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中公版『哲学の歴史』中世編など――神学のすすめ(?)

中公版『哲学の歴史』の3、中世編を借りてきたが、意外と悪くない。この本はいわば大項目主義の事典みたいな感じで書いてあるが、とりあえずトマス、ボナヴェントゥラ、スコトゥス、オッカムなどのところを読んでみて、かなりわかりやすくまとめてあるなという印象を抱いた。

このシリーズの方針として、今までメジャーな思想家ばかり取り上げられていたのを、もう少しマイナーな人にも光を当てようというのがあるらしい。中世でいえばいままで日本ではほとんどアウグスティヌスとトマスばっかりだったと言ってもいいが、ここではバランスを意識している。中でも収穫だったのはガンのヘンリクスという項目だ。他の中世哲学史にはほとんど出ていないのだが、読んでみると意外に注目である。

オッカムの項も短いながらなかなか秀逸で、オッカムの革命性を簡潔に説明している。オッカムでの転回がいかに大きかったか(つまり霊的世界観が衰退するにあたって)あらためて認識するわけで、カントにおけるコペルニクス転回なるものも、オッカムで始まったことの完結であったという構図が見えてくる。

また読んでみて、トマスもなかなか深いものがあるというのと、しかしやっぱり私はボナヴェントゥラにいちばん共感するということも確かめられた。

ただ、シャルトル学派とサン=ヴィクトル学派についてはほとんど触れられていない。これは、12世紀の執筆担当者がアベラルドゥスのことばかり書くという方針をとってしまったためで、この方針は、この本の概説書という性格からしてどうだったであろうか。アベラルドゥスのことを書くのはかまわないが、もう少し12世紀の全体像を意図して書いてもよかったのではなかろうか。あるいはシャルトル学派など神学であって哲学ではないというのであろうか。

4124035209哲学の歴史 (3)
中川 純男
中央公論新社 2008-01


私は西欧中世の思想がどうもよくわからなかったが、最近の勉強でだいぶ全体が見えてきた。

基本的に、古代ギリシアのあとにできたメジャーな哲学は新プラトン主義であって、それがキリスト教と融合することによって、教父思想というのができる。偽ディオニュシウスやオリゲネスなどだ。アウグスティヌスにも新プラトン主義の影響が濃いが、彼は地上的な生において神と一致しうる可能性は否定した。

それからしばらく、西欧では新プラトン主義+アウグスティヌス路線のキリスト教哲学が主流となる(エリウゲナ、アンセルムスその他)

ところが12世紀からアリストテレスが急速に普及してきて、アリストテレス的な形而上学とキリスト教哲学を融合しようという動きができる。これが西欧独自の哲学を作っていき、トマスに極まる。(ビザンチンではこのアリストテレス受容というものがなかったので、教父的な神学がそのままつづいていった。その流れはロシアの神秘思想に受け継がれる。ドストエフスキーもその影響を受けている)

一方、ボナヴェントゥラは、アリストテレスの影響を受けつつも、本質的には新プラトン主義+アウグスティヌスの路線が維持された神学思想であった。ガンのヘンリクスも、このタイプに近いらしい。

こうした中世的な神学を大きくひっくり返したのは、オッカムのいわゆる唯名論である。これが形而上学の成立自体を疑問に付すものであった。というのは、「知識とは確実なものでなければならない」というふうに、哲学の目標が「確実な知の探求」に置かれるようになったのだった。つまり、近代精神とは簡単に言えば、確実性を何よりも重要視し、確実でないものはすべて疑うという精神である。神などという、感覚を超えたもののことは何事もはっきりと証明できるものではないので、そのような確実性に欠ける知識は探求に値しないという目で見られるようになったのである。これを私は「疑いの哲学」と名づけるが、これはオッカムに始まり、デカルトとカントによって完成される。その精神はいうまでもなく近代科学において頂点に達した。

もっとも、近代精神は14世紀オッカムに始まるとはいえ、15~17世紀はヘルメス主義思想の影響も強かったし、オッカム的なものはマイナーであったのだ。それが主流になったのが18世紀以降だということだ。

しかし、それでもなお、「見えざる根源」を探求したいという欲求はおさえがたく、これが、もう一つの動きとしてヨーロッパ思想史に伏在していく。それはロマン主義という形態をとったりもしたが、最終的にハイデッガーによって表に出てくる。同時に近代科学の「確実性」も、パラダイム論の登場によってゆらいできた。

これがだいたいの西欧哲学史の全体図である。ってあまりに近代は簡単すぎだが・・前に「哲学史の再構想」という記事を書いたので詳しくはそちらを参照してもらいたい。

私は感じるのは、いまの日本で「スピリチュアル」に関心のある人というのは、あまりに感情や感覚だけに生きようとしており、思考という要素、つまり、霊性的なものを含めて、この世界と自分というものがどのように存立しているのか、という知的把握を得ようという欲求が、あまりに少なすぎるのではなかろうか。

そういう思想がいま提供されていないということもあるのだろう。そういう思考への欲求を持つ人は、シュタイナーへ行ってしまうという傾向がよく見られる。

シュタイナーというのは、さすがの私もぶっ飛びすぎてついていけないところが多々あり、一言でいうと「よくわからんやつ」というしかないのだが、少なくとも西欧神秘神学の歴史に位置づけておく思想家であろうとは思う。

しかし、「新プラトン主義とは何ですか」というような問いにも答えられないほど思想史の知識がない人がいきなりシュタイナーに入っていっても、それは結局「教祖」として受け取るということになってしまわないか。というか、高野山大学密教学科や天理大学天理教学科で学ぶのと同じようなことにはならないのだろうか(私のいいたいことがわかりますかね?)。

いいことをたくさん言っていて、いろいろ示唆的なのはたしかだが、あまり深入りしすぎない方がいいかもしれない、というのが私の今のとらえ方である。正直言うと、秘密結社的なエネルギーというか、「引っぱる力」がそこにあるようなので、多少の警戒心を抱いてしまう。

・・おっと、理性で説明しがたい感覚でものを言ってしまいました(^^;

※注 つまり、霊的な認識の可能性を主張する思想は、シュタイナー以外にもたくさんある。問題は、『神秘学概論』などのように、彼が「霊視」によって得た情報がたくさん含まれており、それがセットで与えられていることである。これは聖書の啓示を受け入れるかどうかという問題同様、彼を信じるかどうかというレベルにある問題である。彼の思想の中で、どこまでが伝統的な神秘神学と一致している主張で、どこからが彼独自の追加であるのか、思想史の知識がないとそこがわからない。その結果、彼の「霊視」の内容をもすべて真実であると受け取ってしまうと、これは宗教に近い世界になるのである。宗教でいけないというわけではないが、自分がどういう種類のことをしているのかを自覚するという意味である。シュタイナーが霊視した内容を啓示として受け入れて、その上にシュタイナー神学を立てるのは完全に自由である。>

ともあれ、新プラトン主義+キリスト教という思想はかなり霊的世界観としてはよいものであると思っている。それに、唯識はじめ東洋の哲学、特に転生のコンセプトを入れていくと、かなり包括的なものができるだろうというのが私の見通しである。

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