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死体と世界霊の問題

『中世哲学を学ぶ人のために』でいちばんびっくりしたのは、トマス哲学と死体の問題という話だった。魂の中に感覚も、また人間が物体として存在するということも含まれているというトマスの主張を、川添信介という人が理解できないと言っている。その理由として、人が死ぬことは魂が離れることであるが、死んでも死体というものは残るのであり、死体というのは物体であるから、これはトマスの主張とは矛盾するではないかと言っている。

およそ京大教授ともあろう人がこんな話をしているということに驚いた次第だ。
私は詳しいことはわからないので断定は避けるが、その論を読む限り、川添がそもそも「物質世界」が成立しているということをどのように考えているのかよく理解できなかった。読みようによっては、まるで、彼が物質世界が実在していることを自明の前提として話をしているようにも見えるのである。まさか、プロの哲学者ともあろう人がそんな考え方をするわけないとは思うのだが・・そういう、自明として存在している物理世界に「心」をどのように位置づけるかという話をしているわけではないと思うが・・しかし、それ以上に詳しく調べるほどの問題でもないと思うので、この話はやめておく。

むろん私の念頭にあったのはホーマン和美さんのトマス論である。あれは初めて、いまここで物が存在するように認識されているということをトマスはどう考えているのかを明確に示してくれた。

さて、トマスの魂についての見方は、要するにグラデーションがその中にあるということである。これはアリストテレスを受け継いでいる考え方だが、魂は知性(これは高次世界を認識する機能のこと)を頂点として、その中には、肉体を維持する機能や、感情的な機能が含まれている。今の人に理解しやすいように言えば、魂の中には、叡智的な部分の他、アストラル(感情的)の層、エーテル体的(身体を維持する)の層が含まれているということだ。すべての認識は、魂がそういう層を持っているから起こりうるのである。

川添は、死体は物体じゃないかと言うが、死体を物体として認識しているのは、死んだ人の意識ではなく、いま物質次元に生きている私である。死んだ人は、アストラル的な次元から、映像として自分の死体が見えるのであって、その人にはすでに物質的な物体は存在していない。すべてはアストラル的映像としてしか感じられない(あるいは、「アストラル次元の物体」という言い方をする人もいる。いずれにせよ、物体のあり方は物質次元と同じではないということ)。死体を物体だと認識しているのは、この物質次元という世界構造に沿ってものを知覚している「生きている人間」たちである。川添はこのように、「それが見えているというのは誰がどのように見えていると判断しているか」という、もうワンクッション問いを発するというところが足りない。それが哲学者としての彼の限界だろう。トマスが、「自分が物体であるということも魂の中に含まれている」と言っているのは、そのように認識されるような知覚が生ずるという原因もまた魂のうちに内在するということを言っているのではなかろうか。つまり、物質次元を物質次元とするような認識構造がすでにインプットされているから、物質次元が見えるのだ、という意味ではないだろうか。川添は、死体という物体が客観的に実在することを自明の前提として言っているのであって、これは哲学としては問いが足りないということである(彼が哲学的に物質次元の独立的実在を想定しているわけではなかろうとも、少なくとも、そのような、常識的な世界理解における「経験」を根拠として、哲学的主張に対する反証とすることには問題があるだろう)。物体としての死体というものは、そもそも「物体」という存在のあり方が生じるような認識世界においてのみ実在するように見えるのであり、そういう認識構造を手放した存在にとっては実在するものではない。死体を見ているのは死んだ人ではなく、生きている人なのである。したがってそれは、それを見ている私の魂に、物質次元を認識する構造が含まれているから起こるのである。

また「死ぬとは身体から魂が抜けることである」というが、その「死の瞬間」をいつだとピンポイントで決定できるものであろうか。川添の論は、死の瞬間が決められるという前提に基づいて、その後も死体が存続しているのはなぜかという論の立て方をしている。しかしそもそも、意識が消失したり心臓が停止したとしても、エーテルレベルの生命力が完全に消失するにはある程度の時間を要するとすれば、死というものをそのように定義しても何らさしつかえはないように思える。つまり死とはある程度の時間を経てゆっくりと進行するものではなかろうか。つまり川添の論は、哲学者(いや、哲学史研究者?)が言うにしては、あまりにも詭弁というか揚げ足取り的なもので、そういうことでかの大トマスを反駁したと思っているというのは、なんと言ったらよいであろうか(なんと言っていいかはわかっているが書かないことにする)。トマスは単に、身体をある形に維持する機能も魂に含まれているということを言っているだけでないのか。それに反対する理由はまったくないようにも見える。唯識でも同じように考えているのである。どうも川添は、魂が抜けるということを、「ひとだま」がすぽっと抜けるみたいなイメージでとらえているようにも読めるのである。

このように、川添の論の立て方はまずいと思うが、しかし、トマスの説明でこの物質次元の存在がすべて説明しきれるのか、という問題はたしかにないわけではないかもしれない。これはいってみれば唯識でも似たような問題がある。

そこでまた「世界霊」の問題が出てくるわけである。つまり、肉体(物体としての身体)を構成するのは、その魂のみの機能ではなく、この物質次元というものを全体として管理・維持しているものは、魂とはまた別のものとしてあるだろう、という宇宙モデルである。つまり、わかりやすく言えば、私の魂は、私の肉体から何からをすべて自分で構成するわけではなく、肉体的な部分は、それが生きる環境世界を含めて、ある程度、私の魂とは別の何ものかによって「お膳立て」されていて、私の魂はいわばそれを「受け取る」のだ、ということである。これが世界霊の考え方である。そういう意味で、この物質次元は、魂とはある程度独立した世界として成立していて、魂はその中に入るにあたって、ある程度その世界の「しきたり」を学び、合わせなければならない、ということになる。

これはまさに、宇宙人的な感性の者には受け入れやすい考え方ではある(笑)

地球の物質次元はある目的のために創造された世界で、そこに入るためには、いわば「地球服」を身にまとわなければ生きていけないということである。地球服とは、物質的な世界認識が生じるような認識構造のことである。

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