シュタイナーの書いていた行だったかに、植物の成長をじっと見つめ続けるというのがあったように思う。
これはおそらく、ゲーテの自然学における「原型」を見るということを意識しているだろう。
たとえば、ここにバラがある。バラが成長し、つぼみをつけ、花が咲き始め、その花が咲き終わるまでの過程を見つめる。
なぜ、バラは花咲くのであろうか? あるいは、なぜ、ここにバラという存在者があり、それはいつも一定のしかたで、花を咲かせるという行為を行うのであろうか?
私は明らかに、そこに、バラの開花というある一定のパターンを認知している。
そこでこのような問いが発せられる――バラがバラであること、バラとはこのように花を咲かせる存在であるということは、どこに由来しているのか?
それは、頭で考えるというだけではない。バラという存在の根底に、ある「輝き」を見るということである。
それが見えるか? ――それが、ゲーテの言う「原型」への道である。
その、バラをバラたらしめている「何ものか」があるということに気がつかないだろうか。
それに気がつかないとこまる。今、それに気がついたとしよう。つまり、「そこに何ものかがある」ということの驚異、それがあるということの根本的な不可思議さを感じることができたとしよう。まずそこまでいかないと、何の思想も哲学も始まりはしない。
この「何ものか」はどこにあるのか?
簡単に言うと、この「何ものか」は、非物質次元にある、つまり宇宙の深部にあって、そこから「バラであること」がこちらの次元へと到来しているのだ、と考えることができるかということである。これがイデア論の立場である。
哲学は、プラトンから中世の神学まで、基本的にはイデア論であり、根本的には宇宙の深部から「あるものがあるものであること」が到来している、と見る。
近代になってひじょうに世界観が世俗化してきた、つまり、「高い次元」というものの存在を否定するようになったことは、このイデア論が否定されたことが根本的な思想的原因となっている。
――この「何ものか」は、宇宙の深部などにあるものではない。すべて、自分の中にあるのだ。
これはつまり、「バラがバラであると思っているのは、私がすでに『バラ』という観念を持っているから、バラがあるように思えているので、実際はバラなんてありはしない」という考え方である。
では、本当は何があるのか。はてしなく、「個物」がある。そこには、バラも、菊も、そういう名前はついていない、ただ無限に多様なる個物が集積している。人間は、言語などによって、そのカオスを整理し、これはバラ、これは菊、と分けていく。それによって、バラはバラであるという認識が成り立つ。
これは、何かヘリクツのように感じる人もいるかもしれない。ところが、この考え方は、近代(特にカント以降)、かなり有力な考え方であって、それは言語学や構造主義にまで流れ込み、このように理解している学者は、現在かなり多いのだと知ったら、驚くだろうか。しかしよく見てみれば、さいきんはやりの茂木健一郎なども、かなりこの考え方に影響されていることが見てとれるだろう。
ただここで言えるのは、バラの成長を見つめて、バラがバラであることの根源である「輝き」を見ることができた人は、決してこのような思想にはひかれないだろうということである。
当然ながら、カントには、そういう「輝き」が存在することは見えなかったのであろう。
これは、大事なところなのだ。もし、バラがバラであることが宇宙の深部から贈られてきている輝きに由来していることがわかれば、そのように感じている「私」そのものもまた、宇宙の深部から贈られてきてここに存在しているということが実感される。その、「私」がここに存在することの「途方もない深さ」が想像される。
ここで一つ引用。
「古代からトマス・アクィナスやスコトゥスまでの中世哲学においては、さまざまな思想の相異があるとしても、しかしそこには一つの共通なテーゼが一貫して存在していた。「普遍は個別よりも上位にある」という考えが、それである。このような考え方によれば、われわれの目に見える現実の世界の根拠づけるものとして、普遍的な原理が外界にまず存在し、その一なる普遍的な原理を分有することによって、個物が存在する。それゆえ、個物を本質的に認識することは、その普遍的な原理を認識することであり、普遍的な真理によって個物を知ることである。こうした見方からすれば、個物は非本質的な存在であり、重要なのは普遍的原理のほうである。個物は、普遍によって根拠づけられ、普遍のもとに包摂されるものとしてのみ理解される。」『哲学の歴史3・神との対話・中世』646
ここで「普遍的原理」と呼んでいるのは、「バラがバラであることの根拠」である。
もっとわかりやすく述べよう。
ここで言っていることは、シャーマニズムの時代からあることを知的に表現しただけである。
この普遍的原理というものを人格化してとらえれば、「精霊」ということである。
バラがバラなのは、バラの精霊の働きによるものだ。バラの精霊は物質界にいる存在ではないが、宇宙のどこかにあって、それが「個別のバラ」を地上界に生成させている根源になっている。
熊やら、鯨やらが存在するのも、みな、その種の根源となっている精霊があって、地上にいる熊や鯨の個体は、その精霊のエネルギーの一部が物質化し、個体化されることにより成立する。いわば「分霊」なのである。この霊的本質を「分有」するからそうした「ある種に属する個体」が成立するのだ。
この「精霊と個体」との関係がわかってしまうと、中世の哲学も、実はそれと根本的には同じ宇宙観を描いているということがわかる。
こんな説明をする人は世界中でも私ぐらいなものかもしれないが(笑)
人間がこういう形をして、このような存在であるのは、宇宙の深部にある「人間という原型」を分有しているからだ、ということである。
哲学ではそれを「精霊」レベルにとどめることなく、根本的には神そのものである「存在そのもの」を分有するからここにある、ということになる。
つまり、
存在すること自体 ~~ 神である「存在そのもの」の分有により成立する。
「人間として」存在すること ~~ 神のイデアの中にある「人間の原型」を分有することにより成立する。
こういうことである。
これで中世哲学の考え方が少しわかりましたか?
ただ、人間はバラや熊などと違って、個体ごとに個別的なものであるので、そういう「私がほかならぬ私であるという個別性はどこに由来するのか」という問いが生じ、それが、ドゥンス・スコトゥスの「このもの性」という、「個別性を作り出す原理」という考え方を生んだ。・・まあこのように理解しておこうと思う(あくまで、私の現在での理解である)
「存在そのもの」という普遍がなければ「私が存在する」「バラが存在する」ということはないし、人間というイデアがなければ、「人間として存在する」ということもない。
このように考えてどこがいけないのだろう? ・・どこもいけないところはないように見える。ところが、近代ヨーロッパは、全面的に、この考え方を否定する方向に進んだ。
「オッカムは、多くの個物に共通し内在している普遍的原理である共通本性が心の外に存在すること自体を否定し、中世の伝統的存在の構図を一転させる。」同647
ここでまたランボーに要約してしまうと、「存在そのものとか、イデアとかいうけど、それって全部『考えたこと』にすぎないじゃないですか」と反問したということである。
それは「考えたこと」であって、それが、実際に「心の外に存在する」という証明はできるのか、とかみついたわけである。
いや、こう言ってしまうと、それは簡単に言いすぎていてたぶんウソになっている。だからランボーだというのだが、とりあえず、そのようにわかりやすく理解しておこう(この程度にしておかないと、大学一年生に理解させることなどできません)。
つまり、「存在そのものか、イデアとか、それは全部考えたことで、本当はないのかもしれない」と疑うことはできるのである。
「オッカムは形而上学の可能性を根本的に否定しようとするわけではないが、あらゆる認識は具体的個物の直接の感覚的経験の示すことができるものに基づいて、論理的に精密に導出されなければならないと主張して、理性的認識に厳格な枠をはめようとするのである」リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』333
つまりは「感覚によって確かめることのできないことは信用できない」と言っていることになる。こういうルールを立てられてしまうと、いっさいの形而上学は否定されてしまうことになる。
これが近代精神である。つまり、知識というものを「具体的個物の直接の感覚的経験の示すことができるものに基づいて、論理的に精密に導出され」たものに限る、というルールが設定されてしまった。科学はむろんそのルールによって行われるし、大学で行われるようなほとんどの知識分野において、そのようなルールが(暗黙の内にせよ)設定されているのである。(ただ、科学も一枚岩ではない。科学者のある部分には、「普遍的原理」が客観的に存在しており、それを発見するのだというプラトン的な発想がかなり存在していたはずである。ただそれも、感覚的経験の示すところと結びつけなければならないのだが)
いまでも、たとえば、超能力を否定する人の論法などに、それが「感覚的経験の示すところによって実証されないから、私はそれを否定する権利がある」という理屈を使う人がはなはだ多いということがわかるだろう。このルールそのものがどれだけの妥当性があるのか、ということこそ問われねばならないことである。
しかし一方で、このようなルールをとりあえず受容して、そのルールの中で超能力やら霊性の存在を「実証」しようという立場もあって、それが、超心理学とか、トランスパーソナル心理学(の一部)である。
だが、そもそもオッカムによって転回されたその「知の土台」となっている諸前提そのものが、物質世界の探求以外の領域に適用されていいのか、という問題がある。
「感覚的経験の示すところ」は、あくまで、物質次元でしかないわけで、そのルールを適用するならば、魂だとか、そのような「超感覚的な次元」について知的に議論すること自体が否定されてしまう。
オッカムはそれがねらいだったのである。オッカムも神学者である。無神論を主張するためにこういうことを言ったわけではない。オッカムは要するに「神学なんて時間の無駄であって、霊的なことはただ信じるだけ、実践だけだ、知識によってそれを求めようとするなんて虚妄だ」と言いたかったのである。つまり、ラジカルな「霊性における反知性主義」を主張したのである。つまり、霊性と知識(哲学)はまったく別個のもので、完全に分離しなければならない。
このように、霊性における反知性主義は、ヨーロッパにおいてはラジカルな主張だった。それまでは、霊性と知性は一致、協調しうると信じてやってきたものが、すべて否定されようとしたのである。
ところが、こういう反知性主義は、東洋にはけっこう伝統のあるものである。
特に日本では、霊性の分野では反知性主義が主流である。つまり、知識は無意味だ、実践あるのみだ、という態度である。これは言うまでもなく、禅の立場であって、禅の影響が強いのである。
日本人が「神学」という発想自体を理解できないのは、そういう文化的背景がある。
もちろん仏教にも神学的体系はある。唯識も、天台も、華厳も、みな神学体系だ。
ところが日本人はそういうコムツカシイことがどうも嫌いで、実践するだけだという念仏、禅、題目などの思想がはやった。
まあそういう伝統であるから、ブログのアクセス数が下がることくらいやむをえないだろう。
日本で、近代科学や、近代的学問がすんなり受け入れられたのも、霊性と知識を分離するという、西欧ではオッカム以来長い時間をかけてつくられた考え方が、日本ではわりとすんなり入っていったということがありそうだ。
そこで指摘したいことは、日本の霊性思想ではこれまで、「近代科学と抵触しない範囲で霊性を理解する」という態度が、暗黙の内にあるということだ。
日本の思想家はいままで「普遍が個別に先立って存在する」という思想を本気で考え抜いたことがあまりないのではないかと思う。
禅に影響されて、自分とは本来ないのだとか、空だとか、そういうことは思想家も言う。ところが、私が人間であるのは「人間という原型」があるのではないか、ということはあまり考えない。
もし原型があるとすれば、そうした高次領域を考えねばならぬし、また、その原型を創造した「創造者」の問題に突き当たる。結局、普遍が個別に先立つと考え始めると、いずれは「神」と向き合わざるを得なくなる。
ここで私が言いたいことは、多くの思想家は、無我であるとかなんとか言うが、結局はあまり「神」と向き合っていないのではないかということだ。
個別に先行する普遍ということから宇宙の構造を考えていけば、そこに、多次元的な世界構造ということも思い至るし、また、高次領域にある存在者(中世神学でいう「天使」)も想定できることがわかる。ここに私があることが、多次元的な共鳴のうちに成立しているという事態も、見えてくるのではなかろうか。