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2008.04.19

伝統主義哲学

この四月になってからものすごい量の本を買っている。すでに8万円を超えたかもしれない。

中には、前に買ってあるはずなんだけど、どうしても在り場所がわからないで買い直したりすることもあるんですよね(笑)

最近、ひさびさにヒューストン・スミスの『忘れられた真理』を開いてみたんだけど、やっぱり、いいことが書いてある(笑) 知るべきことがコンパクトにまとめられているという意味で。

その流れで、セイイッド・ホセイン・ナスルの本(まだ訳されていない)も読み返してみたけど、これもやっぱりいい。

こういう「伝統主義哲学」はほとんど普遍神学そのものと言ってもいいくらいで、こういうものをいかにして日本でもっと普及させるかが問題だとあらためて感じる。

伝統主義哲学(「永遠の哲学」派ともいうが)はやっぱり、基本的には新プラトン主義的である。それは、イスラム哲学をベースにしているからで、伝統キリスト教哲学についても、それと合致するところを受容している。逆に、キリスト教独自の、受肉の神秘、つまりキリスト論についてはあまり深く入っていかない。地球自体が神化へ向けて、歴史において終末に向かうということも肯定はしていない。

また、インド思想との関連で言えば、輪廻転生を受容していない。

つまり、私の立場と比較すると、私はもう少し、歴史における終末(ヨアキム主義??)の問題につっこむのと、輪廻転生思想を霊的進化論と融合するというイデーを持つことが、相違点としてありそうである。

それから、その流れで、井筒俊彦の『意識と本質』もまた、少し読み返してみたが・・

井筒さんの「言語アラヤ識」という概念はどういうことであろうか? その、「世界の分節的構成は言語によって定まる」という発想は、当時の日本思想界の主流であったが、その影響をやはり受けてしまっているのではなかろうか? という疑問が出てきた。今ではそれは、カント的なカテゴリー論を共同主観の領域で措定する、一種の構造主義的な発想であることがあきらかとなっているが・・ 当時は、廣松渉などが全盛であったから、井筒さんもそうした考え方の影響を知らず知らず受けてしまっているのではなかろか。そしてまた、その言語的分節を、乗り越えるべき、否定的なものととらえるのは、今度は禅(あるいは大乗起信論)の影響を受けていると思う。

しかし、題名に『意識と本質』とあるように、この本は、実は、「本質」という中世哲学的な概念をちゃんと理解していないと、なかなかわからない本なのだった。私がむかし読んだときは、やはり、当時のコスモス-カオス論のパラダイムから読んでしまって、そのスコラ哲学的な背景を理解していなかったようである。

井筒さんは、存在の分節は言語の分節に由来すると決めてしまっているということは、言語以前における存在の分節を否定することを意味するし、言語とは別のところで「共通本性」があることを認めないということになるのだろうか。ただし、井筒さんは、言語を単純に示差的体系とみなしているわけではなく、もっと深層の次元を認めているのであるが。つまりその言語論は空海の「声字実相義」のような発想につながるところもあり、当時の「現代思想」には収まりきれない。

それにしても、自分の、イスラム哲学についての勉強不足は、なんとかしなければならないと思う。

日本には、あまりいい本がないので、しかたないのだが・・ナスル先生の本を手引きとして、基礎知識を身につけないと・・

というわけでナスル先生の新著などを注文してみた(洋書である)。すると、それにスミス先生の序文が・・もう90近いと思うが、元気ですなあ。

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