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衝撃的CDその後――レムリアンブレス

この前書いた「クリスタル・ヒーリング」のCDであるが、このところ、毎日2~3時間は流れている状態・・ますますこのエネルギーに入っていっている。

そして、第2曲「レムリアの記憶」にそのエネルギーが使われている石――アマゾナイト、クリソコラ、そしてウォーターメロントルマリンを用いて、「レムリアンブレスレット」を作る計画が、このほど実行に移された。

行きつけの店で聞くと、ウォーターメロントルマリンは、かなりお高いらしく、これのブレス用丸玉は出ていないという。一時は、が~んということになりそうだったが、ウォーターメロントルマリンの小さなタンブルを、ブレスに金具をつけてぶら下げるというデザインによって、問題解決。

緑の石を基調にしてクリアクォーツなども混ぜ、なかなか好ましいエネルギーとなる。できるのは一週間後である。さて私自身のエネルギーもまた変化していくであろうか?

クォンタムタッチとレイキ

きょうは、クォンタムタッチを体験した。正式のものではなく、セミナーで習ってきた人を講師にして、どんなものかを体験する企画である。

まあやってみると、「たしかに本に書いてある通りだった」ということになるが、それをライブで体験するということに意味があったというか。でも、自分で45000円のセミナーに行かなくても、これで十分かもという感じもある。

クォンタムタッチのキモは呼吸法であるようだ。そして、エネルギーの通り方としては、大地から上げて、頭頂を通して両手へ抜けていく。

そのせいか、大地系のエネルギーであるように感じられる。明らかにレイキのエネルギーとは違うものである。
光という感じはあまりせず、むしろ温泉に浸かってるような感じだった。

ただ長時間ずっと呼吸法をつづけていくのはけっこうしんどい。レイキをやってる人は何もしなくても流れていくので、その楽さに慣れてしまうとちょっときついかも。

クォンタムタッチは、本だけでも勘のいい人はできそうだし、こうやって知っている人に習えるなら、それなりにやっておいて損はないかな、という感じはする。ただ、45000円の予算だと、レイキのセカンドまで受けられるわけで、初めての人が投資するならそっちのほうがいいのじゃないかなあ、という気もしている。レイキをすでにやっている人がやる必要は必ずしもない。やっても損はないけれども。呼吸法の部分はレイキではいらないので。レイキと併用するとすれば、むしろ、セラピューティックタッチのような技法のほうが向いているかもしれない。

クォンタムタッチの本にはいろいろ技法が出ているが、これはレイキのエネルギーでもできるかもしれないな、とも思えるものがある。これは今後、実験してみるか。

小青龍湯の威力

鼻の調子が悪かったが、これはたぶん変容の症状ではない。単なる風邪のひきかけである。私は花粉症にはならないので、まさかとは思うが・・

しかし、最近、こういうときには「小青龍湯」一発でたちまち回復してしまう。これは何とも変な味だが、効き方がすごい。飲んだ直後から、鼻腔周辺の気の流れが変化してくるのがわかる。ものすごい速効である。

今のところ、すべてこれ一発で治っている。このところこういう日常的な不調はほとんど漢方薬で治している。なかなか日本にはなじみのないホメオパシーに手を出すよりも、まずは漢方の活用を考えるべきだなと考える最近である。

B000YZN75Qツムラ漢方 小青竜湯エキス顆粒 24包
株式会社ツムラ

いろいろ出ているが、どれ買っても同じですよ。

雨ですので

最近、ホワイトセージが気に入って、しょっちゅう部屋に煙を流している。

さて、今日の予定は、加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』の読解である。
これはとても重要な著作のようなので、購入して保存版とすべきだろう。

もし、これから哲学を専門的に勉強したいという奇特な若い人がいたら、ギリシア・ラテン語を学び、教父や中世の哲学を専門に選ぶのをすすめたい。
いろいろ見ていて、結局それがいちばん「霊性」を哲学として追求できる領域であるように感じられるからだ。

あるいはもっと意欲があれば、イスラム哲学とか。日本ではひじょうに人材が不足しているし。

インド哲学も、知っておく価値はあるが、学界があまりに閉鎖的なので、創造的なことを行っていくのは、ちょっとむずかしい。就職もないし。

近現代哲学は、解説書も多いし、専門にせずとも自分でやるだけで十分である。

穴場としては、ロシアの近代神秘哲学で、これは相当なるぶっ飛びと言ってもさしつかえない。
「神化の思想」を近代においてマジメに追求しているというなんともアッパレな人びとの話である。
たぶん、私自身の、社会に対するスタンスとしては、こういう人びとにいちばん近いのであろうと思う。

コレですよ。

4796702032ロシアの宇宙精神
スヴェトラーナ セミョーノヴァ ガーチェヴァ 西中村 浩
せりか書房 1997-01

大多数の人には、ついていけないのか、ほとんど評判になってませんね・・
永井均あたりにかじりついているようではどうしようもないのに、ねえ。

ともあれ、
霊性の思想として、よいものは、すでにたくさん出ている。世が、それを受け入れることができていないのである、と私は考えている。きのう書いた稲垣先生にしてもそうである。

しかしこのブログとしては、しばらくは、ぶっ飛びモードも封印かも? とはいえ、ぶっ飛びとかそうでないかとかいうのは、世の常識が勝手に引いているラインに過ぎず、私はただリアルな世界に生きているのみだということは、再三述べているところである。ま、いちおう世ではどのあたりにラインを引いているのか知っておくことは、処世術として必要ではあろう。

信仰(霊的感覚)と知性

さて・・このところ、身辺には読みたい本が山積みであるので、退屈するひまはない。

読んでばかりいては自分の本を書く時間がないが、つい、「このことをもう少し調べてから」などと思っていると、時間が過ぎてしまう。というわけでもう数年が過ぎてしまったが、そろそろ、決め時かもしれない。

しかし、最近の、ヨーロッパ中世哲学・神学についての勉強は、かなり役に立ったと思う。それまでは、東方教父の思想に親しんでいたが、中世のスコラは、哲学と神学との関係ということをかなりつきつめて考えている。そこがなかなか参考になる。

その主要なテーマは、信仰と知性との関係ということである。ここで、信仰というと何か古くさい感覚を受ける人がいるかもしれないが、私なりに解釈すればそれは「霊的感覚」とでもいうべきものに近いと思う。あるいは「魂レベルでの直観」と言ってもいいだろう。
そういうものがたしかにあるという人間経験をふまえて、そのことの意味を限界まで追求し、知性の限界を押し広げていく。そのような哲学のあり方があった。それは近代になって不可能になってしまった。ある人が「霊性が学問になるなんて考えもしなかった」と言っていたのが印象に残っているが、そのように、現代にふつうに教育を受けると、霊的感覚と知性の世界はまったく別物であり、その両者が協働するなんてあり方はまったく想像だにできなくなってしまう。

したがって、中世哲学をやると、

・そのような、霊的感覚と知性とを協調させ、霊的な叡知の浸透した知の体系をつくるという行為は、いかにして可能であったのか。
・そのような協働体制が崩れて、霊的感覚と知性とが分離し、きわめて世俗的な理性の立場が知的世界の標準となってしまったという事態は、なぜ、どのように生じたのか。

このような問題について理解を深めることができる。

そういうことで、入門書として素晴らしい本がある。稲垣良典『信仰と理性』(第三文明社レグルス文庫、1979)である。

近代人の「常識」が、単なる先入観にしかすぎないことが明晰に述べられている。哲学のむずかしいところにはつっこまず、きわめて平易に書かれているので、中世スコラ哲学全般への入門として最適。・・ということだが、残念ながら絶版である。図書館にもあるかもしれない。私は最近読んだばかりだが、あまりにいい本なのでびっくりした。稲垣先生はもちろんマークしていたのだが、この本だけは今まで網から漏れていたのである。

さきほどの二番目の問題について言えば、やはりそれはオッカムだという。稲垣先生はその後、大部の専門的オッカム研究書を出しているが、それは近代的な知の体制がどこから始まったかを見定めようというねらいだろう(この本は、以前少し読んだがひじょうに難解だったので、改めてトライしようと思っている)。それはある意味では、フーコーの「知の考古学」のようなものである(フーコーは、『言葉と物』において、ルネサンス期のヘルメス主義思想の「照応する宇宙」と対比する形で近代知の成立を論じている)。

そしてもう一人、オッカムと対比的なのはルターである。
オッカムとルターは、信仰(私がいうならば霊的感覚)と知性とを厳しく分離すべきことを強調した点において共通しているという。
つまり、知性は人間の持つ霊的感覚の問題を扱ってはならない、そういうものは知の領域から厳しく排除すべきであるという考えは、プロテスタント、あるいはピューリタン的な宗教観に由来する発想なのである。
中には、霊的感覚の問題をとりあげるだけで、そんなものはオカルトだ、怪しい、というような印象を持つ人もいるだろう。私のこともそんなふうに見ている人も世の中にはいるだろう。私に言わせれば、骨の髄まで近代的な枠組みに毒されているので、それは必ずしも自明ではなく、歴史的に成立した知の体制(フーコーの言う、エピステーメーの台座)だということが見えないのである。

ただここで、霊的感覚というのは、よくスピリチュアルということばから連想されるような、江原サン的なものを言うのではない。つまりアストラル的な霊視のことを言っているわけではない。むしろ、「人間が持っている基本的な自己超越性」にかかわるものである。つまり、「私が本来、魂であること」や「私の魂は、その根底へおいて、超越的次元へと開かれている」という感覚のことを言っている。それがここでいう霊的感覚である。それはむしろ人が人である限り最も中核をなしていることがらであって、それを知の体制から排除したことが、いかにして文明をゆがめたか、という問題意識を持つべきだということである。

私の思想は、近代の知の体制を根本的に疑い、その相対性を自覚するところから始まっている。
決して、近年のスピリチュアルブームに乗って騒いでいるような浮かれたものではない。精神世界本も悪くはないが、それが「オカルト」と見なされ、サブカルチャーの中で栄えるというだけでは足りないのではなかろうか。セブンアンドワイという本屋では、精神世界本がすべて「エンターテインメント」の中のオカルトの項に分類されてしまっているのだが、これがいまだに世間一般の見方である。ここに欠けているのは「形而上学」というものが知性の拡張をめざす伝統的な行為であるという発想である。稲垣先生の『信仰と理性』に書かれていることを多くの人が理解していたら、世の中はとっくに変わっているはずである。ところが、それが出た当時も今も、中世哲学の可能性など考える人もあまりない。しかし、その可能性を徹底的に受け止めるならば、それはキリスト教という枠を打ち破って、仏教・インド的な伝統とも対決しつつ、より普遍的な霊性哲学へと進む以外にないはずである。なぜ、そういうことをやろうという人がいないのであろうか。私の試みが「怪しい」と思われなくなる日はいつ来るのであろうか。こういう状況では、「スピリチュアル」ということばで人を釣るのはやめて、「宗教哲学」とでも名乗っておいた方が、地味ではあるが確実なのかもしれないと思うこともある。

なお、たしかにこのブログでは、人が「ぶっ飛び」と思うかもしれないな、ということを書いてはいるが、私にとっては、それは単に「リアル」なことを書いているだけである。世間の常識が引いた境界線なんて、本当にリアルなものにくらべるとたいした意味はない。たとえば微細エネルギーの技術だって、慣れてしまえば、スイッチを押せば電灯がつくくらいに自然なことである。昔の人が21世紀にタイムトリップして、スイッチを押すと電灯がつくところを見たら、それは「魔術」に違いないと思うだろう。ただ、リアルなものはリアルだというだけのことである。私はそういう経験をしているのと同時に、それを完全にリアルとして位置づけられるようなリアリティの地図を持っている。だから別に何の驚くこともないのである。

霊性への女性性的アプローチ

きのうは、書きたくても、ココログがメンテナンスでどうしようもなかったのだ。

普遍神学について知りたい人は、とりあえず、右コラムのいちばん下にある検索ボックスで、「このブログ内を検索」をやれば良し。

私は、いわゆる「スピリチュアル・カウンセラー」ではない。そういうものを求める人は、ほかをあたっていただければと思う。あくまで、思想的表現がこのサイトの目的である。

とはいうものの・・別にカウンセラーではないが、気になることがある。

時々、こういう声を聞く。「ヨガや瞑想をやっているが、スピリチュアルに何の関心もないような人が元気で生き生きと暮らしているのを見たり、スピリチュアルに関わっている人が良くないことをしているのを見聞きすると、ジレンマを感じてしまう」

端的にいうと、こういう状態のことを「迷い」という。

こういう文の波動から感じられるのは「無理してやっている感じ」である。つまり、瞑想などはやるものの、そこから「喜び」が得られていないことがわかる。そういうものを得たいのだが、なかなか得られない。そこで、これでいいのかと迷い始めるという状態なのである。

こういう人は、そういう霊的な探求への関心について、周りに話ができる人がいないということも多い。そういう人がいればそれほど迷わないからだ。

これは、探求を始めた初期に出やすいことで、探求のプロセスにおいては苦しい時期だといえよう。
これまでの世俗的価値観は崩壊しつつあるが、まだ新しいもののたしかな手応えは得られていないという、中間に落ちこんだような状態になっているのだ。

「瞑想をやっていないのに生き生きとしている人がいる」「スピリチュアルな人でも悪いことをする」なんていうのは、はっきりいって、迷いが生み出した理屈である。真の問題は、喜びが得られていないことである。それが得られていれば、こういうことは心に浮かばない。また、本当に霊的に優れた人を実際に知ることができたら、「悪いことをする人もいるから」なんていう考えも出てこない。

また、変なたとえだが、たとえば良いラーメン屋に行ってそれを味わっている人は、「世の中には、ラーメンなんか食べないのに、幸せに生きている人がいる」なんてことは絶対に考えないし、そのようなことは無意味なヘリクツにしか思えないだろう。そういう理屈が思い浮かぶということは、楽しんでいないわけで、「やらなければならない苦行」、何か受験勉強みたいなものと意識されていることである。

だから、「霊的なことに何の関心もないのに幸福な人生を送る人がいるのはなぜか」などという質問に、答える必要はない。その答えを考えることは、その状況を乗り切るための方策にはならないのである。「そのような質問が出てきてしまう心の状態はなぜ生み出されているのか」と考える必要がある。何かの問いが出てくると、その答えを探すことが大事だと思ってしまうが、あんがいに、そうではないことも多いのである。

私が、このサイト名を「美しさの中を歩め」としているのも、そういう「苦行」イメージを変えたいという気分も、少しだけある。

日本では伝統的に、霊的なことがらを「苦行」によって探求することが、尊敬されていた。
それは、修験道や、禅、千日回峰行など・・こういう苦行を乗り越えた人がひじょうに尊敬されるという精神的風土があるのだ。テレビでもそういう特集番組が放映されたりする。

そこで、霊的な探求とは苦行であるというイメージを無意識のうちに抱いていて、それ以外の方法もあるということがわかるのに時間がかかることもある。

ただし、何もやらなければ何も変わらない。それはたしかにそうであるが、「苦行」ではなく、「ワーク」というとらえかたがある。「行」をワークとかセラピーという概念に置き換えようとしたのは、トランスパーソナル心理学であるが、それは一定の意味があったと思う。

なので、アドバイス、というものを述べるほどこのサイトはたいしたものではないのだが、私の経験から少し述べさせていただくと、「喜びが得られていない」「無理をしている」ということに気づいたら、生活の中にもう少し「美しさ」を増やすというアプローチを考えてみることを提案したい。

たとえば音楽とか、アロマとか、自然とか、何でもいいが「リラックスして、美しさを享受する」という発想で、全体を見直す。

だいたい、ヨガや瞑想はリラックスするためにやるものである。それを、つい苦行のようにやってしまうのは、無意識のうちに、禅のような修行イメージに影響されていて、そういうふうにやること(だけ)が霊的だという観念があるからだ。

男性は、こういう発想に入りやすい。その路線で貫き通せればそれも立派なことだが、絶対にそういうスパルタンで行かなければいけない、ということでもない。むしろ女性は、「美しさを感じながら喜びへと至る」というスタイルを自然に受け入れられる人が多い。こういうものの価値がよくわからず、「何を甘っちょろいことを言っておるか! 修行とはそんなものではない!」という人は、中途半端はやめてすぐに坐禅道場にでも入門したらいい。私に言わせれば、「修行モード」は、出家してやるべきもので、ふつうの社会人の生活を送りながら修行なんてありえない話である。伝統的修行法はみなフルタイムの献身を前提としているのだ。やりたいなら、すべてをそれに賭けるのでなければ中途半端である。

もし、霊性への厳格なアプローチという性向を変えたければ、フラワーエッセンスを利用するのが手っ取り早い方法である。

ただ、この「美しさの道」にも、それなりに、陥りがちな落とし穴がないわけでもない。どうしても長期的、全体的な視野を失いがちなところもある。

しかしながら、日本の精神風土を見ると、まだまだ、もう少し「霊性への女性性的なアプローチ」が広まる必要はある、と感じている。


(なお、以上の文章は、「上からやってくる修行モード」についてはあてはまらない。そういう人は上の質問をするはずがないので、ここでは扱わなかったが)

人類最大の「ぶっ飛び思想」

なんか前項は、書いてしまってからみると、長いですね~(^^;

やはり、「覚醒した人は必ずしも『見える』とは限らない」との回答の多さには、びっくりしたわけで、それは、私の普遍神学の本質をほとんど理解していないのか、あるいは、理解していても賛同していないのか、ということになるわけである。このブログを読む人でも、私の普遍神学思想自体を理解するということには関心がない人もいるということは、いささか考えてしまうわけで。。スピリチュアルのブームとはいっても、そもそも「覚醒とはどういうことなのか」という最も基本的な事項でさえ、共通理解が存在していないという現状が明らかになったわけである。

多くの人は、ただ「心の持ち方が変化する」というくらいにしか、覚醒ということを想像しないのですかねえ。

たぶん、「神化の思想とは、それほどまでにぶっ飛びなことを言っていたのか」とびっくりした人もいるのではないかと思う。

その通り。人が神と一致しうるというのは、人類史上最大のぶっ飛び思想である。しかしそれは、仏教やヒンドゥー教、東方キリスト教でははっきりと言い表されていたことですからね・・

一ついいうることは、「神」を考えなければ、「覚醒」もわからないということだ。
神とは全知全能である。であるから、神と一致するとは、全知全能になることだ。これほど簡単な理屈はない。
それが覚醒である。このように、私の思考はシンプルなのだ。

だから、全知全能になりうる可能性を信じないというのは、もしかすると、神についてあまり考えていないという可能性があると思う。全宇宙が神によって運行されているということ自体を信じていないなら、神との一致などという思想には何の意味もないだろう。

一般に、世の中でよく「覚醒」といわれているのは、今の自分よりも少し上位次元にある「もっと大きな私」に目覚めたり、あるいは、高次次元にあるエネルギーとのつながりができたり、という程度のことである。
そういう「不完全な覚醒」であれば、ケースバイケースで、どういう能力が出てくるかにはかなりの個人差があるだろう。

しかし「完全な覚醒」といえば、それは神との完全な一致のことである。
それは地球上で達成されうるかどうかはまた別問題である。

「個別に先行する普遍」の問題

シュタイナーの書いていた行だったかに、植物の成長をじっと見つめ続けるというのがあったように思う。
これはおそらく、ゲーテの自然学における「原型」を見るということを意識しているだろう。
たとえば、ここにバラがある。バラが成長し、つぼみをつけ、花が咲き始め、その花が咲き終わるまでの過程を見つめる。
なぜ、バラは花咲くのであろうか? あるいは、なぜ、ここにバラという存在者があり、それはいつも一定のしかたで、花を咲かせるという行為を行うのであろうか?

私は明らかに、そこに、バラの開花というある一定のパターンを認知している。
そこでこのような問いが発せられる――バラがバラであること、バラとはこのように花を咲かせる存在であるということは、どこに由来しているのか?

それは、頭で考えるというだけではない。バラという存在の根底に、ある「輝き」を見るということである。
それが見えるか? ――それが、ゲーテの言う「原型」への道である。

その、バラをバラたらしめている「何ものか」があるということに気がつかないだろうか。

それに気がつかないとこまる。今、それに気がついたとしよう。つまり、「そこに何ものかがある」ということの驚異、それがあるということの根本的な不可思議さを感じることができたとしよう。まずそこまでいかないと、何の思想も哲学も始まりはしない。

この「何ものか」はどこにあるのか?

簡単に言うと、この「何ものか」は、非物質次元にある、つまり宇宙の深部にあって、そこから「バラであること」がこちらの次元へと到来しているのだ、と考えることができるかということである。これがイデア論の立場である。

哲学は、プラトンから中世の神学まで、基本的にはイデア論であり、根本的には宇宙の深部から「あるものがあるものであること」が到来している、と見る。

近代になってひじょうに世界観が世俗化してきた、つまり、「高い次元」というものの存在を否定するようになったことは、このイデア論が否定されたことが根本的な思想的原因となっている。

――この「何ものか」は、宇宙の深部などにあるものではない。すべて、自分の中にあるのだ。

これはつまり、「バラがバラであると思っているのは、私がすでに『バラ』という観念を持っているから、バラがあるように思えているので、実際はバラなんてありはしない」という考え方である。
では、本当は何があるのか。はてしなく、「個物」がある。そこには、バラも、菊も、そういう名前はついていない、ただ無限に多様なる個物が集積している。人間は、言語などによって、そのカオスを整理し、これはバラ、これは菊、と分けていく。それによって、バラはバラであるという認識が成り立つ。

これは、何かヘリクツのように感じる人もいるかもしれない。ところが、この考え方は、近代(特にカント以降)、かなり有力な考え方であって、それは言語学や構造主義にまで流れ込み、このように理解している学者は、現在かなり多いのだと知ったら、驚くだろうか。しかしよく見てみれば、さいきんはやりの茂木健一郎なども、かなりこの考え方に影響されていることが見てとれるだろう。

ただここで言えるのは、バラの成長を見つめて、バラがバラであることの根源である「輝き」を見ることができた人は、決してこのような思想にはひかれないだろうということである。
当然ながら、カントには、そういう「輝き」が存在することは見えなかったのであろう。

これは、大事なところなのだ。もし、バラがバラであることが宇宙の深部から贈られてきている輝きに由来していることがわかれば、そのように感じている「私」そのものもまた、宇宙の深部から贈られてきてここに存在しているということが実感される。その、「私」がここに存在することの「途方もない深さ」が想像される。

ここで一つ引用。

「古代からトマス・アクィナスやスコトゥスまでの中世哲学においては、さまざまな思想の相異があるとしても、しかしそこには一つの共通なテーゼが一貫して存在していた。「普遍は個別よりも上位にある」という考えが、それである。このような考え方によれば、われわれの目に見える現実の世界の根拠づけるものとして、普遍的な原理が外界にまず存在し、その一なる普遍的な原理を分有することによって、個物が存在する。それゆえ、個物を本質的に認識することは、その普遍的な原理を認識することであり、普遍的な真理によって個物を知ることである。こうした見方からすれば、個物は非本質的な存在であり、重要なのは普遍的原理のほうである。個物は、普遍によって根拠づけられ、普遍のもとに包摂されるものとしてのみ理解される。」『哲学の歴史3・神との対話・中世』646

ここで「普遍的原理」と呼んでいるのは、「バラがバラであることの根拠」である。

もっとわかりやすく述べよう。
ここで言っていることは、シャーマニズムの時代からあることを知的に表現しただけである。
この普遍的原理というものを人格化してとらえれば、「精霊」ということである。
バラがバラなのは、バラの精霊の働きによるものだ。バラの精霊は物質界にいる存在ではないが、宇宙のどこかにあって、それが「個別のバラ」を地上界に生成させている根源になっている。
熊やら、鯨やらが存在するのも、みな、その種の根源となっている精霊があって、地上にいる熊や鯨の個体は、その精霊のエネルギーの一部が物質化し、個体化されることにより成立する。いわば「分霊」なのである。この霊的本質を「分有」するからそうした「ある種に属する個体」が成立するのだ。

この「精霊と個体」との関係がわかってしまうと、中世の哲学も、実はそれと根本的には同じ宇宙観を描いているということがわかる。
こんな説明をする人は世界中でも私ぐらいなものかもしれないが(笑)

人間がこういう形をして、このような存在であるのは、宇宙の深部にある「人間という原型」を分有しているからだ、ということである。
哲学ではそれを「精霊」レベルにとどめることなく、根本的には神そのものである「存在そのもの」を分有するからここにある、ということになる。

つまり、

存在すること自体 ~~ 神である「存在そのもの」の分有により成立する。
「人間として」存在すること ~~ 神のイデアの中にある「人間の原型」を分有することにより成立する。

こういうことである。
これで中世哲学の考え方が少しわかりましたか?

ただ、人間はバラや熊などと違って、個体ごとに個別的なものであるので、そういう「私がほかならぬ私であるという個別性はどこに由来するのか」という問いが生じ、それが、ドゥンス・スコトゥスの「このもの性」という、「個別性を作り出す原理」という考え方を生んだ。・・まあこのように理解しておこうと思う(あくまで、私の現在での理解である)

「存在そのもの」という普遍がなければ「私が存在する」「バラが存在する」ということはないし、人間というイデアがなければ、「人間として存在する」ということもない。

このように考えてどこがいけないのだろう? ・・どこもいけないところはないように見える。ところが、近代ヨーロッパは、全面的に、この考え方を否定する方向に進んだ。

「オッカムは、多くの個物に共通し内在している普遍的原理である共通本性が心の外に存在すること自体を否定し、中世の伝統的存在の構図を一転させる。」同647

ここでまたランボーに要約してしまうと、「存在そのものとか、イデアとかいうけど、それって全部『考えたこと』にすぎないじゃないですか」と反問したということである。
それは「考えたこと」であって、それが、実際に「心の外に存在する」という証明はできるのか、とかみついたわけである。

いや、こう言ってしまうと、それは簡単に言いすぎていてたぶんウソになっている。だからランボーだというのだが、とりあえず、そのようにわかりやすく理解しておこう(この程度にしておかないと、大学一年生に理解させることなどできません)。

つまり、「存在そのものか、イデアとか、それは全部考えたことで、本当はないのかもしれない」と疑うことはできるのである。

「オッカムは形而上学の可能性を根本的に否定しようとするわけではないが、あらゆる認識は具体的個物の直接の感覚的経験の示すことができるものに基づいて、論理的に精密に導出されなければならないと主張して、理性的認識に厳格な枠をはめようとするのである」リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』333

つまりは「感覚によって確かめることのできないことは信用できない」と言っていることになる。こういうルールを立てられてしまうと、いっさいの形而上学は否定されてしまうことになる。

これが近代精神である。つまり、知識というものを「具体的個物の直接の感覚的経験の示すことができるものに基づいて、論理的に精密に導出され」たものに限る、というルールが設定されてしまった。科学はむろんそのルールによって行われるし、大学で行われるようなほとんどの知識分野において、そのようなルールが(暗黙の内にせよ)設定されているのである。(ただ、科学も一枚岩ではない。科学者のある部分には、「普遍的原理」が客観的に存在しており、それを発見するのだというプラトン的な発想がかなり存在していたはずである。ただそれも、感覚的経験の示すところと結びつけなければならないのだが)

いまでも、たとえば、超能力を否定する人の論法などに、それが「感覚的経験の示すところによって実証されないから、私はそれを否定する権利がある」という理屈を使う人がはなはだ多いということがわかるだろう。このルールそのものがどれだけの妥当性があるのか、ということこそ問われねばならないことである。

しかし一方で、このようなルールをとりあえず受容して、そのルールの中で超能力やら霊性の存在を「実証」しようという立場もあって、それが、超心理学とか、トランスパーソナル心理学(の一部)である。

だが、そもそもオッカムによって転回されたその「知の土台」となっている諸前提そのものが、物質世界の探求以外の領域に適用されていいのか、という問題がある。
「感覚的経験の示すところ」は、あくまで、物質次元でしかないわけで、そのルールを適用するならば、魂だとか、そのような「超感覚的な次元」について知的に議論すること自体が否定されてしまう。

オッカムはそれがねらいだったのである。オッカムも神学者である。無神論を主張するためにこういうことを言ったわけではない。オッカムは要するに「神学なんて時間の無駄であって、霊的なことはただ信じるだけ、実践だけだ、知識によってそれを求めようとするなんて虚妄だ」と言いたかったのである。つまり、ラジカルな「霊性における反知性主義」を主張したのである。つまり、霊性と知識(哲学)はまったく別個のもので、完全に分離しなければならない。

このように、霊性における反知性主義は、ヨーロッパにおいてはラジカルな主張だった。それまでは、霊性と知性は一致、協調しうると信じてやってきたものが、すべて否定されようとしたのである。

ところが、こういう反知性主義は、東洋にはけっこう伝統のあるものである。
特に日本では、霊性の分野では反知性主義が主流である。つまり、知識は無意味だ、実践あるのみだ、という態度である。これは言うまでもなく、禅の立場であって、禅の影響が強いのである。

日本人が「神学」という発想自体を理解できないのは、そういう文化的背景がある。

もちろん仏教にも神学的体系はある。唯識も、天台も、華厳も、みな神学体系だ。
ところが日本人はそういうコムツカシイことがどうも嫌いで、実践するだけだという念仏、禅、題目などの思想がはやった。
まあそういう伝統であるから、ブログのアクセス数が下がることくらいやむをえないだろう。

日本で、近代科学や、近代的学問がすんなり受け入れられたのも、霊性と知識を分離するという、西欧ではオッカム以来長い時間をかけてつくられた考え方が、日本ではわりとすんなり入っていったということがありそうだ。

そこで指摘したいことは、日本の霊性思想ではこれまで、「近代科学と抵触しない範囲で霊性を理解する」という態度が、暗黙の内にあるということだ。
日本の思想家はいままで「普遍が個別に先立って存在する」という思想を本気で考え抜いたことがあまりないのではないかと思う。

禅に影響されて、自分とは本来ないのだとか、空だとか、そういうことは思想家も言う。ところが、私が人間であるのは「人間という原型」があるのではないか、ということはあまり考えない。
もし原型があるとすれば、そうした高次領域を考えねばならぬし、また、その原型を創造した「創造者」の問題に突き当たる。結局、普遍が個別に先立つと考え始めると、いずれは「神」と向き合わざるを得なくなる。

ここで私が言いたいことは、多くの思想家は、無我であるとかなんとか言うが、結局はあまり「神」と向き合っていないのではないかということだ。

個別に先行する普遍ということから宇宙の構造を考えていけば、そこに、多次元的な世界構造ということも思い至るし、また、高次領域にある存在者(中世神学でいう「天使」)も想定できることがわかる。ここに私があることが、多次元的な共鳴のうちに成立しているという事態も、見えてくるのではなかろうか。

神学的に考えるとは

まえの「ご質問」であったような、「覚醒に達した人は必ず『見える』ものなのか」という問題は、神学的な問題なのである。

地上に住む人間は、どの程度まで「神との一致」が可能になるのか。
その、神と一致した時に、人間の知性は、どこまで拡張されるのか。

そのご質問で、「必ずしもそうとはいえない」と回答した人は、その「人間知性の拡張」を、きわめて限定されたものとして理解している、という意味になる。

それを限界まで可能であると考えるとすると、人は「神の目」で宇宙を見ることも可能である、ということになる。

神の目で見るというのは・・たとえばある人を目の前にしたら、その人の魂の本体を見ることができるし、また、どのような過去生があり、どんな転生を経てきているのか、あるいは、地球以外の領域にいたことがあるのか、とか、その魂の属するグループはどのようなものか、その魂と同じグループに属する存在は、今どの星に転生しているのか・・このようなことはすべて見える、ということである。

銀河の中心にはどのような世界があり、どの星にはどのような存在があり、地球とはどのような関係なのか・・こういうこともすべてわかるということである。

そこまで可能であるとは信じられない、とすれば、それは「人間の神化」という思想を受け入れてはいないということを意味している。

あるいは、神化ということがあるとしても、肉体を持つ限りそこまで到達できるものではない、と考えるのか。

こういうことが神学的問題なのである。

右のコラムにある、ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読むと、上に述べたようなことも、覚醒した人にはある程度可能になるという印象を受ける。特にその本に出てくるマハーアバター・ババジ師などは、宇宙的存在のもつ自在さを感じさせる。

人間にはどこまでの覚醒が可能かということを考えたい人は、右のコラムにあるいろいろな本を参考にしていただきたい。そこには出ていないが本山博師の本も読んでおくと良い。こういう神学的なテーマにもっと関心をもっていただくことは、このブログの存在目的の一つでもある。

中公版『哲学の歴史』中世編など――神学のすすめ(?)

中公版『哲学の歴史』の3、中世編を借りてきたが、意外と悪くない。この本はいわば大項目主義の事典みたいな感じで書いてあるが、とりあえずトマス、ボナヴェントゥラ、スコトゥス、オッカムなどのところを読んでみて、かなりわかりやすくまとめてあるなという印象を抱いた。

このシリーズの方針として、今までメジャーな思想家ばかり取り上げられていたのを、もう少しマイナーな人にも光を当てようというのがあるらしい。中世でいえばいままで日本ではほとんどアウグスティヌスとトマスばっかりだったと言ってもいいが、ここではバランスを意識している。中でも収穫だったのはガンのヘンリクスという項目だ。他の中世哲学史にはほとんど出ていないのだが、読んでみると意外に注目である。

オッカムの項も短いながらなかなか秀逸で、オッカムの革命性を簡潔に説明している。オッカムでの転回がいかに大きかったか(つまり霊的世界観が衰退するにあたって)あらためて認識するわけで、カントにおけるコペルニクス転回なるものも、オッカムで始まったことの完結であったという構図が見えてくる。

また読んでみて、トマスもなかなか深いものがあるというのと、しかしやっぱり私はボナヴェントゥラにいちばん共感するということも確かめられた。

ただ、シャルトル学派とサン=ヴィクトル学派についてはほとんど触れられていない。これは、12世紀の執筆担当者がアベラルドゥスのことばかり書くという方針をとってしまったためで、この方針は、この本の概説書という性格からしてどうだったであろうか。アベラルドゥスのことを書くのはかまわないが、もう少し12世紀の全体像を意図して書いてもよかったのではなかろうか。あるいはシャルトル学派など神学であって哲学ではないというのであろうか。

4124035209哲学の歴史 (3)
中川 純男
中央公論新社 2008-01


私は西欧中世の思想がどうもよくわからなかったが、最近の勉強でだいぶ全体が見えてきた。

基本的に、古代ギリシアのあとにできたメジャーな哲学は新プラトン主義であって、それがキリスト教と融合することによって、教父思想というのができる。偽ディオニュシウスやオリゲネスなどだ。アウグスティヌスにも新プラトン主義の影響が濃いが、彼は地上的な生において神と一致しうる可能性は否定した。

それからしばらく、西欧では新プラトン主義+アウグスティヌス路線のキリスト教哲学が主流となる(エリウゲナ、アンセルムスその他)

ところが12世紀からアリストテレスが急速に普及してきて、アリストテレス的な形而上学とキリスト教哲学を融合しようという動きができる。これが西欧独自の哲学を作っていき、トマスに極まる。(ビザンチンではこのアリストテレス受容というものがなかったので、教父的な神学がそのままつづいていった。その流れはロシアの神秘思想に受け継がれる。ドストエフスキーもその影響を受けている)

一方、ボナヴェントゥラは、アリストテレスの影響を受けつつも、本質的には新プラトン主義+アウグスティヌスの路線が維持された神学思想であった。ガンのヘンリクスも、このタイプに近いらしい。

こうした中世的な神学を大きくひっくり返したのは、オッカムのいわゆる唯名論である。これが形而上学の成立自体を疑問に付すものであった。というのは、「知識とは確実なものでなければならない」というふうに、哲学の目標が「確実な知の探求」に置かれるようになったのだった。つまり、近代精神とは簡単に言えば、確実性を何よりも重要視し、確実でないものはすべて疑うという精神である。神などという、感覚を超えたもののことは何事もはっきりと証明できるものではないので、そのような確実性に欠ける知識は探求に値しないという目で見られるようになったのである。これを私は「疑いの哲学」と名づけるが、これはオッカムに始まり、デカルトとカントによって完成される。その精神はいうまでもなく近代科学において頂点に達した。

もっとも、近代精神は14世紀オッカムに始まるとはいえ、15~17世紀はヘルメス主義思想の影響も強かったし、オッカム的なものはマイナーであったのだ。それが主流になったのが18世紀以降だということだ。

しかし、それでもなお、「見えざる根源」を探求したいという欲求はおさえがたく、これが、もう一つの動きとしてヨーロッパ思想史に伏在していく。それはロマン主義という形態をとったりもしたが、最終的にハイデッガーによって表に出てくる。同時に近代科学の「確実性」も、パラダイム論の登場によってゆらいできた。

これがだいたいの西欧哲学史の全体図である。ってあまりに近代は簡単すぎだが・・前に「哲学史の再構想」という記事を書いたので詳しくはそちらを参照してもらいたい。

私は感じるのは、いまの日本で「スピリチュアル」に関心のある人というのは、あまりに感情や感覚だけに生きようとしており、思考という要素、つまり、霊性的なものを含めて、この世界と自分というものがどのように存立しているのか、という知的把握を得ようという欲求が、あまりに少なすぎるのではなかろうか。

そういう思想がいま提供されていないということもあるのだろう。そういう思考への欲求を持つ人は、シュタイナーへ行ってしまうという傾向がよく見られる。

シュタイナーというのは、さすがの私もぶっ飛びすぎてついていけないところが多々あり、一言でいうと「よくわからんやつ」というしかないのだが、少なくとも西欧神秘神学の歴史に位置づけておく思想家であろうとは思う。

しかし、「新プラトン主義とは何ですか」というような問いにも答えられないほど思想史の知識がない人がいきなりシュタイナーに入っていっても、それは結局「教祖」として受け取るということになってしまわないか。というか、高野山大学密教学科や天理大学天理教学科で学ぶのと同じようなことにはならないのだろうか(私のいいたいことがわかりますかね?)。

いいことをたくさん言っていて、いろいろ示唆的なのはたしかだが、あまり深入りしすぎない方がいいかもしれない、というのが私の今のとらえ方である。正直言うと、秘密結社的なエネルギーというか、「引っぱる力」がそこにあるようなので、多少の警戒心を抱いてしまう。

・・おっと、理性で説明しがたい感覚でものを言ってしまいました(^^;

※注 つまり、霊的な認識の可能性を主張する思想は、シュタイナー以外にもたくさんある。問題は、『神秘学概論』などのように、彼が「霊視」によって得た情報がたくさん含まれており、それがセットで与えられていることである。これは聖書の啓示を受け入れるかどうかという問題同様、彼を信じるかどうかというレベルにある問題である。彼の思想の中で、どこまでが伝統的な神秘神学と一致している主張で、どこからが彼独自の追加であるのか、思想史の知識がないとそこがわからない。その結果、彼の「霊視」の内容をもすべて真実であると受け取ってしまうと、これは宗教に近い世界になるのである。宗教でいけないというわけではないが、自分がどういう種類のことをしているのかを自覚するという意味である。シュタイナーが霊視した内容を啓示として受け入れて、その上にシュタイナー神学を立てるのは完全に自由である。>

ともあれ、新プラトン主義+キリスト教という思想はかなり霊的世界観としてはよいものであると思っている。それに、唯識はじめ東洋の哲学、特に転生のコンセプトを入れていくと、かなり包括的なものができるだろうというのが私の見通しである。

予想通りというか

「衝撃的CD発見」の記事でぐぐっとアクセス数が上がって、哲学の記事を書いたらまた200ばかり降下。

正直すぎ?(^^; う~ん、でも哲学というか普遍神学の話はやめないですよ。

現代美術展覧会

予算消化をかねて、美術館めぐりに行く。
前回のブリヂストンで現代美術に興味を持ったので、今回は現代美術館と、新美術館での展覧会を。

東京都現代美術館では、川俣正の展覧会と、岡本太郎の大壁画「明日の神話」が見られるというのがポイント。
いや、この「明日の神話」はかなりなもの。ひじょうにわかりやすい。中心に、骸骨と、その再生というテーマが描かれているが、イメージがひじょうにシャーマニック。

岡本が縄文文化ファンだったことは知られているが、シャーマニックな感性が縄文とむすびついているとわかる。
この壁画は、のちに渋谷駅の井の頭線乗り換え通路に展示されることに決まったそうである。

で、初めて新美術館というものに行った。いや、話に聞いていたがたいした建築である。
展覧会は、何人かのものを集めたもので、そのうち何人かはなかなかおもしろいものもある。

しかし疲れた。
千代田線から丸の内線に乗り換えるというだけで、私が通常、一日で歩く量を超えてしまっているので・・
そういう日常に問題があるのではないか、というのは考えないことにする。

西欧中世哲学

このところは、ヨーロッパ中世哲学を調べている。

もともと、私はキリスト教教父の神秘神学を愛好していた。教父というのは、西ヨーロッパの中世哲学以前に存在したキリスト教思想で、これは東ヨーロッパの方に受け継がれた。
西では、修道院から出てきているベルナルドゥスなども教父的な思想だが、西欧では大学が成立して、そこでアリストテレスの学問が盛んになり、キリスト教神学とアリストテレスを総合しようという試みが傾向として強くなってくる。これに対して東方(ビザンチン)ではひきつづき教父的な神学の伝統が維持された。これが大きな違いとなってくる。

したがって、西欧の中世哲学は、純粋な神学を愛好し、現代における普遍神学を構想する私にとっては、東方神学よりもむしろ「傍系」と感じられてきた。

それでも、西欧の中世哲学もまたあくまで神学と一体のものであり、基本的には信仰の確認と神の栄光を増すことを目的として考えられてきたことも疑うことはできない。エティエンヌ・ジルソンは、中世哲学は神学と一体のものである「キリスト教哲学」として理解しなければならないと言ったが、これはきわめてあたりまえのことである。日本での中世哲学研究者も、多くはキリスト教に関心を持っている人が中心で、カトリック教徒だったりする。上智大学などはその典型的なものである。

山内志朗という研究者がさいきんはやっているが(『普遍論争』『天使の記号学』などを出している)、それはちょっと違って、神学とは関係がない。『普遍論争』平凡社ライブラリー版にを回顧した文章が出ていたが、特に、神の問題に向き合ったり、存在の神秘を感じたり、癒しがたい魂の憧れを経験したというような青春時代ではまったくなくて、なんとなく中世哲学のテキストを読んでいるうちに研究者になってしまったような感じだ。変わっていると感じるが、欧米での中世哲学研究というのはそういう方が主流らしい。日本でもオッカムとかさかんにやっている人などはそういうタイプだ。

私はやはり、古いと思う人がいようとも、ジルソン的なとらえ方が基本だと思うし、神と向き合うことを回避した人が中世哲学を研究するということにはどうもしっくりしない。なんと昭和24年に翻訳が出たジルソンの『中世哲学史』は、今でも読みごたえはある(ただ、ジルソンはエリウゲナが嫌いらしい。ジルソンは新プラトン主義を好まないところがあって、中世哲学に対する新プラトン主義の影響を軽く見ようとする傾向がもしかするとあるかもしれない)。

ジルソンはむろんトマス・アクィナスを頂点として考えるが、私自身はエリウゲナとボナヴェントゥラが好きである。そもそもトマスがめざしていた「神学とアリストテレスとの総合」というテーマ自体が現在ではあまり現実的意義の少ない問題設定である。神学と哲学との総合を考えるなら、フッサールやハイデッガーなどのほうが、アリストテレスよりもよっぽど神学との親和性があるし、融合しやすい。神学とアリストテレスでは水と油である。そういう無理なことをあえてしなくてもいいのである(ちなみに、現代では「神学と心理学を融合しよう」などというケン・ウィルバーみたいな人もいるが、これも水と油を混ぜようとしていることに似ている)。

私自身の普遍神学は、基本的には新プラトン主義と唯識を最もベースとして使っている。それによって、存在階層モデルと輪廻転生の問題、魂とその本体という問題は、すべてすっきりと理解できると考えている。その意味では、新々プラトン主義であり、また新唯識思想でもある。現代哲学では、現象学の立場は唯識と近接したものであり、現象学を通して現代哲学との総合がある程度可能になるという見通しだ。

従って、西欧中世哲学でも、あまりにアリストテレスにどっぷりしているものよりも、新プラトン主義の色彩が強い思想の方が、私との親和性は高いことはたしかである。

マレンボンの『後期中世の哲学1150-1350』という本を見ると、中世の大学での学問の定式みたいなものがよくわかる。きわめて難解で煩瑣であり、かなり頭が爆発しそうであって、これに深入りすることはためらわれる。「スコラ」というのは学校という意味であるから、そういう「大学で成立した知的行為」として中世哲学がある。中世でも初期には、ベルナルドゥスなど、修道院を中心とする瞑想的な思想が多かった。東方世界ではずっとそれが主流になっていたが、西欧ではだんだん大学が中心になり、修道院的霊性から神学が出てくることが少なくなっていった。それが東西の思想の大きな差となっていく。

西欧中世哲学のこともいろいろ勉強しているが、自分が好きなのはやはり教父の思想である。

衝撃的CD発見

このあいだ知り合いのヒーラーさんのところで耳にしたCDが、波動感じまくりで、速攻入手した。

ジェームズ・マキオンの「クリスタル・ヒーリング」

なんか、太古の記憶を呼び起こすエネルギーで、こういう波動は、数年前までは表現されることがありえなかったんじゃないの、と思ったり。

ジェムストーンの波動が入っているそうであるが、どのようにして入れるのであろうか(笑) 繊細な波動の音楽に、ヴォイスが入っているが、これがまたすごい。

特に2番の「レムリアの記憶」ですよ~
この曲にそのエネルギーが入っているというジェムストーン三種を使ってブレスレットを作り、「レムリアンブレス」にしようという計画が頭にひらめく。

マキオンさんはエオラのジェムオラクルカードでも有名らしい。このCDはアマゾンでは売っていない。

追記

こっち見たら?

魂と身体をめぐるドゥンス・スコトゥスの説

また研究モードにて失礼する。

先日、川添信介のアクィナス死体論に疑問を呈したが、質料と形相をめぐるアクィナスとドゥンス・スコトゥスとの見解の違いというこの文のテーマが興味深いことは事実で、もう少しよく読んでみた。

ドゥンス・スコトゥスは

「もちろん、彼は複合的実体の全体を「主要な意味で」一つのものとして統一しているのは、知性的魂という最終の実体的形相であることを認める。だが、知性的魂にとっての質料である身体が、その中に知性的魂とは別の形相を含んでいないということにはならないと主張するのである」『中世哲学を学ぶ人のために』P.85

これは彼自身のことばでいえば「複合体の全体には一つのエッセが属しているが、複数の部分的エッセを含んでいるのである」同P.87ということである。

ここで「複合的全体」とか「複合体」と言っているのは人間のことである。つまり、知性的魂を持つと同時に、感覚作用をもつ身体をも有している。またここで「知性」というのは、近代の意味ではないので、「叡智的な部分」と考える方が近いものである。

ここで言われていることは、アクィナスは身体的な作用もすべて、根源にある非物質的な魂によって成立していると言っているのに対し、ドゥンス・スコトゥスは、身体的なものは相対的に独立しているのではないか、と言っているということである。つまり、アクィナスは、人間を身体をひっくるめて「ひとまとまり」と考える傾向が強いのに対し、ドゥンス・スコトゥスは、魂と身体とは相対的に独立している、つまり、「魂が身体性をまとう」という考え方により近い、ということになる(つまり、ドゥンス・スコトゥスの方がより「二元的」であるということになる)。

たぶん、「ひとまとまり」と考える方がキリスト教としてはより正統的な立場で、二元的な傾向は、プラトン主義的な理解のしかたに近いであろう。

私自身の普遍神学での考え方は、ドゥンス・スコトゥスの方に近いということはおわかりだろう。
たしかに人間は複合体であって、叡智的な部分と感覚的な身体性をあわせもっている。感覚的な身体性を根本的に統御しているのは叡智的な部分である。しかし、感覚的な身体性は、この地球物質次元という世界領域を統轄しているものによって(それを「地球霊」アニマ・テラエと名づけるが)基本的に維持されているところがあり、魂は、地球物質次元に転生するにあたって、この地球霊の作り出す世界を認識できるような作用を自らのうちに身につける(これをたとえば「形相的共鳴」という語で表すことができようか――これはここで本邦初公開である)。

死体の問題でいえば、心臓や脳が停止したあともある程度人体の形態を保っているのは、人体の細胞等は物質でもあり、それは物質としての法則に従うからであり、物質というものは一瞬にして消滅するというにはふつうできていないからである。つまりそこには物質に作用する自然法則性に従っているということになる。その自然法則性は「私の魂」が作り出しているものではない。それは「地球霊」のレベルにおいて維持されている(地球霊よりも高次領域の意志が一時的に自然法則性を超えることがある――これがいわゆる「奇跡」である。一部の現代人のように自然法則性が宇宙そのものの意志で絶対不可侵だという信仰を持っていると、奇跡を信じることができない。実際には自然法則性はそれほど高次の領域で統御されているわけではなく、地球圏を超えればすぐに通用しなくなる)。

従ってたしかに、ドゥンス・スコトゥスのように、人間は複合体であるにしても、身体性と叡智的な魂の部分は、一致しつつもまた同時に相対的に独立もしている、というとらえ方が妥当ではないかと思う。

また、唯識でも、身体的な作用はすべて個体性の根源である阿頼耶識において生成すると考えているので、物質界がどのように成立しているのかという視点が不足してくるという問題があり、身体性の相対的独立性を認めることが必要になっている。

その意味ではこの論文にはある程度学ぶところがあった。川添氏にはちょっと失礼した。

ヒーリング論なんてのも

まあ、これを見てくださいよ。

福岡県立大学看護学部・ヒーリング論

大学教授がヒーリングをやっているなんて、その程度でたまげている人もいるらしいけど、もう時代はここまで来てるんです。

チャクラやエネルギーフィールドの講義から、ヒーリング実習を一年生に、ですよ。
かなり昔に大学を卒業した人の大学というもののイメージに比べ、今は、急速に変わっています。
「授業に出なくても単位が取れる」なんて、いまどきはありえないですし(笑)

もっと総合的なヒーリングを専門とする学科・コースができて、そこの専任教授に就任する、なんてのが私の理想です(笑) たとえば高野山大学とか、そういう波動のいい場所にあればなお良し。案外、10年以内くらいに実現するかも・・ と、とりあえず宣言をしてエネルギーを送っておかないと、実現しませんからね。その意味でも「ヒーリング哲学」の業績をもっと出していかねばなりません。

論文など

普遍神学の構想について論文にまとめたものを投稿していて、理解されないかとも思っていたが、幸いにも微調整のみで査読を通り、五月ごろに掲載される予定。

やはり、宇宙ヴィジョンを文章でまとめるというのは私のやりたいことの一つなのである。これではまだ微細エネルギーや平井センセがらみの種子の理論、つまり形成力としてのエネルギー、プネウマ、スピリトゥスといった問題は扱っていないので、そこもまとめられれば代替医療への道筋も見えてくるし、おもしろくなるのである。そのうちに単著にまとめるということまでは、宇宙に帰る前にいちおうやっておこうとは思う。しかしなにぶんにも帰る時期というのはあちらで決めることであるから、あまり執着はしていない(^^;

買い込みした本から、『キリスト教神秘思想史』の精読に入ろうかなと思う。これはいわば宗教の側から思想を見ているのだが、どのように書かれているのかけっこう期待である。

なんというか

哲学の話を何日か続けると、だいたいいつも、アクセス数が200くらいどーんと落ちてしまう。

やっぱり好きじゃないんですね、そういう話は・・
私が書きたいことと、人が読みたいこととの、ギャップがあるんだろうか・・

死体と世界霊の問題

『中世哲学を学ぶ人のために』でいちばんびっくりしたのは、トマス哲学と死体の問題という話だった。魂の中に感覚も、また人間が物体として存在するということも含まれているというトマスの主張を、川添信介という人が理解できないと言っている。その理由として、人が死ぬことは魂が離れることであるが、死んでも死体というものは残るのであり、死体というのは物体であるから、これはトマスの主張とは矛盾するではないかと言っている。

およそ京大教授ともあろう人がこんな話をしているということに驚いた次第だ。
私は詳しいことはわからないので断定は避けるが、その論を読む限り、川添がそもそも「物質世界」が成立しているということをどのように考えているのかよく理解できなかった。読みようによっては、まるで、彼が物質世界が実在していることを自明の前提として話をしているようにも見えるのである。まさか、プロの哲学者ともあろう人がそんな考え方をするわけないとは思うのだが・・そういう、自明として存在している物理世界に「心」をどのように位置づけるかという話をしているわけではないと思うが・・しかし、それ以上に詳しく調べるほどの問題でもないと思うので、この話はやめておく。

むろん私の念頭にあったのはホーマン和美さんのトマス論である。あれは初めて、いまここで物が存在するように認識されているということをトマスはどう考えているのかを明確に示してくれた。

さて、トマスの魂についての見方は、要するにグラデーションがその中にあるということである。これはアリストテレスを受け継いでいる考え方だが、魂は知性(これは高次世界を認識する機能のこと)を頂点として、その中には、肉体を維持する機能や、感情的な機能が含まれている。今の人に理解しやすいように言えば、魂の中には、叡智的な部分の他、アストラル(感情的)の層、エーテル体的(身体を維持する)の層が含まれているということだ。すべての認識は、魂がそういう層を持っているから起こりうるのである。

川添は、死体は物体じゃないかと言うが、死体を物体として認識しているのは、死んだ人の意識ではなく、いま物質次元に生きている私である。死んだ人は、アストラル的な次元から、映像として自分の死体が見えるのであって、その人にはすでに物質的な物体は存在していない。すべてはアストラル的映像としてしか感じられない(あるいは、「アストラル次元の物体」という言い方をする人もいる。いずれにせよ、物体のあり方は物質次元と同じではないということ)。死体を物体だと認識しているのは、この物質次元という世界構造に沿ってものを知覚している「生きている人間」たちである。川添はこのように、「それが見えているというのは誰がどのように見えていると判断しているか」という、もうワンクッション問いを発するというところが足りない。それが哲学者としての彼の限界だろう。トマスが、「自分が物体であるということも魂の中に含まれている」と言っているのは、そのように認識されるような知覚が生ずるという原因もまた魂のうちに内在するということを言っているのではなかろうか。つまり、物質次元を物質次元とするような認識構造がすでにインプットされているから、物質次元が見えるのだ、という意味ではないだろうか。川添は、死体という物体が客観的に実在することを自明の前提として言っているのであって、これは哲学としては問いが足りないということである(彼が哲学的に物質次元の独立的実在を想定しているわけではなかろうとも、少なくとも、そのような、常識的な世界理解における「経験」を根拠として、哲学的主張に対する反証とすることには問題があるだろう)。物体としての死体というものは、そもそも「物体」という存在のあり方が生じるような認識世界においてのみ実在するように見えるのであり、そういう認識構造を手放した存在にとっては実在するものではない。死体を見ているのは死んだ人ではなく、生きている人なのである。したがってそれは、それを見ている私の魂に、物質次元を認識する構造が含まれているから起こるのである。

また「死ぬとは身体から魂が抜けることである」というが、その「死の瞬間」をいつだとピンポイントで決定できるものであろうか。川添の論は、死の瞬間が決められるという前提に基づいて、その後も死体が存続しているのはなぜかという論の立て方をしている。しかしそもそも、意識が消失したり心臓が停止したとしても、エーテルレベルの生命力が完全に消失するにはある程度の時間を要するとすれば、死というものをそのように定義しても何らさしつかえはないように思える。つまり死とはある程度の時間を経てゆっくりと進行するものではなかろうか。つまり川添の論は、哲学者(いや、哲学史研究者?)が言うにしては、あまりにも詭弁というか揚げ足取り的なもので、そういうことでかの大トマスを反駁したと思っているというのは、なんと言ったらよいであろうか(なんと言っていいかはわかっているが書かないことにする)。トマスは単に、身体をある形に維持する機能も魂に含まれているということを言っているだけでないのか。それに反対する理由はまったくないようにも見える。唯識でも同じように考えているのである。どうも川添は、魂が抜けるということを、「ひとだま」がすぽっと抜けるみたいなイメージでとらえているようにも読めるのである。

このように、川添の論の立て方はまずいと思うが、しかし、トマスの説明でこの物質次元の存在がすべて説明しきれるのか、という問題はたしかにないわけではないかもしれない。これはいってみれば唯識でも似たような問題がある。

そこでまた「世界霊」の問題が出てくるわけである。つまり、肉体(物体としての身体)を構成するのは、その魂のみの機能ではなく、この物質次元というものを全体として管理・維持しているものは、魂とはまた別のものとしてあるだろう、という宇宙モデルである。つまり、わかりやすく言えば、私の魂は、私の肉体から何からをすべて自分で構成するわけではなく、肉体的な部分は、それが生きる環境世界を含めて、ある程度、私の魂とは別の何ものかによって「お膳立て」されていて、私の魂はいわばそれを「受け取る」のだ、ということである。これが世界霊の考え方である。そういう意味で、この物質次元は、魂とはある程度独立した世界として成立していて、魂はその中に入るにあたって、ある程度その世界の「しきたり」を学び、合わせなければならない、ということになる。

これはまさに、宇宙人的な感性の者には受け入れやすい考え方ではある(笑)

地球の物質次元はある目的のために創造された世界で、そこに入るためには、いわば「地球服」を身にまとわなければ生きていけないということである。地球服とは、物質的な世界認識が生じるような認識構造のことである。

中世哲学のむずかしさ

買い込みでは時間がなくて焦っていたので・・思わず中に入れてしまった『中世哲学を学ぶ人のために』だが、中身をよくみたらどうもつまらなかった。大森正樹先生の論も入っているけれど、中には、専門の論文を書き直したような焦点の狭いものもあり、かといって概説的な部分ではシャルトル学派やボナヴェントゥラにもほとんど触れないなど、日本の中世哲学研究の世界はこの程度のレベルなのよ、というのもまたはっきりと現れている著作というべきであろうか。専門家はどう評価するかしれないが、この本を読んで中世哲学のおもしろさに目覚め、研究を志すというような学生などほとんどいないだろうと言っていい。初心者向けに全体をわかりやすく概説するでもなく、研究案内みたいな情報が提供されるでもなく、中途半端な本になっている。これは、図書館で借りて二、三の論文をコピーすれば足りたものであった。正直言うと、やはり、現代の日本人がヨーロッパ中世思想をやることの難しさというのを実感させられた。つまり、大森先生など少数を除いて、この人たちは、自分自身の生をかけて神と向き合ったという内面的な経験を経ていない。そういうキリスト教、いや西洋的霊性の根本のところにぶつからないままで、勉強だけで研究者になったという人が中世哲学の概説など書けるはずがないのだ。

ジョノーの優れた概説書を読んだ直後だけに、レベルの格差が目立った。残念である。『哲学の歴史』中世の巻は、まず借りて様子をみる。

最近の思想的興味

ひさびさに読んでみた。なかなか良書である。中世思想への入門としては非常にわかりやすい。

4560053626ヨーロッパ中世の哲学
エドワール・ジョノー 二宮 敬
白水社 1964-05

このあいだの買い込みでは、中世思想原典集成から『イスラーム哲学』と『フランシスコ学派』、それに『キリスト教神秘思想史』の第二巻・第三巻を買ってしまった。
こういう本は絶対に買って損はしないものである。解説書の類はお金とスペースの無駄になる可能性も高い。

むかしは、唯識思想がいちばん近いものと考えていたが、このところ、唯識はむしろ実践的な体系であって、宇宙構造の叙述としては不十分であるらしい、と感じてきた。かわって、ヘレニズムからヨーロッパ中世(東西の)の思想に興味を覚えてきた。

新プラトン派は当然として、ストア派の思想もかなりおもしろい。「プネウマ」満載である。
中世では、トマスに尊敬はいだくものの、近しいと思われるのはエウリゲナとボナヴェントゥラである。

つまりは、哲学的思考と神秘的(超感覚的)直観との融合による宇宙ヴィジョンというあり方に興味をいだくわけで、そういうものが多少とも存在したのはこの時代ではなかったかと思われるのだ。

東洋では、神秘的直観は多く存在したが、哲学的思考とは十分に結びついていないところもある。

また、近代の萌芽として、オッカムによって何が変わったのかというのも、かなり興味あるテーマである。

「哲学の歴史」

中公版「哲学の歴史」を少し買おうと思っていたら完全に忘れてしまった。こういうのって、私としてはアンビバレントな気分だ。というのは、こういう本を見ると、哲学というのはここまですごいのかというのと、人類の知の歴史なんてこの程度のものかい、という感覚とがわき上がってくる。どうしても西洋哲学系は基本として「人間が考える」ということを重視しすぎる。もちろん考えることは大切であるが、それ以上に、そういう「考えることが」がそもそも成立するような「土台としての魂の気分」がまったく語られていない。そういうことを語らないのが哲学だという「自明の前提」を疑ってほしいのに、誰も疑ってくれない。そこが哲学界というものに対する不信の原因でもある。

こういうオムニバス形式の概説は、だいたいにおいて「結局哲学というのはどういうものだったのか」という疑問に答えるものではない。こういう本は図書館で借りて必要なところだけ読むものであろう。近くの図書館になければリクエストすべし。

そういう意味ではこの前の「ヨーロッパ精神史入門」みたいな本がもっと必要である。

とか言っておいて

やはり惜しいので結局ジュンク堂。しかしここはふつうの本屋と違って平積みがなく、図書館みたいな雰囲気なのでなかなか落ち着く。ジュンク堂はいいわ~ 変な本が集まってるところにさえ行かなければ大丈夫。予算消化であるが、『中世思想原典集成』の一冊10000円というのがあるから、消化しようと思えばそれを買いこめばよい。あといろいろ。

本屋はきつい

ジュンク堂にはまだ行きませんよ。きょうは近くの戸田書店へ寄ったのだけど、やっぱりある程度以上大きな本屋というのはどうもいけません。なんか、ぐわ~~~んと、たくさんの本の波動がまざったものが襲ってきて、めまい状態に(笑) エネルギーに敏感になると大きな本屋へは行けなくなるのです。特に「精神世界系」というのは、よい本もあるけれど、変な波動を発しているものが少なからず混入しているので、かなりすごいエネルギー状態になっており、なんか恐ろしくて近寄れない。

要するに、いい波動の本というのは少なくて、そうではない本が多数を占めているため、どうしても全体的には厳しものになってしまう。というわけで、あまりその手の本のところへは行かず、趣味の本などをちょろっと見ただけで急いで出てしまうということになりがちである。これではジュンク堂での買いだしなどエネルギー的に無理であろう・・(^^;

本屋なんかに行くくらいならパワーストーンのお店の方がどんなにいいかしれない・・

いちばん気持ち悪いものは週刊誌の広告である。新聞に出ているが、あれを見るとまったく人間の持つどす黒い欲望がぎらぎらと出ていて、防御していないと受けてしまいますね。電車の中で身動きできないときにあの吊り広告が近くにあるとつらいものがありそうですね(私は満員電車に乗らない生活なのでそれだけでも助かる)。

今年度予算

今年度の予算をあと9万円ほど、今週中に消化しなくちゃいけないんですよね。官公庁だと、そうやって不急不要のものを買ったりすると、批判を浴びるというこのごろであるが、民間はカンケーないです(^^; ジュンク堂へでも行って本を大量に買いこむくらいしかないが、でも最近、本ってあまり興味ないんですよね。買いたいものはパワーストーンと洋服がメインなんですが、これには使えませんからねえ(笑)

オショーとは誰?

十数歳?若い人をオショー禅タロットで占う機会があったが、よく聞いてみると、その人は「オショー」とはなんであるかを知らない、ということが判明した。

これは衝撃でしたね~ オショーを知らないんですよ。一回も聞いたことがないと。

70~80年代のあの大ブームを知る者にとっては・・私もすでに「旧世代」に属するのかもしれない。

いいかえると、これまでまったくスピリチュアル方面のことを知らなくて、ここ数年になって急に興味を持ちだした人が、かなり大挙して存在するらしい、ということ。そういう人にとっては、オショーは関係ないでしょうね。

なんていって、いまこれを読んでる人の中にも、「私も知らないんだけど・・」という人もいるかもしれないが、そういう説明はめんどくさいので、ネットにいくらでも出ているから検索してくれい。

ということで・・

今日のメッセージ

発信源は不明です(笑)

まず、自分が永遠に生きていると自覚することから始まる。
それがわからないうちは、他の何をやってもしかたがない。
自分は死ぬことがない、と完全に信じ切ることから、すべてが始まる。

以上です。

再び転生についての議論

知り合いの Divinerさんが、「転生は実際には平行現象である」との論を展開している。(こちら

これは実際そうかもな、と思う。私がイメージしていたことの範囲に入っている。
転生の「順序」は、必ずしも歴史的な時間の順ではないという情報については、すでに書いた。
転生の「継起性」とは、結局、因果の法則(現代風に言えば学びの課題の設定)によってのみ、そのように見えているのではないかと思う。

Divinerさんも、因果による継起性について書いているが、それは必ずしも「一本の糸」のようではなく、複数の因果関係が平行して作用しているとの認識である。

これはインドの文献にもあるそうで、ある生において生じたカルマが、必ず次の転生で作用するとは限らず、何生にもわたって潜在していることも多いそうである(有名なM師も同じことを述べている)。

こうした平行に、また歴史的な時間を前後するケースも出てくるから、地球人的常識では不可解である。
そして、こうして転生するものは、「魂の一部」なのであって、魂の全体がその転生へ入りこんでいるわけではないことも、すでに述べたところである。

こういうことを考えるにあたって、つい地球人の思考習慣を持ち込んでしまうが、もともと宇宙には時間などないのがあたりまえで、時間がある方が限定された世界なのだ、ということは頭に置いておきたい。

「いまの地球」がずっと昔からあると思っていたらいけないのである。
今の地球は、いましか存在していないものである。

「一つの、実体としての魂」が、ぐるぐると、あちこちの体をめぐりめぐっていく・・というような転生観は、まったく地球人的常識に影響された、不正確なイメージのしかたではなかろうか。

春物更新の話

春物更新時期なので、いろいろ考える。
思い悩むのはお金を惜しむからで、「迷ったときは両方買え」にしてしまえば、何も思い煩うことはなくなるのである(笑)

以前・・クロコダイルのジャケットについて触れたが、きょうよく見たらあれはポリエステル製だった。失礼・・ 同じ値段ならEBの方がぜんぜんいいでしょうね。
ランズエンドで新作のリネンジャケットが出ていたが、やっぱり段返り三つボタンチェンジポケットつきのトラッド仕様である。
ただし、サイドベンツであるのと、段返りのボタンがディープなトラッドではなく位置が少しずれていて、ポロラルフローレンに近いもののようである。しかし買うかもな・・

なお、衣服更新には「エネルギー変換」の補助という意味があることについては、過去ログを参照いただきたい。
大きく言えば、それもワークにかかるコストのうちである。

現代美術は異次元波動の表現である

きのうは東京へ出て、あいた時間にブリヂストン美術館にて、現代美術を中心とするコレクション展を見る。

いや、ここですごかったのはザオ・ウーキーという人の作品。中国生まれで「趙無極」というらしいが、フランス育ちだということ。
この作品は現代美術風ではあるが、なぜか「タオ」を連想させる作品。エネルギーのうねりのようなものを感じる。

あと、白髪一雄という変な名前の人の「観音補陀落浄土」という不思議な作品も圧倒的な迫力がある。
これは、画像ではどうってことなさそうだが、現物で見るとその色彩の美しさがかなり衝撃的である。

それから、オーストラリア現代美術の作品があるが、これは実はアボリジニ出身の美術家で、そのシャーマニックな感性の表れた作品は、世界的に注目されているものである。

この美術館はさすがに、収蔵品のセンスが非常によい。

カンディンスキーやミロから始まる現代美術を一通り眺めてみて感じることは・・

こういう抽象絵画に関し、「何を描いているのかわからない」というシロートの言がよくある。
それに対する答えとしては「地球のものは描いていません」ということである。つまり、それは「宇宙」を描いているのであろう、ということになる。

つまり、20世紀に入って、次第に、人間が感じることのできる世界の領域が、人類の認識している地球世界にとどまらなくなり、その限界を突き破って、「何か」を感じられるようになってきた、ということである。
すなわち、これは「波動の世界」を描いていることになる。高次元にある世界で何を見るのか、といえば、それはもちろん肉眼で見るわけではなく、第六感で感じるということだが、それを、ふつうの人間が見える形態に「翻訳」して表現したものが、こうした抽象絵画なのである。

ザオ・ウーキーの作品は、私たちが地球世界を超えて、違う次元の世界に行ったときに「見える」世界の感覚を、かなりそのまま表現しているように思われたのだ。
つまり、それは何となく「なじみ」なのである。そうそう、こういう世界なんだ、という、宇宙にいたときの遠い記憶を呼び覚ますものがあるのだ。

そのように、抽象絵画とは、インスピレーションがすべてである。わかるもわからないもない。その前に立った時に何かを感じるかどうかしかない。別にむずかしいことは何もないのである。

たとえばヘミシンクみたいな技法で意識を飛ばして、地球でない世界にコンタクトし、それを「波動」としてキャッチするような場面を想定して、その波動感覚を仮に色と形態で表現するとどういうふうになるのか、ということである。そのように、表現された作品から逆にその「波動」を再体験してみる。そうすると、優れた抽象作品とは完全に一つのトリップになることがわかる。

人間は、実にいろいろな世界を「見る」こともできるのである。
この作者はどのような世界へ意識を飛ばしてどういう波動をキャッチしたのか、そのように見るとおもしろい。
ただ、変なアストラル・トリップに終わってしまうことがあるのは、精神世界の場合と変わらない。よい波動とはどういうものか、わかっていないと危ないことにもなる。

人間の意識はどんどん宇宙へ向けて開かれてきているんだということが、現代美術の流れを追うと実によくわかる。こういう人たちはある意味で人類の先端部なので、そういう感覚を人に先駆けて発達させているのである。こういう流れを見ていくと、人類はいずれ地球を飛び出していくということもまた明白なることに思えてくる。

ご質問について

先月下旬の「ご質問」とアンケートのことだが、

「正答」というのではなく、「私ならばどのように回答したか」という視点で書くと、

質問1: 必ずしもそうとはいえない
質問2: 必ず見える

である。

質問1は、全員が同じ答えなので、解説する必要もないだろう。
質問2は、回答が割れたが、ここでは、「完全な覚醒」ということばがミソである。「完全な覚醒」に達した人は、そもそも「人」と言えるのか?というツッコミも当然あり得るところである。つまりは、人というものの究極的な完成可能性を、どこに求めるかという「完全な覚醒の定義」の問題だということである。それが現実にこの地球上で達せられるかという問題とは同じではない。

「必ず見える」にならざるを得ないのは、私の思想からして必然である。つまり、私は「完全な覚醒」を「神的知性との一致」として理解するからである。これは仏教では「大円鏡智」などの仏智として知られるものだ。
ブッダは、覚醒の時、宇宙のすべてが見えたと仏典にも記されている(キリストは、宇宙から降下したものであり純粋な「人」ではないので、ここでは除く)。

神性と一致するのだから、当然、神と同じ視点で見ることになる。
言い換えれば、全宇宙領域がすべて「自分」として感じられる境位である。
もしその地点に立てば、宇宙のあらゆるものは自分の中にあるものとして直知されるはずである。
それ以外には、論理的にも考えようがないのである。

私は、「必ずしもそうとはいえない」と回答した人が、どのような思考回路でそこに到達したのか、よくわからないので、コメントできない。
まちがいと言っているわけではない。私にはわからないと言っているだけ。

こうした「完全な覚醒」は、地球領域から出ないと達成できないのでは? という気もしないでもない。
肉体を持つことは、必然的に限界を作るからだ。

「完全」まで行けば必ずすべてが見えると思う(というか、「完全」をそのように定義するわけだから同語反復である)。しかし、その中途、ある程度までの覚醒であると、それには個々人による違いが生まれてきて、そこには、見えるということに強い人もいれば、そうでない人も出てくるかもしれない。このようなばらつきは、「完全ではない」からこそ起こる。現実に私たちが地球で出会う人には、「完全」レベルはまずいないと思っていい。

私の考えを簡単に書けば、こういうことである。

・完全に覚醒している人は、必ず見える。
・見える人がすべて覚醒しているとは限らない(逆は真ならず)

つまり、完全な覚醒とは先にも言ったとおり「全宇宙領域を自己として自覚する」ことからの必然として「全知」が生じるのだが、第二の「見える」というのは、微細界(いわゆるアストラル次元)のレベルで生じうることであり、微細界は「何でもあり」であって、低次のアストラル次元というのもあるからだ。
この話はまた長くなるので、別項で書きたい。

転生問題をめぐるさらなる妄想2

転生の問題では頭が混乱してきた(笑)
そもそもふつうの知性ではわからないことを考えようというのだから仕方ない。

あらためて、プロティノスを読んだり、マイケル・ニュートンによる宇宙探索本をのぞいたりした(マイケル・ニュートンの、催眠退行による「あちらの世界」探索本は、こうした世界に興味のある人の必読書である)。

つまり、「私は多次元存在である」ということと、「トータル・セルフ」をめぐる情報が、うまく融合していかない、ということが混乱のもとになっているらしい。

ここでしばし、プロティノスを読んでみる。

「われわれ人間の魂も、その全体が感性界に沈潜しているのではなくて、その或る部分は常に知性界にある」プロティノス全集第三巻P.338「魂の肉体への降下について」

ここでいう知性界とは、ふつうの知性ではなくて、「叡知界」とむしろ訳すべきか、宇宙的叡知の領域というイメージで理解すべきものである。

つまりプロティノスがいう魂とは、知性界にいる部分を含む、多次元的存在なのである。しかし一般に、魂というときは、プロティノスのいう「個霊」(個別的霊魂)のみを指すのである。
プロティノスによれば、魂は、上位では分かれていないのである。

「個霊たちは、どうしても知性界の生活を送ったり逆に感性界の生活を送ったりしなければならない、いわば両生類のようなものとなっているのであって、長期にわたって知性と共にいることのできる個霊たちは、それだけながく知性界にとどまり、自然によるか、あるいは運命によるか、そのいずれかによって(知性的なものとは)相反するものをもっている個霊たちは、それだけ長く感性界にとどまることになるのである」同P.332

多次元なる魂の、高次の部分においては、神的なるものとの一体性があって、そこでは、完全に「個」が全体から分離しているわけではない。

プロティノスは、なぜ魂が感性界に転生することがあるのか、その理由についても明確に述べている。

「その魂が感性界で見たり受けたりしたことの情報(すなわち経験)を積み重ねることによってあの知性界でのあり方がいかなるものであるかを学び、これといわば正反対のあり方をしているものどもとの比較を通して、知性界のよりすぐれた諸存在をいわばさらに明確に知るならば、その魂は、感性界を脱して再び知性界へと昇っていくことができるのである。すなわち、脆弱なる力のゆえに<劣悪なるもの>の知識を経験に先立って獲得することのできぬ人びとにとっては、劣悪なるものを経験することが、善きものをより明確に知ることへと結びつくのである」同P.337-8

つまり、この世界に「悪」があるのは、「善」と正反対なるものの経験を通して、「善」をよく知るためにある、という意味であろう。
相反するものの経験を十分にしたならば、それはもう用済みであって、再び知性界に帰ることになる。
また、後半部分でプロティノスが言っているのは、この<劣悪なるもの>は、経験を通して学ばなくてもいいということだ。どうしても経験を通さなくてはわからない者は、そういう経験をしなければならない、ということだ。
実は、これとほとんど同じ論議が、『神との対話』第三巻にある。
進化の進んだ星では、悪の経験を実際にしなくても、悪とはどういうものかを知ることができ、その相反するものを通して善をよく知ることが可能になっている。
それはたぶんイマジネーションのようなものだろう。
たとえば、「追いつめられて人を殺してしまう」というような経験とはどういうものか、それを実際にやってみれば体験することができるが、それをしなくても、そういうことを描いた優れた映画や小説などに接して、そういう経験をする人の気持ちに入り込むことができれば、自分で実際にやらなくても、ある程度はどういうものであるのかを知ることができる、というようなものである。
優れた魂は、そのように、自分の知性の内部だけで、相反するものの経験を理解することができるので、そのために、それを実際に感性界で実行する必要はない。プロティノスは、そういう劣悪なるものの知識を「経験に先立って獲得することも可能であり、そうすれば転生は必要ない」と明確に述べているのである。

さて、このように、魂が多次元的であるというのは、その根源においては永遠の世界と切れ目なくつながっているという意味であって、そういう部分を自覚するということは、自分の本体は光の世界にあるのだ、という感覚をいだくということでもある。
また、そういう光を自覚することなしに、カルマの浄化などありえないことであろう。

転生の継起性についてプロティノスがふれているところは:

「なお、魂の犯す過ちには二通りあって、その一つは魂の降下の原因にかかわりがあり、他の一つは、魂がこの感性界に到達してから犯す悪行にかかわりがあるのである。前者の罰は、魂が感性界に降下してこうむっていることそのことにほかならず、後者の比較的軽い罰は、過去の行いを勘案した判決に基づいて他の肉体へと沈んでいくこと、しかもすみやかに沈んでいくことである」同P.334

ふつうの意味での輪廻について触れているのはこの引用の後者であろう。つまり感性界にとらわれて「はまって」しまい、次々と肉体を輪廻していくということだ。
魂の感性界への降下自体を否定的にとらえるのは、プラトン主義の伝統ではあるが、いくぶん、割り引いて考えねばならないだろう。これに対し、肉体を持つことの価値を強調したのがキリスト教思想であり、新プラトン主義とキリスト教思想の適度なブレンドがもっともバランスがよくなる、と私は思っている。
プロティノスの輪廻観は、いささかインド的でもあり、輪廻経験の肯定的な意味を認めていないところは、少し修正を要する。

さて、もともとこの文章を書き始めたのは、プロティノスと、坂本さん情報のトータル・セルフモデルとは、どのような整合性があるのか、というテーマだった。

魂は知性界(叡知界)にその根源を有し、その次元では全体とつながっているが、個別的な表現をとって、さまざまな宇宙領域(星)に展開することがある。
ここで問題となるのは、坂本さん情報でも出てくるが、「地球生命系の特殊性」ということではなかろうか。
つまり、地球生命系は、きわめて特殊な領域なのではないか。
他の星に魂の表現が行われる場合は、それほど、魂の本体との分離は経験されておらず、全体とつながっていることが、意識され続けているらしい。
しかし地球生命系だけは、その物質領域はほとんど分断されており、本体とのつながりがきわめて感じにくくなっている。
したがって、魂の表現の中で、地球生命系に入ったものだけは、そこに深くはまってしまい、もとの世界とのつながりを忘れるまでに至ってしまった。そこで、この地球の肉体に継続的に入り込むという経験を重ねることになった。
つまり、こういうタイプの輪廻経験は、地球にしか発生しないことなのだ。(あるいは、地球と似た性質の星が、宇宙には他にもあるかもしれないが)

プロティノスは、魂は一であり、同時に多であるという。
これはトータル・セルフ説と一致する。ただ、ITクラスター、スーパークラスターのモデルは、一からの多への展開は、何次元にもわたって行われるもので、入れ子になっていることを示す(ホラーキーモデルも同様である)。
魂は、個別的表現をとる際でも、その全体とのつながりを一部に残している方が、宇宙においてはふつうであるらしい。つまり、個といっても、決して完全に個になりきるということはないというのが、宇宙での基本原則なのだ。
ところが、地球生命系は、全体とのつながりの意識がきわめて強く遮断されているという、特殊な領域なのである。
つまり、自分が「個」であるという強い意識を持っているという「個我」の状態とは、地球に輪廻しているからこそ、いだいている意識状態なのだ。
その意味で、個我とは地球的な幻想である。

そういう、自分が独立した個であるという妄想を起こさせるものを、唯識では「末那識」(まなしき)という。
末那識が起こってくるのが地球生命系の性質なのだ。それにより個我の幻想が発生する。

多次元性に目覚めてみれば、地球生命系での転生経験とは、夢が連続しているようなものではなかろうか。

つまり、私がいろいろと考えてきて、ここで一つの結論として推測するところはこうである。

多次元的である魂の、感性界における表現活動において、地球生命系に入り込んだ部分は、この星の強固な物質性によって、一時的に、本体とのつながりを失い、自分を独立した「個我」であると錯視する末那識を生成させた。これにより、地球生命系において、継起的に肉体を遍歴する輪廻という経験が生じた。この輪廻には「主体」はない。主体のように感じられているものは、末那識により錯視された個我意識であるが、これは地球生命系の特殊な性質により生成しているもので、魂の本体とはまったく別物である。
したがって地球での転生経験は、魂の視点から見るならば、自分の一部ではあるが、自分とのつながりを失った「かりそめの私」を主人公とする一連の夢として、感じられるであろう。それを見ている私は、この転生経験にはまったく入り込んでおらず、非物質・無時間的な領域から、こうした一連の夢を全体として眺めているであろう。
しかしながら、こうした「かりそめの私」が多数存在する地球生命系において、魂の本体とのつながりを思い出す「かりそめの私」が増加するとき、この地球生命系自体の解放が促進されるかもしれない。つまり、その物質性のバリアーが打ち破られ、宇宙の他の星と同じように、魂の本体とのつながりを維持したまま個的表現が可能な星と変わるのである。

以上のように考えると、坂本さんモデルで、「ITから分離した個我がそれぞれ継起的に輪廻する」ということは、宇宙の基本原則ではなく、あくまで地球生命系に特有な「幻想」の構造として理解すれば、ある程度整合的に理解できるのではなかろうか。そこで想定されている個我も、地球的幻想である。

また、私が思うに、唯識における阿頼耶識というのは、かなり限定された概念である。むしろこれは、目覚めのための一つの戦略的なコンセプトと理解すべきもので、必ずしも、宇宙構造を説明するための概念ではないのではないか。阿頼耶識概念の不十分さについては著書でいろいろふれ、その拡張も試みている。とりあえず今は、上記の考えを、阿頼耶識概念とどう整合させるかという課題は、後に回したい。

また、きのう書いたこととどのように整合性があるのか、考えておこう。
「私がなんとなく思うのは、この物質次元において「私」と認識されている個我性は、それほど強固なものではなく、もっと曖昧なものではないかということだ」
これは、この次元の「私」が実体的にあるとは思われず、一つの幻想としてあるのではないか、という感覚を述べたものである。
こうした輪廻を通して継続している「単一の私」が、あるように見える。それはこの物質次元(およびそれに近い地球生命系の微細次元――モンローで言うフォーカス23~26)に限定された視角からは、そのように見えるが、実際にはそのような単体の私というのは、末那識により生成した錯視である。実際にそういう「単一の私」が魂からはっきり分離しているわけではない。実際にはつながりは維持されているのだが、それを見失っているため単体であるように感じられるのだ。

「転生を貫いて存在している個我は、もう少し深いレベルにあって、非物質次元にある」
ここで「個我」という言葉を使うと混乱を招きかねないが、変わらずにあるという「私」は、物質次元には入りこんでいない、という感覚を述べている。

「それはITなのか、そうではないのか。この、私が感じているものは、阿頼耶識なのか、ITなのか」
阿頼耶識という概念が曖昧さを残しているので、回答が難しい問いである。
私がなんとなく感じるところだと、かしこにある「本体」から各世界領域に分岐している「私」の一部がある。それはたしかに共時的に、同時存在しているのだ。それは分岐したとしても、本体とのつながりを失ってはいないから。だからこれはITとかトータル・セルフに近いものだと思う。ただそうした各世界領域への分岐的な「転生」の中でも、地球生命系への転生だけは、つながりが切れかかっているので、そこに分岐したものだけは強い「孤立した個我」の意識を強めている。そのために、継起性が強く感じられるのである。

もちろん、他の世界領域に分岐したものについても、たとえばオリオン系だとか、ある程度、その領域に特化した個別性があるのかもしれない(地球に行ったものほどつながりが切れてはいないが)。そうすると、そうした世界領域内における輪廻というものが、地球と同じように考えられるかもしれない。しかしこれは、まったく知覚できる範囲を超えた話なので、そこまで考えてもしかたがないだろう。

この考察を通して確認できたのは、「個はトータル・セルフとつながったものとしてある」というのが宇宙においては普遍的な姿であり、トータル・セルフとはまったく別個に感じられる個の意識は、地球生命系(など、物質界と非物質界との分断が激しい世界領域)特有の現象であり、そのために「輪廻の主体」が存在するかのような錯視が起こる、ということである。つまり、地球的個我は幻想である。しかしその幻想にはまっている以上、それはこの上なくリアルでもある。その幻想性を見抜くためには、やはり、魂の多次元性を多少とも自覚し、トータル・セルフとのつながり、自分の本体がそこにあるという気づきを推進する必要があると思う。

転生問題をめぐるさらなる妄想?

前回に、「あちらにあるトータル・セルフの立場から見れば、すべての転生は共時的に起こっている」ということを述べた。

しかし「個我としての転生の継起性」はまったく存在しないのかと考えると、どうもそうは思えない。
つまり、トータル・セルフのレベルから生起している転生は、「一回限り」のものではなく、トータル・セルフ(IT)から分岐した「個我」のレベルにおいては、継起的であるのか、という問題がある。

坂本さんの『わかりやすい絵で見る死後体験』86ページ以下を見ると、ITから分岐した個我がそれぞれ継起的に転生をしていく、というモデルが出ている。
ただし、その転生の順序は、必ずしも地球の時間軸に沿ったものではない。つまり、最初の転生が近代で、次がエジプト、次は石器時代なんていうこともあるし、未来世だってありうるという。83~84ページにはそう書いてある。

この場合の継起性というのは、カルマ的な「因果」の関係により前後が生じる、と理解しうる。
また、各時代の世界空間はもともと「地球霊魂」の作用により生成する集合的な場だから、そこに入り込むということも理解できないわけではない。

これは坂本さんの理解である。
しかし、このモデルで本当にいいのかどうか、よくわからない。

唯識の阿頼耶識説はこれと微妙に違っている。
阿頼耶識は、非物質次元にずっととどまっている。阿頼耶識が、地球の物質次元に転生するわけではない。転生するというのは、いわば、夢を見ているような状態である。阿頼耶識はずっと非物質領域にいるのだ。

まず、地球の物質次元というものが実在するというより、それは集合意識なのである。物質界に行くということは、物質界で機能するような意識・感覚作用を身につけることによって、その夢の中に入りこむことができるという意味である。映画「マトリックス」で、宇宙船からマトリックス内に進入するようなものである。

したがって、個我そのものは転生しない。これが唯識による意見である。
これに対し、坂本モデルは、ITが分岐して「個我」を作り、これが転生するという見方になっている。

わからなくなってきたようだが、要するにここでのポイントは、トータル・セルフではなく、個我としての自分もまた、非物質界に転生することなく存在し続ける部分があるのか、それとも個我が転生をするものなのか(つまり、転生している間は非物質界からはいなくなる)ということなのか、ということである。

プロティノスはどっちのことを言っていたのか?

どっちが正しいのかと聞かれても「わたしゃ知らん」である(笑) べつに悟りを開いたわけではないし、そこまで見えているはずがないだろう。

あるいは、問題はもっと複雑で、実はこういう問題の立て方そのものが不十分ではないかということだ。たぶん、それがいちばんありそうに思える。

こういうことを考えるのも、べつに霊的進化とは関係ない思考の遊びかもしれない、という見方もありうるということも、頭に置いておいた方がいいだろう。

ともあれ、私が過去に本に書いたところだと、個我をいちおう唯識で言う阿頼耶識に該当するものと見なしていた。それが因果の法則によって転生を生み出すことは唯識で言うとおりだ。それは、阿頼耶識が転生するわけではない。あくまで、夢を見るのである。各転生の視点から見れば、それは永遠なる自己ともいえる。

そして、阿頼耶識が、共時的に二つ以上の転生を生み出すということが絶対にないと言えるだろうか?
あるいは、二人の肉体に分岐したりすることはありえないだろうか?

だから、阿頼耶識=ITということではないのだろう。ITとは、個我のさらに集合体なのであり、個我として分岐する以前なのだとすれば、それは阿頼耶識の集合体であり、もう一次元高次のレベルにある、と考えることもできる。

また、ある情報によると、複数の魂が一人の肉体にブレンドされて転生する、ということもないわけではないらしい。これはどう考えたらいいのか。同じITに属する二つの阿頼耶識が、ある協定のもとに、共同作業的に一つの転生経験を生み出した、ということも考えられるだろうか?

これらはみな、答えの出しようがない問題ではある。ただ、いろいろな思考実験をすることによって、この世界はそう単純なものではなく、人知の及ばないくらい複雑なものであるらしい、との実感がわいてくればそれでよいのかもしれない。

たぶん、唯識も坂本モデルも、実相に比べれば単純すぎるモデルなのだろうと思う。
私がなんとなく思うのは、この物質次元において「私」と認識されている個我性は、それほど強固なものではなく、もっと曖昧なものではないかということだ。
それはかなり表面的なもので、そのレベルの「私」が転生しているというわけではない。
そのレベルの「私」は、転生ごとに構成しなおされるものかもしれないのだ。
私が、「個我が行ったり来たりする」という単純な転生モデルに疑問を感じたのも、そういう感覚からである。

転生を貫いて存在している個我は、もう少し深いレベルにあって、非物質次元にある。
そのような個我があるらしい、という感覚はある。私は、その個我が、完全に物質世界に入りきっているようには思えないのだ。その点については、理屈ではない。私が私であることの本体は、やはり、この物質世界の転生という夢とは独立して、どこかに存在するように思われるのである。

それはITなのか、そうではないのか。この、私が感じているものは、阿頼耶識なのか、ITなのか。どうもそれは、ITというものについてもう少し実感していかないと、わかりそうもない。今の感覚は、どうもITとは違うのではないかという感覚である。

考えても無駄かもしれないが、考えてしまうのが人間というものである(笑)
というわけで結論なしで終わりとする。

いずれにしても、昨日の考察はあまりに単純すぎましたな(^^;

転生についての新しい考え方

人と話していて、意外と多くの人がわかっていないコンセプトは、「より大きな自分」は、今の自分とは異なるということである。

何のことかといえば、それはモンローや坂本さんがI/There(あちらの私、略してIT)と言っているものだ。
それは自分の本体であり、それはあちらにある。そのあちらにある私は、いわばその「分身」を多数生じさせており、その多数の「自分」が、さまざまな世界領域(空間、時間的にさまざまなところ・・時には地球以外も含むであろう)に生を展開させているのである。それが転生というものなので、あちらからみれば「共時的」なものであり、決してあれが終わったらこれ、というふうに継続するものではない。

そのへんは、唯識でもはっきり言っていなかったところである。どうも、転生の概念は受け入れているものの、この自分の中に入っている「単一の魂」が、あちこちぐるぐるまわって、成長していくのだ、というふうに考えている人がかなり多いという印象があった。

この転生概念は「これまで」のイメージである。今はもう、新たなコンセプトが必要になっている。
それは、プロティノスが言っている、「魂のある部分は地上に降下せず、上の次元にとどまっている」ということばと、転生の本体とは何かという問題を考え合わせていくと出てくる結論だ。

つまり、あちらにある転生の本体とは、複数の「自分」の集合であって・・というより、ここに個別として存在しているように経験されている「私」は、より大いなる「私」の分岐としてあるものだということである。
いま、こことは違う時空において、共時的に、より大いなる自分からの「他の分岐」である「別の自分」が、多数存在しているのである。

それはあたかも、いろいろな動物はあちらにある「精霊」を本体としていて、個別的に肉体を持って存在している個体は、みなその精霊の「分岐」であるというのと似ている。

坂本さんは、そのITがさらに集まってITクラスターとなり、さらにその上位のITスーパークラスターとなっている、と述べている。
これを逆から辿れば、究極の源である「一」から、何次元も分岐していって、そこで私の魂の本体たるITが成立し、その分岐としていま私がある、ということになる。

魂というものを、そのような「入れ子構造」として考えることが必要だ。
この考え方が、非常に重要になっている。

これは、究極においてはすべてが「一」としてつながっていることを意味する。プロティノスの思想とまったく矛盾していない。というより私は、「これまで」の思想においては、プロティノスが最も「真理」に迫ったのではないかと推理しているのだが・・

このように「魂とは、何次元にもわたって入れ子状にグループをなしている」ことと、「したがって、転生とはつねに共時的に起こっているのであり、単一のものが遍歴しているのではない」ということ、このことが新たな世界観的常識となることを期待したいのである。

そのへんをわかりやすく述べているとなると、哲学思想の書物にはなかなか見いだされない。右のコラムにあげてある、坂本さんの本は、もちろんそれが一つの方便であり、神話のひとつであるという前提の上で、「けっこういい線いってるかも」との評価をすることができる。

なお、このように宇宙根源から多重に分岐しているのが「私」で、転生とはすべてこのグループにおいて共時的に起こっているということは、私の著書にも全部書かれているのである。

伝統思想は、「基本」をおさえたものとして、重要である。
しかしながら、現代はまったく新しい時代に突入していることも、また事実だ。
その意味で、「これまで」のものはあくまで「これまで」のものである。その常識の中だけでものごとを考えようとしてもなかなかうまくいかない。
古い言葉だがやはり「温故知新」である。

生命エネルギー

この前の「ご質問」についての自分の意見提示は、準備中につきちょっとお待ちを。

しかし・・坂本さんなんかも「スーパーラブ」を基本概念としているが、結局、宇宙というものをイメージするにあたって、単に知的興味だけではなく、「こうする」という実践的なものを含めて考えていくとき、そこには「宇宙の究極には生命エネルギー=愛が存在し、それば万象を作り出す」というコンセプトが中心にないと、うまく収まらない、と思うようになっている。

つまり、エネルギー的なイメージである。万物はもともと霊的エネルギーにより発し、物質もまたそのエネルギーが変換されたものだ、ととらえる。

これは中国における「気」の宇宙観とほとんど同じである。ただ、気には、若干、「スーパーラブ」の要素が薄い。
西洋においては、ストア派の世界ヴィジョンは、ほとんど中国の気の宇宙観と同じである。

無数の「自己」が宇宙に存在しているのも、根源にある霊的エネルギーの分有である。

つまり「生命エネルギー」というコンセプトを、宇宙根源に位置づけるということが、すべての出発点となるのである。全宇宙は、そのエネルギーの運動そのものである。

だがたぶん、多くの人は、このようなコンセプトを「すでに知っている」であろう。

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