われないように語っているというのは、世間の誤解を避けるためにあえて言葉を濁しているのか、それとも本当は体験的にはあまりわかっていない人なのか、そのどちらかである。
しかし、近代的世界観をはみ出るということは、即、怪しいということではない。非近代的な哲学をよく勉強するならば、存在についての根本的に異なった理解がありうることがわかるのである。
近代の霊性思想を見ると、「わかっている人が、あえて言葉を濁して語った」ものを、「体験の乏しい人」が、そのように書いてあるものがすべてだと本だけで理解して、それが「ホンモノの霊性」だと誤認する、というプロセスが認められる。
だから、わかっているのかの真価が問われるのは、禅などで「魔境」として退けられる「アヤシゲ」なゾーンを、きちんと位置づけられるものになっているのか、という点だ。
ウィルバーの思想はその点、明らかに「逃げ」が入っているし、それに追随する人々は、残念ながら本だけで理解する人々ではないかと思う。
べつに、アヤシゲではない。ただ、天使的存在というのと、魔的存在というのがいますよ、と言いたいというだけのことなんだが(笑) その程度のことがアヤシゲと思われてしまう近代的世界観というのは、よくよく出来の悪いものだ、というしかない。