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八木雄二『中世哲学への招待』

八木雄二『中世哲学への招待』は、ドゥンス・スコトゥスの入門で、そこで近代ヨーロッパの始まりを知ろうという試み。「中世哲学」とは言っても、ドゥンス・スコトゥス以外はいっさい出てこない。これで中世哲学の概観が得られるという期待を持ってはいけないので、あくまで哲学史と合わせ読む必要がある。概観コーナーもあるがあまりに簡単すぎる。

この本、むかーし買ったが、その時はどうもめんどくさい話が多くてよくわからないような感じだった(^_^; それは中世哲学のことをまったく知らなかったからだが、最近少し勉強したせいか、それほどむずかしいことを言ってはいないことがわかった。

ドゥンス・スコトゥスが近代の始めだというのは、要は、個物の強調と、主意主義(意志を重視すること)の二点である。

しかし、その点をさらに徹底化したオッカムについてまったく触れていないというのはどういうことだろうか。たしかにドゥンス・スコトゥスにおいて始まってきたものが一つの帰結にもたらされたのがオッカムであるので、近代的世界像の成立を言うためにはオッカムははずせないと思うのだが。入門書ということであえてオミットしたのだろうが、よかったかどうか。

それと根本的に、著者には、稲垣先生のような思索の深みに欠けているうらみがある。著者はそもそも、「普遍が実在する」という思索は、何を見ようとしていたのかということが深いレベルでわかっているのであろうか、という物足りなさを覚えるのだった。また、アリストテレスの説明もどこか平板である。その宇宙論的な思索が伝わってこない。

着眼や企画は悪くないが、深層の話にまではいかない。そういう感じである。それはつきつめると、著者が「神」と向き合うことが求められているということ。キリスト教の問題を、ヨーロッパ文化を理解するための教養としてとらえていて、自分の問題だとは思っていないところがあるようである。しかしまあ、中世哲学の比較的やさしい本は少ないので、貴重なものではある。ドゥンス・スコトゥスの引用部分はあまりにややこしい文章なので、つい飛ばしてしまったけれども(笑) しかし平凡社新書では続編らしき古代哲学編も出たところを見ると、ある程度売れたということなんでしょうねえ・・ ここから進んでもう少し深みを求めるなら、私はやはり、リーゼンフーバー先生か稲垣良典先生をオススメしますが・・

しかし著者は、大学の非常勤講師と、環境保護のNPO代表というよくわからない肩書きである。生態系の哲学みたいな本もあるらしい。

4582850693 中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
八木 雄二
平凡社 2000-12

おっと、「神と向き合っているのか」などと失礼なことを書きましたが、著者は『イエスと親鸞』という本も書いているのですね。すでに品切れというのはよくわからないが・・ しかしなかなか昭和の香りのするテーマではある。しかし、イエスと親鸞? なぜこの二人が同列になるのか? だってイエスは宗教家や思想家ではなく、神の子なんですが・・ イエスを宗教家だと見た瞬間に、キリスト教を否定することになりそうである。だからイエスと比較するなら、マハーアバター・ババジ師あたりでないといけないような・・ 中身を読む予定はないので批評は避けるが、少なくとも、神について考えていないわけではないらしい。ただ『中世哲学への招待』を見る限り、著者が特に、信仰と知性の問題を考え抜いている人だという印象は持たなかった、ということである。

ルイ・デュプレ『近代への道行き』

ルイ・デュプレの『近代への道行き:自然と文化の解釈についての試論』(Louis Dupre, Passage to Modernity : An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture, Yale Univ., 1993)てのを読む。

なかなか学識に富む本であった。さすがにイエール大教授というかんじですね。なんでこの本かというと、稲垣先生の論文の注に何度も登場していたので注目していたのだ。

これはタイトルの通り「自然と文化についての解釈」つまり世界観について、ギリシアと中世ヨーロッパから近代へ移る過程で起こった大きな変化について述べているわけである。稲垣先生が共感したのも当然だが、その最大の思想的な変化をオッカムに代表される唯名論に求めている。さらに、神の意志の絶対性を強調する「主意主義」(と訳すんだっけ? voluntarismだが)の神学についてもふれる。そこから機械論やデカルト的な自我への思想史的な変化を追っていく、というような感じ。

デュプレは、トマス的な総合をかなり評価しており、そこから、トマス→ドゥンス・スコトゥス→オッカムと行くにつれ、その世界観的均衡が崩れてきたことを言っているという点では、稲垣先生と基本的に同じ意見。唯名論は、自然を神的な秩序から切り離された自律的なものと見たところから、近代科学の機械論的パラダイムを準備したということ。

ある意味では、これまで勉強してきたことと同じだし、コンセプト的に、全く新しいものはあまり出てはいないのだが、ここまで思想史的にまとまっているのは貴重というか、いろいろと整理できるので役に立つかな、という本であった。

0300065019 Passage to Modernity: An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture
Louis Dupre
Yale Univ Pr 1995-09-15

その次は、ナスル先生の新著にとりかかっているのだが、デュプレの本と並べてみればいろいろ考えさせられることがある。

それは、やはり、ヨーロッパ近代の宇宙観や自然観、そして「哲学」をどう理解するのかということを、そのまま自明の前提として受け取ってはならないということである。そこからは何も始まらない。はっきり言って、ヨーロッパは近代において道をそれたのである。前にも書いたが、物質科学を発展させるために、精神文化を犠牲にしたのである。精神文化の復興のためには、ヨーロッパ近代の相対化がますます必要とされているということである。

歴史の分岐

ちょっと前に書いた「お仕事計画」はたちまち変更された。ボナヴェントゥラ神学にひたるつもりだったのだが、ナスル先生をちょっと読み返したのをきっかえにイスラム哲学にはまり始めてしまった。まだまだ知らないことがたくさんある。それにつられて、伝統主義哲学の本も大量に買いこみ始めた。英語では、けっこうたくさん出ているのである。

やっぱり、どうしても、ここが日本の知的世界の欠落だと思わずにはいられない。つまり、「霊的なことがら」が「思想・哲学の問題である」という認識が、おそろしいほどに低いという状況があるのだ。霊的というとすぐにオカルトだとしてしまう風潮があまりに強い。逆に言えば、そういう反霊性的な考え方に対して、思想哲学からの「抵抗勢力」が弱すぎる、という問題でもあるのだ。結局、哲学が輸入学問に終わっていて「自前の思索」が少なかったというつけが回ってきているのかもしれない。

ともあれ、伝統主義思想はなかなか受け入れられない。ゲノンの訳書は出たことがあるがとうに絶版だし、シュオンもナスルも出る見込みはない。アメリカではあれほどメジャーなヒューストン・スミスさえほとんど読まれないとは・・

しかし、ヨーロッパとイスラムとの哲学の歴史を見ているとなかなかおもしろい。ヨーロッパは唯名論に向かい、イスラムは神智学へ向かうという両極端への分岐。唯名論とは要するに、「素朴実在論の哲学的肯定」だと思う。存在の深みなどは考えなくてもいいという思想だ。結局、わかりやすくいえば、ヨーロッパは伝統的な精神文化の深みを捨てて、科学に代表される物質文化を発展させるという道を進んだわけだ。哲学や文学・芸術では、それに対する反発がいろいろと試みられたが、文明全体の滔々たる流れは止められなかった、ということではないか。ヨーロッパがそうした「精神から切り離された物質文明」という歴史的実験を行ったのも、なんらかの地球史的な神慮によるものであったかもしれないが、今は、精神文化を復興させ、物質文化とのバランスを取るという時代に入っているのだ――と書けば、かなりわかりやすいであろうか?

「スピリチュアル哲学入門」というなら、そこにはどうしても、近代文明批判という要素が入らざるを得ないということである。

それにしても、イスラム神秘哲学は、現代の唯物論に曇らされた目にとっては、相当なる「ぶっ飛び思想」ではなかろうかと思う。実は、『魂のロゴス』なども、こういう世界に入っていると、全く違和感がない(笑) 宇宙の神的根源、叡智的存在(天使)の導き、霊的な光明の流出・・全部ありますよ。

新著は『スピリチュアル哲学入門(仮題)』??

今年は新著を一冊出す、と宣言してしまっているが、少しずつ、具体化してきた。

普遍神学、つまり現代における霊性思想、形而上学をめざすという立場にかわりはない。しかし、今度の著では特に、前著からの数年間に勉強してきた、西洋的霊性へのふり返りのことが書かれることになるだろう。新プラトン主義・キリスト教思想(東方・西方含めて)・イスラム哲学(これからもっと勉強が必要だが)を通観して、そこで到達した霊的世界観のヴィジョンをまとめてみる。そこから、ある程度、ロシアの思想家みたいな地球神化のヴィジョンが出てくることが期待される。しかし、それだけでは足りないものとして、東洋的霊性から、特に輪廻転生のイデーが統合される。こんな感じだろうか。

もちろん、東洋的霊性を掘り下げることも、深い意味がありそうだが、一冊ではそこまで手広くできないのが実際であろうから、東洋の問題は、ある程度、さらにその次になるのかもしれない。

というより、西洋的霊性をよく見ることにより、東洋にもあるはずだが、これまでよく見えていなかったものも見えそうである。具体的にいえば、たとえば、宇宙から注がれる神的な愛(アガペー)によって神化の道を歩むといったヴィジョンである。これは、阿弥陀や観音など、東洋にもあるはずのものだが、これまでの東洋的霊性論はあまりに自力主義的な「無」の立場に偏りすぎて、アガペーの道が軽視されてきた傾向も見受けられる(それが京都学派的バイアスだと私は言うのであるが)。したがって、西洋的霊性にフォーカスするということは、「神と向き合うこと」の意味を考えることであり、アガペーの道(インドでいえばバクティの道となるが)を前面に押し出すという思想となる。日本の知識人には受けやすい「無」とか、「生命」とかいうものではなく、人を神化へと導く「神」が存在することを訴求するのが、今回の著の主要テーマとなるのである。

タイトルは『スピリチュアル哲学入門』などではどうか、というのが出版社の意見である。これまでここで述べたとおり、私は「スピリチュアル」ということばは、やや軽すぎて好きではなく、なるべく「霊性」という言葉を使いたいのであるが、本が売れるにあたってはかなりな程度タイトルで決まる部分もあるので、「スピリチュアル」という言葉で霊性の領域にひかれている層に訴えるには、ある程度妥協も必要であろう。もともと「スピリチュアル」という言葉は「スピリット」から来ているわけだし、これは西洋的にいえば「神」に発するものである。(前著のタイトルは、かっこよかったのだが、反面、どういう内容の本なのか、わからない人にはまったくわからないという問題があったのだった)

奇妙なことに、検索する限り、今の日本に「スピリチュアル」と「哲学」が同時にタイトルに含まれている本は存在しない。

多くの人は「スピリチュアル」の領域を仮に認めたとしても、それは「非知」、つまり思惟の領域外にあるものと見なしている。これを私は「霊性における反知性主義」と呼んでいる。それが日本の思想の根深いパターンでもある。禅の影響は思いの外に強い。禅を認めないわけではないが、日本で霊性を語るとすぐに禅のパターンになってしまう、という偏向を是正するには、西洋的霊性思想を対置するしかないのだ。そうしないといつまでも形而上学が根づかない。

西洋的思想伝統では、霊的知恵と知識とが合一した形が追求されてきた。東洋にだって、それはないわけではない。天台・華厳や、空海の真言密教もそういうものだろう。

新著は、そういうねらいを持っているのであるが、しかしたぶん、このブログ以上にわかりやすくしなければならないだろう。

たとえば、研究室にタロットをしてもらいに来るような女の子にもすすめられるような本――といえば、あまりに野心的すぎるであろうか(笑)

やや愚癡モードだが

しかしあらためて思うが、タダのブログは読んでも、お金を出して本を買って、体系的に知ろうというような人は少ないんですねえ・・ 『忘れられた真理』は、残り少ない在庫分がなくなったら、再版しないことになりそう。買うなら今ですよ・・(^^;  永遠主義思想は、なかなか今の日本では受け入れられない・・どうも悩みですね。ま、次に出す本がブレイクすれば、またわからんけどね。

やっぱり、「神について考えるということが知的伝統にない」というのが、明治以来の日本の決定的な問題だと思うのだが・・ 稲垣先生の『問題としての神』を、みんなで読んでほしいものだ。

大森正樹先生や谷隆一郎先生でさえ、「文部科学省研究成果公開促進助成金」がなければ本を出せないわけだから、私如きが言ってもしかたないですかね(笑)

秩序の神的起源について

さらに、「コスモス・カオス理論」について考えてみたが・・

ナスル先生を読みながら気がついた。カオスに秩序を与えてコスモスにするということは、いろいろな神話に出てくることである。

それはどういうことか? といえば、それは、宇宙根源(神)に発する力が、この宇宙に秩序を与えた、ということを意味していたはずなのだ。伝統哲学はみな、そのように解している。

ところが、一時期はやったコスモス・カオス理論というのは、その秩序形成の作用を、まったく「人間が共同主観的に与えるもの」と理解したところに成り立っている。つまり、形相的なものはすべて認識主観に内在しているというカント主義を、自明の前提と見なすところから、こういう解釈が起こってきたのである。このような人間中心主義が抜きがたくあり、秩序とは宇宙の深部から来ているものではないのか? という根本直観が全く忘れられていた、ということになる。

もう一つ言いたいことがある。それは、日本の思想家が持ちがちな、一種のバイアスのことである。

それは、日本の思想家はだいたいにおいて、こういった「秩序」が神的起源を持つということをあまり考えず、すべての「秩序」は人間が作ったものだと見なし、それを突破して「秩序の彼方」に達することをめざそうという傾向がある。そういう傾向があるから、カント主義の変形である共同主観パラダイムが抵抗なく受け入れられたところもありそうなのだ。

そのことを、井筒俊彦を読みながら気づいた。井筒さんはイスラム哲学研究の大家でありながら、秩序の神的起源を言うよりもそれをいかにして突破するかということを中心に語っている。それは端的に言えば、禅のパラダイムの影響であると思う。

もう一ついえば、この前引き合いに出した永沢哲はもちろん、その師匠筋?(かどうか知らないが)中沢新一もまたそういう傾向にある。キリスト教の人でも、門脇佳吉、八木誠一などはみなこのパターンに入ってしまう。もう、だいたいが同じで、結局は、京都学派のバリエーション。

コスモスというイメージは、「宇宙秩序の神的起源」をも語っているものであるのだが、日本人は、そういうことよりも、聖なるものを「脱秩序」に見出そうという、本当に抜きがたい思考パターンを有している。その結果、神というもののある一面しか見えていない思想になりがちなところもあると思う。

稲垣先生、大森先生、谷先生・・といった、キリスト教哲学のベースを持つ人が存在する意義も、そこにあるといえよう。

ナスル先生と世界領域の四分割(もしくは五分割)

てなわけで、積ん読であった、ナスル先生の『イスラム宇宙論入門』(An Introduction to Islamic Cosmological Doctrines)を引っ張り出し、とりあえずイブン・スィーナー(アヴィセンナ)のところだけ読み始めた。

フランス語の引用文が訳さずにそのまま入ってますよ・・ 前に、ラテン語の引用が訳なしで載っている本を見てめんくらったけど。まあフランス語なら読もうとすればなんとかわかるので大丈夫であるが・・それにしてもかなりのハイブロウである。

その他、名著、『知と聖なるもの』も再読中。

坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』を紹介したことがあるが、そこでは、本来は聖なる知性のことであった Intellect の意味が、西洋思想史においては次第に頽落していったことが論じられていた。ナスル先生の本は、そのテーマが、もっと徹底的に論じられている。

ナスル先生の語るところだと、人間の魂には神的な知性が内在しており、それは神的なロゴスでもあり、そうした神的照明を受けて、私たちは霊的な知に達することができる、ということである。

そして、宇宙は絶対的な精神から発出し、再びそこへ帰還するのであるが、生成の世界は、基本的な次元の相異がある、多次元的なものである。

ナスル先生の分類だと、それは四つに分けられる。かっこ内の別称は私が補ったものである。

絶対(神ともいう)
知性界(天使界、天上界)
中間界(微細界)
物質界

という四つが基本である。この四分類は、スミスの『忘れられた真理』でも採用しているところで、そこでは、無限・天上界・中間界・物質界などとなっていたと思う。

インド哲学でもこの四分割が基本になっているので、だいたい「そういうものだ」と受け入れておくのがよいだろう。

本山博師の本では、アストラル・カラーナ・プルシャそれから絶対という名称で語られている。カラーナというのはいわゆるコーザルのことだが、本山師は「カラーナにも微細ではあるがカルマがある」と言っているところからすると、上の分類では、「中間界」の上位がカラーナ、下位がアストラルと位置づけられ、「知性界」は本山師がプルシャと呼ぶところであろうと考えられる。またこの「アストラル・カラーナ・プルシャ」は、五井昌久師の「幽界・霊界・神界」とほぼ対応する。これに、物質界と絶対をつけ加えれば、これは五分類ということになる。「中間界」をさらに二つに分けるかどうかの相異である。中間界まではカルマの原理が作用する。

こうした世界領域の分類論は、細かい違いはあるにせよ、いろいろな立場で、基本的な一致がある。決して、千差万別というようにはなっていない。その一致は、人間に内在する知性の普遍性から来ているということは、別に霊的直感力がなくても、理性によって理解できることであろう。

また、ここで言う知性界とは、カルマを離れた「マスターたち」や神々の領域であるということである。根本的には「絶対」からのエネルギーで動いているとはいえ、私たちを導く「ガイド」や「天使グループ」のリーダーとして活躍しているのは、この次元の方々であろう。

ナスル先生も、こうした、私たちを導く天使やマスターの存在を、完全に信じている。稲垣先生をも上回る完璧な確信ぶりであり、まことにあっぱれというほかない。

伝統主義哲学

この四月になってからものすごい量の本を買っている。すでに8万円を超えたかもしれない。

中には、前に買ってあるはずなんだけど、どうしても在り場所がわからないで買い直したりすることもあるんですよね(笑)

最近、ひさびさにヒューストン・スミスの『忘れられた真理』を開いてみたんだけど、やっぱり、いいことが書いてある(笑) 知るべきことがコンパクトにまとめられているという意味で。

その流れで、セイイッド・ホセイン・ナスルの本(まだ訳されていない)も読み返してみたけど、これもやっぱりいい。

こういう「伝統主義哲学」はほとんど普遍神学そのものと言ってもいいくらいで、こういうものをいかにして日本でもっと普及させるかが問題だとあらためて感じる。

伝統主義哲学(「永遠の哲学」派ともいうが)はやっぱり、基本的には新プラトン主義的である。それは、イスラム哲学をベースにしているからで、伝統キリスト教哲学についても、それと合致するところを受容している。逆に、キリスト教独自の、受肉の神秘、つまりキリスト論についてはあまり深く入っていかない。地球自体が神化へ向けて、歴史において終末に向かうということも肯定はしていない。

また、インド思想との関連で言えば、輪廻転生を受容していない。

つまり、私の立場と比較すると、私はもう少し、歴史における終末(ヨアキム主義??)の問題につっこむのと、輪廻転生思想を霊的進化論と融合するというイデーを持つことが、相違点としてありそうである。

それから、その流れで、井筒俊彦の『意識と本質』もまた、少し読み返してみたが・・

井筒さんの「言語アラヤ識」という概念はどういうことであろうか? その、「世界の分節的構成は言語によって定まる」という発想は、当時の日本思想界の主流であったが、その影響をやはり受けてしまっているのではなかろうか? という疑問が出てきた。今ではそれは、カント的なカテゴリー論を共同主観の領域で措定する、一種の構造主義的な発想であることがあきらかとなっているが・・ 当時は、廣松渉などが全盛であったから、井筒さんもそうした考え方の影響を知らず知らず受けてしまっているのではなかろか。そしてまた、その言語的分節を、乗り越えるべき、否定的なものととらえるのは、今度は禅(あるいは大乗起信論)の影響を受けていると思う。

しかし、題名に『意識と本質』とあるように、この本は、実は、「本質」という中世哲学的な概念をちゃんと理解していないと、なかなかわからない本なのだった。私がむかし読んだときは、やはり、当時のコスモス-カオス論のパラダイムから読んでしまって、そのスコラ哲学的な背景を理解していなかったようである。

井筒さんは、存在の分節は言語の分節に由来すると決めてしまっているということは、言語以前における存在の分節を否定することを意味するし、言語とは別のところで「共通本性」があることを認めないということになるのだろうか。ただし、井筒さんは、言語を単純に示差的体系とみなしているわけではなく、もっと深層の次元を認めているのであるが。つまりその言語論は空海の「声字実相義」のような発想につながるところもあり、当時の「現代思想」には収まりきれない。

それにしても、自分の、イスラム哲学についての勉強不足は、なんとかしなければならないと思う。

日本には、あまりいい本がないので、しかたないのだが・・ナスル先生の本を手引きとして、基礎知識を身につけないと・・

というわけでナスル先生の新著などを注文してみた(洋書である)。すると、それにスミス先生の序文が・・もう90近いと思うが、元気ですなあ。

アルテのHP

右コラムにある『魂のロゴス』や『忘れられた真理』を刊行しているアルテという出版社だが、いまさらながら、HPができたことを知ったので、リンクしておく。

http://www2.plala.or.jp/arte-pub/

というのも、アマゾンでは上記二著は取り寄せになってることが多い。その他のオンライン書店(楽天セブンアンドワイビーケーワンブックサービスなど)をかたっぱしから見ていけば、たいていどこかに在庫があるものだが、アマゾンだけ見てあきらめる人もいるだろう。アルテHPに行けばそこから直接注文もできるので、その利用も可能だ(送料無料)。

人体科学会の雑誌に坂本さん登場

所属している、人体科学会というところが出している小冊子みたいなものが届いた。これは、学会誌とは別に出しているもので、広報誌みたいな感じだろうか。

それを見て驚いた。なんと、坂本政道さん、越智啓子さんが書いている。

内容は、他の本で書いているのと、同じようなものである。

その他に、青山圭秀、永沢哲なんてのも・・

こういうのが出ているということは、人体科学会としては、坂本さん越智さんなどを決して「いかがわしい」とは思わず、少なくとも、重要なる問題提起を含むものとして受け止めていることを意味しているだろう。

たしかにアカデミズムとしては少数派であることは間違いないのだが、学界というものもここまで来ているということは、ここを読む人たちも知っておいてもらいたいものである。

まあ、それくらいでなきゃ、この私が入会したりしているわけはないですな(笑)

ただ、永沢哲というのは、どうも私はエネルギー的に異質な感じがするかな。チベットで密教を修行した人だが、今は、京都の大学に勤めているらしい。

彼の『野生の哲学』は、野口整体を論じたものとして評価が高いようだが、アマゾンレビューで「中沢新一の影響が強すぎるのでは?」というのを書いたのは私である。

永沢のタントラ論は、どうも、中沢新一が『チベットのモーツァルト』時代に書いていたようなタントラ論とかなり似ているところがあり、そのノリを、野口論にも応用したような感じなのだ。

これを極端にいえば、「悟りとはつまり宇宙とのセックスでしょ」という悟り観に立つものだろう。「気持ちよさ」の極致としてそれを語っているわけだ。

ここがどうも、吉福伸逸流トランスパーソナルがはやった時代の感覚というか・・この現在ではすでに異質な感じがする。

その気持ちよさというのを、宇宙から注がれる愛や、人間がそこに位置づけられている「宇宙的な善への志向性」と一緒に語らない傾向がある。つまり、倫理性が後退して、快楽が前面に出てくるような印象を与えてしまうのだ。

チベット密教では、タントラ修行に入る前に、厳しい「前行」があって、徹底した戒律と懺悔の期間が必要とされる。それを前提とせずに、その気持ちよさだけにフォーカスしていくことの危うさを、今回も感じてしまった。

それはともあれ、時代は急速に変わっているということで、余計な自己規制はもはや無用になっているのである。

人体科学会の学会誌の次号に、普遍神学の論文が載ることになっている。

神に起源を持つ言葉

しつこくも稲垣先生ネタである。今度は『問題としての神』からの引用であるが、この本はすでに確保ずみである(笑)

われわれが使う言葉、われわれの考えの中に、やはり神様に起源を持っている言葉があるとしか言えないのです。そういう言葉や考えがある。それを認めないかぎり、神について語ることはみんな無意味ですよ。神様について知らないと言う人に対して、神様について語ることは無意味です。私が根本的に、神を問題にすることが大事だと思うのは、みんなが神様のことを知っている、という前提に立ってのことです。そんな無茶な、と思う方があるかもしれませんが、でも私は正直言って、私のささやかな哲学的思索のひとつの実りとして、そういうことを申し上げたいのです。p.47(強調は引用者)

これはおよそ神学的思考というものが成立するぎりぎりのところをとらえた言葉だと思う。

「人間のぼろい頭で神について考えたことなどすべて無意味である」と考えてしまったら、それでおしまいである。

「人間の精神は、宇宙の深い部分から、高貴なるイデーを受け取ることができる」――これを認めない限り、神学はないのである。また、精神文化もないのだ、とあえて言おう。

神学が可能なのは、人間は神的知性を分有しているからである。つまり、神の像、Imago Dei である。

もちろん、この「受け取ったもの」は、音楽や美術を通しても表現されることができるだろう。言葉もまた、人間がもつ表現手段である以上、そういう可能性から排除される必要はないということである。

Imago Dei がなければ、霊性にかかわる知的行為そのものがまったくあり得ない。それほど Imago Dei は根本的なイデーであることを、改めて確認したい。

タッチの差で・・

ということで、『神学的言語の研究』を借りてきてるのだが、再三ここで書いたように、熟読すべき本なので、手元に置こうと、古本屋検索サイトへ行くと・・ 数日前にはたしかに一件、あったはずのものが、今日にはなくなっている。

まさか、ここを読んで、すぐに古本サイトへ手を回して買ったという人はいないでしょうね? それはさすがに、このブログの影響力を過大評価しすぎ? とも思わないではないが、実際に、ここで紹介すると最高で十数冊アマゾンで売れたことはあるので、ありえないことではない。実は、今回のようなパターンはこれで三度目くらい。アマゾンのマケプレでも、よし買おう!と思って行ってみると、数日前にはあったのが売れていたり。新刊だって、在庫ありだったのが「3~5週間以内で発送」に変わってることはしょっちゅうなのだ。

最近はもう、これに懲りて、先にまずしっかり在庫を確保してから、こちらのブログで褒める、というようにしていたが、今回は相当にマニアックな学術書なので、まさかそこまではと油断していたんですね(笑)

幸いに、この『神学的言語の研究』は、まだ比較的新しく、新刊で買うことができるからいいようなものの、品切れ本だったら、かなりの被害を被るところであった(実は、そのせいで、まだここに書いてない本で、一冊、書く前に手配したのがあるのだ)。今回は1500円くらいの損ですんだが、気をつけねば・・ って、もちろん、本当は何の関係もないことで、ただの妄想なのかもしれませんがね、今回が初めてではないので、ちょっとショックというか。たまたま地元の本屋だったので、ネット手配ではなく、今日直接買いに行こうとしたところだったんですよね~~ 今後は、特に品切れ本には気を使って、手配する前には絶対ここでは書かないようにしないと。

ま、古本で買っても、著者には一銭も印税は入らないので、少しは、稲垣先生にお布施をあげるべきだということかもしれません(笑)

再び、問題としての神

ここで注目しなければならないのは、オッカムの新しい認識理論はそれに先立つ古典的な形而上学的認識理論の批判的克服というよりは、むしろそれを無視することによって成立したものであった、という点である。したがって、オッカムにまで遡る近代認識理論(基礎づけ主義)が崩壊したこんにち、われわれはオッカムが視野の外に置いた形而上学的認識理論を一つの有力な選択肢(alternative)として考慮に入れることができる。いうまでもなく、古典的な認識の形而上学をそのまま現代に復権させることは不可能であるにしても、そこにふくまれている洞察にもとづいて、理性と信仰、ないし知ることと信じることとの関係、合理性の概念、そして「学」としての神学の問題に関して探求を進めることは可能であるといえるのではないか。
稲垣良典『神学的言語の研究』p.16 (強調引用者)

・・これですよ、これ。

形而上学的な「学」をすべての学知から排除したことの「根拠」は、すでに崩壊しているのである。

これは、稲垣先生も『問題としての神』で言っているとおり、ハイデガーの言う「存在忘却」の問題でもある。

現在の学知は、ある「根本的な場」があることを忘却し、それを学知の領域から排除しようとしてきたのである。

それというのも、近代は、「絶対的な確実性のある知識の探求」を、「人間にとって根源的な場(存在)に接近しようとする」ことよりも優先すべきであるとし、後者は、確実性に乏しいものなので探求に値しない行為である、との価値観を採用したからである。

そうした問題を学知から排除したことは、そのこと自体に絶対の根拠があることではなく、究極的な問題は「考えなくてもよい」という、「価値観の変化」であったのである。その正しさは一度も「証明」されたことはないのだ、ということを理解すべきである。

まさに「問題としての神」という本のタイトルが表しているとおり、「本当に考えるに値することとは、神である」ということなのである。

現実には、「なぜ神学をやってはいけないのか」との答えは、「それでは食えないから」というのがいちばん真実に近いのかもしれない(笑)

さらに深みへ

このあいだ書いたテーマに加え、いま、「トマス・アクィナスにおける《存在》の意味について」というのが浮上してきている。

なかなか、深みに入りそうである。

トマスってのはやっぱりなかなかすごいです、形而上学をやろうという者はちゃんと勉強しなきゃいかんですね(今頃気づくのは遅い?)

ただ、トマス研究はたくさんあるが、それを生かして現代における形而上学をマジで追究しているのが、稲垣先生だけというのはちと寂しいものだ・・

これからとうぶんのお仕事

これからはそれほどひまではないのだが、合間をぬって、次のような計画を進めるつもりである。

1.ボナヴェントゥラ神学・哲学、およびその周辺、の勉強

2.普遍神学の新著作の準備

3.微細エネルギー関係の論文の準備

4.(継続)中世以前と近代との断絶について

近代の後に来る思想とは

真の意味で、「近代の後に来る思想」とは、宇宙が神的根源に発し、宇宙と人間が存在することは神的な目的に向けて方向づけられており、それは最終的には「神化」、すなわち、ヨハネ福音書にあるような、万物が「すべてにおいて一つ」となる栄光へと向けられている、というイデーに基づくべきである。

そのことを表現してきたことにおいて、キリスト教思想の偉大さを率直に認めるべきである。ただ、キリスト教には、魂の先在、そして神の摂理の一環として輪廻転生があるということが、受け入れられていなかった。この点を補うべきであると考える。これは、オリゲネスにおいては認知されていたことは、このブログで再三述べたとおりである。

従って、現代の霊的思想は、その基本的な骨格は、新プラトン主義を内在させたところのキリスト教思想においてできあがっており、それに輪廻転生という重要なイデーを追加した形になっているわけである(キリスト教思想と輪廻イデーとの結合は、100年前にシュタイナーが予言したところであることは、ここでもすでに述べたが、実際にそのように動いているのである)。

ここへ来て、いわゆる「ポストモダン思想」といわれていたものが、本当の意味で近代を乗り越える思想ではなかったことが、はっきりしてきてしまった。

ドゥルーズとか、デリダとかは、根本的にはニーチェの思想を超えていないように思う。つまり、何ら中心がないという意味でのニヒリズムから転じて生の絶対的肯定へ至ろうという思想であるが、結局のところ、宇宙的な目的を見失い、無制約的な自由をもてあましている近代人の枠組みを超えるものではなかった。その象徴がドゥルーズの自殺である、と私は思っているのである。自殺に終わる哲学は絶対に善いものではない。作品と生活を混同するな、なんて陳腐な批判は受けつけない。それは、生の肯定に失敗した哲学だと自ら宣言したところになるのであり、哲学者というものは絶対に自殺してはいけない。自分を生み出したところの宇宙に対する深い感謝の念を持って終わることができない哲学に、何の意味があろうか。

ポストモダン思想とは、つまるところモダン思想の中のバリエーションにすぎなかったのである。近代というものの自明の前提となっていることがらをさらに問い直していく必要がある。

ポストモダン思想を、ベルグソンなどと関連づけて、「生命の思想」として位置づけようとする人もいるが、そもそも、宇宙根源や宇宙的目的というイデーを喪失したまま、無目的な「生命」を持ち出したところで、それが解決となるのであろうか。そこでさらに西田幾多郎を持ち上げたところで同じことである。根本的に、存在はどこから発出し、どこへ向かうのかという目的論的構成を見失ったままで、「生命」だけが一人歩きしてもしかたがない。「生きること」は自己目的ではないのである。それはより高次の宇宙的目的に属するものとして初めて成り立つのである。まだまだ、神と向き合うことを回避した思想が多いということである。

人格の尊厳とペルソナ

依然として、稲垣先生三昧である。きょうはCiNiiからタダでPDFを入手して、人格(ペルソナ)についての論文を読む。

近代では、人格の尊厳とか言うが、なぜ人格は尊厳なのであるか、その根拠は、近代の人間中心主義では基礎づけられない。この点において、カントの人格概念は重大な欠点をもっていると指摘する。

結局、なぜ人間の人格が尊厳なのかは、それが「神の像(イマーゴ・デイ)」であること以外に、基礎づけられない。この点で、近代のヒューマニズムは、無根拠の思想ではないか、と言っている。

私が解説すると、そもそも、私が私として存在しているということは、私は「人格(ペルソナ)」としてある、ということである。そのペルソナとして存在するということは、究極的には、神のもつペルソナ性の分有として成立しているのである。

稲垣先生を読んでいて気がつくのは、「人間は神化へと向け歩んでいるものである」というのは、東方神学だけではなく、トマスも明確にそういうヴィジョンを持っているということだ。

人格がなぜ尊厳であるかといえば、それはそれぞれが神性を分有しているからであり、それぞれはみな、神性との一致へ向け歩んでいるからである。

よく、「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いが出される。
そういう問いが出てくるということ自体、現代人が、倫理というものの「根拠」について、確信を持っていないことの現れであろう。だが、神学的思想によれば、この答えは明確である。つまり、「人間は、神性の一致へと歩むという目的を持って創造されているので、その歩みからそれる行為を行うことは、人間が存在することの神的目的に合致しないからである」ということである。『神との対話』に出てきたような比喩でいえば、人間は東京から発して大阪へ行こうとする目的を持っているのであるから、北の方向へ向かうことは、ただその目的の成就を遅らせるだけであるということになる。

すべては、神性との一致へと向かう。宇宙では、それ以外のゲームは行われていないのである。そのゲームから「おりる」ということはできない。すべては、神性から発出して神性へ帰還する旅をおこなっているのであり、帰り着くまで終わることはないのである。

ふつうというか、凡庸な哲学者は、「倫理というものには根拠があるのか」という問いを発して、「それは無根拠ではないのか」という方向へ持っていこうとすることがある。それで、「常識を疑った」つもりでいるらしい。

すべてのものの無根拠を明らかにして、それで根本的に疑ったつもりの哲学は、全く古い、古すぎる。

形而上学のことなど何も知らないくせに、ポストモダンのフランス現代思想の「形而上学批判」をオウム返しに口にしていた日本の自称前衛知識人など、なんという軽薄さであったろうか。

人間が存在する目的を、その内なる神性から解き明かしていくのが、真の哲学である

そして、「近代的自我」という概念そのものが、かなり虚妄のものだったかもしれない、ということも考える必要がある。

ここでまたやり玉に挙げて申し訳ないが、ケン・ウィルバーなどに見られる、かなり常識的な思考パターンをここで批判しておきたい。

それは、東洋思想の「無我」思想に、西洋の「近代的自我」を対置するという思考パターンで、ウィルバーなどは、要約してみれば、「東洋の無我は深いものだが、西洋近代の自我も大切にしなければいけませんよ」というようなことを言っているわけである。

しかしここですぐにわかることは、この思考には「伝統西洋」というものが抜け落ちているということだ。西洋思想は、伝統的に、「私が私である」ということの深みを徹底して追求しており、それが、「神性の分有としてのペルソナ」として成立しているという事態を見出しているのだ(ここではあまりシュタイナーのことを述べないことにしているが、彼の言う「自我」概念がそういうキリスト教思想に由来していることは明白である)。近代的自我とは、そこから神性の部分を切り落として、無制約的な自由を持つと錯覚するに至った自我にすぎない。

このような、東洋的無我・対・近代的自我という対立軸で思考することが、すでに凡庸だと言いたい。もしくは、伝統西洋についての勉強不足である。その対立軸には、「私が私であることの途方もない深み」への思索が全く入っていない。これが私がウィルバーを批判するポイントの一つである。ウィルバーをいいと言っている人は、結局ウィルバー以外の霊的思想というものをほとんど知らないで言っているのではなかろうかと思う(通俗的ウィルバー解説書を書いたある著者は、はっきりと、ウィルバー以外読んだことがないと私に語った)。たまにはボナヴェントゥラでも読んでみてはいかがであろうか。

つまり、近代的自我ははっきりと「ノー」である。「ペルソナとして存在する私」を深くとらえるということは「イエス」である。そういうことである。そのような「私が私であること」に深く向き合うことを回避して、安易に「東洋的な無」を持ち出すことは、思考の深化にはつながらないと思われる。

また、言うまでもないが、人間が神的目的へと方向づけられて存在しているということは、これまた「疑おうと思えば疑うこともできる」ものである。疑うということは、この世界というものは本当はないかもしれないという疑いさえ持つことができる。こういう徹底した疑いを持つことが「よいこと」であるという価値観を持つ哲学者は現代では多いと思うが、私は彼らを凡庸と呼びたい。疑うということはそこまで絶対的なことなのかということを疑っていないからである。人間が神性へと方向づけられているということは、「魂的な感覚」により直覚されることであり、それを昔の哲学では「信仰」という名で呼んでいたのである。そのような「魂において、宇宙から受け取ったイデー」に基づいて、存在の神秘を可能な限り言語化していくという行為が神学なのであり、それは人間にとって最も根本的な学というべきなのである。

神学の意義と神学の言語

稲垣先生は、神学的言語について、次のように書いている。

神学的言語は聖書において語られている神秘を、「学」という人間的行為に固有の合理性へと解消させるのではなく、むしろ神秘を、それが神秘であることをいささかも減じたり損なわれたりしないような仕方で保ちつつ、人間理性に可能なかぎり理解し、言語化しようとする試みにおいて成立する学的言語なのである。
『神学的言語の研究』p.36

また、

トマスが『神学大全』の全体において試みているのは、永遠なる御言葉が受肉したという神秘を、どこまでもそれが神秘であることを保持しつつ、否その神秘たることがより強く自覚されるような仕方で、人間理性によって可能なかぎりそれを理解すること、つまり言語化することであった。
同 p.44

私の立場は普遍神学であるから、必ずしも、聖書やキリストのみを中心として考えるわけではない。しかし、そこを除けば、このことばは、「神学」ということで私が考えていることを言い表している。

また稲垣先生は、「教えるのは神である」ということを強調する。つまり、人間は、神に教えられつつ、神秘へと分け入っていくものだ、という人間理解である。これを私の言葉で言うと、「人間の魂は、宇宙(神)から発するイデーを受け取ることができる」ということである。魂が、そうしたイデーという贈り物を受け取ることができるからこそ、そうした神秘について言語化も、(たとえ究極には達しえないにせよ)より優れたものへと進化することが可能なはずなのである。

この本の第一章では、「現代において神学はいかに可能か」という問いを発している。神学とは、人間が存在する上での究極的な神秘について分け入り、理性の限界を押し広げるというものであり、それはおよそ「知」というものの中心に存在してしかるべきものではないのか、それがそうではないというのは、近代において「知」というものが矮小化されているからではないのか、というようなことを、明快に論じている文章である。

最近の新聞に、村上春樹のインタビュー記事が三回にわたって連載されていて、「物語る」ということの不可思議なる深みについて語られていた(それをいちばんわかってくれたのは河合隼雄だった、と言っている)。

言葉の表現というものは実に深い場所まで入っていくものだ、ということは小説家や詩人はよく知っている。

神秘を表現するのは、神話や物語であるのかもしれない。しかしながら、知的言語を用いても、神秘を表現するのは不可能ではない。しかしそれは、近代知が目標としていたような意味での合理的言語というわけでもない。そこに神学的言語というものがあり得る。考えてみるとこれは、ケン・ウィルバーが「ヴィジョン・ロジック」と言っていたものとも近いのだろうか?

実は私は、思想・神学にかかわる前、最初に専攻した分野は神話学だったのであり、そこには物語るという形で神秘が表現されていると感じていた。そのように神話論を展開していたジョゼフ・キャンベルが私のスターであったのである。「和製キャンベル」をめざそうかとまじめに考えたこともあった。そのうちに、また神話論の研究もリバイバルして、神学と統合してみたいと思う。

ちょい補足――東西神学の違いはどの程度のものか?

前項にちょっと補足だが・・ 私は、トマス・アクィナスなど西方(ラテン語圏)のスコラ神学・哲学を勉強する前に、ロースキィの東方神学から入ったという、人と変わった知的経歴を持っている。そのせいか、ロースキィの主張である「東方神学は神の神秘を維持したが、西方神学は『存在』を語ることにより、神を知的概念に堕してしまう危険を持っていた」という見解に影響されていることがあったと思う。だが、このところスコラ哲学をかなり勉強して、それは必ずしも妥当しないということがわかった。やはり西方神学も、人類の遺産として受け継ぐものの一つであるのだ。たしかに西欧では、15世紀以降、「神が知的概念に堕してしまう」という危険は現実のものとなった。しかし、その原因がたとえばトマスの思想にあった、と言うことは必ずしもできないように思えてきた(実際にトマスの原典を読み込んでいるわけではないので、ジルソンや稲垣先生などで勉強した結果にすぎないが)。

私は、偽ディオニュシウスなど、東方的な「否定神学」派であった。しかし、トマスのような「肯定神学」のあり方にも、学ぶべき点が多いことがわかったのである。

というより、東西の神学は、ロースキィが強調するほどは、違っていないのではないだろうか。トマスにしろ、神が理性には計りがたいものであることくらい、百も承知であったのだ。

次のような論文もある。これも、「思ったよりも近い」ことを述べている。

大森正樹「神の本質の把握不可能性について――東方教父とトマス・アクィナスの解釈――」『南山神学』28号、2005、pp.1-23.

またまた稲垣先生――『問題としての神』

あまり影響されたくないので、いまから少なくとも一ヶ月、あえて「アクセス解析」は見ないことにした。別に、見えないように設定することはできないので、「そこをクリックしない」という意志の強さあるのみである(笑)

さて、またまた稲垣先生モノである。長崎純心レクチャーズの、『問題としての神』。これもかなりのカンドーものであった。

哲学の中心問題は神であり、神こそ「問題」として考えなければいけないことだということを、力強く語っている本である。

近現代哲学が、いかに、神を問うことから萎縮したか、それがもたらした知的頽廃をはっきりと指摘している。

平易な語り口なので、いま、なぜ「神」を問わねばならないのか、という問いについての入門書として、強く推奨したい。

4423301121 問題としての神―経験・存在・神 (長崎純心レクチャーズ)
稲垣 良典
創文社 2002-03

このブログで追求されている「問題」も、つきつめれば「神」にほかならない。

「スピリチュアル」のブームは、霊性に対する関心を広げるという功績はあったが、反面、ともすると「前世」「守護霊」「霊視」といったものだけが一人歩きし、「向こう側の世界への興味本位な関心」を引き起こす危険もあった。

こういうことを否定するわけではなく、たしかにあることではあるが、こうした問題はすべて、根本に「神の探求」という筋を通した上で、しかるべき場所に位置付けるという思想的な枠組みを持たないと、危ういことになる。

霊性思想とは、第一に、神の探求であり、神について考えることである。それを忘れてはならない。

稲垣先生は、「神について人間の理性が考えることなどおこがましい、そういうことは体験するのみであり、哲学でやるべきことではない」というような考え方を、きっぱりと拒絶している。

というのも、まさに、そういう動機から起こった、15世紀のオッカム哲学が、こうした近現代の「知的世界から神が排除される状況」の出発点となったことを、よく知っているからであろう。

この本で特に印象に残ったのは、こういうことだ。根本には、Imago Deiがある。つまり、人間とは「神の像」であるということだ。

人間は、神に似せて創造されている。ということは、人間は、いくぶんなりとも神の知性をも分有しているはずなのだ。

知性というものを「変わらざるもの」と決めつけてはいないか、ということだ。つまり、知性とは本来、神的知性の分有として人間に備わっているものであり、現在は、物質的条件により制限されている状態にあるにせよ、本質的には、神や天使のもつ知性と同質のものなのである。したがって人間は、神の恩寵によって、神的な照明を受け、その知性を、完全なる神的知性の表現という状態に向けて、少しずつ進化させていくことができるのである。――これが、稲垣先生が語っている思想である。そしてこれが、ヨーロッパ哲学というものの本来的な伝統なのである。

これを読んで、稲垣先生がジルソンの弟子であることも知った。

ジルソンは、プラトン主義哲学を完成させたのは中世哲学であるという見方をしていた。

つまり、プラトン哲学は「存在」を発見した。存在とは、万物の根源であり、すべてはその「存在」にあずかることにより、ここにあるということ。キリスト教哲学は、その「存在」こそが神であり、愛であることに気づいた。そして、プラトン的なイデアは、すべて神のうちにある神的知性においてあるとした。すべてのものは、「存在」を分有されているからそこにあるのだとすれば、すべてのものは、神を内在させているわけであり、神の愛が浸透していることになるのである。こういうヴィジョンが成立したのだ。

「存在」とは、まことに不可思議なものだ。

宇宙は、存在しないこともできたかもしれないのだが、なぜここに宇宙があるのか。

宇宙の存在する以前というものはどういうことなのか。

それは、神的知性の知っていることである。しかしながら、人間の知性は、少しずつ、この神的知性に向かって進む。というより、その神的知性から誘引され、どうしても、そちらへ向かっていくべく、志向づけられているように思われる。それは、魂への呼びかけである。その、「存在からの声を聞く」ということ、それが、伝統的には「信仰」と言い表されていたことである。だから、「信仰と理性」という古い問題は、「魂への呼びかけを感じ、それを信じることと、それを知性へともたらそうという努力との結合」というふうに、とらえなおされる。それが、霊性思想の基本姿勢である。その意味で、この稲垣先生の言っていることは、私は文字通り100%賛成である。

その根幹が、Imago Dei なのだ。だから、「もしImago Deiがなければ、すべては空しい」のである。

今日も休みますよ

何だか疲れたので、三日休むとアクセスがガガッと減ることはわかっているけれど、ちょっと休筆。もうアクセスなんぞ気にせず自分のペースでいくことにしま~す。

このところ

ずっと、研究モードで根をつめたので、きょうは少しお休み~☆

いま咲いている花:

レンギョウ、シデコブシ、ヒヤシンス、サザンカ、クリスマスローズ、オーニソガラム、ムスカリ

ものと一つになる認識理論

以前書いた記事の中で、いちばん長い部類に入るものにこれがあるのだが

イデアと新々プラトン主義

ここでは「ものと一つになることによって根源へと迫っていく」という哲学のあり方が提示されていた。

稲垣先生の『抽象と直観』を熟読しているが、この本では、それとほぼ全く同じテーマが、トマスの認識理論に関して論じられていることがわかった。

トマスにおいては(現実に認識の働きが成立するとき)知る者と知られたものが「一」であることの洞察と肯定が認識理論の出発点であり、根本的前提である p.224

そして稲垣先生が論じるのは、ここで「一」というのは、数的に、数えられるものとして「一」だというのではなく、それは「存在」に関わり、存在においては「すべてが一」であるという場所にあるという意味なのだ、ということである。

深いですね~

トマスの認識理論を理解するのは、かなりの努力を要する。しかしこれは、しがいのある努力である。そこで開けてくる視界は、あたかも、苦労して高い山の頂上に立ったときのような、晴れ晴れしたものである。

なお、先の「イデアと新々プラトン主義」は、今見ると、けっこう厳密でないことをたくさん言っているが、基本的な方向としては、ある程度書き表されている文章だと思う。こういう方向で考えるには、中世哲学を研究することが実り多いということも、また当然だということである。

なお、『抽象と直観』で、抽象とはトマスを、直観とはオッカムの立場を表しているようだ。真の問題は「トマスかオッカムか」であって、デカルトなどは、オッカムによってなされた転回を、自明の前提としたところに成り立っているということらしい。

この記事読んで、この6700円の本を買う人がいるんでしょうかね?(^^ゞ
私は、図書館で借りてきてるんですよ・・(笑)

4/4追記

『抽象と直観』、6825円でした(^^ゞ

さっきまでアマゾンに在庫があったと思ったら、もう売れてますよ。
そのページの、「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」のところを見ると、「美しさの中を歩め」関連本がずらり・・である。何冊売れたのかな?

最初は、借りてみた方がいいと思うけどな~ そんなに簡単にわかる本じゃないんですよ(笑)

現代の霊的世界観とキリスト教哲学

最近、「霊的世界観」として普及してきている宇宙ヴィジョンを見ると・・その基本的な骨格は、中世のキリスト教哲学でできているということに気づく。

それは、神中心の宇宙観である。

存在は神である。万物は神から発し、神に帰還する。
神は究極の善であり、光である。万物は、神すなわち光をめざしている。宇宙は、光に到達し、神に帰一するように方向づけられている。人間を含めた存在者はすべて、光へと進むよう促されている。すなわち、万物は霊的に進化しているのである。存在者が存在する目的は、最終的には神に帰一するべく進化することにある。

このような世界観は、東洋にはほとんどなかったものである。このような霊的進化のヴィジョンは、キリスト教によって人類へもたらされたイデーなのである。

私はここで、だからこれは普遍的ではない、と言おうとしているのではない。このヴィジョンを受け止め、人類へ広めたのはキリスト教の役割であった、という意味である。

ただ、現代版と中世を比較して、中世になくて現代にあるのは、その霊的進化が、輪廻転生という過程で行われる、というヴィジョンである。

輪廻転生説はインドで伝統的にあったが、インドでは輪廻からの解放が求められるのみで、輪廻が進化のためポジティブな意味を持ちうるという発想は、なかったのである。つまり輪廻転生説と霊的進化論はインドではむすびついていなかった。

過去に、この二つが結びついていた思想は、オリゲネスの神学思想のみであった。オリゲネスはローマ時代の人であるが、宇宙は「学校」であり、輪廻を通して魂は進歩していく、と考えていた。

輪廻思想は、魂の先在という考え方とセットになる。魂が本体であり、肉体とは衣であると考えなければ、輪廻というものは成立しないからだ。こちらは、プラトン主義の考えになり、キリスト教とは異なる。

したがって、キリスト教哲学は基本的骨格を作っているが、もう少しそれを「プラトン化」して修正する必要がある。オリゲネスもプラトン主義の影響を受けてそういう神学を考えたのである。

新年度企画案

こちらのページで主張されている普遍神学という思想は、基本的には、「すべては神より発し、神に帰還する」という宇宙観を抱いているものである。

したがって、神というものに関心のない人には、関係がないものであろうと思っている。

人間とは自己超越していくものであり(それは現在の世界をも超えていくものだが)、その最終的な目的は、神への帰還であり、すなわち神との一致である。それ以外に「完全な覚醒」というものはない。

このブログでは、今まで、かなり気ままに研究ノート的にいろんなことを書いているが、普遍神学のことをほとんど知らない人がかなり読んでいるらしいので、少し路線を変える。このブログの新着記事を追うだけで、本を読まなければ、いつまでたっても全体像は見えないだろうと思うので、

普遍神学思想入門講座 とかを、随時、連載するという企画はどうであろうか?

もう一つ考えているものは、

サニワ初級講座(霊的弁別の基礎知識) の連載企画。

これは、ブームである反面、危険性が高まっている、「変な霊能者に引っかからないための見分け方」の実践的方法を述べるものである。
私は必ずしも適任ではないが、あまりに、知らない人が多すぎるので・・

やっぱり、人気なのは後者ですかね?
私にしてみれば、これは客寄せなんですが・・(^^ゞ

あらためて、ことわっておきますが

このブログでは、すでに、「スピリチュアル」とか「スピリチュアリティー」などという言葉を用いて思考をすることは、拒否している。そのような言葉はどうしても軽いノリになりがちというか、一種の軽薄さをニュアンスとして受けてしまうということと、やはり、まだまだ江原サン的霊視の世界を連想してしまう人がいるので、避けたいのである(必ずしも、そういう世界を否定しているわけではないが)。

私がやろうとしていることは、現在、あまりにも自明となってしまった「近代知の地平」を疑い、それとはまったく違った前提から出発して、存在世界と人間の根本条件を含め、宇宙のグランドデザインを再構築するという作業である。

したがって、そこで霊的体験・形而上学的体験として言われていることは、「私というものの根底に開けている、存在根源への自己超越性」にかかわるものであり、いろいろなものが見えました的なもののことではない。そういうものは否定しないけれども、それは、ある究極的なるものへの道の途上にあるものとして位置づけられるものであって、その「道」そのものを把握しないで、そういう現象面にとらわれてしまうと、迷いに陥るのである。

つまり、これを「スピリチュアル系ブログ」などと紹介されることは、今の私にとっては、若干、迷惑に感じることだということである。

エリウゲナやフィチーノなどのような思想家のあり方が、理想とするところである。

天使は身体性を持つか

中公版『哲学の歴史3』ボナヴェントゥラの項より

ところで、この世界(被造物)に対する神の超越性が純粋現実態、純粋形相として表現されたということは、逆に言えば、被造界には可能態としての質料が存在論的構成要素としてすべての被造物に見出されるということを意味する。こうして、質料のない霊的被造物の存在を認めるトマスに対し、ボナヴェントゥラはすべての被造物の内に質料性を不可欠の要素として見る普遍的質料形相論の立場をとることになる。それは、直接にはイブン・ガビロル(アヴィセブロン。一〇一〇頃-五八頃)を創始者として当時の西欧世界にかなり広まっていた、質料を可感的世界に局限することなく、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものを措定する新プラトン主義的質料形相論の立場であった。
こうした質料形相論に立つことによって、被造物の神による創造と保持の説明もおのずからトマスとは異なるものとなる。 p.551-2

ん~ これですよ、やっぱり。
この文章は何を言っているのか? ふつうは、わからないでしょうね(笑)

ここでの問題を言い換えてみると、「天使もまた身体性をもつのか?」ということになる。

こういう問題についてまじめに知的な議論を交わす・・なんという素晴らしい世界であろうか。あの時代にもどして~ という感じであるが、このブログは確信犯的アナクロニズムを実践しているので、私はいま、この問題をまじめに論じてしまおうと思う。

トマスは、天使は身体性を持たない知性体なのだと言っている。これに対し、ボナヴェントゥラは、いや、天使にも身体性はあるのだ。なぜならば、神以外のものは、どんなに微細であれ、一種の物質性をもつことを免れないからだ、と論じているのである。

この議論については、私はどうしても、ボナヴェントゥラの肩を持ちたくなる。私としては、そう考える以外にないように思えるのだ。それは私が、新プラトン主義を基本的に受け入れているからであることはもちろんである。

「質料を可感的世界に局限することなく、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものを措定する」

質料ということばを説明するのはたいへんだが、ここではとりあえず「物質的な要素」とでも考えておこう。質料とは materia であり、もともと「物質」と同じ語なのである。

新プラトン主義の世界ヴィジョンは、要するに、「グラデーションの宇宙」ということだ。

神から、最下層の物質世界まで、何段階も階層をなしている。
そうすると、つまり、この最下層の世界(つまりいまわれわれがいる世界である)の物質性は、宇宙で最も濃密な物質性なのだが、宇宙には、この世ほどではないが、それでも物質性はあるという、いわば「微細物質性」が存在することになる。

天使とは、仏教で言えば菩薩に該当する存在論的ステータスを持つ高次元存在であるが、それらもまた、きわめて希薄ではあるが、一種の物質性をもつということだ。この「微細物質性」のことを「霊的質料」と呼んでいる。

天使は、人間のような肉体は持たない。しかし、きわめて微細ではあるが、身体性を持ってはいる。なぜならば、身体性を持つということは、個別的であるということである。ほかの身体性と分離できるということである。身体性とは「差異を挿入すること」だと言っていたのは、メルロ=ポンティであったかどうか(うろ覚え)。つまり、神(宇宙根源の『一』のポジションにある何ものか)以外の、「存在そのもの」ではない、「存在するもの」は、すべて何らかの身体性(質料、物質性)を持っているというのが宇宙の基本構造だということである。

物質性は、この世以外にもある。ただし、より微細な物質性である(なお、「より微細」というのは、特に「より良い」という意味であるとは限らない)。
物質性がある世界だということは、その世界における存在者は、みな一種の身体性をもつということでもある。

この「微細身体性」は、無限の階層に分かれている。つまり、宇宙根源への遠さ・近さによって分けられている。

かの聖ボナヴェントゥラも、そのように考えていたと知ると、何だかうれしくなってくるではないか(笑)

4月1日なので

ここで一つ宣言しておこう。

今年は、夏休みまでに新著を一冊、執筆します!

出版社が決まっているわけではない。それはまあ、何とかなることになっているようである。興味ある会社はお早めに(笑)

・・って、エープリルフールだったりしてね(^o^)

普遍的霊性を教える大学(への夢想)

あら~ またアクセスがガコッと下がっていると思ったら、どうやらアクセス解析の障害らしい。ま、いっそ、こんな機能なんかない方が、さっぱりしていいかもしれない。

しかし、きのうも書いたが、真剣に、霊性とか、存在、宇宙という根本的なことがらを考えようという「真の教養主義」に立った学科というのがあってもいいと思う。

やはりそれは、スポンサー的には、キリスト教系か仏教系の大学に期待するしかないだろう。そういうバックグラウンドに立ちつつ、その宗教にとらわれないで、普遍神学的な「宇宙のグランドデザイン」の必要にめざめているようなものが求められる。

キリスト教系の小規模な大学なんかでも、理想だけは高く掲げているところはあるのだが・・それだけのカリキュラムを組むのはなかなか大変かも。普遍神学は今はまだないのであり、ないものを教えるわけにはいかない。

一つ、私を呼びませんか?(←これが言いたかった? 笑)

オッカムによる転回の果て――稲垣良典『抽象と直観』

いやあ、稲垣良典先生の『抽象と直観――中世後期認識理論の研究――』は、期待に違わず、すごいですね(^^)

このところ、近代的な知の起源という問題について関心をもって調べてきたが、どうやらこれで「決定版」に行き着いた。

とはいっても、ここに来るまでは長かった。というのは、私はなかなか、中世的な(この本でいえばトマス的な)発想を理解することができていなかったからで、このあいだ宝満さんの本を熟読したおかげで、ようやくトマス哲学が理解されてきて、この稲垣先生の本を理解できるようになったのである。それくらい、近代人的な発想を抜けることはむずかしかった。それはあまりにも「自明」となってしまっているのである。

稲垣先生は、名著『天使学序説』という著書もあるくらいで、現代において形而上学はいかに可能なのか、というテーマを追求している。この『抽象と直観』でも、冒頭から、「なぜ近代の学問は『霊魂』について問うことができなくなってしまったのか」という問題意識を発している。

魂とは何なのか、そういうものがそもそもあるのか、あるとすればそれは不滅なのか(死後も存在するものなのか)――というのは、人間にとって根源的なテーマであり、そういうことを知りたいという欲求は常にあるはずだろう。

ところが、このような問いを求めて、大学へ行こうとしても、そのようなことをやっている学部・学科というものは一つも存在しない。私は事情を少し知っているから断言するが、そのようなものは一つもないとはっきり言う。哲学科は、そういう問いを追求する場所ではないので、間違って行かないように注意してほしいと言いたいくらいだ。中には、間違って宗教学科へ行ってしまって、大変なことになってしまう人もいるくらいである(苦笑)。

ただ、過去の哲学の研究としてはそういうテーマ設定も許される部分があるので、可能性としてはキリスト教系や仏教系の哲学などではあり得るかも、という話になる。

このような問いを「形而上学的な問い」というのだが、それが、大規模、組織的に、「知の体制」からきっぱり排除されてしまっている、というのが現状であり、それが近代社会というものなのである。

稲垣先生にしても、文科省への補助金申請書類で、「トマスにおける天使的認識の問題について」と書けば通るかもしれないが、その「トマスにおける」を抜いてしまって、天使的認識の問題を普遍的、一般的な学知の対象として追求するのだ、としてしまえば、審査員はさぞ当惑してしまい、ひいては、「この先生は大丈夫か?」という心配もされかねないのである。・・なんて意味のことを、『天使学序説』では書かれていた。

このように「形而上学的問題を学知の対象とすることに対する強い疑念」というものが、近代精神にはある。それはとりもなおさず、「反霊性的」でもあるということを意味する。

近代的体制においては、霊性探求と学知の立場は矛盾する。相容れないものを持っている。

もちろん学知は霊性探求にとってかわるものではない。しかしながら、「霊性探求に相反しない学知」や、「霊性探求を助け、位置づけるものとしての学知」というあり方を考えることは可能である。

いちばん端的な例を述べれば、もしここで霊的変容がスタートしたら? と考えてみるとよい。天使の声を聞いてしまったらどうなるか? 近代的世界観に従えば、そのような人はただちに病院行きである。霊的変容において、現状では、社会からのサポートはまったく得られない。それどころか、それを抑圧するようなプレッシャーが働く。反霊性的な社会とはそういうものである。

そもそも、莫大なる学識を積み上げようとも、「人間は死ぬとどうなるのか」ということには「何もわからない」としか答えられない学知の体制に、人はどれだけの信頼を寄せることができるのであろうか。明敏なる子供は、そういう教育体制に潜む根本的な欠如を、見抜いてしまっているのではなかろうか。

さて、このような近代的な学知の「常識」ができあがったのは、最終的にはカントであろう、という見通しがあった。

それは間違いではないが、カントはいわばそれまでの流れの完成者というべきであって、そういった近代的学知の発端は、14世紀のオッカムにあったのではないか、というのが近年有力な説なのであり、『抽象と直観』はそれを明らかにしようというものである。

そこで何が転回されたのか、がはっきりと見えてくれば、そういった近代知の地平を超えて、新たな形而上学を考える視野も開けようというものである。

この本は1990年の出版である。しかし、いまだにほとんど影響を与えていない。
本質的に新しいものは、こういうところから出てくるのだ。流行にひきずられないようにしたい。はやりの、内田樹、鷲田清一なんて、どうでもいいと思う。ちなみに、内田樹の研究室というページとこのブログをはしごするのは、私としてはやめてほしいという希望をここで述べておく(笑) いちばんかんじんなことは、近代知の成立した根源を見抜くということである。見抜くことによって自由になることが重要である。

4423100851 抽象と直観―中世後期認識理論の研究
稲垣 良典
創文社 1990-03

この本は、ひじょうに明晰な論理展開をするので、じっくり読めば容易に理解できる。
とは言っても、いきなりこれを読むのはやや無謀なので、前にあげた『信仰と理性』が手に入れば、それを読んでおくのがよいだろう。この本も最後にもオッカムの問題がかんたんに触れられている。

あとは、中川純男編『哲学の歴史3・神との対話・中世』の中の「オッカム」の項(渋谷克美による)を見るか、大鹿一正「自然と個――スコトゥスとオッカム――」(上智大学中世思想研究所編『中世の自然観』所収)なんかが読みやすかった。

またすでに書いた、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』もこれに関して必読である。

さらに、谷隆一郎先生によるオッカム問題についての論文。こちらを参照。
http://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/2007/08/post_61fa.html

実は、このオッカム理論の徹底した個体主義、いかなる「普遍」の実在も認めない思想には、なじみがある。
というのは、1970~80年代に、「コスモス・カオス理論」というのが猛烈にはやった時期がある。その代表的な論客は、たとえば丸山圭三郎、今村仁司、竹内芳郎などだったように思う。
この当時の知識人は、かなりこれに影響されており、構造主義もそのように理解されていたし、山口昌男の人類学も、廣松渉の哲学も、かなりそういう背景の中で受容されていたのである(栗本慎一郎がはやっていたのもこのころである)。

世界とは、実は、何も秩序は実在しておらず、カオスなのである。
ただ、人間精神のみが、それに秩序を与え、コスモスを作る。
このカオス・コスモスという対立項は、自然・文化としても理解された。
これが、レヴィ=ストロースの構造主義だということでもあった(実際、そうであるのかどうか、私はよくわからない)。
そして、ドゥルーズやデリダなどのポスト構造主義を、コスモスの否定であり、「実相」としてのカオスを提示する試みとして理解するという方向もあった。

私は今になって、これらがすべて「むなしい議論」であったことを知った。
こういうパラダイムは根本的に誤りだったのだ。これはオッカムによって始まった近代精神の極北だったのであり、ここの先には何の「精神性」も残されてはいなかったのだ。

唯名論(徹底した「個物のみある」という考え方)は、霊性の荒廃へと導く哲学なのであり、霊性哲学は、徹底的に実念論(ある意味で「普遍」が実在する)という考え方に立たない限り、あり得ないということである。

ただ、徹底した個体主義は、ある意味で、仏教思想の「無自性」に似ていなくもなかったのである。
日本の知識人が、あれほど普遍の非実在という思想に影響されたのも、仏教思想という背景があったからだ。むしろ、普遍が実在しないということの中に何か深い意味を見いだそうという人びともあったのである。
このへんが、事情が複雑なところである。

京都学派的な霊性哲学、つまり、「魂の実体的存在」を徹底して否定しながらも、そこに何らかの霊性的原理を見出そうという思想もあった。

ここでは、「究極者」は語れるものの、魂が存在することも、また宇宙にはさまざまな領域があり、領域に従った知性認識の多様な形式があることなども、すべて語ることができない哲学である。それでいいのか? そういう霊性哲学は実際に探求者にとって「使える」ものであるのか? という疑念が提示されているわけである。

私は、「イデアはある意味で実在する」という、きわめて反時代的な原理に立って、究極者から事物の存在までを描き出す、形而上学に挑戦してみたい気がする。

そのために稲垣先生の『抽象と直観』は強力な道しるべなのである。
前に注目していた、永井晋の『現象学の転回』なども、つまらなくなってきた。
実は、『抽象と直観』のような書物が、本当の意味での「前衛」なのだと感じられてきたのである。

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