天界の美について
日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる 入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。日暮れ前になってさっと時雨(しぐれ)がした。空もこの絶妙な舞い手に心を動かされたように。美貌の源氏が紫を染め出したころの白菊を冠(かむり)に挿(さ)して、今日は試楽の日に超(こ)えて細かな手までもおろそかにしない舞振りを見せた。終わりにちょっと引き返して来て舞うところなどでは、人が皆清い寒気をさえ覚えて、人間界のこととは思われなかった。(与謝野晶子訳)
これは源氏物語の「紅葉賀」の一節である。
音楽と舞いとのあまりの美に、寒気を覚える、この世のものと思われない、という感情。
こういうものがわかる人こそ、「もののあはれを知る」と言うべきなのだろうか。
さきほど、誘惑に耐えきれず、「花のワルツ」を聴いてしまったが、このときもそれと同種の「寒気」を覚え、この一節が思い出されたのである。
その少し前に、こんな一節があり、
一日の源氏の御夕影、 ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに・・
これは、帝は、源氏の舞い姿のあまりの美しさに、恐くなって、読経などをあちこちでさせたということ、それを聞いた人々ももっともなことだと思った、という意味である。
「ゆゆし」とは、何かこの世を超えたことがらに関わっているような恐さを表す言葉であるらしい。帝は何が恐かったのであろうか。おそらく、「源氏はこのままどこか(天界)へ行ってしまうのではなかろうか」という感情に動かされたのである。そして、そういう感情は、この時代の人々にとっては、理解できることであり、異常な行動ではなかったことを意味している。
ここに何か美の本質が現れているような気がしないだろうか?
「花のワルツ」を聴いていると、天界の美とはいかなるものであるか、その微かな記憶が動き出すような気がして、まさに「ゆゆし」というか、私はなぜここに存在しているのだろう、というこの世ならぬ不思議な気分に引きずりこまれてしまうのである。
しかし、その美の世界から、何かのメッセージを受け取り、それをあえて人間語に翻訳するならば、それは次のようなものになるのである。
いつも喜びの内にあるように。
そういえばパウロもそんなことを言っていたなあ・・と思うのである。
「どこかへ行きそうになる」という衝動こそ、その至高の美の世界からの呼びかけなのであろうか。
ところで、今日の時点で、私がイメージする最高の「天界音楽コンサート」のプログラムは次のようになる。
ワーグナー作曲「楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕への前奏曲」
モーツァルト作曲「クラリネット協奏曲」
(休憩)
ベートーヴェン作曲「交響曲第六番『田園』」
(アンコール曲)
チャイコフスキー作曲「バレエ『くるみ割り人形』より『花のワルツ』」
いや、最初のマイスタージンガーは、「ローエングリーン」の第一幕への前奏曲でもいいかな? そうするとこれは「深い憧れ」の感情から出発することになり、また違った趣となるであろう。
こんな音楽会を誰か企画してくれないだろうか?
次には、「地球界に降下した魂の苦悩を語る音楽」のコンサートプランを作ろう(笑)
なお、「田園」については、あまり有名でないが、次の演奏を強く推奨する。
Beethoven: Symphonies Nos. 4-7 Wolfgang Sawallisch Ludwig van Beethoven Concertgebouw Orchestra Amsterdam Angel 1999-11-02 |
ただし、「天界の美」をめざす人は、再生装置にはある程度のお金(10万円以上)をかけてほしい。
それ以下では、はっきり言って、どんなCDがいいのか、という議論はあまり意味がない。CD選びなど二の次である。大事なのはまず再生のクオリティーだ。
またスピーカーは、高音の伸びがいいタイプのものがおすすめである。
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