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2008.04.22

新著は『スピリチュアル哲学入門(仮題)』??

今年は新著を一冊出す、と宣言してしまっているが、少しずつ、具体化してきた。

普遍神学、つまり現代における霊性思想、形而上学をめざすという立場にかわりはない。しかし、今度の著では特に、前著からの数年間に勉強してきた、西洋的霊性へのふり返りのことが書かれることになるだろう。新プラトン主義・キリスト教思想(東方・西方含めて)・イスラム哲学(これからもっと勉強が必要だが)を通観して、そこで到達した霊的世界観のヴィジョンをまとめてみる。そこから、ある程度、ロシアの思想家みたいな地球神化のヴィジョンが出てくることが期待される。しかし、それだけでは足りないものとして、東洋的霊性から、特に輪廻転生のイデーが統合される。こんな感じだろうか。

もちろん、東洋的霊性を掘り下げることも、深い意味がありそうだが、一冊ではそこまで手広くできないのが実際であろうから、東洋の問題は、ある程度、さらにその次になるのかもしれない。

というより、西洋的霊性をよく見ることにより、東洋にもあるはずだが、これまでよく見えていなかったものも見えそうである。具体的にいえば、たとえば、宇宙から注がれる神的な愛(アガペー)によって神化の道を歩むといったヴィジョンである。これは、阿弥陀や観音など、東洋にもあるはずのものだが、これまでの東洋的霊性論はあまりに自力主義的な「無」の立場に偏りすぎて、アガペーの道が軽視されてきた傾向も見受けられる(それが京都学派的バイアスだと私は言うのであるが)。したがって、西洋的霊性にフォーカスするということは、「神と向き合うこと」の意味を考えることであり、アガペーの道(インドでいえばバクティの道となるが)を前面に押し出すという思想となる。日本の知識人には受けやすい「無」とか、「生命」とかいうものではなく、人を神化へと導く「神」が存在することを訴求するのが、今回の著の主要テーマとなるのである。

タイトルは『スピリチュアル哲学入門』などではどうか、というのが出版社の意見である。これまでここで述べたとおり、私は「スピリチュアル」ということばは、やや軽すぎて好きではなく、なるべく「霊性」という言葉を使いたいのであるが、本が売れるにあたってはかなりな程度タイトルで決まる部分もあるので、「スピリチュアル」という言葉で霊性の領域にひかれている層に訴えるには、ある程度妥協も必要であろう。もともと「スピリチュアル」という言葉は「スピリット」から来ているわけだし、これは西洋的にいえば「神」に発するものである。(前著のタイトルは、かっこよかったのだが、反面、どういう内容の本なのか、わからない人にはまったくわからないという問題があったのだった)

奇妙なことに、検索する限り、今の日本に「スピリチュアル」と「哲学」が同時にタイトルに含まれている本は存在しない。

多くの人は「スピリチュアル」の領域を仮に認めたとしても、それは「非知」、つまり思惟の領域外にあるものと見なしている。これを私は「霊性における反知性主義」と呼んでいる。それが日本の思想の根深いパターンでもある。禅の影響は思いの外に強い。禅を認めないわけではないが、日本で霊性を語るとすぐに禅のパターンになってしまう、という偏向を是正するには、西洋的霊性思想を対置するしかないのだ。そうしないといつまでも形而上学が根づかない。

西洋的思想伝統では、霊的知恵と知識とが合一した形が追求されてきた。東洋にだって、それはないわけではない。天台・華厳や、空海の真言密教もそういうものだろう。

新著は、そういうねらいを持っているのであるが、しかしたぶん、このブログ以上にわかりやすくしなければならないだろう。

たとえば、研究室にタロットをしてもらいに来るような女の子にもすすめられるような本――といえば、あまりに野心的すぎるであろうか(笑)

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