神学的に考えるとは
まえの「ご質問」であったような、「覚醒に達した人は必ず『見える』ものなのか」という問題は、神学的な問題なのである。
地上に住む人間は、どの程度まで「神との一致」が可能になるのか。
その、神と一致した時に、人間の知性は、どこまで拡張されるのか。
そのご質問で、「必ずしもそうとはいえない」と回答した人は、その「人間知性の拡張」を、きわめて限定されたものとして理解している、という意味になる。
それを限界まで可能であると考えるとすると、人は「神の目」で宇宙を見ることも可能である、ということになる。
神の目で見るというのは・・たとえばある人を目の前にしたら、その人の魂の本体を見ることができるし、また、どのような過去生があり、どんな転生を経てきているのか、あるいは、地球以外の領域にいたことがあるのか、とか、その魂の属するグループはどのようなものか、その魂と同じグループに属する存在は、今どの星に転生しているのか・・このようなことはすべて見える、ということである。
銀河の中心にはどのような世界があり、どの星にはどのような存在があり、地球とはどのような関係なのか・・こういうこともすべてわかるということである。
そこまで可能であるとは信じられない、とすれば、それは「人間の神化」という思想を受け入れてはいないということを意味している。
あるいは、神化ということがあるとしても、肉体を持つ限りそこまで到達できるものではない、と考えるのか。
こういうことが神学的問題なのである。
右のコラムにある、ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読むと、上に述べたようなことも、覚醒した人にはある程度可能になるという印象を受ける。特にその本に出てくるマハーアバター・ババジ師などは、宇宙的存在のもつ自在さを感じさせる。
人間にはどこまでの覚醒が可能かということを考えたい人は、右のコラムにあるいろいろな本を参考にしていただきたい。そこには出ていないが本山博師の本も読んでおくと良い。こういう神学的なテーマにもっと関心をもっていただくことは、このブログの存在目的の一つでもある。

