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2008.03.27

信仰(霊的感覚)と知性

さて・・このところ、身辺には読みたい本が山積みであるので、退屈するひまはない。

読んでばかりいては自分の本を書く時間がないが、つい、「このことをもう少し調べてから」などと思っていると、時間が過ぎてしまう。というわけでもう数年が過ぎてしまったが、そろそろ、決め時かもしれない。

しかし、最近の、ヨーロッパ中世哲学・神学についての勉強は、かなり役に立ったと思う。それまでは、東方教父の思想に親しんでいたが、中世のスコラは、哲学と神学との関係ということをかなりつきつめて考えている。そこがなかなか参考になる。

その主要なテーマは、信仰と知性との関係ということである。ここで、信仰というと何か古くさい感覚を受ける人がいるかもしれないが、私なりに解釈すればそれは「霊的感覚」とでもいうべきものに近いと思う。あるいは「魂レベルでの直観」と言ってもいいだろう。
そういうものがたしかにあるという人間経験をふまえて、そのことの意味を限界まで追求し、知性の限界を押し広げていく。そのような哲学のあり方があった。それは近代になって不可能になってしまった。ある人が「霊性が学問になるなんて考えもしなかった」と言っていたのが印象に残っているが、そのように、現代にふつうに教育を受けると、霊的感覚と知性の世界はまったく別物であり、その両者が協働するなんてあり方はまったく想像だにできなくなってしまう。

したがって、中世哲学をやると、

・そのような、霊的感覚と知性とを協調させ、霊的な叡知の浸透した知の体系をつくるという行為は、いかにして可能であったのか。
・そのような協働体制が崩れて、霊的感覚と知性とが分離し、きわめて世俗的な理性の立場が知的世界の標準となってしまったという事態は、なぜ、どのように生じたのか。

このような問題について理解を深めることができる。

そういうことで、入門書として素晴らしい本がある。稲垣良典『信仰と理性』(第三文明社レグルス文庫、1979)である。

近代人の「常識」が、単なる先入観にしかすぎないことが明晰に述べられている。哲学のむずかしいところにはつっこまず、きわめて平易に書かれているので、中世スコラ哲学全般への入門として最適。・・ということだが、残念ながら絶版である。図書館にもあるかもしれない。私は最近読んだばかりだが、あまりにいい本なのでびっくりした。稲垣先生はもちろんマークしていたのだが、この本だけは今まで網から漏れていたのである。

さきほどの二番目の問題について言えば、やはりそれはオッカムだという。稲垣先生はその後、大部の専門的オッカム研究書を出しているが、それは近代的な知の体制がどこから始まったかを見定めようというねらいだろう(この本は、以前少し読んだがひじょうに難解だったので、改めてトライしようと思っている)。それはある意味では、フーコーの「知の考古学」のようなものである(フーコーは、『言葉と物』において、ルネサンス期のヘルメス主義思想の「照応する宇宙」と対比する形で近代知の成立を論じている)。

そしてもう一人、オッカムと対比的なのはルターである。
オッカムとルターは、信仰(私がいうならば霊的感覚)と知性とを厳しく分離すべきことを強調した点において共通しているという。
つまり、知性は人間の持つ霊的感覚の問題を扱ってはならない、そういうものは知の領域から厳しく排除すべきであるという考えは、プロテスタント、あるいはピューリタン的な宗教観に由来する発想なのである。
中には、霊的感覚の問題をとりあげるだけで、そんなものはオカルトだ、怪しい、というような印象を持つ人もいるだろう。私のこともそんなふうに見ている人も世の中にはいるだろう。私に言わせれば、骨の髄まで近代的な枠組みに毒されているので、それは必ずしも自明ではなく、歴史的に成立した知の体制(フーコーの言う、エピステーメーの台座)だということが見えないのである。

ただここで、霊的感覚というのは、よくスピリチュアルということばから連想されるような、江原サン的なものを言うのではない。つまりアストラル的な霊視のことを言っているわけではない。むしろ、「人間が持っている基本的な自己超越性」にかかわるものである。つまり、「私が本来、魂であること」や「私の魂は、その根底へおいて、超越的次元へと開かれている」という感覚のことを言っている。それがここでいう霊的感覚である。それはむしろ人が人である限り最も中核をなしていることがらであって、それを知の体制から排除したことが、いかにして文明をゆがめたか、という問題意識を持つべきだということである。

私の思想は、近代の知の体制を根本的に疑い、その相対性を自覚するところから始まっている。
決して、近年のスピリチュアルブームに乗って騒いでいるような浮かれたものではない。精神世界本も悪くはないが、それが「オカルト」と見なされ、サブカルチャーの中で栄えるというだけでは足りないのではなかろうか。セブンアンドワイという本屋では、精神世界本がすべて「エンターテインメント」の中のオカルトの項に分類されてしまっているのだが、これがいまだに世間一般の見方である。ここに欠けているのは「形而上学」というものが知性の拡張をめざす伝統的な行為であるという発想である。稲垣先生の『信仰と理性』に書かれていることを多くの人が理解していたら、世の中はとっくに変わっているはずである。ところが、それが出た当時も今も、中世哲学の可能性など考える人もあまりない。しかし、その可能性を徹底的に受け止めるならば、それはキリスト教という枠を打ち破って、仏教・インド的な伝統とも対決しつつ、より普遍的な霊性哲学へと進む以外にないはずである。なぜ、そういうことをやろうという人がいないのであろうか。私の試みが「怪しい」と思われなくなる日はいつ来るのであろうか。こういう状況では、「スピリチュアル」ということばで人を釣るのはやめて、「宗教哲学」とでも名乗っておいた方が、地味ではあるが確実なのかもしれないと思うこともある。

なお、たしかにこのブログでは、人が「ぶっ飛び」と思うかもしれないな、ということを書いてはいるが、私にとっては、それは単に「リアル」なことを書いているだけである。世間の常識が引いた境界線なんて、本当にリアルなものにくらべるとたいした意味はない。たとえば微細エネルギーの技術だって、慣れてしまえば、スイッチを押せば電灯がつくくらいに自然なことである。昔の人が21世紀にタイムトリップして、スイッチを押すと電灯がつくところを見たら、それは「魔術」に違いないと思うだろう。ただ、リアルなものはリアルだというだけのことである。私はそういう経験をしているのと同時に、それを完全にリアルとして位置づけられるようなリアリティの地図を持っている。だから別に何の驚くこともないのである。

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