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魂と身体をめぐるドゥンス・スコトゥスの説

また研究モードにて失礼する。

先日、川添信介のアクィナス死体論に疑問を呈したが、質料と形相をめぐるアクィナスとドゥンス・スコトゥスとの見解の違いというこの文のテーマが興味深いことは事実で、もう少しよく読んでみた。

ドゥンス・スコトゥスは

「もちろん、彼は複合的実体の全体を「主要な意味で」一つのものとして統一しているのは、知性的魂という最終の実体的形相であることを認める。だが、知性的魂にとっての質料である身体が、その中に知性的魂とは別の形相を含んでいないということにはならないと主張するのである」『中世哲学を学ぶ人のために』P.85

これは彼自身のことばでいえば「複合体の全体には一つのエッセが属しているが、複数の部分的エッセを含んでいるのである」同P.87ということである。

ここで「複合的全体」とか「複合体」と言っているのは人間のことである。つまり、知性的魂を持つと同時に、感覚作用をもつ身体をも有している。またここで「知性」というのは、近代の意味ではないので、「叡智的な部分」と考える方が近いものである。

ここで言われていることは、アクィナスは身体的な作用もすべて、根源にある非物質的な魂によって成立していると言っているのに対し、ドゥンス・スコトゥスは、身体的なものは相対的に独立しているのではないか、と言っているということである。つまり、アクィナスは、人間を身体をひっくるめて「ひとまとまり」と考える傾向が強いのに対し、ドゥンス・スコトゥスは、魂と身体とは相対的に独立している、つまり、「魂が身体性をまとう」という考え方により近い、ということになる(つまり、ドゥンス・スコトゥスの方がより「二元的」であるということになる)。

たぶん、「ひとまとまり」と考える方がキリスト教としてはより正統的な立場で、二元的な傾向は、プラトン主義的な理解のしかたに近いであろう。

私自身の普遍神学での考え方は、ドゥンス・スコトゥスの方に近いということはおわかりだろう。
たしかに人間は複合体であって、叡智的な部分と感覚的な身体性をあわせもっている。感覚的な身体性を根本的に統御しているのは叡智的な部分である。しかし、感覚的な身体性は、この地球物質次元という世界領域を統轄しているものによって(それを「地球霊」アニマ・テラエと名づけるが)基本的に維持されているところがあり、魂は、地球物質次元に転生するにあたって、この地球霊の作り出す世界を認識できるような作用を自らのうちに身につける(これをたとえば「形相的共鳴」という語で表すことができようか――これはここで本邦初公開である)。

死体の問題でいえば、心臓や脳が停止したあともある程度人体の形態を保っているのは、人体の細胞等は物質でもあり、それは物質としての法則に従うからであり、物質というものは一瞬にして消滅するというにはふつうできていないからである。つまりそこには物質に作用する自然法則性に従っているということになる。その自然法則性は「私の魂」が作り出しているものではない。それは「地球霊」のレベルにおいて維持されている(地球霊よりも高次領域の意志が一時的に自然法則性を超えることがある――これがいわゆる「奇跡」である。一部の現代人のように自然法則性が宇宙そのものの意志で絶対不可侵だという信仰を持っていると、奇跡を信じることができない。実際には自然法則性はそれほど高次の領域で統御されているわけではなく、地球圏を超えればすぐに通用しなくなる)。

従ってたしかに、ドゥンス・スコトゥスのように、人間は複合体であるにしても、身体性と叡智的な魂の部分は、一致しつつもまた同時に相対的に独立もしている、というとらえ方が妥当ではないかと思う。

また、唯識でも、身体的な作用はすべて個体性の根源である阿頼耶識において生成すると考えているので、物質界がどのように成立しているのかという視点が不足してくるという問題があり、身体性の相対的独立性を認めることが必要になっている。

その意味ではこの論文にはある程度学ぶところがあった。川添氏にはちょっと失礼した。

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