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秩序の神的起源について

さらに、「コスモス・カオス理論」について考えてみたが・・

ナスル先生を読みながら気がついた。カオスに秩序を与えてコスモスにするということは、いろいろな神話に出てくることである。

それはどういうことか? といえば、それは、宇宙根源(神)に発する力が、この宇宙に秩序を与えた、ということを意味していたはずなのだ。伝統哲学はみな、そのように解している。

ところが、一時期はやったコスモス・カオス理論というのは、その秩序形成の作用を、まったく「人間が共同主観的に与えるもの」と理解したところに成り立っている。つまり、形相的なものはすべて認識主観に内在しているというカント主義を、自明の前提と見なすところから、こういう解釈が起こってきたのである。このような人間中心主義が抜きがたくあり、秩序とは宇宙の深部から来ているものではないのか? という根本直観が全く忘れられていた、ということになる。

もう一つ言いたいことがある。それは、日本の思想家が持ちがちな、一種のバイアスのことである。

それは、日本の思想家はだいたいにおいて、こういった「秩序」が神的起源を持つということをあまり考えず、すべての「秩序」は人間が作ったものだと見なし、それを突破して「秩序の彼方」に達することをめざそうという傾向がある。そういう傾向があるから、カント主義の変形である共同主観パラダイムが抵抗なく受け入れられたところもありそうなのだ。

そのことを、井筒俊彦を読みながら気づいた。井筒さんはイスラム哲学研究の大家でありながら、秩序の神的起源を言うよりもそれをいかにして突破するかということを中心に語っている。それは端的に言えば、禅のパラダイムの影響であると思う。

もう一ついえば、この前引き合いに出した永沢哲はもちろん、その師匠筋?(かどうか知らないが)中沢新一もまたそういう傾向にある。キリスト教の人でも、門脇佳吉、八木誠一などはみなこのパターンに入ってしまう。もう、だいたいが同じで、結局は、京都学派のバリエーション。

コスモスというイメージは、「宇宙秩序の神的起源」をも語っているものであるのだが、日本人は、そういうことよりも、聖なるものを「脱秩序」に見出そうという、本当に抜きがたい思考パターンを有している。その結果、神というもののある一面しか見えていない思想になりがちなところもあると思う。

稲垣先生、大森先生、谷先生・・といった、キリスト教哲学のベースを持つ人が存在する意義も、そこにあるといえよう。

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