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神学の意義と神学の言語

稲垣先生は、神学的言語について、次のように書いている。

神学的言語は聖書において語られている神秘を、「学」という人間的行為に固有の合理性へと解消させるのではなく、むしろ神秘を、それが神秘であることをいささかも減じたり損なわれたりしないような仕方で保ちつつ、人間理性に可能なかぎり理解し、言語化しようとする試みにおいて成立する学的言語なのである。
『神学的言語の研究』p.36

また、

トマスが『神学大全』の全体において試みているのは、永遠なる御言葉が受肉したという神秘を、どこまでもそれが神秘であることを保持しつつ、否その神秘たることがより強く自覚されるような仕方で、人間理性によって可能なかぎりそれを理解すること、つまり言語化することであった。
同 p.44

私の立場は普遍神学であるから、必ずしも、聖書やキリストのみを中心として考えるわけではない。しかし、そこを除けば、このことばは、「神学」ということで私が考えていることを言い表している。

また稲垣先生は、「教えるのは神である」ということを強調する。つまり、人間は、神に教えられつつ、神秘へと分け入っていくものだ、という人間理解である。これを私の言葉で言うと、「人間の魂は、宇宙(神)から発するイデーを受け取ることができる」ということである。魂が、そうしたイデーという贈り物を受け取ることができるからこそ、そうした神秘について言語化も、(たとえ究極には達しえないにせよ)より優れたものへと進化することが可能なはずなのである。

この本の第一章では、「現代において神学はいかに可能か」という問いを発している。神学とは、人間が存在する上での究極的な神秘について分け入り、理性の限界を押し広げるというものであり、それはおよそ「知」というものの中心に存在してしかるべきものではないのか、それがそうではないというのは、近代において「知」というものが矮小化されているからではないのか、というようなことを、明快に論じている文章である。

最近の新聞に、村上春樹のインタビュー記事が三回にわたって連載されていて、「物語る」ということの不可思議なる深みについて語られていた(それをいちばんわかってくれたのは河合隼雄だった、と言っている)。

言葉の表現というものは実に深い場所まで入っていくものだ、ということは小説家や詩人はよく知っている。

神秘を表現するのは、神話や物語であるのかもしれない。しかしながら、知的言語を用いても、神秘を表現するのは不可能ではない。しかしそれは、近代知が目標としていたような意味での合理的言語というわけでもない。そこに神学的言語というものがあり得る。考えてみるとこれは、ケン・ウィルバーが「ヴィジョン・ロジック」と言っていたものとも近いのだろうか?

実は私は、思想・神学にかかわる前、最初に専攻した分野は神話学だったのであり、そこには物語るという形で神秘が表現されていると感じていた。そのように神話論を展開していたジョゼフ・キャンベルが私のスターであったのである。「和製キャンベル」をめざそうかとまじめに考えたこともあった。そのうちに、また神話論の研究もリバイバルして、神学と統合してみたいと思う。

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