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転生問題をめぐるさらなる妄想2

転生の問題では頭が混乱してきた(笑)
そもそもふつうの知性ではわからないことを考えようというのだから仕方ない。

あらためて、プロティノスを読んだり、マイケル・ニュートンによる宇宙探索本をのぞいたりした(マイケル・ニュートンの、催眠退行による「あちらの世界」探索本は、こうした世界に興味のある人の必読書である)。

つまり、「私は多次元存在である」ということと、「トータル・セルフ」をめぐる情報が、うまく融合していかない、ということが混乱のもとになっているらしい。

ここでしばし、プロティノスを読んでみる。

「われわれ人間の魂も、その全体が感性界に沈潜しているのではなくて、その或る部分は常に知性界にある」プロティノス全集第三巻P.338「魂の肉体への降下について」

ここでいう知性界とは、ふつうの知性ではなくて、「叡知界」とむしろ訳すべきか、宇宙的叡知の領域というイメージで理解すべきものである。

つまりプロティノスがいう魂とは、知性界にいる部分を含む、多次元的存在なのである。しかし一般に、魂というときは、プロティノスのいう「個霊」(個別的霊魂)のみを指すのである。
プロティノスによれば、魂は、上位では分かれていないのである。

「個霊たちは、どうしても知性界の生活を送ったり逆に感性界の生活を送ったりしなければならない、いわば両生類のようなものとなっているのであって、長期にわたって知性と共にいることのできる個霊たちは、それだけながく知性界にとどまり、自然によるか、あるいは運命によるか、そのいずれかによって(知性的なものとは)相反するものをもっている個霊たちは、それだけ長く感性界にとどまることになるのである」同P.332

多次元なる魂の、高次の部分においては、神的なるものとの一体性があって、そこでは、完全に「個」が全体から分離しているわけではない。

プロティノスは、なぜ魂が感性界に転生することがあるのか、その理由についても明確に述べている。

「その魂が感性界で見たり受けたりしたことの情報(すなわち経験)を積み重ねることによってあの知性界でのあり方がいかなるものであるかを学び、これといわば正反対のあり方をしているものどもとの比較を通して、知性界のよりすぐれた諸存在をいわばさらに明確に知るならば、その魂は、感性界を脱して再び知性界へと昇っていくことができるのである。すなわち、脆弱なる力のゆえに<劣悪なるもの>の知識を経験に先立って獲得することのできぬ人びとにとっては、劣悪なるものを経験することが、善きものをより明確に知ることへと結びつくのである」同P.337-8

つまり、この世界に「悪」があるのは、「善」と正反対なるものの経験を通して、「善」をよく知るためにある、という意味であろう。
相反するものの経験を十分にしたならば、それはもう用済みであって、再び知性界に帰ることになる。
また、後半部分でプロティノスが言っているのは、この<劣悪なるもの>は、経験を通して学ばなくてもいいということだ。どうしても経験を通さなくてはわからない者は、そういう経験をしなければならない、ということだ。
実は、これとほとんど同じ論議が、『神との対話』第三巻にある。
進化の進んだ星では、悪の経験を実際にしなくても、悪とはどういうものかを知ることができ、その相反するものを通して善をよく知ることが可能になっている。
それはたぶんイマジネーションのようなものだろう。
たとえば、「追いつめられて人を殺してしまう」というような経験とはどういうものか、それを実際にやってみれば体験することができるが、それをしなくても、そういうことを描いた優れた映画や小説などに接して、そういう経験をする人の気持ちに入り込むことができれば、自分で実際にやらなくても、ある程度はどういうものであるのかを知ることができる、というようなものである。
優れた魂は、そのように、自分の知性の内部だけで、相反するものの経験を理解することができるので、そのために、それを実際に感性界で実行する必要はない。プロティノスは、そういう劣悪なるものの知識を「経験に先立って獲得することも可能であり、そうすれば転生は必要ない」と明確に述べているのである。

さて、このように、魂が多次元的であるというのは、その根源においては永遠の世界と切れ目なくつながっているという意味であって、そういう部分を自覚するということは、自分の本体は光の世界にあるのだ、という感覚をいだくということでもある。
また、そういう光を自覚することなしに、カルマの浄化などありえないことであろう。

転生の継起性についてプロティノスがふれているところは:

「なお、魂の犯す過ちには二通りあって、その一つは魂の降下の原因にかかわりがあり、他の一つは、魂がこの感性界に到達してから犯す悪行にかかわりがあるのである。前者の罰は、魂が感性界に降下してこうむっていることそのことにほかならず、後者の比較的軽い罰は、過去の行いを勘案した判決に基づいて他の肉体へと沈んでいくこと、しかもすみやかに沈んでいくことである」同P.334

ふつうの意味での輪廻について触れているのはこの引用の後者であろう。つまり感性界にとらわれて「はまって」しまい、次々と肉体を輪廻していくということだ。
魂の感性界への降下自体を否定的にとらえるのは、プラトン主義の伝統ではあるが、いくぶん、割り引いて考えねばならないだろう。これに対し、肉体を持つことの価値を強調したのがキリスト教思想であり、新プラトン主義とキリスト教思想の適度なブレンドがもっともバランスがよくなる、と私は思っている。
プロティノスの輪廻観は、いささかインド的でもあり、輪廻経験の肯定的な意味を認めていないところは、少し修正を要する。

さて、もともとこの文章を書き始めたのは、プロティノスと、坂本さん情報のトータル・セルフモデルとは、どのような整合性があるのか、というテーマだった。

魂は知性界(叡知界)にその根源を有し、その次元では全体とつながっているが、個別的な表現をとって、さまざまな宇宙領域(星)に展開することがある。
ここで問題となるのは、坂本さん情報でも出てくるが、「地球生命系の特殊性」ということではなかろうか。
つまり、地球生命系は、きわめて特殊な領域なのではないか。
他の星に魂の表現が行われる場合は、それほど、魂の本体との分離は経験されておらず、全体とつながっていることが、意識され続けているらしい。
しかし地球生命系だけは、その物質領域はほとんど分断されており、本体とのつながりがきわめて感じにくくなっている。
したがって、魂の表現の中で、地球生命系に入ったものだけは、そこに深くはまってしまい、もとの世界とのつながりを忘れるまでに至ってしまった。そこで、この地球の肉体に継続的に入り込むという経験を重ねることになった。
つまり、こういうタイプの輪廻経験は、地球にしか発生しないことなのだ。(あるいは、地球と似た性質の星が、宇宙には他にもあるかもしれないが)

プロティノスは、魂は一であり、同時に多であるという。
これはトータル・セルフ説と一致する。ただ、ITクラスター、スーパークラスターのモデルは、一からの多への展開は、何次元にもわたって行われるもので、入れ子になっていることを示す(ホラーキーモデルも同様である)。
魂は、個別的表現をとる際でも、その全体とのつながりを一部に残している方が、宇宙においてはふつうであるらしい。つまり、個といっても、決して完全に個になりきるということはないというのが、宇宙での基本原則なのだ。
ところが、地球生命系は、全体とのつながりの意識がきわめて強く遮断されているという、特殊な領域なのである。
つまり、自分が「個」であるという強い意識を持っているという「個我」の状態とは、地球に輪廻しているからこそ、いだいている意識状態なのだ。
その意味で、個我とは地球的な幻想である。

そういう、自分が独立した個であるという妄想を起こさせるものを、唯識では「末那識」(まなしき)という。
末那識が起こってくるのが地球生命系の性質なのだ。それにより個我の幻想が発生する。

多次元性に目覚めてみれば、地球生命系での転生経験とは、夢が連続しているようなものではなかろうか。

つまり、私がいろいろと考えてきて、ここで一つの結論として推測するところはこうである。

多次元的である魂の、感性界における表現活動において、地球生命系に入り込んだ部分は、この星の強固な物質性によって、一時的に、本体とのつながりを失い、自分を独立した「個我」であると錯視する末那識を生成させた。これにより、地球生命系において、継起的に肉体を遍歴する輪廻という経験が生じた。この輪廻には「主体」はない。主体のように感じられているものは、末那識により錯視された個我意識であるが、これは地球生命系の特殊な性質により生成しているもので、魂の本体とはまったく別物である。
したがって地球での転生経験は、魂の視点から見るならば、自分の一部ではあるが、自分とのつながりを失った「かりそめの私」を主人公とする一連の夢として、感じられるであろう。それを見ている私は、この転生経験にはまったく入り込んでおらず、非物質・無時間的な領域から、こうした一連の夢を全体として眺めているであろう。
しかしながら、こうした「かりそめの私」が多数存在する地球生命系において、魂の本体とのつながりを思い出す「かりそめの私」が増加するとき、この地球生命系自体の解放が促進されるかもしれない。つまり、その物質性のバリアーが打ち破られ、宇宙の他の星と同じように、魂の本体とのつながりを維持したまま個的表現が可能な星と変わるのである。

以上のように考えると、坂本さんモデルで、「ITから分離した個我がそれぞれ継起的に輪廻する」ということは、宇宙の基本原則ではなく、あくまで地球生命系に特有な「幻想」の構造として理解すれば、ある程度整合的に理解できるのではなかろうか。そこで想定されている個我も、地球的幻想である。

また、私が思うに、唯識における阿頼耶識というのは、かなり限定された概念である。むしろこれは、目覚めのための一つの戦略的なコンセプトと理解すべきもので、必ずしも、宇宙構造を説明するための概念ではないのではないか。阿頼耶識概念の不十分さについては著書でいろいろふれ、その拡張も試みている。とりあえず今は、上記の考えを、阿頼耶識概念とどう整合させるかという課題は、後に回したい。

また、きのう書いたこととどのように整合性があるのか、考えておこう。
「私がなんとなく思うのは、この物質次元において「私」と認識されている個我性は、それほど強固なものではなく、もっと曖昧なものではないかということだ」
これは、この次元の「私」が実体的にあるとは思われず、一つの幻想としてあるのではないか、という感覚を述べたものである。
こうした輪廻を通して継続している「単一の私」が、あるように見える。それはこの物質次元(およびそれに近い地球生命系の微細次元――モンローで言うフォーカス23~26)に限定された視角からは、そのように見えるが、実際にはそのような単体の私というのは、末那識により生成した錯視である。実際にそういう「単一の私」が魂からはっきり分離しているわけではない。実際にはつながりは維持されているのだが、それを見失っているため単体であるように感じられるのだ。

「転生を貫いて存在している個我は、もう少し深いレベルにあって、非物質次元にある」
ここで「個我」という言葉を使うと混乱を招きかねないが、変わらずにあるという「私」は、物質次元には入りこんでいない、という感覚を述べている。

「それはITなのか、そうではないのか。この、私が感じているものは、阿頼耶識なのか、ITなのか」
阿頼耶識という概念が曖昧さを残しているので、回答が難しい問いである。
私がなんとなく感じるところだと、かしこにある「本体」から各世界領域に分岐している「私」の一部がある。それはたしかに共時的に、同時存在しているのだ。それは分岐したとしても、本体とのつながりを失ってはいないから。だからこれはITとかトータル・セルフに近いものだと思う。ただそうした各世界領域への分岐的な「転生」の中でも、地球生命系への転生だけは、つながりが切れかかっているので、そこに分岐したものだけは強い「孤立した個我」の意識を強めている。そのために、継起性が強く感じられるのである。

もちろん、他の世界領域に分岐したものについても、たとえばオリオン系だとか、ある程度、その領域に特化した個別性があるのかもしれない(地球に行ったものほどつながりが切れてはいないが)。そうすると、そうした世界領域内における輪廻というものが、地球と同じように考えられるかもしれない。しかしこれは、まったく知覚できる範囲を超えた話なので、そこまで考えてもしかたがないだろう。

この考察を通して確認できたのは、「個はトータル・セルフとつながったものとしてある」というのが宇宙においては普遍的な姿であり、トータル・セルフとはまったく別個に感じられる個の意識は、地球生命系(など、物質界と非物質界との分断が激しい世界領域)特有の現象であり、そのために「輪廻の主体」が存在するかのような錯視が起こる、ということである。つまり、地球的個我は幻想である。しかしその幻想にはまっている以上、それはこの上なくリアルでもある。その幻想性を見抜くためには、やはり、魂の多次元性を多少とも自覚し、トータル・セルフとのつながり、自分の本体がそこにあるという気づきを推進する必要があると思う。

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